宣教

2024-04-17
4月14日「あなたの隣人は誰?」

 ルカ10:25~37 ヨハネ15:13
 コイノニア教育センターは、ナイロビにあるスラム・キバガレ地区の子ども、青年への教育活動(職業訓練含む)の学校として2003年に始まりました。4歳児から小中高の14年間の一貫教育を提供しています。モットーは「それでも人生にイエスと言おう」貧困などの逆境の中、大きなハンディを持った人生をも生き抜くことを意味しています。
 ナイロビ市内キバガレ・スラム及び近隣の、低所得、失業家庭の親、子ども、青年たちが貧困の中から希望を持って生活向上のために、自ら意欲的に取り組むことを助け、共に新しいコミュニティー作りを推進することが目的です。
 コイノニア教育センターはキリスト教の精神に基づいて運営されています。このセンターの活動に関わる人々が、自分達の生活の必要を満たすことを追い求めるだけでなく、互いに愛を持って助け合い、協力し合う関係を育てていくことを目指します。(認定NPO法人ケニア・コイノニア友の会ジャパンHPより抜粋)

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2024-04-17
4月7日「キリストの体として」

 詩編31:15(口語) Ⅰコリント12:27
 「わたしの時は御手にあります」と、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。加えて、「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」の御言葉が心に鳴り響いています。
更には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサ5:16~)「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたことを、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを」(出エジ19:4-5)の御言葉が繰り返し思い起こされます。
教会は、わたしたちは、「信仰の杖一本の旅枕」へと招かれていることに、改めて思い至ります。この50年、「弘前西教会」は鷲の翼に乗せられ、運ばれて今日に至りました。「御心のままに望ませ、行わせておられる神」(フィリピ2:13)に導かれての、多くの信仰の友と共に歩んだ祝福の日々でした。
今は共にいない友も数えきれません。それらの人々も、キリストの体に連なっていることを覚え、感謝し祝福を祈る日々です。思いを超えた祝福に感謝し、良き牧者に委ねることのできる幸いを感謝します。キリストの体である一人一人に感謝しつつ。

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2024-04-03
3月31日「約束を信じて」

 ルカ23:50~24:12
 主イエスの十字架は多くの人々の人生をつくり変えてきました。そして、これからも変え続けていくことでしょう。当時も、つくり変えられた人たちがいました。
 主の敵対者として登場する律法学者や議員の人々の中にも、主と出会い、十字架を前にして、信仰が確かなものとなった人々がいました。議員のヨセフ、そしてニコデモの二人が、主の遺体を引き取ったのです。
 聖書では、さらっと書いてあるこの出来事は、実は大変なことで、彼らはおそらく議員と律法学者を続けていくことは困難だっただろうと思います。なぜなら、彼らの同僚のほとんどが主の敵対者であり、教会の迫害者だったからです。
 そして、墓の中に主を求めていた婦人たちもまた、決意を持って墓に向かった人々でした。彼女たちが主の信奉者であると分かれば、何をされるか分かりません。それでも、彼女たちは墓に向かったのです。
 十字架の出来事は、罪の赦しの自覚と信仰者の決意を促し、そこに復活のわざが起こってきました。ありえないことを、ありえると信じて生きる豊かさ。そして、消え去ることのない確かな希望。それが福音のもたらす力です。

※映像に不具合があり、動画がありません。ご了承ください。

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2024-04-03
3月24日「主がお入用です」

 マルコ11:1~11
 主イエスは最大級の賛美をもってエルサレムに迎えられました。その姿は約束されていた王の王そのものでした。人々は信じていたものが実現した喜びに満ち溢れていたようです。その主を運んでいたのは、未だ荷物を運んだことのない子ろばでした。
 子ろばは「向こうの村」につながれていました。主はそこに弟子たちを派遣し、子ろばを解き放ち、ご自身のご計画に用いられたのです。初めて主の仕事を担い、人々から歓迎され、喜ばれる主のことを、自分自身の手柄のように感じたことでしょう。そして、役目を終えると、再び「向こうの村」に戻されました。
 子ろばの姿は信仰者の姿と重なるものです。先に信じた人々との出会いがあり、主の御言葉による奇跡と解放を体験し、神の国に参加して喜びにあふれ、置かれた場所で咲く。何よりも、子ろばとは力なき象徴です。能力があるから、主が用いられるのではありません。主が用いたいから、能力が与えられるのです。
 王の王とは、この地上の時限的な国を導くものだと信じ、それが実現したと喜んでいる人たちの顔から笑みが失せるまでに1週間もかかりませんでした。
 主はあなたの思いを遥かに超えて、あなたを用い、永遠のみ国のわざへと招かれているのです。

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2024-04-03
3月17日「神の見ていること」

 ヨハネ9:1-3
 身体に障害を抱えていたり、何か不幸な出来事が起こるとき、それは罪の現れであると信じられてきました。生まれつき目が見えない人を見た弟子たちは、彼もまた、自身の罪か、近親者の罪の影響を受けたのだろうと考え、主イエスに尋ねました。
 今回の聖書箇所には、目の見えない人に関わる多くの登場人物が出てきます。弟子たち、近所の人々、両親、ファリサイ派をはじめとするユダヤ人たちです。彼らの姿は主の姿と対象的に描かれていることにお気づきになるでしょうか?
 彼の身の上について尋ねてくる弟子たちに、主は次のようにおっしゃいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)主はこの人にこれから起こることについて語られました。しかし、他の登場人物たちは、すべて過去について話をしているのです。彼の生い立ち、生活、目の癒やされた理由や方法、モーセのことなどです。
 主が人をご覧になるのは、いつでも未来についてです。あなたがどんな過去を持ち、どんな現状を過ごしているのか、その理由や経緯については、主にとってこれから起こる素晴らしいことの前触れに過ぎないのです。

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2024-03-08
3月10日「勝利への道」

申命記8:1~3  マタイ4:1~11
イエス様が公生涯の初め、荒れ野で40日40夜断食され、悪魔の誘惑に遭ったことはよく知られています。あの40日になぞらえて、わたしたちはこのレント(受難節)を守るのです。主に倣うことを通し、わたしたちも勝利へと招かれています。
 主が荒れ野で経験された3つの誘惑は、当時の3つの有力な団体―サドカイ人、ファリサイ人、ヘロデ党―の考えに対応するものでした。同時にこれは今日のキリスト教が対決を迫られている大きな問題と、それに対する解決の方向を示しています。  
 第一の、パンの問題として提出された誘惑は、宗教と経済の関係を示し、唯物的、立身出世主義からの問いです。主は「神の国と神の義をもとめる」ことの優位性を明らかにします。第二に、奇跡の問題として提出された誘惑は、いわゆるご利益宗教からの問いです。キリストに従うことは、自己中心的信心との決別が不可欠です。第三は、権威の問題で、宗教と政治の関係を示しています。目的のためには手段を選ばぬ妥協に関する、世俗主義からの問いです。それに対して、「ただ神にのみ仕えよ」と主は命じます。人生に立ちはだかる3つの誘惑に、「神の言」を武器として主は勝利されました。わたしたちの、真の人生の勝利の秘訣がここにあります。

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2024-03-08
3月3日「心の奥に」

マタイ6:1~4
 旧約聖書の時代から、ユダヤ人は施しをするのが当たり前になっていました。それは律法で定められていたからですが、律法とは主イエスご自身のこと。施しをするのはごく自然なことだったのです。
 しかし、その素晴らしい行いが罪の世にあって歪んでくると、施しが人から評価を受ける手段となっていったのです。「すでに報いを受けている」と主がおっしゃるように、評価という報いを受けること、それ自体は悪いことではないかもしれませんが、評価が目的となってしまったり、動機になることは、神ではなく人を中心に置くことになりかねないと主は警告しているように思います。
 さらに、他者からの評価が高ければ高いほど、人は傲慢になるものです。そして、傲慢さは私たちを主から切り離すものであり、まさしく主からの報いを受けられない状態だと言えるでしょう。
 キリストは、神であることを捨てて、人々に仕えましたが、正当な評価を受けられない状態で十字架へと進んでいかれました。しかし、神はそのキリストの姿を最高の生き方とされました。
 あなたがしたことは正当な評価を受けていないかもしれない。しかし、神だけは見ていてくれるのです。

※ビデオの音声が入っていませんでしたので削除しました。大変申し訳ありません。

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2024-03-08
2月25日「存在を喜んでくださる神様」

ゼファニヤ3:16~17
 ジェームズ・フリーゼンという方が子供の健康な成長について次のように述べています。「子供は、生まれて2年ぐらいたつと、他者との関係において、悦びの対象となりたいと願うこと、つまり『誰かの瞳の輝きsparkles in someone’s eyes』となりたいとの欲求が芽生える。養育者(他者)の暖かい腕の中に飛び込む子供の顔を一瞥すれば、『誰かの瞳の輝き』でありたいとの欲求が、どれほど強いものかがわかるはずである。幼くて何もできない自分の存在自体が、養育者(他者)の悦びの対象であることが自覚される時に人生は、その子供にとって大きな意味を持つようになる。子供は、自分を無条件に受け入れてくれる他者と共にいる時、愛されているという悦びに幾度も繋がれたいと欲するようになる。すばらしいことに、幼い頃に得られたこの打算のない純粋な悦びは、生涯を通じて続く。自分を愛してくれる人々と共にあることを心から悦ぶ時、人生は意味を持ち前進するのである。」(内容拙訳)
 私たち一人ひとりの存在が、父(養育者)である神様との関係においても同じではないでしょうか?「イエス様を下さった神様が、あなたはOK! 」と言っておられるのです。だから私達は自分が自分であることを悦ぶことができるのです。

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2024-03-08
2月18日「神が喜ばれるもの」

創世記4:1~7
 世界で最初の殺人は、カインとアベルの兄弟間に起こりました。アダムとエバを誘惑した悪魔の偽りが子どもたちにも波及していく様子が綴られています。罪が入り込むと悲劇的な結末が待っていることを聖書は伝えているのです。
 神はなぜ、アベルの生き方と、そのささげものに目を留め、カインの生き方と、そのささげものには目を留められなかったのでしょうか。神は気まぐれで、その選びは不確かで、贔屓をする方なのでしょうか。この箇所をそのまま読むと、神の選びについて釈然としないかもしれません。しかし、ここで神がカインに目を留められなかったのは、決して彼を愛していないからではありません。むしろ、カインが罪に誘惑され、神の愛を勘違いしていたからこそ、神は彼を選ばないことで、諭そうとされたのです。
 偽りの父である悪魔は、罪の誘惑をもって人間に迫ってきます。目的はただ一つ。人を神から引き離すことです。カインは神の愛から引き離され、業績による優劣という罠にはめられてしまったのです。
 神は私たちの業績には興味がありません。私たち人間が神の愛を知り、その御手のうちを歩むこと。神の興味はそこに尽きるのです。

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2024-02-11
2月11日「人生はこの杖一本で」

 出エジプト4:18~20  マルコ6:8~13
 あっという間に2月、神様から与えられた「この日々」を、どのように過ごして来ましたか。「この私の人生の中心は、何であり、この年をどのように歩んで来たのだろうか?」また、「これに続く1年」をどのように過ごそうか?」と軌道修正を考る中で、思い出されたことがあります。
 一人の盲目の牧師が自分の人生を省み、「信仰の杖一本の旅枕」と詠んだうたです。わたしたちは何をもってこの1年を歩み出したでしょうか。いるでしょうか?聖書は、「主と共に、主が共に、主に愛されている自分と共に」の、インマヌエルの恵みを私たちに示します。主の約束になるこの年、私たちは、どんな時も、「神共にいます」の恵みの中なのです。
 モーセが神様に召し出だされた時、彼が持っていたのは、羊飼いの杖1本でした。「信仰の杖」です。モーセの歩みは、この杖なしにはあり得ません。イエス様はご自分を、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。そして、弟子たちを遣わすにあたり、「杖1本のほか何も持たず」出かけるようにと言われました。
 モ―セの杖こそ、信仰です。主イエスに従う信仰の杖一本の「身軽な旅」、「愛と信仰の旅」へと自らを取り戻しましょう。この杖一本の旅へと。

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2024-02-04
2月4日「人生の土台」

マタイ7:24~27
 クリスチャンともなれば、そして信仰生活もながくなれば、大好きな聖書の言葉の一つくらいあるものでしょう。聖書は、そして神の言葉は私たちに希望を与えてくれるものです。
 主イエスは、生活に苦しみ、圧政に嘆き、宗教的束縛に疲れた人々を前に、新しい教え(実際には昔からある本質的なものだが)を伝え、人々を驚かせました。そして、締めくくりに、家の土台のたとえ話をされたのです。
 ここで、主が2つの強調点を置かれているのは、どこに家を建てるか。つまり、人生の土台をどこに据えるか、ということ。そして、試練が襲ってきた時の倒れ方の点です。
 砂上の楼閣として有名なこの御言葉は、聖書が真実であることと、主が誠実な方であることを示しています。十字架を前にして、「世にあっては苦難がある。」と弟子たちに教えられた主は、ここでも同じように語るのです。
 雨や川、風といった災難が降りかかってきたときにこそ、日々の土台の強さが試されるのではないでしょうか。山上の教えを思い巡らせて、今日、土台を建てあげましょう。

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2024-02-04
1月28日「絶えず求めるもの」

ルカ18:1~8
 絶えず祈りなさい、これこそ神がキリストにおいて私たちに望んでおられることです。しかし、絶えず祈っている方が、どれほどいることでしょうか。
 この聖書箇所に出てくる裁判官は、神をも畏れず、人を人とも思わないひどい人物です。彼は貧しい身分の女性が来た時、自分に利がないためになかなか動こうとしませんでした。
 求める祈りが聞かれない時、私たちは神ご自身を、この裁判官のように思ってはいないでしょうか。祝福を出し渋り、絶えず求め続けていると、重い腰を上げる。それが神の姿なんでしょうか。いえ、まったくそうではありません。
 主イエスは、天の父の姿をこのひどい裁判官の姿と対比して、神の迅速な対応と、誠実さに触れているのです。しかし、なかなか求めることが与えられない場合があるのも事実です。これはどういうことでしょうか。
 主は神が私たちの必要なものをすべて、すでに理解している、与えてくれると告げた後、まして天の父は聖霊をくださる、と最も求めるべき事柄の存在を挙げています。
 絶えず求めるもの。それは聖霊の満たしなのです。

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2024-02-04
1月21日「御言葉の分かち合い」

Iヨハネ4:7~21
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
(Iヨハネ4:10)
 聖書の御言葉から自己発見をすること。そして、日常生活に適用すること。今回の礼拝では、主と共に生きる喜び、感謝、御言葉の力について、分かち合う時を持ちましょう。

※グループに分かれて聖書を分かち合いました。動画はありません。ご了承ください。

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2024-02-04
1月14日「幸福を生きるために」

ゼカリヤ8:18~19  ヘブライ12:14  「あなたはしあわせですか?」と問われたら、あなたは何と答えますか?いつの間にか、わたしたちは、幸せを「所有」と関係づけて考えてしまう傾向に陥ってはいないでしょうか?
 しかし、人間がみな本当に幸福であるためには、①「隣人、他者との平和」家族はもとより隣人たちと共なる平和が。②しばしば軽視されてしまいますが「モノ」との平和が必要です。積みすぎた箱舟は沈没する以外にありません。③「自分との平和」です。何と多くの人が自分と和解することなしに生活していることでしょう。④そして最後に、最も大切なのは「神との平和です。
 イエス様は、ご自身の生涯をもってわたしたちにこのことを示してくださいました。「あなたたちは真実と平和を愛さねばならない」(ゼカリヤ書はメシヤ(救い主)預言の書でもあります。)と。
 わたしたちは、「神との平和」こそが、平和の根本条件であることを知っています。神ご自身が「平和」を創造してくださる以外にないこと、「神の自由の慈しみと人間の救いへの意思」こそが一切であり、それを信じることこそが信仰なのです。その平和に向かって歩むことが「聖なる生活」です。世界とわたしたちを、平和へと導かれる神に向かって祈りつつ。

※録画が適切になされませんでした。楽しみにしてくださっている方々には、大変ご迷惑をおかけします。

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2024-02-04
1月7日「神の声を聞く」

ルカ10:38~42
 新しい年が始まり、「今年こそは」と祈りを新たにすることでしょう。しかし、年のはじめだからこそ、一度立ち止まって考えてみたいのです。私たちは神のみ声を聞いているのだろうか、と。
 ある時、マルタは主イエスを大喜びで自宅に招きました。主が自分の人生に、生活の場にやってきてくださる。これはなんという喜びでしょうか。ところが、彼女は何とか主を喜ぼせようと一生懸命にあれやこれやと働きます。結果的に疲れ果ててしまい、不平不満が溜まったところに、妹のマリアの姿が芽に飛び込んできました。彼女は手伝いもせず、主のもとでただ話を聞いているのです。
 マルタがキレぎみに主に詰め寄り、マリアを働かせようとしましたが、「マリアが選んだことが重要だ」と主はマリアのしていることを喜ばれたのです。この時のマルタの徒労は計り知れません。しかしながら、これこそが聖書の示す大切な真理です。すなわち、主のみ声を聞くこと、これに勝るものはないのです。
 そして、「聞く」という言葉は「従う」という意味を含んでおり、私たちの行動の原則になります。
 さあ、今年こそは、と願うなら、今年こそは主に従おう、と心を新たにしてみましょう。

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2023-12-31
12月31日「主において」

フィリピ4:4~7
 主イエスの教えは非常にシンプルであり、できるかできないかの可能性で言えば、誰にでもできるのです。これは、信じることを救いの条件とした主のみ心と合致しています。ただし、それが簡単か難しいかで言えば、断然難しいと言わざるを得ないでしょう。
 「喜ぶ。」これも主の教えの中ではシンプルかつ難しい命令でしょう。フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と言われていますが、著者であるパウロが浮かれてしまうような状況だったわけでは決してありません。彼は獄中にいました。それでもなお、彼は主の命じられた「喜び」を選び取っていったのです。
 私たちは根拠のないものに希望を置くことはできません。それはパウロも同様でした。ですから、彼は「主において」喜ぶことを見出していきました。
 神の御言葉は永遠に変わることがなく、この世界が十字架によって神を亡き者にしようとしても復活があり、消え去ることがありません。私たちはだからこそ、「主において」希望を持ち続けることができるのです。
 私たちが喜ぶのは状況が変わったら、ではありません。主の素晴らしい約束と不変の真理のゆえに、喜ぶのです。

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2023-12-24
12月24日「素晴らしい幸せの訪れ」

ルカ2:1~7
 この世界に、誰も不幸になりたいと願う人はいないでしょう。そして、多くの人々が幸せを求めて、平安を求めて、それがどこにあるのかと探し続けています。
 主イエスが誕生された日も、同じでした。しかし、人々は扉をノックする音が、幸せの訪れである、とは考えもしませんでした。なぜなら、そこにいたのは貧しい十代の若者であり、妊娠中であり、親族がいるはずなのに泊まるところを探している不審者だったからです。
 神はそのような生誕のあり方を通して、主ご自身が味わってこられた疎外感、孤独感をこの地上に描き出したのです。神はいつも、人々から「いない」「いらない」と言われ続けてきた方だからです。
 ひっそりと祝われた世界初のクリスマスは、やがて世界中で祝われるものとなりました。クリスマスを祝うことが義務付けられているわけではありません。祝いたいと願う人々が起こされ続けてきたのです。それはなぜでしょうか。
 彼らは閉じられた扉を主の誕生のために開け放ち、自分の人生に迎え入れ、共に歩んだ人たちでした。その結果、彼らが想像もしなかったであろう、幸せをその手にすることになっていったのです。

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2023-12-17
12月17日「それぞれのクリスマス」

マタイ2:1~12
 聖書は主イエスの生誕を様々な角度、そして人々の視点から語ります。三博士、地上の王、権力者たち。それぞれのクリスマスがあるのです。
 聖書を読むときに大切なのは、悪役になってみるということです。どうしても主の側に立って読んでしまいがちですが、そうすると、聖書が伝えたい罪の深さを排除することになってしまいます。
 地上の王ヘロデは、人々が待ち望む預言の救い主が来て、王となることに恐れを抱いていました。これが彼のクリスマスです。そこに希望はなく、王座から引きずり降ろされる不安しかありません。彼は預言の主ではなく、自らの恐れに身を委ねました。それが行動となって出たのが子どもたちの虐殺でした。
 主を自分の王として、神として受け入れるのは容易ではありません。そこには罪に根ざした霊的な戦いがあるからです。ヘロデはその戦いに虐殺というアクションで応答しました。彼はユダヤ人であり、聖書の神について知識があったにも関わらず、です。しかし、三博士は違いました。
 彼らは異邦人であり、神を知らない人たちでした。しかし、神にしかできない御業を素直に受け入れて、その光栄と祝福にあずかっていったのです。

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2023-12-16
12月10日「驚きの計画」

ルツ4:13~14 マタイ1:5~6
 『ルツ記』、何と美しい聖書の一巻でしょう。幼心にルツのことを考えたことを思い出します。この中に、何と美しい神のご計画が秘められていたことでしょう。このルツに注がれていた神様の眼差しの中に、あなたもいることが信じられますか?
 異邦人モアブの出自の「ルツ」という女性が、義母ナオミと共にナオミの故郷ベツレヘムに移り住みます。ボアズという男性と出会い、二人は結ばれ、オベドが与えられ、「オベドはエッサイを、エッサイはダビデを生み…」と、キリストの系図に直結してきます。神は常に、「身分の卑しい者や見下げられているものを選ばれた」(1コリ1:28)のです。
 クリスマスの出来事を通し、鮮やかに「神の計画」が明らかにされてきます。人間の常識ともいうべき愚かな思い込みを神は打ち砕き、退けます
 アブラハムは75歳でハランを出立し、モーセは80歳で、民を連れてエジプトを脱出し!聖書はその初めから、神の選びの真相を明らかにしています。
 異邦人であるルツを通して、神は来るべき時を明らかにします。神との出会いは、優秀さでも出自でもなく、神の慈しみの眼差しにあります。クリスマスとは、神の出来事であり、我々にあなたに対する神の愛と選びのご計画なのです。

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2023-12-16
12月3日「御言葉による解放」

ヨハネ8:31~38
 主イエスは、人々に御言葉の真理を解き明かしました。それは生活に根ざしたたとえ話を伴う場合が圧倒的に多かったのを考えてみても、ほとんどがシンプルであり、聞く人を行動に向かわせるチャレンジだったように思います。
 日常生活における神との親密な交わりと、約束を伴うチャレンジを奪い去り、定められた儀式と化してしまった当時の信仰は、主によって再び人々の手に取り戻されたのでした。
 互いに愛し合う、いつも喜ぶ、人を赦す、すべてのことに感謝する。それはどのように為されるのでしょう。そして、為された場合、もちろん、為されなかった場合も含めて、どのような実りを見ることができるのでしょうか。
 主は「わたしの言葉にとどまるならば」と、ご自身を信じた人々に付け加えられました。そして、それこそが「あなたがたを自由にする」のだと。
 あなたは主が与えてくださった、どの御言葉に、そしてその約束にチャレンジしますか。とどまるとはそういうことです。他の人が用いられた方法である必要は全くありません。あなたらしさが用いられている実感。そこにこそ、まことの自由があるのでしょう。

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