宣教

2021-09-19
9月19日「Praise & Worship」

マタイ28:19-20
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

佐々木 章(ささき あきら)
 中学校の頃からギターを始め、盛岡市にある善隣館の音楽グループ「グッドネイバーズ」のメンバーとして、東北各地を演奏して回る。
 1984年には韓国ゴスペルフェスティバルに日本代表として招かれ、1987年にはアメリカ、オハイオ州ニューナックスビル教会の150周年記念に招待される。
 普段は善隣館書店の店長として働きながら、各地の幼稚園や保育園などで「歌のおじさん」として演奏を続けている。

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2021-09-12
9月12日「それがあなたの人生です」

列王記下6:15-17  ヨハネ9:35-41
 おなじ方から1日に何度も、電話がかかって来ることがあります。内容はいつも、「自分の不幸」「人々の冷たさ」の訴えで、さいごに、「どうしてわたしだけが⁉」と叫んで終わります。
 イエス様は度々、「あなたの信じた通りにあなたになる」といわれました。あなたは自分の人生で、何を信じていますか?自分はどんな存在だとおもっていますか?」そして、「自分の思った、その通り」の人生を生きていることに気付いていますか?
 マザーテレサの言葉をお持ちですか?「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから。」ドキッ!です。
 その時、誰あろう、その指先はまっすぐに自分を指しています。わたしたちが「現実」という時、それは自分の現実であっても他の人の現実ではないことの何と多いことでしょう。
 イエス様の失脚を意図する者の目は曇ってしまっていました。「何を見ているかに注意を払いなさい!」と言われる主の前に跪くものでありたいものです。

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2021-09-05
9月5日「どこにいるのか」

 ルカ15:11〜32
 福音書の中で、イエス・キリストと敵対した人々は、自分は誰よりも頑張っていると思っている人々でした。彼らは自分の英雄的な努力に目が向いていて、他者を愛する視点が欠けていたのです。彼らに必要だったのは、神にピントを合わせることでした。
 放蕩息子の姿は、神から離れた罪人がどのように神と再び結びつき、回復と成長の段階を歩んでいったのかが示されています。継続的な無知の中に生き続けた彼は、空腹の極みの中で我に返りました。自分の限界を知ったのです。そして、「息子と呼ばれる資格もありません」と、しもべとして父に会いに行きます。これは、悔い改めです。ところが、父は彼を無条件に赦し、しもべではなく、息子として迎え入れました。兄はこれを見て嫉妬します。この兄は、有能でプライドがある人の姿を示しています。これを打ち砕いて成長するためにも、私たちは聖霊という最も謙遜な方の力を借りて、克服する必要があります。
 何よりも、主が私たちに求めておられるのは、この父の姿です。この父は主ご自身です。父は、赦すにも、迎え入れるにも、与えるにも、報いを求めていません。霊的成長の最終段階は実に、そこなのです。 

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2021-08-29
8月29日「十字架を負って」

ルカ14:25〜33
 今、主イエスが再び来られ、彼の国が実現する。と言われ、私たちは素直に喜べるでしょうか。
 神の国が実現するとなれば、この地上に置いてこなければならないものがたくさんあるはずです。中には、大切にしてきたものだってあるかもしれません。それを天国に持っていくことはできないかもしれません。すべてを捨てていかなければならないと言われた時、どう感じるかは、私たちがどれほどこの世界に執着しているかを測るものさしです。
 主イエスは、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたは誰ひとりとしてわたしの弟子ではありえない。」と厳しく教えました。このような言葉は私たちを混乱させます。お金がなかったら、家族がいなかったら、友人がいなかったら、あれがなければ、これがなければ、と。もちろん、あなたがそう思っていることを主はよくご存知です。その上で、それらを捨ててみることを命じるのです。
 あなたはそのような大切なものを捨てた経験があるでしょうか。その先にあるのは、捨てた人にしか分からない領域です。
 神の御子、主イエスは一体、何を捨てた方だったのでしょうか。その先には何があったのでしょうか。

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2021-08-22
8月22日「キリストはベストコーチ」

ヘブライ12:1〜3
 オリンピックが閉会し、パラリンピックが始まります。この夏、私たちはアスリートたちの輝く姿を目の当たりにしました。スポーツとは、トップの座をかけたゲームであると同時に、その背景にある人間ドラマだということができるでしょう。
 聖書は、あなたもそんなアスリートの一人であると言うのです。神は一人ひとりに独自の競技を備えており、そこで走るための専用コースが用意されています。オリンピックに多種多様な競技があるのと同様に、そこで競われるのは、誰も代わることのできないレースなのです。しかし、その競技は他の誰かと賞を競うものではありません。実は、このレースのルールは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」走ることにあるのです。それぞれが背負う重荷は違うでしょう。そして、罪とは不信仰のことですが、それさえも、人によって悪魔が狙うポイントも違うのです。つまり、このレースは他の人の経験が参考になりません。しかし、誰にも助けを求められない孤独なレースではありません。
 あなたが、どんな形であれ、走り切ることができるように、主イエスという名の最強コーチがついているのです。

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2021-08-15
8月15日「何と戦っていますか?」

歴代誌下20:13〜17
 その日、ユダの国に大軍が押し寄せていた。ヨシャファト王は、その現実を前にして何をしたのでしょうか。そうです。彼は神の前に進み出て、祈るという行動に出ました。それは嘆きに似たものであり、完全に白旗を上げている様子が伺えます。しかし、神のみわざはそこからスタートするのです。
 さて、神からの応答は次のようなものでした。「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。」(15節)
 今、あなたには戦いがありますか?それは、病でしょうか、経済的な問題でしょうか、人生の課題でしょうか。私たちには様々な問題や課題が出ては消え、消えては出てくるものです。一般的には、それらの問題はその人の問題であって、その人固有の戦いと言えるかもしれません。しかし、主なる神は、その数々の問題を、「神の戦い」だと言うのです。
 しかし同時に、神はユダの人々にそのままボーッとしていれば良いとはおっしゃいませんでした。神が人々に求めたものも、やはり戦いでしたが、それは彼らが思い描いていた戦いとは全く別の戦いでした。
 自力で解決不可能な問題があったとしても、なかったとしても、神が求めておられる戦い、それは、一体何なのでしょうか?

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2021-08-08
8月8日「平和の原点」

詩編119:105   ヨハネ8:31-38
 何度も繰り返しこの季節に思い出すのは、「八月や 6日 9日 15日」の句です。この季節に、日に何度も心に浮かんできます。そんな中、今は、コロナ禍の中でオリンピックが行われています。
 「平和の祭典」の中で、この時を迎えることも大きな意味を持っているのかもしれませんが、そのことを日本政府はどのように受け止めているのでしょうか。大きな課題です。
 主は、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」といわれました。平和は、神の御心であり、その為に主はこの世に受肉されました。主の祈りの、「御名が、御国が、御心が…」の祈りは、主の思いが祈りとなったものです。
 今日の「真理はあなたたちを自由にする」は、神の御心への招きであり、平和への促しです。「わたしの言葉にとどまるなら」と主は言われます。しかし世の権力闘争は、平和とは対極にあります。「自分の自由」は「他者への抑圧」に容易にすり替わります。
 自由とはキリストを通しての、神との関係を離れては存在し得ないのです。わたしたちは平和の原点である「自由」は、「インマヌエル」の出来事であることを心に刻みつける必要があります。「天国は・あなたの嫌いな人が沢山いる処」でもありますから。

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2021-08-01
8月1日「自然エネルギーが世界を救う」

イザヤ2:2−5
 人類の争いの歴史はエネルギーと共にあり、これからの世界が救われるとすれば、どのようなエネルギーが必要で、私たちはどう歩むべきでしょうか。足利大学理事長であり、日本における風力発電研究の第一人者である牛山泉氏に、御言葉を紐解いていただき、平和について考える機会とします。

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2021-07-26
7月25日「新しい人生への招き」

ルカ7:11〜17
 主イエスはナインという町で息子を亡くした母親に出会いました。彼女は泣いていたのでしょう。そこで、主はおっしゃいました。「もう泣かなくともよい。」
 あなたが悲しみのどん底にいる時、他の人から「もう泣かなくともよい。」などと言われたらどんな気持ちになるでしょうか。もしかすると、感謝の気持ちではなく、「あんたに何が分かるの?」といった怒りの感情に傾くのではないでしょうか。では、主はなぜこのようなことをおっしゃったのでしょうか。
 聖書には希望という言葉が出てきます。これは、確実な未来から伸びてくる切れない糸のようなものを示す言葉です。希望というと、今から考えて、おぼろげな未来を予想して、ポジティブに捉えることのように思われがちですが、聖書の描く希望は全く違います。それは、永遠の神の都、天国と密接につながる一本の切れない線のことなのです。
 神は人に命を与え、時を定めて引き上げてくださいます。その行き先を知っているか知らないかで、「もう泣かなくともよい。」という言葉の意味が変わってきます。
 主はその天から来られたただ一人のお方。涙のぬぐわれる場所から来られた方なのです。

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2021-07-18
7月18日「何を望んでいますか?」

ルカ7:1〜10
 今日の聖書に登場するローマの百人隊長は、遣わされた場所で民に奉仕し、人々から好意を持たれていたようです。ユダヤ人のために礼拝堂を建てた、という証言からも、彼が人々に仕えるだけでなく、彼らの信じる聖書の神をも大切にしていたことが分かります。また、愛するユダヤ人たちが切に求めていた救い主が来たという話にも耳を傾けていたようです。なぜなら、天と地の一切の権能を授かっている、とおっしゃる主イエスは神の全権大使であると理解していたからです。
 私たちは神に祈り求める時、何を望むでしょうか。問題の解決でしょうか、病の癒やしでしょうか、友と仲直りするための勇気でしょうか。もちろん、神はこのような願いを聞いてくださいます。しかし、ご自身に近づくそのことを喜ぶことはするにしても、賞賛することはないのではないでしょうか。では、この百人隊長は主に何を賞賛されたのでしょうか。
 彼が求めたのは、召使いの癒やしでした。しかし、癒やしてくださいと願うのではなく、御言葉さえあれば、と神の言葉を求めただけでした。
 神は言葉によってこの世界を始められました。さあ、私たちはどうでしょう。

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2021-07-11
7月11日「新しい命の誕生」

     イザヤ43:1〜4  ヨハネ8:1〜12
 聖書はどこもが、素晴らしい示唆に富んだ、神の世界-キリストとの出会い-に満ちています。その中でも今日の記事は、9章の「生まれつきの盲人を癒す」物語と共に、福音の豊かさと薫りにおいて、白眉といえるものではないかと考えます。
 主イエスの前に立つと、この世の価値観とは何であり、福音とは何でないかが見えてきます。それと同じように、ファリサイ人と律法学者の、この世と人々に対する出会い方と、主イエスの彼らと異なる眼差しとの決定的違いが浮き彫りにされます。
 神から与えられた律法が、人間的常識の普遍性から独立することなく立ち現れます。ファリサイ人と律法学者の神と人々とに対する出会い方は、この世の価値観と並列するように見えます。
一人の姦淫の現場で捕らえられた女性を、自らの正義の秤によって、抹殺に値すると断じ、イエスを「罠」にかけようとします。そんな中で、この女性は主イエスにより、「新しい命に誕生」します。
 「わたしの目にあなたは価高く貴く、わたしはあなたを愛し…」(イザヤ43:4)の世界がここに現れます。新しい命の誕生です。主は今もわたしたちの前に立たれます。この女性が新しい命に生きたたように、「生きよ!」と我らに語られる主が共に。

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2021-07-05
7月4日「神にできない唯一のこと」

エフェソ3:14−21
 使徒パウロはエフェソの教会のために熱心に祈りました。そのあまりの情熱は、神を前にして膝をつくほどだったのです。
 祈りはまず、神の御名の権威がすべての人に与えられている、との大胆な宣言から始まるのです。そして、人に内在する「内なる人」を強めていただけるよう祈ります。また、キリストの愛が、その広さ、長さ、高さ、深さにおいて、どのようなものかを理解し、その豊かさに触れて満たされるようにと続きます。
 もし、パウロが私たちのために祈っていたと考えたら、いかがでしょうか。私たちの「内なる人」はどんな状態にあるでしょうか。また、私たちはキリストの愛がどれほどのものかを理解しているでしょうか。そして、私たちは満たされているでしょうか。
 仮に、そのすべてにおいて否定的な回答があるとするならば、なぜパウロがそのことを熱心に祈ったのかがわかるでしょう。そうです。ここで彼が祈っている内容は、私たちの日々の歩みにおいて欠かすことのできないものだからです。
 私たちの想像をはるかに超える神の素晴らしいみわざが今ここにあると。信じることができるでしょうか。

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2021-06-27
6月27日「向こう岸の景色」

マルコ4:35〜41
 主イエスは御言葉を聞くだけの人、受け入れる人の違いを教えられた後、「向こう岸へ渡ろう。」と弟子たちを導いて嵐吹く湖へと舟を出発させました。
 果たして向こう岸には何があったでしょうか。そこには悪霊からの解放があり、病の癒やしや死者の蘇り、そして必要の満たしがありました。そこは天国のようでした。次に舟に乗る時も、やはり試練がありました。しかし、前回の向こう岸と今回の向こう岸は全く違う展開を見せました。そこにあったのは十字架でした。
 私たちの人生も、試練という名の嵐は一度きりではありません。さらに、予想だにしない出来事が起こってくるときもあるのです。十字架を前にして、何もかも終わりだ、と弟子たちが思ったような問題に遭遇することもあるでしょう。
 主は試練を経由してたどり着く「向こう岸」で何を見せたかったのでしょうか。それは、復活の希望です。何があっても大丈夫という平安です。主が数々の奇蹟を見せたのは、全てを支配する方が共にいて、必要を満たし、問題を解決してくださることを教えるためでした。そのことを通して、弟子たちが思い煩うことのないためです。主は弟子たちに、そしてあなたに言います。「まだ悟らないのか」

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2021-06-27
6月20日「あきらめない神さま」

マタイ18:12〜14
 主イエスは人間のことを羊にたとえて話されました。そして、ご自身は「良い羊飼い」だとおっしゃるのです。
 羊の習性を知っていれば、牧者がどのように振る舞うかがわかるでしょう。群れを好み、集団で無自覚に追従してしまう癖のある羊たちを導くために、牧者が先導することは少なく、むしろ後方から羊たちを視界に入れて進むのです。もし、群から離れた羊がいたならば、杖などで正しい位置に戻します。それでも、遠近感を捉えるのが苦手な羊にとって、群から離れ、迷子にならないことは至難のわざなのです。
 群れを好む羊がたった1匹になると、とてつもないストレスがかかり、気が狂ったようになります。羊一匹を捕まえるよりも、100匹を捕まえるほうが楽だ、と言われるほどです。罪という名の狂った世界観で歩む羊、つまり人間が、神の群れに立ち帰るのが容易ではないのと同様です。
 しかし、主は憐れみ深く、自らの時間と命を削って、その1匹を探しておられます。なぜなら、他の99匹では代わることのできない価値があるからです。
 あなたは愛されています。何をしたか、どんな人か、は関係ありません。あなたがあなただからです。

※ 動画はありません。ご了承ください。

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2021-06-13
6月13日「まことの食べ物」

申命記8:3   ヨハネ6:41〜51
 「ババア食ったジジイ、縁の下の骨を見ろ!」とは、『カチカチ山』最後にある、タヌキのセリフです。タヌキ汁と思い、「旨い、うまい」と、長年連れ添ったおばあさんを食べる!そんなおじいさんの姿と自分が重なります。
 生まれてから75年!洗礼を受けて55年!結婚して48年!牧師になって47年!…。両親の、姉妹の、友の、妻の、子供の…。数限りない人の肉を貪り食って、そして誰よりも、キリストの肉と血を貪り食って生きて来た自分を想い巡ら唖然としています。
 人は、生きとし生けるものはすべて、他の命を食することなしに生きていくことは出来ません。そしてキリスト者とは、キリストの血と肉に、すなわち「命」を食して生きていることを知る者のことです。
 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」とイエス様ははっきりと宣言されます。ここに真実の神の愛が明らかにされます。
 マザーは「生きている愛は傷つきます。イエス様はご自身の愛を証するために わたしたちの身代わりとなって 十字架の上で死なれました。~」と言っています。主は生きていて、今もわたしたちに手を指し伸べ、今も、ご自身を与え続けておられます。主こそ、御言葉こそは「まことの食物」なのです。

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2021-06-06
6月6日「方向転換への招き」

ルカ5:27〜32
 主イエスが好きな言葉があります。それは「Follow me」です。私たちの主は招く神です。いつの時代も、どんな人にも、招きの声をかけておられます。
 神の声に従って、招きを受け入れた人の人生は大きく変えられていきました。聖書の登場人物のすべてが、神の招きを受けました。しかし、その招きを受け入れるか受け入れないかで、その後の展開は大きく異なったものとなったのです。
 主イエスと出会うまで、レビは徴税人でした。それは、同胞から金銭を巻き上げるような生活であり、周囲から蔑まれる存在でした。そんな彼にも声がかかるのです。「わたしに従いなさい。」
 彼のとった態度は驚くべきものでした。なんと、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」と聖書に記されているのです。
 人生の主を神に置き換える作業は平坦ではありません。ほとんどの人は、自分の人生の主は自分なのです。ですから、その王座を神に明け渡すことは容易ではなく、全てを捨てるような覚悟が必要だと聖書は語るのです。しかし、もしあなたがそれでも主をお迎えしようと決めたなら、罪人として迎える結果とは別の景色を見ることになるでしょう。

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2021-05-30
5月30日「戻るべき場所」

ルカ10:17〜20
 主イエスは弟子たちを厳しい環境へと遣わしました。それはまるで「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」というのです。しかし、主は彼らを放り出したのではありません。そのような環境にも打ち勝てるように、神からの素晴らしい力と権威を与えて送り出したのです。
 帰ってきた弟子たちは、その力と権威によって地上に天国がもたらされる景色を見てきたのだと、大喜びで主に報告します。それを聞いて主は聖霊に満たされて大変お喜びになりました。それは、特別な人だけが特別なことができる、という世の価値観を打ち破る神の国の到来を意味していたからです。
 私たちも弟子たちと同じ用に、時に厳しい環境へと遣わされる時があります。もちろん、私たちも主から力と権威を委ねられた存在ですが、その事を忘れる時があります。私たちは誰が何と言おうとも、神の国の大使なのです。
 しかし、大使であってもできないことは多いものです。そんな時は、落ち込むのではなく、自分が神の国の大使であることを思い出すことが必要になるでしょう。主は、私たちが何を為すかではなく、何者なのかに注目するようにと教えるのです。

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2021-05-22
5月23日「聖霊による一致」

使徒2:1〜4
 教会はいつも聖霊とともに歩んできました。かつて、聖霊に満たされた人々の言動は、人々を驚かせるものであり、かつての過ちが神によって回復されたことを宣言するものでした。
 聖霊が臨む時、そこには「しるし」が伴います。はじめての聖霊降臨の日、そこには耳や目からのインフォメーションがありました。私たちは聖霊が降る音を聞いたことが、あるいは目で見たことがあるでしょうか。そこには大いなる驚きがあります。
 聖霊に満たされた人々が導かれのは、何だったでしょうか。それは、言葉を語るということでした。それも、他の国々の言葉で語ったというのです。しかし、方法や形式は違えど、内容は一致していました。それは、主イエス・キリストの十字架と復活という、神の偉大なみわざだったのです。
 かつて、自己中心的な欲望を満たすために建て上げられた塔は崩れ去り、人々は異なる言語を与えられ、散らされました。原初の人間から受け継がれた罪ゆえに背負わなければならなかった重荷は重く、自力での解決は不可能でした。
 今、その重荷は主の犠牲によって取り去られ、人をつくりかえる霊が注がれたのです。

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2021-05-17
5月16日「主の祈り 後編」

マタイ6:9〜14
 物質的に豊かである時、誰が日毎の糧を祈るでしょうか。「私たちに必要な糧を、『今日』与えてください。」と祈る言葉には、私たちの視点を、いつでも「今日」に向けるものです。今日、この瞬間、必要な糧が与えられているとしたら、感謝しかありません。また、備えられていないとすれば、それが本当に必要なことかどうかを考えるきっかけになるものでしょう。糧は黙っていたら与えられるものではなく、すべて神からくるものなのです。
 また、他者との関係性において、その人を「赦す」とはどのようなことなのでしょうか。主イエス・キリストは、特にそのことに注目しておられるようです。主は「もし、人の過ちを赦すなら…」と、まず私たち側の姿勢を求めておられます。問題が深ければ深いほど、怒りが強ければ強いほど、赦せない人がいるものですが、神はそのことから私たちを解放しようとしておられます。しかし、神があなたを解放しようと試みても、あなたがそれを受け入れられないのであれば、決して解放されません。主はそのことをおっしゃっているのです。
 主の祈りの後半は、私たちを日々、解放へと導いてくださるものなのです。

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2021-05-10
5月9日「奇跡を生きる食物」

創世記15:6  ヨハネ6:22〜41
 「わたしたちの今」、それは、わたしたちが自分で、自分に対して「信じている今」であると言ったらどのように思われるでしょうか?わたしが「自分の今」をどのように思い、感じているかが、まぎれもない自分自身の人生なのです。いろんな方と出会う度、多くのものが揃っていても、「不幸」と感じている人と、持たなくても「幸い」と感じている人のいることに改めて気付く日々の中です。
 マザー・テレサは自身の人生をどのように感じていたのでしょうか?わたしには間違いなく、「幸せの王道」を歩んでいた方のように思います。なぜならば、マザーと出会った人は今、までと正反対の方向、幸せに向かって歩みだしたと思えるのからです。
 多くの人は、永遠の命を求めているかのように「朽ちる食物」のために人生を用います。あなたは何を「信じ、何に向かって歩んでいますか?」
 イエス様が与えた、「5つのパンと二匹の魚」も永遠の命を与えるものとはなりませんでした。「永遠の命に至るまことの食物」とは、「神の業」を行うことです。「神の業」とは、「神がお遣わしになった者を信じる」こと以外のことではありません。あなたが信じているものがあなたの人生となるのです。今一度、「あなたは誰を、何を信じていますか?」

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