宣教

2023-03-19
3月19日「いつも目の前に主がおられた」

使徒2:25~28
 わたしは使徒言行録でペトロが引用している詩編16編の言葉が好きです。昔からこの聖句が好きだったという訳ではなく、献身し神学生になるということで急いで聖書を開き、この聖句を見つけたときに、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」というこの言葉がいいなと思ったからでした。ただ「神様がわたしと一緒にいてくれれば動揺しなくなるのかな、そうなればいいな」としか思っていませんでした。「いつも主が目の前に見ていた」という言葉も単なるダビデの信仰的な表現であろうなと思っており何にもピンときていませんでした。
 しかしイエス様との本当の出合いの後にこの聖句が光を放ち、全く違うものとして自分に及んできたのです。「いつも主はわたしの目の前におられたのに私は見ていなかった。主はいつもわたしの目の前にいてわたしを見ていて知っていてくださったのに、わたしはこの方を無視して、自分のことや、他者のことばかりを気にして生きていた。だからわたしには平安がなく動揺ばかりしていたのだ。」「価値もないクズのわたしのために死んでくださったこの方がわたしの目の前に今も共にいてくださる。」この真実にわたしは溶かされて、この方のために命を用いて頂きたいと思うようになったのです。

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2023-03-13
3月12日「呼ばれています、いつも」

イザヤ43:1~5   ヨハネ15:11~17
 わたしは年を重ねるに従い、確実に聴力が衰えてきていることに気づきます。ひょっとしたら神様の呼ぶ声も聞こえにくくなっているのでは?!ドキッとします。アハブ王に命を狙われたエリヤはホレブの山に身を隠していた時、「エリヤよ!」と呼ぶ小さな神の声を聴きます。♬「呼ばれていますいつも 聞こえていますかいつも はるかな遠い声だから よい耳を よい耳をもたなければ」(Ⅱ讃83)恋人に語りかけるように。あなたは、いつどこで?
 愛の呼びかけに大声は相応しくないようです。「わたしの目にあなたは値高く貴い」と言われる主の声を、聞き逃してはなりません。低い小さな声は魂に沁みわたります。有名なこの御言葉は、イスラエルが神に背きその結果、バビロニアに捕え移されたその場所で与えられたものです。
イエス様も、「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなた方を選んだ」と言われます
 友よ!わたしたちは何時も、名を呼ばれ、尋ね求められています。神の真実はいつも私たちの思いを凌駕しています。放蕩息子の父親のように、迷子の羊を捜す羊飼いのように、捜し求めておいでです。その声が聞こえるように、静かな祈りの時を生活のただ中に備えましょう。よい耳を与えて下さい!と。

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2023-03-05
3月5日「神のわざとは」

ヨハネ9:1~3
 何かが起こると、それが悪いことであればなおさらのこと、私たちはその原因や因果関係を探ろうとします。それは大事なことであり、解決の糸口になったりするからです。しかし、弟子たちはそういった類の質問ではなく、興味本位の質問を主イエスに投げかけました。そこに、目が見えない隣人を憐れむ視点はありませんでした。
 主は驚きの返答をします。「神の業がこの人に現れるためである。」では、神の業とは何だったのでしょうか。
 生まれつき目の見えない人が見えるようになったこと。それはとても嬉しいことでしょうか。聖書を読む時、癒やされた人の記事を読むと「良かった」と思いませんか?彼も主に癒してもらった一人でした。
 癒やされた目で彼が見たものは何だったのでしょうか。色づく世界でしょうか。生き生きとした人々の往来でしょうか。そうではなかったようです。
 実のところ、状況の変化が与える幸福感は一時的です。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストの与える変化は永遠です。
 神の業、それは私たち一人ひとりを本当の意味で解放する出来事なのです。

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2023-02-26
2月26日「神の栄光に照らされて」

マタイ5:13~16
 主イエスの周りには、病気の人々、貧しい人々、神について誤った理解を持つ人々がいました。人間的に見れば、あまり役に立ちそうもありません。しかし、主はそんな人々を前におっしゃいました。「あなた方は地の塩、世の光である。」と。
 この地上にはあなたが必要不可欠であり、あなたの輝きが求められているというのです。しかし、それはあなたが単体で何でもできる、ということを意味しません。塩気を創造した方、光なる方があなたの主だからです。
 主がぶどうの木で、人がその枝である、とおっしゃる主が、「私を離れていては、あなたがたは何もできない」と教えられたように、私たちが地を清めるために、また輝ける人生を歩むためには、まず清められ、光を照射していただく必要があるということです。
 しかし、その方から離れている時、私たちは自分が清い存在であるということ、輝いていることを忘れてしまいます。主は、こうしたら清い、ああしたら輝く、とはおっしゃいませんでした。
 すべての人々を前に、おっしゃったのです。そのままで清く、そのままで輝いているのだ、と。
 あなたはその方の視線のうちにいるのです。

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2023-02-19
2月19日「神への信頼」

マルコ10:13~16
 聖書における女性と子供は、力のない象徴として描かれています。ものの数にも入らないほどの扱いを受けていた時代、主イエスはまったく異なる視点を持っておられました。
 人々が子供を連れてきた時、そこには乳飲み子までいたと聖書は描写しています。目的は主に触れていただくため、手を置いて祈ってもらうためでした。なぜ、彼らには祈りが必要だったのでしょうか。
 「心の貧しい人々は幸いである。神の国はその人たちのものである。」とおっしゃった主は、ここでも「神の国はこのような者たちのものである。」と弟子たちに教えました。両者に共通するのは、弱い、ということです。それは社会的なことかもしれませんし、経済的なことかもしれませんし、精神的なことかもしれません。いずれにしても、子どもたちは弱かったために、主に触れていただくことが必要だったのです。
 多くの人たちが救いを求めています。そして、多くの選択肢を試しています。その全員が、主に触れていただく必要のある方々であり、私たちも同様です。
 人々を主にお連れする時、躊躇しているとしたら、それは、本当の意味で主のもとにお連れしようとしていないからなのです。

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2023-02-12
2月12日「柔らかな心で」

民数記12:3  Ⅰコリ9:19~23
 「教会はキリストの体」であり、聖霊の実を実らせる聖霊の宮です。そして一人一人はその部分です。「聖霊の結ぶ実」とは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22)です。何というしなやかな喜びの場所でしょうか。
 以前、教会が、「堅い、暗い、つまらない」と揶揄されたことがありましたが、今もってなおということはないでしょうか?「キリストの体」である教会は、「生きた、神の愛が息づく、キリストの体」です。
 イスラエルで、今も最も尊敬されている人は、モーセであると言います。「モーセという人はこの地上の誰にも勝って謙遜であった」(民数12:3)とあることに驚きます。
 イエス様と出会った、迫害者パウロは、全く新しい者とされ、「わたしは誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました」と言っています。「融通無碍」ともいえる愛の柔軟さを生きました。
 キリストはわたしたちを救うために「人間」になられました。キリスト信仰とは、「しなやかにして温かい」生を与えられ、軽やかに生きることです。それは、「愛を生きる」ことに他なりません。(^^♪と「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」

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2023-02-05
2月5日「幸せの所在」

マタイ5:3~12
 世の誰しもが幸せになりたいし、そのことのために日々努力し、どこかにあるであろう幸せを追い求めています。あなたはいかがですか?
 主イエスは山の上から貧しい人々、日々の苦労が絶えない人々、思い通りにいかない憤りを抱えた人々を見ながら「幸せ」とは何かを語られました。
 多くの人が「幸せ」の所在についての解答を持ち合わせていないか、バラバラの意見を持つことでしょう。しかし、主は「幸せ」について、現在と未来の2つのグループに大別して説明しました。そして、すべての人がそのグループのいずれかに、もしくは複数に属していることを悟らせたのです。あなたはどこに属していますか。
 実は、「幸せ」の所在をあやふやにしているのは悪魔の仕業なのです。お金、権威、名声、人によって幸せになる条件がまちまちなのはこのためであって、その混乱が本当の「幸せ」からかえって自身を遠ざけていることになるのです。
 「幸せ」は今ここにある。そして、もし「幸せ」を実感できなかったとしても、主を信じる未来には確実な「幸せ」がある。それが、すべての御言葉を成就された主の約束であり、「幸せ」の所在です。

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2023-01-29
1月29日「カレブの信仰」

ヨシュア14:10~14
 カレブは高齢になってもなお健やかで、チャレンジを続ける信仰の人でした。彼の信仰、そして姿勢から学べることは一体何でしょうか。

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2023-01-22
1月22日「癒やされても」

ヨハネ5:1~18
 長い間、祈りが聞かれず、悶々としてきた経験はありますか?特に、体の健康に関することや障害に関することは特段、諦めてしまいがちでしょう。ここに、38年間も病で苦しんでいる人が出てきます。彼も、諦めてしまった一人でしょう。そんな彼のところに、転機が訪れます。それが主イエスとの出会いでした。
 結果的に、彼は癒やされました。しかし、癒やされたのが安息日であったので、この人の行動が労働とみなされ、律法学者たちから問題視されました。しかし、彼は誰に癒やされたのかさえ、分かりませんでした。
 再び主に会った時、癒やし主が誰なのかを知った彼は問い詰められたのか、身の危険を感じたのか、主に癒やされたことを律法学者たちに告げてしまいます。これが十字架への道を決定的なものとしました。
 あの日、ゴルゴタの丘にささくれた十字架が立てられ、そこにかけられるのが癒やしてくださった方、主であることを知った彼はどんな気持ちであの十字架を見上げていたのでしょうか。
 十字架はわがため。これはすべてのクリスチャンが体験すべき重要なものです。あなたの過ち、弱さ、罪をすべて背負ってくださった方は、今もなお、十字架の上からあなたに目を注いでおられます。

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2023-01-15
1月15日「命のリレー・シャローム」

出エジプト1:22-2:10 エフェソ2:14-16
 2023年がスターして早くも半月、時の流れの速さに目がくらみます。いつの間にか、昨年と同じ流れに合流している自分に気づきます。
 そんな中にあっても、流れに抗して、「神の似姿」として、愛の神に向かって創造され、愛に生きる者とされていることを心に刻みたいものです。
自己実現の仮面に惑わされ、神の愛からの、逃走を繰り返してきた、人間の歴史的愚かしさから立ち返る時を与えられていることに感謝します。
 神様は、キリストによって「十字架を通し…敵意を滅ぼす」こととされました。「キリストはわたしたちの平和であります」とある通りです。「神はわたしたちの平和であります。…ご自分の肉において隔ての壁を取り壊し…」と。
 聖書を貫く、インマヌエルの流れに、今年も目を注いでまいりましょう。「平和」ヘブライ語の「シャローム」は、補填する、バランスを保つ、という意味があります。シャロームは最初から存在するものではなく、その前提にマイナスや欠如がある中から回復され、調和へ導かれるのです。ナイル川に捨てられたモーセが沢山の女性により守られていく、命のバトンのように。平和の種をまく私たちとして。この年、シャロームの命の隊列に感謝と賛美に!

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2023-01-08
1月8日「私の血による新しい契約」

ルカ22:14~20
 世界のどこに散らばっていても春分の日が過ぎた頃、ユダヤ人であれば必ず守るのは過越の食事です。最初に一番若い子供が質問することになっています。「今夜は、ほかのどの夜とも違うのは何故ですか。」それを聞いて家の主人は出エジプト記に書いてある解放の物語を伝えます。「神はエジプト人の奴隷になっていた私たちのうめき声を聞き、奴隷の身分から救い出してくださったのは、この夜だからです。私たちは奴隷だったことを忘れません。苦しみの生活から救い出してくださった神様をも忘れません。」
 十字架にかかる前に、イエス様が弟子たちと一緒にどうしても守りたかったのはこの過越の食事でした。食事の進行に決まった式文があり、ぶどう酒が入った杯から飲む場面が四つあります。一回目の杯の感謝をささげるところまで、イエス様が式文通りに司会を進めているかに見えますが、それから弟子たちの意表を突くことを言います。「今夜は子羊の肉はありません。それに代わってこのパンを分け合って食べなさい。このパンは私の体、このぶどう酒は私の血です。子羊に代わって殺され、血を流すのはこの私です。」ユダヤ教徒が神様と結んだ契約に代わる、新しい契約の始まりでした。

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2023-01-01
1月1日「隠された計画」

エレミヤ33:1~3
 神はご自身の計画を持っておられ、それは極めてユニークであり、オーダーメイドであり、人間の理解を超えています。そして、預言者エレミヤに与えられた神の言葉もまた、因果応報の価値観を凌駕したものとなっていました。
 不信仰のゆえに、廃墟となった都には誰も住まず、命を生み出さない地には動物たちもいませんでした。そこは不毛の地で、再建は絶望的であり、人々は別の地で後悔と苦悩の中にいました。
 ところが、主なる神が語ったのは、荒れ果てた大地を祝福し、人が住み、神を賛美しながら輝いて生きる、栄光のイスラエル全盛期を超える繁栄でした。
 一度破壊しつくされたものが命を吹き返すさまは、時代を超え、十字架と復活という形でこの地上に顕現しました。その言葉と約束に安住する人々は、永遠の命という希望と神の愛という平安に置かれた人々であり、地上のすべての国家の繁栄を超えた繁栄をもたらされた人々です。
 あなたが見ている廃墟は何でしょう。それが回復するとしたら、どんな回復でしょう。神は理解を超えたご計画をお持ちです。今年もその神が、あなたの人生に大いなる計画を実現します。

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2022-12-25
12月25日「光の誕生」

創世記1:3~5
 世界で最初のクリスマスはベツレヘムにもたらされた救い主イエス・キリストの誕生です。しかし、聖書を見ると、主イエスは世界の誕生の前から存在していたと記されています。では、本当のクリスマスはいつだったのでしょうか。
 天地創造の神は、世界を創造するにあたって、まず「光あれ」と世界で初めての言葉を発しました。それまで、世界には言葉もなければ、何もなく、ただ混沌が広がっていただけだと聖書は語ります。そこに「光」が生じ、その光のゆえに「闇」も生じました。
 その後、読み進めると明らかに天体をお作りになった箇所が目にとまります。つまり、最初の「光」は、太陽のような、目に見えるものではなかったことが分かります。では、最初に創造された「光」とは何だったのでしょうか。
 それは、ギリシャ哲学で言うところの「すべての事象を理解する上で欠かせない絶対的なもの」という意味を持つ言葉で記されています。私たちがこの世界にあって、罪から生じた偽りに惑わされず、この世界の成り立ちや自分自身の存在理由、目に見えない世界も世界の一部であることを理解するために絶対的に必要なもの。それが主であり、最初のクリスマスです。

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2022-12-18
12月18日「癒やし主が来る」

申命記18:15~22
 モーセは人々に言いました。「自分のような預言者が与えられる」と。これは尊大に聞こえるでしょうか。モーセは自分ほど謙遜な者はいなかった、と言った人です。しかし、聖書における謙遜とは、そしてモーセのような預言者とは一体どのような人を指しているのでしょうか。
 聖書における謙遜さは、神に頼る他無い、ということを理解している人のことを言います。かつての預言者たちがそうであったように、神の言葉をまっすぐに伝える役割のため、預言者たちは自らを神に委ねきった人々でした。そのため、人々は彼らを通して語られる神の言葉に耳をふさぎ、拒否し、殺すことさえしたのです。それは、主イエスの歩みにも見られる特徴でした。
 まことの預言者であり、信仰の完成者である主は、常に父なる神を前に置き、「み心を行うために来た」とご自身について宣言します。そして、迫害され、殺されました。これは神と預言者の敗北にも見えますが、実はこの傷こそ、私たちの癒やしに必要な大いなるみわざだったのです。
 主は来られます。預言者として、そして癒やし主として。あなたを罪から解放するために。

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2022-12-11
12月11日「多くの人もその誕生を喜ぶ」

ルカ1:8~14
バプテスマのヨハネの両親は年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトでした。このお二人は模範的なユダヤ教徒で、ルカはお二人について「非の打ちどころがなかった」と書いています。当時のユダヤ教の教えからすると、このような夫婦は神様からの祝福の証として健康とお金と子宝に恵まれるはずでした。その内の一つでも欠けていれば、神様に喜ばれない何かが、その原因だろうと思われました。
この福音書はその考えを完全に否定しています。ルカが描くイエス様は、病気や貧困に苦しむ人たちが、神様の呪いを受けているどころか、神様から特別に愛されているから、必ず幸せになると主張しました。だからこそ、子宝に恵まれなかった、ザカリアとエリサベトという、年老いた夫婦へのメッセージからこの物語が始まります。
「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子はあなたがたにとって喜びとなり、楽しみとなる。しかし、それにとどまることなく、旧約聖書の最後の預言の言葉を実現させる、特別な人になる。」クリスマス物語は「民全体に与えられる大きな喜び」のメッセージで、私たち一人一人に喜びを届ける知らせです。

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2022-12-04
12月4日「希望の源」

ローマ15:1~6
 希望は聖書に記された神の言葉が与えてくれる重要な要素です。私たちは信仰と希望、そして愛によって生かされています。
 しかし、なんと聖書で一番最初に希望という言葉が出てくる時、それは「希望はありません」と言う言葉です。なぜ、希望はないと聖書は語るのでしょうか。
 希望はありません、という言葉と同時に記されているのは、人生は影のようだ、という言葉です。つまり、この地上で影のように伸びたり縮んだり、出たり消えたりする地上の出来事に希望を見出すことは困難だという現実です。
 聖書における希望とは、「将来につながる確かな糸」という意味があります。私たちの将来はどうでしょう。あれも、これもと直近の未来を思い描くと同時に、この地上における将来に、誰しも迎えるのは死という得体の知れないものです。
 しかし、主イエスはこの得体の知れないものを、知ることのできるように、ただ一度、地上に描き出しました。それが復活の命に生きるということです。
 神が聖書を通して将来を約束してくれます。それは、移ろいゆく現象にではなく、確かなものに希望を置くことができるように、です。

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2022-11-27
11月27日「神を仰ぐ時」

歴代誌下20:1~19
 人生における絶体絶命は一度きりではありません。それこそ、山あり谷あり。それが私たちの人生です。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは世にあっては艱難がある。しかし勇敢でいなさい。私はすでに世に勝った。」と。
 今、ヨシャファト王も危機的状況に陥りました。目の前に広がっていたのは、もはや自力でどうにかなるような簡単な問題ではありませんでした。彼は恐れました。人として当然の反応です。しかし、次に彼が決心したのは、人として多くの人が選び取らない選択肢を選び取ることでした。それは「主を求める」ということです。
 「主を求める」これは世の常識ではあり得ない選択です。危機的状況で誰もしないであろうこの選択は、しかし、自力では無理だと常識的に判断できる状況を一変させる唯一の選択なのです。「非」常識を選ぶと「非」常識が与えられるのです。
 神は「非」常識な方です。神でありながら人となり、神でありながら十字架にかかり、罰を受けるべき人間の身代わりに自らが罰を受ける。これは常識ではあり得ないことです。
 あなたが見たいのは常識ですか、「非」常識ですか。

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2022-11-20
11月20日「天への手土産」

マルコ13:32~37
 主イエスは世界の終わりについて弟子たちに説明されました。当然のように、弟子たちはその日その時はいつなのか、気になりました。しかし、主はお答えになりました。「知らない」と。
 主は大事なことを教えてくださらない、無責任だと言う人もいるかもしれません。すべてをご存知で、過去と未来を縦断できる命の主が、そのことだけは知らないと言う。本当にそうなのでしょうか。
 実は、この「知らない」という言葉は「興味がない」という意味も持っています。主は世の終わりの日をご存知ないのではなく、そのことを特定することに興味がないのです。なぜでしょうか。
 仮に、この世界があと300年後に終わると知っていたら、あなたの生活はどう変化するでしょうか。もしかしたら、自分はそこまで生きていない、という理由で無関心になるかもしれません。しかし、今日、世界が終わると知ったらどうするでしょうか。
 誰しも、自分の最期を知っている人はいません。そして、すべての人は人生の最後に後悔したくないと思うでしょう。
 世を去る日、すべてを明け渡し、主の御手に委ねる日です。最高の人生だったと言うことができるはどのような人なのでしょうか。

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2022-11-20
11月13日「新しい時を生きる」

箴言29:18   ローマ12:9-21
 幼い時、「幻のない民は滅びる」と記憶した聖書が今日では、「幻がなければ民はちりぢりになる」と訳されています。どの訳も大切な真理を示唆します。
 使徒言行録をたどると、キリストによるヴィジョンを生きた使徒たちの働きが、手に取るように心に響き伝わってきます。愚かな自己理解から解放され、神の家族の道が示されるようになりました。
 主イエス様と共に歩んだ弟子たち、復活の主に出会った人々は、自らの回心を通して、新しい価値観、命、と出会い、新しい人生の航海に乗り出しました。
 それは、新しい自分との出会い―主イエス様との出会いによるーにより与えられました。「神に愛されている自分」を通し、生きる意味を見出しました。
 この自分のため、十字架で命を捨ててまで愛してくださったお方によって。新しい愛の力に満たされた彼らでした。それは「愛がなければ無に等しい」真理との出会いでした。愛されるだけでなく、愛する者へと変えられ、神の約束の航海へと船出しました。「幻」が与えられたのです。それは、人を屈服させる力ではない、「愛による勝利」を生きる力でした。友よ!彼らと共に、キリストと共に、愛の行進へと導かれているわたしたちです。偏狭な自己理解を超えて、主の示す「愛」の時に向かうわたしたちです。

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2022-11-06
11月6日「まことの糧」

ヨハネ6:34~40
 主イエスは男だけでおよそ5000人もの人々を、5つのパンと2匹の魚だけでお腹いっぱいにしてみせました。これは素晴らしい奇跡です。人々は、「この人についていけば、食べ物に困ることはないだろう」と予測し、主に従いました。
 日々の糧であるパンを求めて従った人々に、主がおっしゃったように「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。体を満たすパンを求めることは誰でもしていることですが、魂を満たす霊的なパンを求めている人はどれくらいいるでしょうか。
 主は体を満たそうとパンを求める人々に、あなた方に必要なのは神の与えるパンだと教え、そのパンとはご自身であることを告げました。
 体が満たされていても、霊的に満たされていないことを聖書では不健康だと教えます。そして、霊的に満たされるためには、主のもとに来ることだというのです。そこには飢えがなく、渇きもないという素晴らしい祝福が待っているからです。
 やがて私たちは着ている体を脱ぐ時が来ます。その時、私たちにできるのはたった1つのことだけです。それが、復活の主にすべてを委ねる、ということなのです。

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