宣教
7月21日「私たちはぶどうの枝」
ヨハネ15:1〜4
19歳で洗礼を受けた私は、受洗準備講座で罪・十字架・復活について「知的同意」をしただけで受洗したように思います。しかし、不思議なことに、洗礼を受けてしばらくして、「まことのぶどうの木」であるイエス様が、「知的同意」から私を解放し、「現実的理解」へと導く工程を開始されました。いわゆる「霊的成長」と呼ばれるこの行程は、救い主としてイエス様を受け入れたすべての人に約束された祝福です。行程には終了がありません。信仰者として「成熟」させていただき、「実をつける」成長過程は、人生の旅路を終えるまで続く魂の「変容」と言い換えてもよいでしょう。私は、これまでに幾度か十字架の意味について考える時が与えられてきましたが、なぜかまた最近このことを考えるように導かれています。「ぶどうの枝」である私達が父なる神様に手入れをしていただけることは、なんと感謝なことでしょうか。『十字架を説明しようとしまい、十字架のなかへとびこもう、十字架の窓から世界を見よう』。あのクリスチャン詩人、八木重吉の詩です。重吉のような熱心な信徒でさえ、信仰生活の始めた当初は、十字架の死の意味をはっきりとは理解していなかった様子がこの詩から窺えます。乱暴な言い方かもしれませんが、信仰生活は神様に枝を手入れしていただくためにあるのではないでしょうか。愛なる神様に信頼しましょう。