宣教
1月22日「癒やされても」
ヨハネ5:1~18
長い間、祈りが聞かれず、悶々としてきた経験はありますか?特に、体の健康に関することや障害に関することは特段、諦めてしまいがちでしょう。ここに、38年間も病で苦しんでいる人が出てきます。彼も、諦めてしまった一人でしょう。そんな彼のところに、転機が訪れます。それが主イエスとの出会いでした。
結果的に、彼は癒やされました。しかし、癒やされたのが安息日であったので、この人の行動が労働とみなされ、律法学者たちから問題視されました。しかし、彼は誰に癒やされたのかさえ、分かりませんでした。
再び主に会った時、癒やし主が誰なのかを知った彼は問い詰められたのか、身の危険を感じたのか、主に癒やされたことを律法学者たちに告げてしまいます。これが十字架への道を決定的なものとしました。
あの日、ゴルゴタの丘にささくれた十字架が立てられ、そこにかけられるのが癒やしてくださった方、主であることを知った彼はどんな気持ちであの十字架を見上げていたのでしょうか。
十字架はわがため。これはすべてのクリスチャンが体験すべき重要なものです。あなたの過ち、弱さ、罪をすべて背負ってくださった方は、今もなお、十字架の上からあなたに目を注いでおられます。