宣教

2019-04-14
4月14日「神の与えたビジョン」

箴言29:18  使徒言行録20:17〜24
 神は確かなビジョンをもってこの世界を創造されました。その計画の綿密さは目を見張るほどです。それは、小さな身体の中に、地球何周分もの神経細胞が張り巡らされている私たち人間に対する計画も同様です。
 命を失ってもいい、と口にした使徒パウロは、あることに情熱を燃やしていました。それは、神から与えられた計画です。人が命をかけてもいい、と思えるのはどんな時でしょうか。それは、神のビジョンと私たちの喜びが交差する瞬間です。パウロの人生にもいろいろなことがありました。大きな失敗を犯してきました。しかしパウロ同様、神はご自身の計画が欲しいと願う人に、誰でも、いつでも、その計画を明らかにし、聖書に記されたように、その約束を果たしてこられました。
 「夢破れて」という言葉をよく耳にします。しかし、夢が消えてしまったと私たちが感じていたとしても、神の夢は今もあなたの中にあるのです。いえ、あなた自身が神の夢なのです。
 神があなたを夢見て、何千、何万もの時を越えて、今あなたがここにいます。そのあなたの喜びは、神の喜びでもあるのです。

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2019-04-07
4月7日「主が共に、主と共に」

イザヤ55:9  ヨハネ5:19
 1974年4月7日、45年前の今日、弘前西教会(伝道所)は設立されました。最初の礼拝は、5人で守られました。記念日の尊さは、懐古することではなく、原点に立ち返ることにあります。「尊いのは愛によって働く信仰のみ」(ガラ5:6口語)が、それであることを、恵みの中に噛みしめています。
 教会とは、御言葉によっていつも造り変えられ続けることにより、教会となります。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)からです。この世の価値観に乗っ取られると、「教会も自分もどこにいるのか」を見失ない、「塩と光」を失います。
 教会の使命は、「御心を生きる」以外のことではありません。イスラエルのみならず、教会の歴史もまた、神への信実を見失う中に漂ってきました。この世の価値観に追随し、翻弄されたからです。
 わたしたちは今一度、イエス様の教えてくださった「主の祈り」を生きる教会となることです。そのためには、聖霊による愛により、いつもあらたにされることです。「主の霊のおられるところに自由がある」からです。「御名が、御国が、御心が」の祈りこそ、聖霊による愛の待ち望み生きる教会の祈りです。
 主はこの教会を通し、御業を前進させたいと願っておいでです。「天を地にもたらす教会」として。 

いつも楽しみにしてくださってありがとうございます。
PCの不具合により配信できない期間がありました。大変申し訳ありませんでした。

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2019-03-31
3月31日「持てる全部で」

マルコ6:31〜44
 主イエスは休息を取ることを奨励される方であり、決して何かに急かされる方ではありませんでした。しかし、この世界はスピード感を求めていないでしょうか。そして、神の奇跡的なわざは、人里離れた場所で起こりました。
 その日、主イエスは弟子たちに権威を委ねようとしましたが、彼らはそのことの意味をまだ理解していませんでした。そこで、主は人々を少グループに分けて、その一つひとつの家族的なグループを祝福され、奇跡で満たしたのです。
 この家族的なグループは過ぎ越しの祭りを一緒に祝うグループでした。日常的に交わり、そこで励まし合う関係を築いていました。それはまさに、現代の教会共同体のようなものだったのです。
 主は教会の頭であり、その共同体にご自身を分け与えてくださる方です。その共同体に求められているのは、持っているものを出し合うことでした。5,000人以上の人々を満たすために、パンは何百万円分も必要だと思うのが常識です。しかし、これで全部です、とそれぞれが精一杯を主に差し出すならば、たとえそれが常識的に見て不足していると思われるようなことであったとしても、人々が満たされる、というその目的が果たされていくのを見ることになるのです。
 

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2019-03-17
3月17日「約束された勝利」

ヨハネ16:25〜33
 主イエスの話されたことは、単なる自明の倫理ではありません。真理を語っているので、この世界の動きに合致する部分も多く見られますが、実際には主の十字架と復活における神の国の法則を語られていたのです。それは、人間の理解を遥かに超える奥義とも言えるものでした。
 不完全な信仰ではありましたが、すでに主を信じていた弟子たちは、確信を持って主に従う決意を新たにします。しかし、彼らはまだ人間的な努力の範囲を超える、超自然的な神の力を受け入れる前の段階にあったのです。すなわち、復活の勝利を体験していなかったわけです。
 信じ切っていたものが目の前で崩れ去る時、彼らはその状況を直視することができませんでした。主のためなら命を捨てる、と豪語していた弟子の一人も、自分は死刑になるような人物と関わりはないと偽り、逃げ出してしまうのです。かつて、湖で激しい嵐に襲われたときと、同じ反応でした。しかし、主の姿勢は一貫しています。あの時と同様に、今は命を捨てて、人々を取り戻そうとされたのです。それが十字架の奥義でした。
 主が語った「世に勝っている」という言葉は、決して十字架という試練を前にした強がりではありません。それは、天の国を知る方の確かな言葉なのです。

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2019-03-10
3月10日「奇跡の教会」

詩編51:12~14  ガラテヤ5:22~25
 R・ブラウニングは、「われと共に老いよ。最上のものは、これから先にある。~それは生命の最後である。~われらの時は神の御手にある。~恐るるなかれ。」と詠います。「思い違いをしてはなりません。神は、人から侮られることは在りません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。…肉に蒔く者は、肉から滅びを、…霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」と聖書は語ります。
 しかし、「朝毎に新たになる」(哀歌3:23)主の恵みと慈しみの真実の故に、わたしたちは新しく生きることが赦されています。ダビデは、赦されざる罪を犯しましたが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51:12)と祈り、聞き入れられました。大切なのは、新しく生まれること」(ヨハ3:3)なのです。
 教会とわたしたちが、キリストの器となるためには、「聖霊の実り」―愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制―です。教会の存亡はこの「聖霊の出来事」の一事にかかっています。 
蕎麦屋が美味しい蕎麦を作ることに心血を注ぐように、聖霊の実を結ぶこと、これが教会とわたしたちの求める最も大切なことです。「愛、喜び、平和…」に生きる「奇跡の教会」のわたしたちです。

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2019-03-03
3月3日「道をそれて」

出エジプト3:1〜6  ガラテヤ4:19
 世界には数多くのおとぎ話があります。それは、周囲の世界の変化を紡ぐものもありますが、たいていの場合、主要な登場人物たちが大きな変容を遂げるものです。そして、このようなおとぎ話と福音との共通点を上げた作家がいます。しかし、唯一の違いがあります。それは、福音は真実だということです。
 モーセという名の老人が茂みの前に腰を下ろしていると、柴が燃えだしました。しかし、いつまでたっても燃え尽きない柴を見て、彼は「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と腰を上げました。彼がこのように興味を持つものを神はご存知でした。そして、そのことを通して、ご自身を明らかにされたのです。もし、彼が燃える柴に興味がなかったなら、日々の活動を一旦止めていなかったら、道をそれていなかったら、このあと彼の人生と世界に起こった計り知れない変化はすべて起こりませんでした。
 使徒パウロはガラテヤ人への手紙の中で、人々が日々の活動をやめず、以前のような生活に戻っているのを知って苦悩しました。イエス・キリストの十字架を通して人生が回復され、今まさに生み出されんとされている変化が起こる予兆は見えましたが、彼らは、その道をそれ、燃え尽きる柴の方へ向かったのです。
 神が望まれていること、それは人間の変容であり、本来の姿に戻ることに他なりません。

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2019-02-24
2月24日「本当の謙虚さ」

ダニエル4:26〜34
 日本における「謙虚さ」、「謙遜」とは、自分自身を蔑むことで相手を高く上げることです。多くの人は、「自分には価値がない」といった旨の発言することが美徳とさえ考えているのではないでしょうか。
 聖書は文化や時代に左右されない本当の「謙虚さ」について教えています。そして、「地上の誰よりも謙遜であった」などと自ら書き記すことさえも、何ら矛盾にならないとされています。日本では、考えられないことです。しかし実際には、それこそが本当の謙遜さにつながる考え方なのです。
 バビロンのネブカドネツァル王は、その繁栄ぶりを自讃しているとき、まさにその王国の座から引き下ろされ、野の獣のように彷徨い、七年間も理性を失っていました。これは、謙遜さを学ぶためのステップでした。彼が天を仰いだ時、そこには永遠に変わらない方、主なる神の支配があったのです。彼は自分の王座を明渡し、何者かを知り、かつての繁栄がどこから来ていたのかを知りました。すると、彼に繁栄が戻り、以前よりも栄えていったのです。
 実のところ、謙虚さとは自分に価値がないとアピールすることではありません。自分に素晴らしい価値をおいてくださっている源を知ることにあるのです。あなたが信仰によるこの謙虚さを歩むことこそ、神に栄光を帰すことに他なりません。

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2019-02-17
2月17日「完成を見る神」

ローマ8:28〜30
 物事がうまくいかない時、この聖書の箇所を引用することが多くあります。そして、万事を益としてくださる神の約束は、まったくもって真実です。では、なぜ神は万事を益としてくださるのでしょうか。
 聖書のいたるところに、神が天地創造の前から私たちをご存知であったと記されています。時限的な世界の誕生の以前から、神は私たちをご存知だったということはどういうことでしょうか。
 また、聖書の登場人物たちがいかなる状況にあろうとも、神は彼らの未来には希望があることを語り続けてこられました。つまり、神は私たちのゴールから今を判断しておられるということでしょう。そして、神は永遠を生きる方であり、時間に制限されないということも忘れてはなりません。神を信じる人々が主イエスと共に王座に着いていることが現在形で語られている箇所を見ても、私たちの存在がどれほどのものかを垣間見ることができます。
 そして、神は私たちが栄光に満ちた生涯を送るために、すでにその道筋を用意してくださっているということです。何かをしてしまって後悔する時、私たちはそこに戻って別の道を行くことがあり得るでしょうか?いえ、神は私たちがどんな選択をするかさえも、予めご存知なのです。それでもなお、神は私たちを忍耐をもって見続けておられるのです。

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2019-02-10
2月10日「キリスト直筆の手紙」

エゼキエル36:26〜28 IIコリント3:1〜3
 イエス様はご自身のことを、ヨハネによる福音書では、「命のパン」,「世の光」、「良き羊飼い」、「復活であり命」、「道、真理、命である。わたしを通らなければだれも父の御もとに行くことはできない」と言われました。さらに、「まことの友」、「救い主」、「一粒の麦」…とも言われます。ところであなたは、イエス様を「誰」と信じ、告白し生きていますか?あなたの告白があなたの信仰ということになります。
 続いて、「ところで、あなたは誰ですか?」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。
 イエス様はあなたのことを、「友」と呼び、「弟子」、「世の光」、「地の塩」、「愛を生きる者」、「キリストの証人」、「全世界に福音を宣べ伝える者」、今日のみ言葉で言えば、「キリストの手紙」ということになります。何という光栄、驚きでしょう。わたしたちはこの事実を、知らないふりをして過ごしてきました。
 「キリストを生きる手紙」で、人々は「わたし」を読み、キリストと教会と聖書を知ることをしっかり心に刻みましょう。「わたし」がどんなに貴い者とされているかを知り、言い訳を退け、感謝しましょう。わたしたちは「歩く聖書」であり、「生きたキリストの手紙」です。このことを認め、告白し、大胆に愛と感謝に歩みましょう。新しい時に招かれています。

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2019-02-03
2月3日「神の友になる」

出エジプト32:7〜14  ヨハネ15:14〜15
 聖書は神のこと、そして救い主イエスのことを「王の王、主の主」と表現しています。主が王の王となるためには、他の王がいる必要があります。その王とは、誰のことでしょうか?
 主イエスは弟子たちに「主人としもべ」、「父と友」の対比について語られました。奴隷が主人に仕えるのは、支配から、または恐れからです。しかし、父に子が仕えたいのは、愛しているからであり、自発的なものです。そして、主が弟子たちを友と呼ぶということは、神も私たちの友になりたいと願っておられるということです。
 事実、聖書の中で神は人々との間に素晴らしい関係を築かれています。特に、モーセのことを、主は友と呼んで親しく関係を持たれました。人々が神に背き、好き勝手なことをしているさまを見た神は怒りに燃えて彼らを滅ぼそうとしますが、モーセは神をなだめて、不信仰な人々のためにとりなすのです。結果として、神は災いを思い直されました。
 神が全知全能性を放棄したようにも見えるこの箇所は、私たちに神が人格を持っておられることを提示しています。そして、何よりも神が操り人形ではなく、ご自身と顔と顔を突き合わせて交わる親しい関係を持つ存在として私たちを見ていることを示しているのです。もちろん、あなたもその神の友の一人です。

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2019-01-27
1月27日「回復された関係」

創世記18:1〜15  ヘブライ11:10〜12
 宗教は人々の罪に焦点を合わせます。宗教指導者である律法学者やファリサイ派の人々は、血の滲むような努力を重ねていたため、努力できない人々を受け入れることができませんでした。しかし、主は人々の罪を不問とし、その人本来の姿に焦点を合わせます。そして、私たちの本来の姿とは、神の似姿につくられた神の子どもとしての価値にあります。
 アブラハムの妻、サラは高齢で、なおかつ不妊の女性でした。子を生むことは不可能と考えられていたし、自らもそう思っていました。そしてあの日、主の御言葉を疑い、主の前に偽りを述べて罪を犯しました。それは、旧約聖書に記されているとおりです。彼女の罪は罪として記録され、残っているのです。それは彼女にとって、また世間体を気にするならば、消してしまいたい過去かもしれません。しかし、神である主はそのことをあえて残しているのです。なぜ、彼女の失敗を永遠なる記録として残しているのでしょうか?
 あのゴルゴタの丘の上に十字架が立てられ、神の御子が血を流した日まで、彼女の記録は罪深い女性という失敗の記録でしかありませんでした。しかし、その失敗は主イエスの血潮によって清められ、今や宝石のように輝いて人々に神の寛大さと栄光を伝えています。「信仰によって」神は罪を不問にするばかりか、その失敗をも輝かせてくださるお方なのです。

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2019-01-20
1月20日「弟子が弟子を生む運動」

マタイ28:19〜20
 天と地の一切の権能を授かっていると主イエスがおっしゃる以上、神が求めておられることは、主が求めておられることと一致しています。そして、主は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じました。教会はそのためにあり、その教会や信仰が母体となっている働きの全てはこのことを目的としているはずです。たとえ、それが福祉であれ、教育であれ、医療機関であってもです。その一つひとつの組織が活動の領域としている場は違えど、大いなる目的は、人々を主の弟子とすることなのです。
 そして、バプテスマを授けること、すべてのことを守るように命じることに先立って、弟子にすることを命じておられます。重要なのは、キリストを信じて洗礼を受けた人々が弟子ではないのです。弟子とは、聖書の御言葉を実践しようとする一人ひとりの人間のことです。
 神の命じる言葉は本質的には難しいことではありません。しかし、私たちの側に難しくしている理由がたくさんありすぎて、やらないだけなのです。でも、一歩踏み出していくなら、生ける神の臨在を体験し、聖霊の満たしを受け、弟子は育って兄弟子となっていくのです。
 あなたは革命をもたらすこのムーブメントのために、主が選んだ大切な方です。

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2019-01-13
1月13日「祝福の約束を生きる」

創世記1:1〜3  IIコリント1:3〜5
 あなたはどんな言葉に導かれ1年をはじめましたか?創世記2章では、「野のあらゆる獣、鳥~人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」とあります。わたしたちの付ける名がこの年、この月、この週、この日の名となり、人生となります。
 神様が、「光あれ」と言われ、光が創造されたと同じように、わたしたちも御名のもとに、わたしたちの人生に名をつけ、主と共に歩んでいくのです。あなたはどんな名をこの年に、月に、週に、日につけて歩むのでしょうか?
 この年は、「光あれ!」と言われた神―キリストの父、慈愛に満ちた、慰め豊かな、慰め豊かな―を賛美しつつ歩むようにと導かれています。わたしたちができる最高の歩みは、この方を賛美し、感謝することです。「世界は感謝する人のものである。そうして世界はさらに美しいものをとなる」(バスカーリア)との言葉は噛みしめるに価します。
 まず、キリストの慰め満ちるこの1年、日々を歩むことができることを感謝しましょう。「包装紙は中身にあらず」です。どんな中にあっても、神様の祝福に応答する「感謝」をもって、新しい命の言葉を生きるこの年、愛と慰めを創造する年として参りましょう。この年も主の御手の中なのですから。

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2019-01-11
1月6日「約束の相続人」

ガラテヤ3:21〜27
 弘前西教会は数年前から「コーチング」の学びを行ってまいりました。7つの原則についての学びがあり、その一つ「能力付与」という原則について学びます。この漢字4文字中の「能力」とは、使徒パウロがⅠコリントの信徒の手紙12章4節以降で述べている9つの霊的な賜物のことであることは誰も否定しないでしょう。実は、恥ずかしながらごく最近まで、私はこの賜物について真摯な態度を持って理解しておりませんでした。この賜物は、神様から特別に選ばれた立派なクリスチャンだけに与えられるものであり、私のような不安定・不信仰な信仰者とは無関係なものだと考えておりました。しかしそれと同時に、この賜物がなければ教会生活・信仰生活が自力本願のものになってしまうこのではないかと漠然とした疑問や不安もありました。
 昨年3月のシューミン・クオン先生の「癒しのセミナー関東2018」は、この賜物に対する私のそれまでの信仰の態度を変革してくました。そして今、イエス様は私の罪を赦すために十字架にかかり、肉を裂き、血を流されて死なれ、天地を創造された神の偉大な力によって復活され、この方だけを救い主として信じ告白して洗礼を受けた人には誰でも賜物に与ることができるという信仰にあらためて招かています。自力型信仰生活は終わりました。

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2018-12-30
12月30日「神の評価」

ガラテヤ4:1〜7
 聖書は律法の下に生まれた者が、律法の下にいる者を解放することができると宣言しています。民俗学的に言えば、私たちはイスラエル人ではありませんし、律法の支配下にいたとは言えません。しかし、それでも聖書は私たちを律法の支配下にある者だと言い切るのです。
 旧約の時代、できる人とできない人という隔ての壁がありました。その壁は高く、自らの力では克服できないものだったのです。救い主イエスも、理想とかけ離れた場所で生まれ、自力では克服できないような困難にいくつも直面しました。それでもなお、主イエスはそこから人々を救い出すことができたのです。それはどのようにして可能となったのでしょうか?
 例えば、故郷ナザレに行かれたとき、主はどのような困難に直面されたでしょうか?そこで、主はどのような成果を上げることができたのでしょうか?もし、そのことを知っていたら、私たちは安心することができるでしょう。なぜなら、主はそこで何もすることはできなかった、つまり成果はゼロだったのです。
 今年、あなたは主が共にいてくださるという確信を与えられましたか?何か成果があったのでしょうか?もしないというのなら、主の十字架を見上げてください。そこには、どんな成果があったのでしょうか?

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2018-12-23
12月23日「大切なあなたへ」

           ルカ19:1〜10
 主イエスが出会い、人生を変えられた人々は数多くいます。しかし、その実名が登場する人はほとんどいません。ザアカイという人は、そのうちの一人です。
 彼の人生に何があって、今があるのでしょうか。そして、彼はどうして名前が残っているのでしょうか。救い主が彼の人生に与えたものは何だったのでしょうか。
 クリスマスは神が人になる、という物語です。人が神のところに行く時代。特別な場所、特別なとき、特別な人を通してしか神と繋がれない時代が終わり、誰もが神と繋がれる時代が来たのです。なぜなら、神の方からやってきてくれたからです。そして、その名前はインマヌエル。「神は我らと共にいる」というその名前が示すように、この救い主は今も、そして永遠に、私たちとともにいて、私たちを愛し、犠牲を払ってくださり、人生のあらゆる領域に勝利をもたらしてくださいます。
 最高のプレゼントを開ける用意はできましたか?神はそのプレゼントをすでに発送済みであり、あなたのもとに届いています。あとはあなた次第です。

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2018-12-16
12月16日「招かれる神」

   ヨハネ14:1〜3
 人には居場所が必要です。家庭、職場、友人知人、そのどれもが与えられた居場所ですが、その居場所から立ち退きを要求されたときのことを考えたことはあるでしょうか?
 ある人は、家庭に居場所がなく、またある人は職を追われ、友人や知人から拒絶されることもあるかもしれません。その時、私たちはどのような気持ちになるでしょうか。
 主イエスは、あの日、すべての宿屋から拒絶され、家畜小屋でお生まれにならなければなりませんでした。また、故郷では偏見によって拒否されました。そして、十字架の上では、全世界から居場所を奪われたのです。「言は、自分の民のところへところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)のです。
 自分から居場所を奪った人々に対し、主は報復することもできたでしょう。しかし、それはこの世界の常識であって、神の国の法則には当てはまらなかったのです。なぜなら、神の国には「住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)からです。天には私たちの居場所が用意されており、立ち退きを要求されたり、拒絶されることはありません。
 神の国に招くため、主は今も一軒一軒戸口の外で扉を叩かれているのです。

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2018-12-09
12月9日「希望は闇の中に」

イザヤ9:1 ヨハネ1:1~5
 アドヴェントの第2週に入りました。待ち望むことから始まる教会の一年は何と希望に満ちていることでしょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)のみ言葉は、「言の内に命があった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4、5)のみ言葉と通底し、今日に語りかけてきます。
 「待ち望み、信じる者」にのみ与えられた確かさが聖書にはあります。理不尽な闇を経験した若い二人の男女は、闇の中で輝く光を生きる者となります。そう言えば、このヨセフとマリアのみならず、闇の中で光と出会った二組の人々がいました。
 星を頼りに旅した博士たちと、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちです。闇を知る人たちこそが、光と出会います。 しかし闇を光と信じて生きる者は、真の「光を理解」出来なかった」のです。この人達こそヘロデに代表される人々です。
 自らの闇を知る中にこそ、人間を照らすまことの「命の言」との出会いが与えられるのです。友よ、闇を恐れる必要はありません。「真の命」が訪れるからです。「希望はわたしたちを欺くことはありません。神の愛が」注がれているからです。何という幸い!

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2018-12-02
12月2日「天の架け橋」

ヨハネ1:43〜51
 ナタナエルは主に出会い、いちじくの木の下にいたことを告げられました。それは、居た場所を当てられたこと以上の驚きが、彼にはあったのです。いちじくの木はイスラエルの人々にとって特別なものだったからです。彼がいちじくの木の下で何をしていたかは推測の域を出ませんが、彼は主がいちじくの木の下で何をして、何を考え、何を願っていたのか、それを告げられたと悟ったのです。
 偽りのない本当のイスラエル人だと称賛されたナタナエルは、人の前で強がったり、人を欺くことがなかったのでしょう。そして、自分が弱く、神に頼らなければならないことをよく知っていたひとだったのではないでしょうか。真のイスラエル人、つまり信仰者とは、自分の弱さをさらけ出し、神に頼ってその栄光を見ることを望んでいる人です。主は彼を見つけました。
 あなたは自分に救い主が必要だと心から願っていますか?もし、あなたが願うなら、主はあなたのところへ出向き、見つけ出し、悟らせてくださいます。そして、この方を通して神の御心が示され、まるでこの方がはしごの役割でもしているかのように、天と地とを結ぶ方であることを知ることになるでしょう。

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2018-11-18
11月18日「弘前市長がもしイエス様だったら」

マタイ6:9〜10
 弘前市長がもしイエスさまだったら。どうなるのでしょうか?リーダーがイエスさまだったら私たちの生活にどのような影響をもたらすのでしょうか?
 神田先生を通して語られる真理に期待があふれます。

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