宣教

2019-01-13
1月13日「祝福の約束を生きる」

創世記1:1〜3  IIコリント1:3〜5
 あなたはどんな言葉に導かれ1年をはじめましたか?創世記2章では、「野のあらゆる獣、鳥~人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」とあります。わたしたちの付ける名がこの年、この月、この週、この日の名となり、人生となります。
 神様が、「光あれ」と言われ、光が創造されたと同じように、わたしたちも御名のもとに、わたしたちの人生に名をつけ、主と共に歩んでいくのです。あなたはどんな名をこの年に、月に、週に、日につけて歩むのでしょうか?
 この年は、「光あれ!」と言われた神―キリストの父、慈愛に満ちた、慰め豊かな、慰め豊かな―を賛美しつつ歩むようにと導かれています。わたしたちができる最高の歩みは、この方を賛美し、感謝することです。「世界は感謝する人のものである。そうして世界はさらに美しいものをとなる」(バスカーリア)との言葉は噛みしめるに価します。
 まず、キリストの慰め満ちるこの1年、日々を歩むことができることを感謝しましょう。「包装紙は中身にあらず」です。どんな中にあっても、神様の祝福に応答する「感謝」をもって、新しい命の言葉を生きるこの年、愛と慰めを創造する年として参りましょう。この年も主の御手の中なのですから。

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2019-01-11
1月6日「約束の相続人」

ガラテヤ3:21〜27
 弘前西教会は数年前から「コーチング」の学びを行ってまいりました。7つの原則についての学びがあり、その一つ「能力付与」という原則について学びます。この漢字4文字中の「能力」とは、使徒パウロがⅠコリントの信徒の手紙12章4節以降で述べている9つの霊的な賜物のことであることは誰も否定しないでしょう。実は、恥ずかしながらごく最近まで、私はこの賜物について真摯な態度を持って理解しておりませんでした。この賜物は、神様から特別に選ばれた立派なクリスチャンだけに与えられるものであり、私のような不安定・不信仰な信仰者とは無関係なものだと考えておりました。しかしそれと同時に、この賜物がなければ教会生活・信仰生活が自力本願のものになってしまうこのではないかと漠然とした疑問や不安もありました。
 昨年3月のシューミン・クオン先生の「癒しのセミナー関東2018」は、この賜物に対する私のそれまでの信仰の態度を変革してくました。そして今、イエス様は私の罪を赦すために十字架にかかり、肉を裂き、血を流されて死なれ、天地を創造された神の偉大な力によって復活され、この方だけを救い主として信じ告白して洗礼を受けた人には誰でも賜物に与ることができるという信仰にあらためて招かています。自力型信仰生活は終わりました。

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2018-12-30
12月30日「神の評価」

ガラテヤ4:1〜7
 聖書は律法の下に生まれた者が、律法の下にいる者を解放することができると宣言しています。民俗学的に言えば、私たちはイスラエル人ではありませんし、律法の支配下にいたとは言えません。しかし、それでも聖書は私たちを律法の支配下にある者だと言い切るのです。
 旧約の時代、できる人とできない人という隔ての壁がありました。その壁は高く、自らの力では克服できないものだったのです。救い主イエスも、理想とかけ離れた場所で生まれ、自力では克服できないような困難にいくつも直面しました。それでもなお、主イエスはそこから人々を救い出すことができたのです。それはどのようにして可能となったのでしょうか?
 例えば、故郷ナザレに行かれたとき、主はどのような困難に直面されたでしょうか?そこで、主はどのような成果を上げることができたのでしょうか?もし、そのことを知っていたら、私たちは安心することができるでしょう。なぜなら、主はそこで何もすることはできなかった、つまり成果はゼロだったのです。
 今年、あなたは主が共にいてくださるという確信を与えられましたか?何か成果があったのでしょうか?もしないというのなら、主の十字架を見上げてください。そこには、どんな成果があったのでしょうか?

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2018-12-23
12月23日「大切なあなたへ」

           ルカ19:1〜10
 主イエスが出会い、人生を変えられた人々は数多くいます。しかし、その実名が登場する人はほとんどいません。ザアカイという人は、そのうちの一人です。
 彼の人生に何があって、今があるのでしょうか。そして、彼はどうして名前が残っているのでしょうか。救い主が彼の人生に与えたものは何だったのでしょうか。
 クリスマスは神が人になる、という物語です。人が神のところに行く時代。特別な場所、特別なとき、特別な人を通してしか神と繋がれない時代が終わり、誰もが神と繋がれる時代が来たのです。なぜなら、神の方からやってきてくれたからです。そして、その名前はインマヌエル。「神は我らと共にいる」というその名前が示すように、この救い主は今も、そして永遠に、私たちとともにいて、私たちを愛し、犠牲を払ってくださり、人生のあらゆる領域に勝利をもたらしてくださいます。
 最高のプレゼントを開ける用意はできましたか?神はそのプレゼントをすでに発送済みであり、あなたのもとに届いています。あとはあなた次第です。

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2018-12-16
12月16日「招かれる神」

   ヨハネ14:1〜3
 人には居場所が必要です。家庭、職場、友人知人、そのどれもが与えられた居場所ですが、その居場所から立ち退きを要求されたときのことを考えたことはあるでしょうか?
 ある人は、家庭に居場所がなく、またある人は職を追われ、友人や知人から拒絶されることもあるかもしれません。その時、私たちはどのような気持ちになるでしょうか。
 主イエスは、あの日、すべての宿屋から拒絶され、家畜小屋でお生まれにならなければなりませんでした。また、故郷では偏見によって拒否されました。そして、十字架の上では、全世界から居場所を奪われたのです。「言は、自分の民のところへところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)のです。
 自分から居場所を奪った人々に対し、主は報復することもできたでしょう。しかし、それはこの世界の常識であって、神の国の法則には当てはまらなかったのです。なぜなら、神の国には「住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)からです。天には私たちの居場所が用意されており、立ち退きを要求されたり、拒絶されることはありません。
 神の国に招くため、主は今も一軒一軒戸口の外で扉を叩かれているのです。

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2018-12-09
12月9日「希望は闇の中に」

イザヤ9:1 ヨハネ1:1~5
 アドヴェントの第2週に入りました。待ち望むことから始まる教会の一年は何と希望に満ちていることでしょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)のみ言葉は、「言の内に命があった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4、5)のみ言葉と通底し、今日に語りかけてきます。
 「待ち望み、信じる者」にのみ与えられた確かさが聖書にはあります。理不尽な闇を経験した若い二人の男女は、闇の中で輝く光を生きる者となります。そう言えば、このヨセフとマリアのみならず、闇の中で光と出会った二組の人々がいました。
 星を頼りに旅した博士たちと、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちです。闇を知る人たちこそが、光と出会います。 しかし闇を光と信じて生きる者は、真の「光を理解」出来なかった」のです。この人達こそヘロデに代表される人々です。
 自らの闇を知る中にこそ、人間を照らすまことの「命の言」との出会いが与えられるのです。友よ、闇を恐れる必要はありません。「真の命」が訪れるからです。「希望はわたしたちを欺くことはありません。神の愛が」注がれているからです。何という幸い!

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2018-12-02
12月2日「天の架け橋」

ヨハネ1:43〜51
 ナタナエルは主に出会い、いちじくの木の下にいたことを告げられました。それは、居た場所を当てられたこと以上の驚きが、彼にはあったのです。いちじくの木はイスラエルの人々にとって特別なものだったからです。彼がいちじくの木の下で何をしていたかは推測の域を出ませんが、彼は主がいちじくの木の下で何をして、何を考え、何を願っていたのか、それを告げられたと悟ったのです。
 偽りのない本当のイスラエル人だと称賛されたナタナエルは、人の前で強がったり、人を欺くことがなかったのでしょう。そして、自分が弱く、神に頼らなければならないことをよく知っていたひとだったのではないでしょうか。真のイスラエル人、つまり信仰者とは、自分の弱さをさらけ出し、神に頼ってその栄光を見ることを望んでいる人です。主は彼を見つけました。
 あなたは自分に救い主が必要だと心から願っていますか?もし、あなたが願うなら、主はあなたのところへ出向き、見つけ出し、悟らせてくださいます。そして、この方を通して神の御心が示され、まるでこの方がはしごの役割でもしているかのように、天と地とを結ぶ方であることを知ることになるでしょう。

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2018-11-18
11月18日「弘前市長がもしイエス様だったら」

マタイ6:9〜10
 弘前市長がもしイエスさまだったら。どうなるのでしょうか?リーダーがイエスさまだったら私たちの生活にどのような影響をもたらすのでしょうか?
 神田先生を通して語られる真理に期待があふれます。

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2018-11-11
11月11日「神の約束の然り(アーメン)」

民数記23:19  Ⅱコリント1:20~22
 「神は言われたことを為されないことがあろうか。告げられたことを成就されないことがあろうか。」
聖書は、世の力がいかに真実であるかを主張し、幅を利かせているように見えるこの世にあっても、神の真実はこの世を貫くことを明らかにしています。
 「権力への欲望、他者を踏みにじっても自分は得をしたい」という人間の本音の見え隠れする中にも、神の言葉と御業は前進して行きます。それが最も信実にこの地上に明らかにされたのが、「イエス・キリストの出来事」に他なりません。
 パウロは、「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。~神をたたえるためにこの方を通して『アーメン』ととなえます。」と断言します。言うまでもなく、十字架と復活を中心とした神の愛の御計画のことです。
「アーメン」とは、「神の真実」(エトメー)から来ています。「アーメン」とは、この神に対する信仰の告白であり、神讃美、喜ばしい服従の表明なのです。「アーメン」を唱える時、わたしたちは、旧約の民、新約の民に連なる神の民として神の恵みを唱和することなのです。アーメンこそ、神の「然り」を実現する神讃美です。何時、如何なる時も、「インマヌエル・アーメン」の恵みに生きる神の民として。

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2018-11-04
11月4日「天国の風景」

黙示録21:1~4
 聖書には希望という言葉がたくさん出てきます。この言葉は、ピンと張り詰めた糸を表しています。
 確かな未来につながっている糸があるならば、誰しもがその糸をたぐり寄せながら、その先へと向かうでしょう。そして、確かな未来とは、どこか知らない場所にあるのではなく、今ここに、主イエス・キリストの十字架と復活のもとにあるのです。神は永遠の方であり、いのちの主です。その方がおられる限り、私たちもまた不滅です。そして、その方、主イエスは復活されたので、私たちはその方の教えにこそ、確かな糸を見出すことができるのです。
 私たちのもとを去り、天に帰られた信仰の先輩たちは、もっとも確かな未来を、そしてピンと張られた糸を残してくださいました。たとえ肉体は滅びようとも、神の御手の中に、在りし日の思い出は刻まれており、時が来るとその愛の中で再び復活して、御国の相続人として迎え入れられます。これが神の約束であり、最初からご計画されていた神の国の奥義です。
 その恵みにあずかるために人間的な努力や地位や名誉は必要ありません。ただ、主はあなたの信仰を求めておられるのです。

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2018-10-28
10月28日「神の言葉に従うとき」

                詩篇1:1~6
 聖書には主イエスの弟子の定義が示されています。それは、互いに愛し合うこと、とすべての教えに従うことです。しかし、主の御言葉は従うのには難しく感じてしまうような箇所があることも事実です。
 もし、自分でできそうなところを選んで、その他の御言葉を「難しいから」と敬遠していたとしたら、聖書の約束をほんの一部分しか享受できていないことになります。その約束とは、あらゆる領域において「繁栄する」という約束です。アスリートが厳しいトレーニングの末にたどり着く領域があるのと同様に、御言葉に従うには訓練が伴うかもしれません。しかし、御言葉が約束していることは真理であり、真実です。御言葉に従うことは確かに難しいかもしれませんが、私たちにそうなってほしいと願う主の助けがまったくないはずがなく、必ず助けてくださるのです。
 聖書の神の言葉は難しく、従うことは困難で、単に理想が語られているだけ。無駄な努力に終わるに違いない。そんな偽りの言葉は私たちに御言葉の権威を忘れさせ、繁栄から遠ざけます。しかし、もし私たちが難しいと感じるような領域にさえも挑戦しようと決断するなら、あなたは御言葉の真実性を知るのです。

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2018-10-21
10月21日「祈りの力」

出エジプト17:8~16
 聖書は全知全能の神が、神を信じる人々の祈りに喜んで答える心備えがあり、かつ答えることができる方であるという御言葉で溢れています。
 奴隷状態だったイスラエルの人々がエジプトから脱出し、約束の地へ導かれる出来事は、すべて祈りに対する答えでした。嵐を鎮め、食物を与え、病を癒し、死人さえも蘇らせた主イエスの数々の奇蹟も同様です。世界ではじめての教会が誕生し、世界中に広がっていったときも、神は癒やしと救いを求める人々の祈りに答え続けてきました。
 人生の戦いの中で、イスラエルがアマレクを打ち破ったときのことを思い起こすとき、やはり祈りが神の勝利を現実に解き放つ鍵となりました。しかも、祈る人を助けるために、祈りの力を信じ、神により頼む人々を用意し、祈り続けられるように支えていく光景が描かれています。なんと美しい景色でしょうか。
 このような力を神が人生に注ぎ込むことを知っていながら、ポケットに手を突っ込んで、自分の力だけで何とかなると考えているならば、それはもったいないことです。
 祈りは神を体験できる最も確実な方法なのです。

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2018-10-14
10月14日「ここにも命の時が」

エゼキエル37:7~10 ルカ12:31~32
 聖書はわたしたちに、「神は愛である」こと、わたしたちは神に愛されていることを、一片の曇りなく伝えます。これを忘れる時、わたしたちに混乱が生じます。いつも、「わたしの思い」が人生の中心であり、「わたしの理解」が人生の現実であるからです。「わたしの心と目に映る今」以外に、真実の現実、「神の恵みの今」があることを忘れてはなりません。
 エゼキエルは、枯れた骨でいっぱいの谷に立ちました。命の失せた絶望的な光景に言葉を失います。彼が主の言葉を語った時、この骨は生き返ります。見事な神の御言葉の現実が明らかにされています。
 わたしたちの思いが、わたしたちの現実となります。わたしたちの現実「恨み、妬み、ひがみ」の酸味一体から、「父、子、聖霊」の三位一体の神の現実に生きるのです。 新しい「命の時」―骨に筋が、筋に肉が、肉に皮膚が、そして霊が吹き込まれる時―命の世界が始まります。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は、喜んで神の国をくださる」からです。主はまた、「恐れるな、語り続けよ」ともわたしたちに語ります。「わたしの時」でも、「あなたの時」でもなく、「命の時の中」に生きるわたしたちです。

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2018-10-07
10月7日「すべてはあなたのために」

箴言24:30〜32  ローマ15:4
 多くの教会では、牧師が聖書の専門家のような位置付けであり、特別な日に、特別なことを話す、という習慣が定着しています。もちろん、そのような賜物が与えられ、情熱を持って御言葉の解き明かしをする方々もいるでしょう。それは素晴らしいことです。しかし、そのことがかえって聖書の実生活への適用を遮っているのではないでしょうか?
 神が私たちの生活を豊かにするためにくださっている御言葉はすでに手元にあります。それは聖書です。そして、その真理に導いてくださる方、聖霊も与えられています。あなたはその導き手の力を借りて、聖書の専門家でも到達できないような神の栄光を見る特権をすでに与えられているのです。
 聖書には霊感によって記された二種類の導き手が存在しています。それは良い教師と反面教師です。私たちは生活の中で周囲の影響を受ける存在です。良いときもあれば、悪いときもあります。良い生活を送りたいと願うなら、良い生活を送っている人を参考にしませんか?そういう人が周りにいないと嘆いている人は、すぐそばに時代に左右されない教師たちが手元にいることを忘れてしまっているのかもしれません。
 聖書のすべてが、あなたのために用意されている神からのプレゼントなのです。

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2018-09-30
9月30日「姑ナオミの信仰」

             ルツ記1:1〜22
 冒頭に「士師が世を治めていたころ」とありますから、ルツ記は士師記と同時代の書です。士師記はイスラエルの暗黒時代でした。しかしたとえそうであっても、主の祝福にあずかった人たちが存在していたのです。
 1章の中心は姑ナオミです。飢饉のためパンを求めて、ナオミの家族はモアブの地に出て行った。でもそこで、夫は死に、嫁を迎えた二人の息子も子を授からないまま死んでしまった。このような困難と悲劇の中でナオミはどのように生きたのか。
 ナオミは嫁たちのためにこう祈ります。「どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」(9節)。でも自分の苦難について、こうも言っています。「主の御手がわたしに下された」(13節c)。これは、ナオミにどこまでもついて行こうとする二人の嫁を追い返すための強烈な言葉であると同時に、ナオミの心の中から搾り出されて来た主を信頼した上での言葉でもあります。
 このような姑ナオミであったからこそ、ルツは「あなたの神はわたしの神」(16節)という信仰告白へと導かれたのです。その時期は、「大麦の刈り入れの始まるころであった」(22節)。主の祝福の始まりを暗示させます。

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2018-09-23
9月23日「神の関係づくり」

 創世記39:1〜23
 族長ヤコブに愛されたヨセフは、大きな試練の中にいました。族長のもとで何不自由なく暮らしていた彼は、今や奴隷となり、何も持たない人になったのです。自分の力ではどうにもならなくなったとき、人は良くも悪くも神を意識するのです。ヨセフもそうでした。しかし、彼は神を呪うことなく、逆に神の良さに自分の人生を委ねたのです。
 日々の生活の中で、ヨセフは人に仕えることを学んでいきました。なぜなら、彼が注目した神は、仕える神だからです。その方の声に従うことは、すなわち主イエスのようになることでした。おのずと、彼の周りに祝福が拡がっていきました。主がそのようにされたからです。
 主人と奴隷という立場の侍従長とヨセフ。しかし、実質的には、ヨセフがリーダーなのです。なぜなら、彼がすべてを任されているからです。今や、立場が逆転してしまいました。それは、何も持たない1人の人の「主が共におられる」という信仰から始まりました。
 あなたが置かれた場所で、主の声に従って人々に仕える時、そこに主が働かれます。仕えること、それは誰にでもできる、最高の方法なのです。

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2018-09-16
9月16日「神の招きに応える」

ヨシュア1:1〜9
 新しい歩みを始めようとする時、そこには大きな壁が立ちはだかっていた。それはよくある話かもしれません。イスラエルの新しいリーダー、ヨシュアも同じでした。
 偉大な指導者のそばで仕え、様々なことを学びました。それまでは、このリーダーの言うとおりでよかったのです。しかし、最早このリーダーは世を去り、自分の人生と人々の導き手となったヨシュアは、神の声を聞きます。それは、「今」という内容でした。
 もし、あなたの姿が愛する人から見えなかったらどうするでしょうか。あの手この手で、自分の存在を伝えようと必死になるのではないでしょうか?主なる神もそうでした。「今」というのは、ヨシュアたちにとっては、難しい判断になることは間違いありませんでした。もしかしたら、全員が滅び去るかもしれないほどの決断を迫られたのです。しかし、その招きには約束が伴っていました。それが「あなたと共にいる」という聖書全体を通して表されている神の御名だったのです。
 主イエスの名はインマヌエル。「神、我らと共に」です。時代が変わっても、状況が難しくても、だからこそ、主は姿を表そうと、今もあなたを招いているのです。

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2018-09-09
9月9日「十分なるこの日」

詩篇31:15(口語)  マタイ6:34
 「一日の苦労は、その日1日だけで充分である」とイエス様は言われました。心理学者のアーニー・J・ゼリンスキーは、「心配の40%は『決して起こらないこと』であり、30%は『すでに起こってしまったこと』であり、22%は『取るに足りないこと』であり、4%は『わたしたちの力でどうにもならないこと』であり、4%は『わたしたちが変えることのできること』」であると言っています。『弘前西教会40年誌』を読んだ弘前学院長が、「先生全くその通りです」と感想を述べられたことを思い出しました。
 「わたしの時は、あなたの御手の中にあります」の御言葉は勇気を与えてくれます。福音書のイエス様をたどる時、「恵みの時」「救いの日」を生きられた主イエス様がそこにいます。福音記事はこのような人々、事柄で満ちています。「あなたは?」
 顧みて、「過ぎ去った過去」、まだ来ていない明日に代表される将来に心と、存在を乗っ取られている自分と出会います。 「み手によりて 日はのぼりみ手によりて 月はめぐる み手によりて 風はおこり み手によりて 雲は湧く つきぬ歓び み手よりきたり…」(ドイツ讃美歌)「今、主と!」です。

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2018-09-02
9月2日「神の教育方針」

申命記6:4〜9
 これから起こるであろう厳しい時代に備えて、指導者であるモーセは、自分の最期を悟りながら、人々にとって必要不可欠なことを伝えました。それは、信仰とその継承についてです。
 日本においても、その未来が危ぶまれるような予測が立てられています。それに対して、私たちはどのように歩み、次世代に何を残していくべきでしょうか?時代が変わっても同じ問題に直面する私たちに対して、モーセは主なる神の言葉を生活の中に適用するように命じています。
 「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6:7)
 モーセは律法について語りました。しかし、結果として、人々はその律法を守ることができませんでした。それが旧約の時代に記されている人の罪の深さです。しかし、主は人々を見捨てることはないと約束し、イエス・キリストを遣わして十字架につけて身代わりとし、新しい時代が始まりました。
 今、私たちが心に刻み、生活に適用し、語り継がなければならないものは、十字架と復活に表された神の愛。キリストご自身なのです。

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2018-08-26
8月26日「はじまりはいつも」

                イザヤ6:8
 イザヤの召命を受けて、いったい何人の方々が主に献身し、どれほどの場所に遣わされていったことでしょうか。そして、そこでどんな経験をされたことでしょうか。
 イザヤが示されたのは、理解に苦しむ内容でした。「心を頑なにするメッセージ」と言われる難解な内容を心に、それでもイザヤは人々に仕えていきました。彼が主から語られたこと、それはまさに、あの十字架の救い主、イエス・キリストのことだったのです。
 主は、主でありながら受け入れられませんでした。その物語は、人の理解を超えたストーリー展開で、誰も予想しないものでした。しかし、主が地上に来られる以前から、人々が主を受け入れない姿勢は現れていました。エジプトから救い出しても、約束の地に向かうときも、エルサレム神殿を再建しても、人々は主なる神のみわざを仰ぎ見ながら、一時のハネムーン状態を謳歌するにとどまったのです。それは、あのエルサレム入城にも見ることができます。
 今、心を頑なにすることから始まった主の物語は、それでもなお、主に信頼する人々によって受け継がれ、紡がれています。あなたは残された聖なる種子。あなたから主の新しい物語が始まるのです。

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