宣教

2018-09-16
9月16日「神の招きに応える」

ヨシュア1:1〜9
 新しい歩みを始めようとする時、そこには大きな壁が立ちはだかっていた。それはよくある話かもしれません。イスラエルの新しいリーダー、ヨシュアも同じでした。
 偉大な指導者のそばで仕え、様々なことを学びました。それまでは、このリーダーの言うとおりでよかったのです。しかし、最早このリーダーは世を去り、自分の人生と人々の導き手となったヨシュアは、神の声を聞きます。それは、「今」という内容でした。
 もし、あなたの姿が愛する人から見えなかったらどうするでしょうか。あの手この手で、自分の存在を伝えようと必死になるのではないでしょうか?主なる神もそうでした。「今」というのは、ヨシュアたちにとっては、難しい判断になることは間違いありませんでした。もしかしたら、全員が滅び去るかもしれないほどの決断を迫られたのです。しかし、その招きには約束が伴っていました。それが「あなたと共にいる」という聖書全体を通して表されている神の御名だったのです。
 主イエスの名はインマヌエル。「神、我らと共に」です。時代が変わっても、状況が難しくても、だからこそ、主は姿を表そうと、今もあなたを招いているのです。

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2018-09-09
9月9日「十分なるこの日」

詩篇31:15(口語)  マタイ6:34
 「一日の苦労は、その日1日だけで充分である」とイエス様は言われました。心理学者のアーニー・J・ゼリンスキーは、「心配の40%は『決して起こらないこと』であり、30%は『すでに起こってしまったこと』であり、22%は『取るに足りないこと』であり、4%は『わたしたちの力でどうにもならないこと』であり、4%は『わたしたちが変えることのできること』」であると言っています。『弘前西教会40年誌』を読んだ弘前学院長が、「先生全くその通りです」と感想を述べられたことを思い出しました。
 「わたしの時は、あなたの御手の中にあります」の御言葉は勇気を与えてくれます。福音書のイエス様をたどる時、「恵みの時」「救いの日」を生きられた主イエス様がそこにいます。福音記事はこのような人々、事柄で満ちています。「あなたは?」
 顧みて、「過ぎ去った過去」、まだ来ていない明日に代表される将来に心と、存在を乗っ取られている自分と出会います。 「み手によりて 日はのぼりみ手によりて 月はめぐる み手によりて 風はおこり み手によりて 雲は湧く つきぬ歓び み手よりきたり…」(ドイツ讃美歌)「今、主と!」です。

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2018-09-02
9月2日「神の教育方針」

申命記6:4〜9
 これから起こるであろう厳しい時代に備えて、指導者であるモーセは、自分の最期を悟りながら、人々にとって必要不可欠なことを伝えました。それは、信仰とその継承についてです。
 日本においても、その未来が危ぶまれるような予測が立てられています。それに対して、私たちはどのように歩み、次世代に何を残していくべきでしょうか?時代が変わっても同じ問題に直面する私たちに対して、モーセは主なる神の言葉を生活の中に適用するように命じています。
 「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6:7)
 モーセは律法について語りました。しかし、結果として、人々はその律法を守ることができませんでした。それが旧約の時代に記されている人の罪の深さです。しかし、主は人々を見捨てることはないと約束し、イエス・キリストを遣わして十字架につけて身代わりとし、新しい時代が始まりました。
 今、私たちが心に刻み、生活に適用し、語り継がなければならないものは、十字架と復活に表された神の愛。キリストご自身なのです。

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2018-08-26
8月26日「はじまりはいつも」

                イザヤ6:8
 イザヤの召命を受けて、いったい何人の方々が主に献身し、どれほどの場所に遣わされていったことでしょうか。そして、そこでどんな経験をされたことでしょうか。
 イザヤが示されたのは、理解に苦しむ内容でした。「心を頑なにするメッセージ」と言われる難解な内容を心に、それでもイザヤは人々に仕えていきました。彼が主から語られたこと、それはまさに、あの十字架の救い主、イエス・キリストのことだったのです。
 主は、主でありながら受け入れられませんでした。その物語は、人の理解を超えたストーリー展開で、誰も予想しないものでした。しかし、主が地上に来られる以前から、人々が主を受け入れない姿勢は現れていました。エジプトから救い出しても、約束の地に向かうときも、エルサレム神殿を再建しても、人々は主なる神のみわざを仰ぎ見ながら、一時のハネムーン状態を謳歌するにとどまったのです。それは、あのエルサレム入城にも見ることができます。
 今、心を頑なにすることから始まった主の物語は、それでもなお、主に信頼する人々によって受け継がれ、紡がれています。あなたは残された聖なる種子。あなたから主の新しい物語が始まるのです。

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2018-08-19
8月19日「Power of Your love」

創世記50:20  ローマ8:28
  私たちは神の壮大な物語に組み込まれた役者です。その物語の中には、苦難があり、涙があり、喜びがあり、解放があり、最高の芸術性をもって描かれています。この物語は大団円で終了します。しかしまだ、その全貌は明らかになっていません。物語の終わりを知っているのは、監督である神だけです。
 役者である私たちは監督に選ばれた最高のキャストの一人です。この役者たちはすべてアドリブで演じます。しかし、監督の声を聞き、輝きを増すこともできます。なぜなら、その役者がどういう役者で、どんな輝きを放つか、監督はすべてを理解した上で選んでいるからです。
 この物語の主役は役者ではありません。役者の中に主人公もいません。この物語の主役は監督である神です。最高の物語を完成させるために、神はすべての人々に参加してほしいと願っておられるのです。
 神の物語に参加しようと決意した日から、あなたの人生は神によって最高の形に作り上げられていきます。もしあなたがそう望むなら、今までのこと、そしてこれからのことが、どんなことでさえも、すべてが益となることを体験することでしょう。

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2018-08-12
8月12日「8月6・9・15に応えて」

ホセア10:12  エフェソ2:14~17
 「八月や 六日九日 十五日」という言葉を聞いたことがあると思います。勿論、広島、長崎への原爆投下と敗戦記念の日です。平和を考えるために与えられたこの時を忘れてはなりません。あれほどの悲惨さを味わいながら「いつか来た道」を繰り返す人間の愚かしさを噛みしめながら、自分の内にある「敵意」という争いの種に向かい合います。
「日本国憲法」―平和憲法―という歴史的な遺産に気付きます。平和は言葉で表現できないほどの代価を払って勝ち取りました。それが踏みにじられています。そのような中で「実に、キリストはわたしたちの平和である」と聖書は宣言します。敵対する一方を消滅することで、平和は実現しません。
 「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た」のです。 良い土地とは、石ころを、草を取り除くことなしには生まれません。また、良い土地ほど草も生えやすいのです。
「種を蒔け十字架の愛を今ここに 隔ての壁をこぼつそのため」平和は、このわたしから始まる神の出来事です。「平和を実現する人は幸いです~」

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2018-08-05
8月5日「七つの本質ー適応可能な構造」

マルコ2:23〜28
 主イエスが向かわれる場所では、いつも神の国の到来と、それによる悔い改めが起こりました。悔い改めとは、180度の方向転換をすることです。しばしば、それが人々の思想や価値観を根底から揺り動かすものとなり、ある人々は大切にしてきたものをないがしろにされたと思い、主に反発しました。
 人々の間で多くの議論を巻き起こしたのが安息日の規定についてのものでした。旧約の時代、安息日の周囲には細部に渡って禁止事項が付加されてきました。それを守れない者は罪人とされ、町の外に追いやられていきました。貧しい人は、その原因を罪に求められ、安息日に苦しんでいました。
 しかし、主はここにも悔い改めの必要を求められました。まさに180度の方向転換です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(2:27)
 これは人々にとってどれほどの解放感をもたらしたでしょうか。安息日の主は、その目的をはっきりと知っておられ、人々を呪われた労働から解放する意味を込めて休みを備えられたのです。それは、やがてくる完全な安息に向けてのプロローグでした。主は時代を変化するために、古いことを廃棄するのではなく、成就することを望まれています。

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2018-07-29
7月29日「手放し、明け渡して、あなたのために生きる」

最近、気に入っている賛美があります。「レプタ二枚」という曲で、全国でワーシップリーダーとして活躍されている中山有太牧師が作詞作曲したものです。
 〜レプタ二枚ささげた 貧しいやもめのように
 今の私の持てる全部を 惜しみなくささげる
 十字架を見上げて み前に行きます
 手放し 明け渡して あなたのために生きる〜
 私が同志社で研究したのは、毎週の礼拝出席者が2,000人を超えるメガチャーチと呼ばれている教会でした。礼拝はコンサートのようで、プロのアーティストが賛美をリードし、映像や演劇で問題を提起し、カリスマ的な牧師が素晴らしいメッセージを分かりやすく話していました。マーケティングの成果として、顧客満足度の高い教会には数万人の人々が押し寄せています。
 私は教会堂に人を集めることが主に喜ばれることだと思っていました。「100人で礼拝を」と祈っていた時期もありました。でも、今は知っています。主は人々を「地に満ちよ」と散らされることを。はじめの教会ができたとき、人々がそこから散らされて世界へ出ていったように。
 「手放し、明け渡して、あなたのために生きる」ただ、それでいいのだと主が語りかけてくださっています。

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2018-07-22
7月22日「七つの本質ー伝道と増殖」

ヨハネ13:34〜35
 私たちは大量消費社会の中で生きています。それは私たちの価値観に大きな影響を与えています。そして、「消費者」と呼ばれる人々にとっての生き方にも影響があります。主はそのことをどう扱っておられるのでしょうか?
 七つの本質の中で、「伝道と増殖」は教会の使命だと言えるでしょう。なぜなら、主は肉体的な癒やしを大切にしましたが、それ自体を目的にはされず、あくまでも、罪の赦しという救いにフォーカスしていました。そして、救われた人々は、主に招かれ、従っていきました。それが弟子たちです。もし、体の癒しや精神の癒やし、奇蹟的な出来事などがフォーカスされるならば、それは単なるご利益になり、なぜ主の弟子になるのか、という違いを生み出すことはできないでしょう。
 二種類の人々。群衆と弟子の違いについて、主ははっきりと「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」と教えています。
 あなたがその命令を生きようと決意するならば、主があなたを助けるため、み姿を現してくださり、皆は主を知ることになるでしょう。

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2018-07-08
7月8日「走り寄る神」

哀歌3:22〜27 ルカ15:20〜24
 正しいことを語っても人を悔い改めに導くことは出来ません。悔い改めという新しい命は、愛のみが為しうることです。それも「朝毎に新たになる」「慈しみと憐れみ」によるのです。
 有名な、イエス様による「放蕩息子」の譬えは、その神様の真実を鮮やかにわたしたちに明らかにします。有り得ない裏切り行為をもって、後ろ足で砂をかけ出て行った息子の帰りを、毎日待ち続ける父。ボロボロになって帰って来るであろう息子を抱き止めるべく、朝毎に戸口に立って待ち続ける父!
 福音書の記事は、主イエス様が、父の思いをこの地上で生きる姿を現しています。「何とも間抜けな姿」ではありませんか!しかし、それ故にこそ、救いの出来事がわたしたちの現実となったのです。
 神ご自身が、愚かな放蕩息子を日毎に、門に立って待ち続けるのです。そればかりか、父の方から息子に走り寄るのです。父が走り寄るその姿こそ、十字架によって示された神の愛です。新しい生は、「子の悔い改め」では決してなく、「父の愛」によって実を結ぶのです!「砂をかけ走り去りたるこの我を 日毎門にて待ちたりし父」 神の愛たるを知れ!

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2018-07-01
7月1日 「イエス中心の生活」

マタイ7:24〜29
 主イエスは山上で人々に向かって教えられました。神は「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」(申命記30:19)と語り、いのちを選んで祝福されるように教えました。主も同様に、二種類のたとえを用いて人々の生活に迫りました。
 やがて、山上での教えも終盤に差し掛かり、結びが語られます。それは、家の建て方についてのたとえ話でした。家を建てることは、こと日本においては一生に一度あるかないかの大事な決断となります。欠陥住宅だった場合、その失望は計り知れません。しかし、もし家を自分で建てることができたとしたら、誰が欠陥住宅に住みたいと思うでしょうか?きっと家族や自分の幸せを願って、最善の策を講じるに違いありません。では、自分の人生を家に見立てたとしたら、どうだろうか?主はそのことを語りながら、揺るぎない人生の設計をするようにと導いておられるのです。
 「どのように建てるかについては注意しなければなりません。」と使徒パウロが警告するように、日々の生活の中で建材を整え、ひとつずつ組み上げ、完成すると人はその中に住みます。その建材は何でしょうか?組み上げるためにはどう行動すべきでしょうか?
 すべてはあなたが祝福される道筋なのです。

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2018-06-24
6月24日「七つの本質ー能力付与」

ヨハネ14:6〜9
 主イエスは、道であり、真理であり、またいのちであるというのは真実です。この方を通らなければ、本当の意味で神を知ることはできません。そして、主もそのことを弟子たちに教え、実際に示されました。
 人を癒やし、悪霊から解放し、死人さえもよみがえらせる力を、主ご自身が持っておられるのだと弟子たちは思っていました。私たちはどうでしょうか?そんな奇蹟的な力は、主が特別だったからできたことだったのでしょうか。あなたにはそんなことはできないですか?
 確かに、主は特別でした。神の御子として、その力の源が自分の中からではなく、父なる神のもとから注がれていることを知っていたからです。そして、主は弟子たちにも同様の、いやそれ以上のことができると約束されました。そして、それを聞いたのはすべての弟子たちでした。
 使徒たちの働きを描いた物語を読めば、彼らが主のようであることを感じるでしょう。人が癒やされ、悪霊から解放され、自由にされた人々がさらに働きを拡大していきました。それは二千年前に起きた一過性の出来事だったのでしょうか?

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2018-06-17
6月17日「神の計画に参加する」

マタイ14:22〜33
 「召命」という言葉を聞いた時、あなたはどう考えますか?それは牧師や神父、伝道者といった特別な人々に関する事柄でしょうか?それとも、すべての人々に関する事柄でしょうか?そんな言葉は聞いたこともありませんでしたか?
 主イエスは人々をどのように取り扱い、何を見せ、どうなってほしいと望まれたのでしょうか?ペトロは人類史上初のチャレンジを通して、わたしたちにそのことを教えてくれます。人が人の努力でなんとかできる問題を解決できたからといって、誰が主に出会い、主に感謝し、この方こそ救い主だと告白できるでしょうか。今、ペトロは人にはどうすることもできない領域に一歩踏み出しました。それは簡単なことではありませんでした。でも、彼は踏み出したのです。これが信仰です。
 あなたは主から何を語られていますか?あなたの人生に、今、主が働かれる領域はあるでしょうか?もし、自分の力ではどうにもならない問題があるとするならば、そこが主の働かれる領域かもしれません。大切なことは、一歩踏み出すことです。
 主の計画がどのようになされていくか。その事を見ていきましょう。

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2018-06-15
6月10日「使徒たちの三ない運動」

使徒4:5〜14
 35年くらい前のバイクブームは交通事故死多発と暴走族の流行につながったため、高校生にバイクの免許を取らせない、バイクに乗せない、バイクを買わせないの「三ない運動」が盛んに行われました。使徒言行録に登場するイエス様の弟子たちも「三ない運動」を展開しましたが、彼らの場合はリーダーがいない、資金がない、教養がないの「三ない」でした。
 当時は権力者に脅威と見られる人物が処刑されると、必ずと言って良いほど、側近たちの処刑も行われました。しかし、イエス様が不在となると、後を継いでトラブルを起こしそうなリーダーが一人も見当たりませんでした。仮にいたとしても、運動を展開して行くのに必要な資金がなく、物乞いをする人に施しをするほどの余裕もありませんでした。更に決定的だったのは、宗教や哲学に通じた知識人を重んじる当時の社会風潮の中、当局者を感心させるほど、弟子たちに教養がなかったことです。
 「三ない」から始まった弟子たちの運動は絶望的な条件の下で、どのような観点から見ても不発に終わるはずでした。しかし、使徒言行録に記録された運動の結末は世界革命そのものでした。今日はこのあり得ない出来事に隠された秘密について学びましょう。

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2018-06-03
6月4日「水を汲むしもべに」

詩篇136:1〜3  ヨハネ2:1〜11
 イエス様の最初の奇跡が、「結婚式」で「水をぶどう酒に変えた」出来事にユーモアが感じられます。イエス様のたたずまいに心が明るくなります。さすが、「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の頭だ」(ルカ11:19)と言われるほどのことはあります。
 固定化した宗教観、信仰の定式を打ち破る新鮮な息吹が感じられます。母マリアも、「ぶどう酒がなくなりました」の訴えを拒否されつつも、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と召使いに言っています。緊張ではなく平和が満ちます。
 召使いが言われたとおりに、「水がめの縁まで水を満たした」のも見事です。「世話役がその葡萄酒をなめて不思議に思った」の記述に、神の業の奥義が見事に明らかにされます。そして、浪岡教会の!
 1)主のもとに行く 2)主の言葉に従う 3)必要とされている処に運ぶ―その時、御業の驚きと出会います。おののいてはなりません。主の奇跡は、「はい!」と水を汲む僕によりもたらされます。
 「御言葉を聞きて水を汲むただ人を 用いて進む宣教の業」 笑顔と共に主と共に、奇跡を通して。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と。

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2018-05-27
5月28日「七つの本質ー関係」

創世記2:25
 人間関係は最も難しいと言われます。しかし、主なる神は「人が独りでいるのは良くない」と、その最も難しいところに人間を置かれ、関係の中で生きるようにされたのです。そして神もまた、父と子と聖霊という関係の中に存在しておられます。
 神がはじめの人を関係の中に置かれた時、最初に人が発したのは「難しい」という悩みの言葉ではなく、「ついに、これこそ」という雄叫びのような歓喜の声でした。関係とは素晴らしいもので、良いものなのです。しかし、神中心から自己中心にライフスタイルが変化した時、神と人との関係は傷ついたものになってしまいました。それ以降、人間同士の関係も回復が必要な状態のままです。ですから「難しい」のです。
 しかし、主はすべてを癒すと約束されました。そして、どのようにして神と人との断絶を埋め、人と人との関係を回復させるのかを、主イエスの歩みによって明らかにされたのです。
 アダムとエバはエデンで良い関係を築いていました。それは、裸であることを恥としない関係です。誰かのそばで、あなたが主にある良い関係を築こうとするなら、主はあなたのそばにいて、必ず助けてくださるでしょう。

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2018-05-20
5月20日「一つになるために」

使徒言行録2:1〜4
 主イエスに従えば、何かしらの利益が自分にあると考えてかどうか、弟子たちは主と歩み始めました。自分にとって、「主はこういう方」という固定概念の中で、それぞれの弟子たちは、いつも主から叱咤されてきました。しかし、主が繰り返し語られる言葉さえも、彼らの固定概念を揺り動かし、自我を打ち壊すことはできませんでした。
 あの日、丘の上に十字架が打ち立てられた時、主が語られたことが現実になったことを受け入れざるを得ず、自分自身が弱い人間であることを受け入れざるを得ない中で、彼らの魂の領域にも、十字架が打ち立てられたのです。暗闇の中で、主の復活すらも信じられない彼らを前にして、主はこの不信仰な人々に宣教を委ねられました。
 主の深い愛を経由して、弟子たちは一つになりました。一つになるために必要だったことは、互いに愛し合うことができる状態に導かれることでした。彼らが一つになっているところに、聖霊の約束が実現したことは、決して偶然ではありません。それこそ、主が弟子たちを教え、導き、一緒に歩んできたことの集大成でした。
 今も、その共同体は存続し、永遠につづくのです。

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2018-05-13
5月13日「人は何者なのでしょう」遠藤一則 牧師        

 詩篇8:3〜9
 日本人は人のことを気にする、とよく言われます。そのこと自体は悪いことではありません。社会で円滑な生活を営むためには必要なことであり、役に立つことでもあります。しかし、それが高じると自分の考えを横において、人に合わせることがくせのようになり、考えることをやめてしまうことにもなりがちです。どうすれば、そのバランスをとることができるのでしょうか。人を無視せず、かといって気にしすぎもせず、軽やかに人生を生きていく方法があるのでしょうか。
 本屋さんには、「人と良いコミュニケーションをとる方法」「好感度アップの秘訣」「悩みを減らす思考法」等々、さまざまな知識があふれていますが、これらは処世術であり、時々の相手や時代によって変化します。自分という人間を支える土台、それに通じる真理は一体何でしょうか。今日は聖書からそれを発見していきましょう。
 キーワードは「たかが人間、されど人間」です。

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2018-05-06
5月6日「祝福の王道-賛美と感謝-」

詩篇102:19  Iテサロニケ5:16〜22
 聖書の学びを進め、1974年4月から説教の準備をしてから44年。少なくても14112回の説教をしていることになります。説教を続けることで多くの祝福を与えられたことは勿論です。が、いつの間にか(何度も軌道修正はしつつも)、最も大切な命を失っていたのでは?と問われる昨今です。
 それは、聖書の通奏低音とも言うべき、「愛 喜び驚き 賛美 感謝」のない、通俗的な「~あるべき、~が信仰」という宣教をしてきたのでは?という。
 わたしの語る宣教、生活、言葉を通して人々が「新しい命に導かれるか?」との問いを受けたのです。答えは当然のごとく、「否!」です。
 旧約でも、「賛美の歌を~、感謝の歌を~」信仰の命と語られ、新約の「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」信仰へと繋がります。
 賛美と感謝、これこそが信仰の息吹であり歌です。神様に、イエス様に、聖霊様の働きの御業にドキドキしたことはありますか?胸が熱くなりますか?
 仕切り直しの時です。愛を喜び、賛美し感謝する勝利の信仰に向かって。 「人生は賛美感謝の通奏低音 新しきいのち支えこだます」

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2018-04-29
4月29日「戻るべき場所」

詩篇56:4  ルカ22:39〜44
 主イエス・キリストは神の御子として、神と等しいお方だと聖書は語ります。しかし、同時に主は私たちと等しいとも語られているのです。主は神であると同時に、完全に人になられたのです。
 十字架という試練を前にして、主はゲッセマネの園で苦しみを露わにされました。その様子は、悲しみもだえ(マタイ)、地面にひれ伏し(マルコ)、血の混じった汗が地面に流れ出るほどでした(ルカ)。
 神が苦しまれる、という姿は、私たちを困惑させるかもしれません。人々を愛し、癒やし、奇蹟を行う方が、苦しまれることなどあるのだろうか。その疑問に対する答えがここです。実に、主は苦しまれたのです。それも、単なる不安などではなく、どうにもならない壁のような大きな試練に対する恐れをもたれたのです。
 しかし、主はその苦しみをどこに持っていくべきかを完全に理解しておられました。それは詩篇に描かれた信仰者の模範と重なります。そして主はご自身の状況を具体的に、誠実に主の前に注ぎ出しました。ありのままで向き合って、立ちはだかる大きな山が動かせないことに心をとめず、その山を創造した方の元に行ったのです。
 あなたも同じようにして良いのです。そこに主が用意した、あなたに必要なものがあるはずです。

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