宣教

2020-10-18
10月18日「霊的な供え物」

Iペトロ2:1〜5
 聖書は一人の人をとことん大事にしています。それは、悪い意味ではアダムの罪が全人類に及んでいること、良い意味では、キリストの福音がすべての人に有効である、ということです。
 また、私たちは一人ひとりがキリストを頭とする共同体の祭司であると言うのです。祭司の役割は、神と人との間に立って、執り成しをすることでした。ユダヤ教の祭司は、会衆に混じって、人々と同じように祝福されることを許されていません。大祭司であるイエス・キリストは、同じように、祭司としての生き方を見せてくださいました。それは、神と罪人の間に立って、全てを背負い、祝福したということです。
 すべてのことは、一人の人から始まる。聖書を開いてみると、主イエスを頂点として、そのことが多く語られていることに気づくでしょう。神がもたらそうとする大きな祝福は、あなたという一人から始まるのです。
 十字架の上で一人ぼっちだった主の祭司としての姿は、それを見た弟子たちによって拡散されていきました。始まりはいつも一人の人なのです。
 聖書は、どんな人が祭司に向いているか、などと書かれていません。すべての人が祭司であり、そこから神の素晴らしいみわざが始まっていくのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-10-12
10月11日「最強の味方と共に」

 申命記32:10  ローマ8:31〜32
 最近、一日の最初に、終わりに、事ある毎にフット心に浮かんでくる御言葉があります。「悪に負けてはいけない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)がそれです。わたしの自動思考は、「何やってるんだ!」「おかしいよ!」「馬鹿にして!」……等があります。反応しているのです。
 「生まれる前から神様に 守られてきたおともだち」(こどもさんびか 80番)があります。このことを本当に心に留めることが出来たら、虚空をつかむような歩みから解放されるはずです。人生の苦い味は、この真理を知らないことによります。
 「荒れ野で彼を見出し…」「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対できましょうか」と御言葉は宣言します。最強の味方である神様は、わたしたちの無条件の味方なのです。
 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ロ―マ5:8)そのお方が味方なのです。よけいな忖度必要ありません。新しいいのちの世界、愛の勝利への参与に招かれているわたしたちです。
 友よ、我らはつまらない復讐心に別れを告げ、キリストと共に愛を生きる勝利に招かれています。「立て、ここから出かけていこう!」最強の味方と共に。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-10-05
10月4日「天国の大使として」

ガラテヤ3:5〜11
 主なる神は、主を信じる人々をご自身の子どもとしてくださっています。その約束は、かつて一人の人に与えられたものでした。それがアブラハムです。
 彼は年老い、子どももなく、不妊の妻と暮らしていました。そこに主が約束を与えました。それは、子孫が繁栄するということです。しかし、彼には子どもがなく、妻も不妊でした。人間的に見たら不可能なことで、彼自身もそのことを疑いました。そんな彼に、主は星の拡がる空を見せて、ご自身の偉大さを示されたのです。そして、アブラハムは神を信じました。彼がどんな人か、疑っているか、状況は最悪か、そんなことは関係ありません。神はアブラハムが信じたことを喜ばれ、彼を約束のとおりに扱われました。
 私たちもアブラハムと同じ祝福を受けることができると聖書は宣言します。しかし、律法主義という考え方がこの素晴らしい約束から私たちを遠ざけます。神が不要だとしたものを、私たち人間が付け加えているとしたら、どれほど悲しむべきことでしょうか。
 私たちはさながら神の国の大使のようなものです。あなたを祝福する人を神は祝福し、あなたを迫害するものを呪う。神が約束された素晴らしい福音を届けるため、あなたにはすべてが与えられています。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-09-27
9月27日「希望の約束」

 エレミヤ29:10〜14
 不信仰のゆえに偽りを握りしめ、まことの神から離れていったイスラエルの民は、異国の地にいました。そこでは、原住民からののしられ、異教の教えを守ることを強要されました。そんな彼らに預言者は神の約束を伝えるのです。
 困難な現実を前にする時、私たちは自分を責めたり、他人のせいにしたりと、どうにかしてその苦しみから逃れようと過去に心を向けないでしょうか。それは防衛本能のように、私たちに一定の納得や後悔をあたえてくれるものでしょう。しかし、神の約束は常に現在と未来に向かっています。そして、その未来には希望があると約束しているのです。やがて異教の地から故郷に帰ってくる時、イスラエルの民は語られた神の約束が真実であったことを体験することになりました。
 神が計画する私たちの未来は、日々巻き起こる問題が解決することを意味しません。どんなに素晴らしい事が起こっても、解決があったとしても、それは次のステップへの通過点に過ぎません。人々が求めるリバイバルでさえ、通過点に過ぎないのです。
 神は良いお方で、約束に忠実な方です。あなたが勝利者であることは疑いなく、失敗も成功も、主が偉大な勝利を得るための証となっていくものです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-09-20
9月20日「今、ここにある門」

マタイ7:13〜14
  イスラエルの民は流浪の民で、遊牧民族でした。神を礼拝するための神殿はなく、移動式の幕屋が彼らの拠り所だったのです。そこには唯一の門があり、その門を通らなければ、至聖所へと至ることが出来ません。それは、私を通らなければ、誰も父なる神のもとへ至ることは出来ないとおっしゃった主イエスの到来を予感させるものだったのです。
 しかし、唯一の門をくぐっているのに、目の前にいる唯一の救い主に気づかなかったのは皮肉めいたことです。それほど、狭き門は狭いのです。
 ルカによる福音書では、同じ御言葉に「努める」という言葉が加えられています。狭い門を通ることは、並大抵のことではありません。発見しにくく、マイノリティの香りが漂い、努力しなければ通れないような門を、主は命に至る道として用意したのでしょうか。神はそれほど意地悪なお方なのでしょうか。
 聖書では、罪の発生原因は「肉」であると表現しています。狭くて人が通れないほどの門を通れば肉体はどうなるでしょうか。肉は裂け、血は滴り落ちるでしょう。まるで主の十字架のようです。
 狭き門は罪を砕く門。私たちをご自身の血潮で清めるため、主は招いておられるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-09-20
9月13日「確かな時の中に」

 創世記7:15〜16 フィリピ3:13〜14
  わたしたちの心は平安でしょうか?平安を求めているようで、自分の価値を自分以外のものに求めてはいませんか。豪華な沢山の宝石、肩書の多さが人の価値ではありません。「人の命は財産によってどうすることも出来ない」(ルカ12:15)と主は言われました。それはかえって渇きを増すのみだと。
 復活のキリストと出会うまでのパウロもそうでした。「生まれて8日目に割礼を…イスラエルの民…ベニヤミン族…ファリサイ派…教会の迫害者…」(フィリピ3:5~)と。人は装飾品によっては、平安も喜びも、真の命を生きることも出来ません。神の前に、神と共に生きること無しには。
ノアは神に生きました。箱舟に入った時、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」のです。一方、悲しいことにロトの妻は、ソドムから逃げる時「後ろを振り返ってはならない」との神の命令に背き後ろを振り返り、塩の柱になりました(創世記19:26)。
 「後のものを忘れ~目標を目指してひたすら走る」ことです。全き主の守りの中のわたしたちです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)「わたしについてきなさい」と主は「今、ここで」招いておられます。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-09-11
9月6日「委ねられた権威」

マルコ2:1〜12
 4人の人たちが1人の中風の人を助けるため、大胆な行動に出る。この聖書の箇所はいろいろなことを教えてくれます。
 まず、この1人の病人はどんな人だったのでしょうか。何としてでも助けたいと思われる人だったのでしょうか。もし、そうだとすれば、この病人のように、人から慕われる人になりましょう。というような、薄っぺらい自己啓発にとどまるでしょう。しかし、主イエスは連れてこられた病人ではなく、この4人の人たちの信仰を問題とされました。良い人のために力を尽くそうと思うのは当たり前です。しかし仮に、そうではない人のために本気になるのは、信仰が与えられていなければ難しいものです。4人は、信仰によって愛と大胆さとを与えられていた人たちのようです。
 信仰によって与えられる愛は、様々な障害を乗り越えていく力になります。群衆という名の障害を乗り越えるため、屋根を剥がすという大胆な発想に導かれたのは、この人たちの信仰です。
 主は、良い人のためではなく、病人のために来られたのだと宣言しています。主は罪人のため、ご自身のすべてを差し出された方です。そして、十字架というありえない障害さえも、乗り越えていかれたのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-09-03
8月30日「賢さと素直さ」

マタイ10:16〜20
 行動が救いの条件でないことは福音の柱ですが、キリストが備えた善い行いをすることがクリスチャンライフであるということをエフェソの手紙から学びました。
 神は聖霊を通して私たちをキリストに似たものと変えてくださいますが、同時に、悪魔もその方法が最も人間を行動に移させるのに適していることを知っているのです。事実、アダムとエバも、蛇の誘惑を受けて、行動してしまいました。つまり、神の霊からの促しなのか、悪の霊からの促しなのかを判別する必要があるということです。そのためには、「蛇のように賢く、鳩のように素直」である必要があります。
 ここでは、法廷の前で話をする、という行動に出る時、神の霊が人々を助けてくださることが約束されています。しかし、そこに悪の霊がいないという保証はありません。ですから、神の霊に対しては鳩のように素直に従い、逆に、悪の象徴である蛇のことはよく知っておく必要があるのです。
 イエス様だったらどうするか、同じ立場に主を置いて理想を追い求めることも重要ですが、もう一つ、それでも失敗してしまうことがあるということ、そしてその罪すべての責任をとってくださる方がいらっしゃることを覚えることもどれほど重要でしょうか。

※ビデオの映像に不具合があり、投稿できませんでした。ご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-08-23
8月23日「汚れに触れる救い主」

ルカ7:11〜17
 主イエスの歩みの中で、病が癒やされ、悪霊が追い出され、人々が解放されていく様子が事細かに書かれています。足がなえて動かない人、目が見えない人、口がきけない人、出血が止まらない人、さらに死んだ人が蘇る記事さえもあるのです。
 死は私たち人間の努力で乗り越えることができない問題の象徴として見ることができます。そして、死と死のような問題を引き起こす罪に対して、主が憤りを覚えられる様子も同時に描かれます。
 聖書は主が死に勝利された、と宣言します。罪に打ち克つという表現もありますが、死に勝利し、罪に打ち克つ方法はどのようなものだったのでしょうか。それは、罪と死をご自身が引き受ける、という方法でした。それがあの十字架です。
 人が触れたくないもの。触れてはならないもの。家畜小屋で生まれた救い主は、最初からその暗闇に触れるために、この地上に来られた方でした。
 あなたが抱える暗く寂しい部分。人が触れたくない部分、人に触れてほしくない部分でさえも、主は手を伸ばして触れてくださり、そこに神の光の御言葉とその約束を注いでくださいます。
 主の憐れみは、そこにこそ溢れているのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-08-16
8月16日「more of the same」

エフェソ2:8〜10
 神が私たちに教えてくださった幸せへの道。それがキリストの教えに従うことです。しかし、喜び、愛、寛容、親切、善意…といった聖霊のもたらす実のりを知りながら、すぐにムッとなったり、嫌になったりしませんか。そんな時、「もっと頑張らなきゃ」と思うものです。
 「more」とは「もっと」、「same」とは「同じこと」です。つまり、「more of the same」とは「同じことをもっと」という意味になります。この言葉は、クリスチャンが陥りやすい傾向を示しているものです。難しい状況になった時、「もっと愛を」「もっと祈りを」と、それまでと同じことを熱心に取り組むことで解決できると信じるパターンです。
 このパターンは良いことのように見受けられますが、実は多くの善意の人々が行き詰まりや失望を覚えるきっかけになるものでもあるのです。
 主なる神が人となったのは識別と選択の結果でした。救い主イエス・キリストが十字架におかかりになったのも、識別と選択の結果でした。そして、その方は「新しいことをする」「日々新にする」方でもあるのです。さあ、あなたは何を識別し、何を選択しますか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-08-16
8月9日「迂回の祝福」

出エジプト13:17〜18 マルコ1:13〜14
 「迂回」という言葉は旧新約聖書を通して、決定的とも言うべき神の御心と関わっていると言えるのではないでしょうか。出エジプトをしたイスラエルの民は、「荒れ野の道」に迂回しました。アブラハムもヨセフもダビデも人生の迂回を嫌というほどあじわった人たちでした。預言者たちも、「何という無駄な!」と嘆いたことは数知れなかったことでしょう。
「サマリアを経ざるを得ず」(ヨハネ4:4)の御言葉に明らかなように、誰よりもわたしたちの主がそうでした。主は迂回を通して、どんな場所も御手の内にあることを明らかにされました。
 主イエス様には、ナザレでの沈黙の30年のみならず、荒野の40日がありました。実は、迂回と見えることこそが、「神の国」にとっての最短距離であったのではないのでしょうか。
 わたしたちの人生も、「こんなこと!」と思える一つ一つが、神の国への最短距離であるのです。「あんなことがなければ!」のなかにではなく、「 あの事があった故に!」が信仰の王道なのです。
 マリアもヨセフも、ザカリアもエリサベトとも…(あなたは誰をおもいだしますか?)あなたの迂回と思える人生のその場所に、共にいてくださった、共にいてくださる主と出会うことが出来ます。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-08-16
8月2日「神の平和」

マルコ7:14〜23
 ある時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしていると、そのことに異議を唱える人々が現れました。まるで幼い子供の話のようですが、食事の前に手を洗わないというのは、単に不衛生というものではなく、宗教的な「清め」を重要視する人々にとってはありえない行為だったのです。
 しかし、主はそのような人々に対して、外側と内側という二つの側面から、人間に影響を与えるものについて語られました。どんな人でも、外側から内側に向かって入ってくるものは重要です。例えば、食事、情報、空気など、肉体的にも精神的にも影響を与えるものが存在します。しかし、それ自体が人間に悪影響を与えるものではないと主は言い切るのです。そして、内側から出てくるものこそが、人間に本当の意味で悪影響を与えるものだとおっしゃったのです。
 聖書は人間が罪の性質をもっていることを正直に告白し、その奴隷状態から解放されるためには、救われることが必要だと教えています。そして、救われるために必要なのは、宗教的行事への参加といった自己鍛錬ではなく、ただイエス・キリストを信じることのみであると宣言しているのです。そして、救いとは、外側ではなく、内側の変化を言うのではないでしょうか。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-07-28
7月26日「部屋とジーザスと私」

マタイ6:5〜8
 ある時、人々は「祈り方が分からないので教えてほしい」と主イエスの前に願い出ました。実は、主の祈りに続くこの箇所は、祈りの方法論を求める弟子たちへ、祈りとは何かという本質論を提示する主の恵みに満ちています。
 願いなさい、そうすれば与えられる、と私たちを祈りに導いてくださる主の言葉と約束は真実です。しかし、ここでは、そのような祈りだけが祈りではないことを教えているようです。つまり、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」る祈りです。これは、家に自分の部屋が与えられている人だけに適用できるのでしょうか。
 あなたには、生まれたときから部屋があるはずです。その部屋は誰も許可なく立ち入ることができない部屋です。家族や親しい友人でさえ、あなたの許可なしにその部屋の戸を開けることはできません。戸を開け閉めできるのはあなただけ。その部屋は、本当のあなたがいる場所です。
 実に主は、その部屋を神に向かって解放するように求めておられるのです。もし、あなたがこっそりとその戸を開けたなら、主はあなたの深い思いを受け取ってくださるでしょう。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-07-19
7月19日「人知を超えて」

フィリピ4:4〜7
 フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。この手紙には「喜び」という言葉が繰り返されているからです。
 フィリピの教会は、一人の女性がイエス・キリストを信じることから始まりました。また、パウロとシラスというリーダーたちの生き様を通して、主を喜び、賛美して生きていくことの価値を体験してきたのです。いわば、この教会は「喜び」によって歩むことを知っていた教会でした。しかし、時が経つと様々な人が参加し、当初の喜びは失われつつありました。
 パウロは再び牢屋の中にいます。そして、フィリピの教会の人々に再び「喜び」を取り戻すようにと原点を示します。その原点とは、どんな時でも主を喜ぶことでした。そして、その根拠はすべてキリストの出来事とその御言葉にあるということを示すのです。
 問題課題があると、その事を気にし過ぎるあまり、喜びではないものを選び取っていませんか。喜びとは、私たちが主体的に選択することのできるものです。とはいえ、時には喜びではなく、悲しみや憂いを選び取ることもあるでしょう。しかし、あなたはどんな時でも喜びを選ぶことのできる自由が与えられているのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-07-11
7月12日「わたしたちの力」

イザヤ2:4〜5 エフェソ6:10〜19
 「力」という時、あなたはどんな力を思い浮かべますか?あなたにはどんな力がひつようですか?困ったとき、疲れた時、辛い時、苦しい時、非難された時、誤解された時…、苦難とも言うべき時が訪れた時、あなたはどのように考え対処しますか?
 わたしたちの心に思い浮かぶのは、相手を、「ギャフン」と言わせる、威力に満ちた、相手を文句なしに屈服指せる力ではないでしょうか? 翻って考えてみましょう。それでは、イエス様の武器は何だったのでしょうか?「イエス様だったら?」の問は、わたしたちに新しい時をもたらします。
イエス様により、与えられる武器は、「愛」であり、「赦し」です。この神の武具こそは、「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の盾、救いの兜、霊の剣である神の言葉」への信頼の祈りです。
 悪魔に勝利する「偉大な力」、「武力によらず、権力によらず、ただわが(神の)霊によって」(ゼカリヤ4:6)の力です。より強力な相手を打ち倒す「世」の力によらず、神様との信頼を生きる力です。悪魔の持っていない、「キリストの愛―世に打ち勝つ勝利の力―(Ⅰヨハネ5:4)が真実の力です。「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして…」(ローマ12:2)見上げ与えられる力です。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-07-11
7月5日「信仰の歩み」

ルカ17:11〜19
 現実的な問題を抱えた方々が主イエスの遠巻きで叫び声を上げました。「憐れんでください。」これは、詩篇に見られる人々の叫びと同様に、救いを求める声です。彼らにとって救いとは、何だったのでしょうか。
 思い皮膚の病気を背負った人は、町の風下に隔離され、目に見える差別と目に見えない差別の深い闇の中にいました。また、宗教的な束縛は、彼らの自尊心を破壊させるのに十分すぎるほど機能していました。しかし、彼らは救いを願って救い主の前に来たのです。
 今、彼らの社会復帰は、このみすぼらしく、とても王や、まして神になど見えるはずもない方が放った一言を信じるか信じないかにかかっています。しかし、すべての人々が、この言葉を信じて一歩前進したのです。これが、信仰です。
 さて、この物語は、彼らの示した、素晴らしい信仰の態度で終わるのではありません。さらに素晴らしいことへとつながっているのです。それは、一人の人に与えられた救いの物語です。
 彼にとっては、主のもとに帰ること、主を賛美し、礼拝することは、社会復帰以上の価値があったのです。あなたは問題を抱えていますか?実は、問題が解決する以上の価値が、主のもとにはあるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-07-11
6月28日「奇蹟を運ぶ」

ルカ4:16〜21
 聖書の根底にあるのは、高ぶるものが低くされ、へりくだるものが高くされるという神の国の法則です。特に、低いものが高くなる、別の言葉で例えるなら、普通の人が普通じゃなくなるということが重要です。
 主イエスの育ったナザレの人々にとって、主は救い主ではなく、単なる大工の息子でした。そのことは、大工の息子がいかに素晴らしいことをしたとしても、人々が先入観を打ち破ることは極めて難しいということを通して描かれています。まして、大工の息子が神の福音を携え、その到来を告げることができる存在であると宣言することは越権のようなものと映ったのでしょう。炎上してしまいました。
 主は救い主がもたらす様々な兆候を人々に知らせましたが、聖書に書かれていないことも口にします。聖書に書かれていないことを宣言することができるのは神だけです。主はご自身が神であることを宣言されたのです。人々にとって、これは神に対する冒涜と映りました。しかし、これこそ聖書の語る本質、聖霊の働きによって、普通の人が普通じゃなくなる、という本質なのです。
 今、あなたは主と同じ姿に変えられていくという奇蹟の中にいます。今度はあなたが人々に告げ知らせる番です。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-06-20
6月21日「赦されて生かされて」

ヨハネ8:1〜11
 姦淫の現場で捕らえられた女性は今、人々の前でさらしものになっています。犯した失敗はあれど、そのことを他の人に用いられて、道具のように扱われているのです。その目的は、主イエスを貶めるためでした。
 人の罪の深さは何と深いのでしょうか。コロナウィルスという武器を手にして、人々が暴徒と化しているような状況見る時、この姦淫の女性が目に浮かびます。 この聖書のテーマは、裁くのは誰か、ということだと思います。神の言葉が引きずり降ろされ、人間が神となって以降、現在に至るまで、このテーマは私たちにとって非常に大きな問題を提起しています。それは、正義を振りかざす基準が、人によって違うということです。
 聖書に精通した律法学者たちは、神の言葉の解釈を主に投げかけます。しかし、神は神の言葉を解釈すること以上に、神の前に罪を犯していないものがいるのかどうかを確認するのです。
 もし、赦せない人がいるとき、あなたがその人に石を投げることを神がお喜びになるかどうか、もう一度考えてみてください。神は人々に石を投げず、その石を自らお受けになりました。それは、あなたのため、その人のためでもあったのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-06-20
6月14日「わたしたちの手で」

列王下4:42〜44  マタイ14:13〜21
 今日の聖書の個所はとても有名なところです。同じような出来事が旧約にあるのをしっていますか?エリシャが飢饉の時、大麦のパン20個で100人を養い残りが出たことが記されています。
 4つの福音書に残らず記されている「5つのパンと二匹の魚」で5000人が養われた出来事は、よく知られています。
 十字架のもとから恐れに満たされ逃げたあの弟子たちが、今や、聖霊約束の聖霊を与えられ、主のなされたような、目覚ましい働きをするに至ります。
 「できない彼ら」が、「できる者」とされ、「使徒言行録」に登場します。新しい時が始まりました。そこにいるのは、「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と言った弟子たちと、全く別人の彼らです。信じる者とされた見事な姿がここにあります。
 わたしたちは、「信ぜんがために知解する」ことを求めます。しかし真実は、アンセルムスの言うように、「知解せんがために信じる」のです。
 使徒言行録の弟子たちは、「信」から始まりました。そこに、聖霊の生ける業が現れました。彼らは、主が、「あなた方が彼らに食物を与えなさい」と言われた命令を実現する者となりました。「主によって、わたしたちの手で」、実現する時が訪れたのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2020-06-20
6月7日「背負ったままで」

マタイ11:28〜29
 教会の外に聖書の言葉を掲げているところがありますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という主イエスの言葉を掲示しているところが多いのではないかと思います。実際、その言葉に導かれて、教会に足を踏み入れ、主と出会う方々の話をたくさん聞いてきました。
 しかし、多くの人が人生の休憩所のようだと感じて扉を叩いたこの「教会」というものは、重荷を下ろす場所ではありませんでした。主ご自身も、休ませてあげようとはおっしゃっていますが、荷物を下ろしても良いとはおっしゃっていません。かえって、私の軛を負いなさい、と追加の要求が与えられています。ただでさえ苦しい荷物に加えて、キリストに学ぶ、という新たな世界観を加えることで、安らぎを得られるとおっしゃった主の真意は何でしょうか。
 キリストを知らない人から見れば、クリスチャンは日々の重荷に加えて、キリストを重荷として背負っているように見えるでしょう。しかし、実際にキリストに学びつつ生きる人々は、キリストが自分の荷物を背負ってくださっていることを知っているのです。だから、その人が休み、そこに安らぎもあるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed