宣教
2023-09-24
9月24日「命を潤される神」
ヨハネ4:1-15
今日の箇所の「生きた水」とは、7章37節以下の解説によると、聖霊の事である事が明確に示されている。主イエスが私たちに聖霊を与えてくださり、もう決して渇かない者にしてくださる。霊によって私たちの命そのものが潤される。それが生き生きとした神の恵みの内に生きられる永遠の命になる、という事が示されている。
私たちの地上での体は、未来永劫続くものではなく、いつかは朽ち果てて死んでいく。しかしこの身が朽ち果てるとしても、決して滅びる事なく、神の恵みの内に生きられる。神の恵みの内にあって、永遠の喜びの中にもう私たちは置かれている。主イエスに在るその命に生きさせて頂いている。これが永遠の命に生きる私たちの姿である。この命を全ての人に与えようとする、神の平和のご計画の中を私たちは今、歩んでいるのである。
この神の必然という大きな計画の中に、私たちは生かされ日毎に潤されている。主の御言葉と、ただ神がそのご計画に従い送って下さるその聖霊によって、私たちは永遠の命を与えられている。
だから自分ではなくキリストに期待して、神のご計画のままに進んでいく歩みを今後もなしていきたい。 弘前教会 渡邊宣博牧師
※本日のメッセージ動画は非公開です。ご了承ください。
2023-09-24
9月17日「朽ちない勝利」
Iコリント9:24-27
使徒パウロは宣教について、できることは何でもする、と伝えています。そして実際にそのようにしてきた彼です。
スポーツ選手が勝利を目指してできることは何でもするように、パウロはキリストを伝えることにおいてもその姿勢を引き合いに出しています。
しかし、スポーツは朽ちる冠のために、福音宣教は朽ちない冠のために、と明確に区別しています。
あなたが全力で取り組んでいることは何でしょうか。日々、祈り求めていることは何でしょうか。それは朽ちない冠のためでしょうか。それとも、朽ちる冠のためでしょうか。
私たちは、病の癒やしを祈り、経済の祝福を祈り、ライフプランの成就を祈り、その他、様々なことに全力を注いでいますが、それはすべてこの地上での出来事であり、肉体も、世的な願望も、その全てがやがて朽ちていくものです。その勝利は不確かで、勝つ時もあれば負ける時もあります。その不確かさは信じて歩むにはあまりにも脆い対象です。
世に勝ったキリストの言う勝利とは、そのような曖昧なものではありません。死は勝利にのまれてしまった。これが揺るぎない勝利であり、信仰の根拠です。
2023-09-24
9月10日「祝福を選ぶ」
申命記14:28~29 使徒20:34~35 残念なことに教会の歴史は、主の御心を体現するものでは、必ずしもありませんでした。というより、残念なことにその反対の方向を選んできました。原点を見つめ続け修正する以外に、御心である信仰を生きることはできません。この世の重力に負けていることに気づかず疑問すら持ちませんでした。人間の、私たちの思いは、「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を~高くこえている」(イザヤ55:8)ことを知ることです。
パウロがエフェソに別れを告げるとき、遺言として伝えたことは、「主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すように。」ということでした。自らの愚かしと、世界との対極に生きられた主の御心を思わされます。
人は得ることを求める結果、失うことのなんと多いことでしょう。人間の歴史は、得ることに嗜癖するため、崩壊していった痕跡で満ちています。
死海には、生き物が住むことが出来ません。ガリラヤ湖と対照的です。「人の価値は、その人が集めてものではなく与えたものによってはかられる」(アインシュタイン)と。キリストのもとにすべてがあるのは、キリストが全てを与えられたからなのです。乞食のようにではなく、主の招きに応え!です。
2023-09-03
9月3日「正しき神の御名」
出エジプト20:7
主の名をみだりに唱えてはならない。この十戒の意味をどれほどの人が理解しているでしょう。かつて、ユダヤの民は「神の御名を口にしない」ことを選択しました。長らく、主の御名はその偉大さから敬遠され続けてきました。1年に一度、大祭司だけが至聖所の奥で口にすることが許されましたが、一般的な人々はその御名を死ぬまで耳にしたことはありませんでした。はじめてモーセに告げられた、神のその御名は「ある」という名でした。
神は長い長い年月の間、至聖所の奥に「ある」状態でした。すなわち、人々の生活の中には「ない」のです。それで、人々は神なき世界に神を求め、偶像を探し求めました。そこに救いなどありもしないのに。
神の御名を口にしないことが「みだり」ではないことの証だと信じ切っていた人々の只中に、インマヌエルという名を冠する方が与えられました。「共にいる」という名が示すように、この方、主イエスは至聖所の奥ではなく、自ら歩み寄り、人々と関わってくださいました。それは十字架と復活によって頂点を迎えます。
神は「ある」御方。喜びの日にも「ある」悲しみの日にも「ある」死の影の谷を歩もうとも、そこに主は「ある」方なのです。
2023-08-27
8月27日「従うということ」
ヨハネ21:20~23
十戒には「神以外を神としてはならない」と命じられています。ところが、私たちはいとも簡単に他のものを絶対視してしまう傾向があり、そのことが神となって人生を支配する道へといざなわれてしまいます。
ペトロは、十字架を避け、主イエスを知らないと三度偽証しました。彼は、あの大切な方、一緒に死ねると豪語するほどに慕っていた方を、簡単に裏切ってしまうのでした。その時、彼は神以外のものを神としていました。
復活の主イエスに問われると、今度は三度「愛しています」と信仰告白しますが、弟子のヨハネが目に入ると、再び神以外を神としてしまうのです。
そこで、主はペトロを通して、私たちにも語ります。「わたしに従いなさい。」と。
実際、この世界に、その人生に、立ちふさがる壁があったとき、それは神以外を神とする選択肢がやってきたことを意味します。神以外を神とする方が、論理的に見え、科学的に見え、効率的に見えるものです。時には、信仰という物差しが、かえって神以外を神としてしまうことさえあるのです。そんな時こそ、「わたしに従いなさい」という声も、同時に聞こえている時なのです。
2023-08-20
8月20日「渦中で安眠できる」
詩篇3:1~9
主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高くあげてくださる方。(3:4)
ダビデがアブサロムを避けて逃れたときの心境を、詩編3編で紹介している。彼は愛する息子の一人に突然襲撃されて、命からがら逃げて行き、自分に敵する者がいかに多いかということを思い知らされた。誰が見ても「もう駄目だ」とそう言われるような状況下で彼は神様の前で深く息をつく機会をもち、神様への信仰告白している。そしてその後ダビデがその状況下で眠ることができたと歌う。ダビデは、敵に取り囲まれて、そして眠っている。いつ敵が襲ってきて自分の命が亡くなるかもしれない、そういう状況のもとで、彼は昨夜寝た。このまま目を覚ますことなく終わってしまう可能性もあった。でも彼はおそらく死んでしまっても、安心できる。それは死んでもなお、「主がわたしを見捨てられない」と知っていたから。主の御前での息をつけたこと、そして安心して眠ることができたこと、そのために主が夜通し守ってくださったことを彼は喜び歌う。復活の朝が、新しい命に生きる朝がわたしたちにも備えられている。
2023-08-13
8月13日「剣を鍬に、槍を鎌に」
イザヤ2:1~5 マタイ6:9~15
8月は、「平和の月」として、平和のために、全国の心ある人々と共に、平和のために祈りを合わせ、考え、行動する時と覚えられています。そしてこの8月は、日本にとって、日本の教会にとっても、決して忘れてはならない、日本の教会の、悔い改めと平和のための宣教の原点とも言うべき日です。
78年前のこの時、そしてこの月のことを、「八月や六日九日一五日」と謳っていることは有名です。二つの原爆と,敗戦記念日です。そしてこの8月は戦後日本の今を生きるわたしたちが、決して忘れてはならない、平和を生きるための原点です。
全世界が、愚かな歴史をなぞるかのように、時を後ろに向かって進めているかのようです。ニューヨークの国連本部の広場の「イザヤの壁」に、『彼らは、剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする』の御言葉が刻まれています。
世界中の多くの人々が、日毎に祈る『主の祈り』は、「われら」の言葉が繰り返されます。「共に生きることの宣言」が、『主の祈り』です。 主イエス・キリストを通し、神の家族とされている私達です。持てる武器を、「共に生きる鋤と鎌」に変え、歩む祈りに帰る時です。平和は、他の誰かがもたらすものではなく、わたしたちに委ねられた使命なのです。
2023-08-06
8月6日「◯◯、主の喜びです。」
列王記上19:18
「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。」
私たち家族は、現在スポーツ宣教に携わりながら日本縦断宣教旅行をしています。このようにして出発した宣教旅行も1年7ヶ月が過ぎ、1年半で約109教会を訪問し、たくさんの教会の祈りに支えられ前進してきました。また、スポーツ宣教を通して各地を訪問するたびに神様が一貫して聞かせくださる声があります。
日本に陰府の門も打ち勝つことのできない教会を据えられて、主はその教会の存在を喜び、誇りに思ってくださっているということです。そして、その地域に入ると天のお父さんは聖霊を通して語りかけてくださいます。
「お帰り」そして「ここであなたを待っていたよ」と。その優しい語り掛けは、言葉で言い表すことができないくらい私の心を温めてくれます。
愛する神の家族の皆さん。天のお父さんは教会堂に限らず、あらゆる生活の現場で私たちを待っていて、歓迎し、温かく迎え入れてくださいます。日本に教会を据えられた主、花婿は花嫁のために決してこの日本を諦めないのです。
2023-07-30
7月30日「平安が欲しいなら」
マタイ6:33~34
偉大なクリスチャンの先人たちの物語は、私たちの心を燃やし、信仰を増し加えてくれます。彼らはなぜ、偉大なのでしょうか。能力があったのでしょうか、最初から備えられた大きな働きを引き継いだのでしょうか、いいえ、彼らは使徒たちと同じように、普通の人でした。しかし、彼らを偉大たらしめ、普通じゃなかったのは、彼らが神に全幅の信頼を寄せていた、ということだけです。
何よりもまず、神の国と神の義を求めることは、この世界の価値観に慣れきった私たちには理解不能であったり、難しかったりします。しかし、加えて与えられる、という神の法則が私たちに勇気と希望を与えてくれます。
過去から学び、予測を立て、自力で努力することは素晴らしいことですが、想定の範囲内の結果か、少しだけ良い結果が与えられるくらいが関の山でしょう。しかし、神が加えてくださるのは、私たちの常識を軽々と超えていく神の国の扉が解放される体験です。
信仰の成長とは、祈りが熱くなることでも、人一倍奉仕をすることでも、献金額を増やすことでもありません。それは、すべてを主に委ねる、という成長の結果として与えられるものなのです。
2023-07-23
7月23日「どこの誰ですか」
マルコ6:1~6
日々の生活の中で、あなたはどんなことに神の臨在を感じますか。超自然的な奇蹟ですか。それとも、人と人の間に愛が現されたときでしょうか。もしかしたら、祈りが聞かれたときかもしれません。でも、こう考えたことはありますか?「これは神がしてくださったのだ」と思えないところにも神がいらっしゃるということを。
主イエスは神でありながら、大工だと言われました。大工だったからです。この世界の常識では、大工は神ではありません。ナザレの人々は当たり前の反応をしました。しかし、主はそれを「不信仰」だと感じ、しかも驚いたというのです。
神であるはずがない。しかし、実際には神ご自身であった。それは、大工という職業、ヨセフの子という出自、その村からは何も出ないと馬鹿にされるほど小さく貧しい寒村で起こった出来事です。
あなたが考えている神の臨在。もちろん、それは確かなものなのでしょう。しかし、そうでないところにも神は働かれるということを知ってください。
全宇宙をお造りになった全知全能の神が、あなたを選んだ。そのことこそが、まさしく奇蹟であり、当然そうなる、の世界を超える出来事なのです。
2023-07-23
7月16日「成長させてくださるのは神様」
Iコリント3:5~7
17世紀半ばにヨーロッパのカトリック教会で「ヤンセニズム」という考えがはびこりました。これは端的に言えば、「今のあなたのありのままの姿では足はりない。だから、成長して救いを完成させるためには、自分の努力で急いで信仰の高みまで上がって来い。」というものです。このような考えは、教派や宗派や国などを選ばず今もなお信じる群れを脅かしていますが、そこに「福音」はありません。
スペインのバルセロナに「聖家族教会」という大聖堂があります。今から141年も前に、天才建築家アントニオ・ガウディの構想を得て建築が始められた未完の大聖堂です。工事の速度は、亀の歩みのようなもので、遅々として進まぬ工事の進捗状況に対する周囲の焦りの声にもかかわらず帰天する直前のガウディは、このように言ったそうです。「神様は完成を急いではおられない」と。私たちの信仰の歩みにも同じ事が語られているように思えます。
私たちは、ただイエス様が、罪のために十字架の上でご自身の肉を裂き、血を流されたことを信じ受け入れ信仰の告白することによってのみ救われるのです。そして信仰の成長も神様ご自身の業であり、慈愛の神様はその人でなければならないペースで一人ひとりを導いて下さいます。
2023-07-23
7月9日「喜びの教会」
イザヤ52:7 使徒:11:19~26 伝道を開始した最初のころ、教会主題を「アンテオケの教会を目指して」としたことを思い出しました。何よりも、聖書が明らかにしている、教会像を生きることを祈った結果でした。
ステファノの迫害をきっかけに、エルサレムを逃れた人々は、なんと、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。このことがきっかけとなり、福音は全世界へと広がって行ったのです。
エルサレム教会は、主の昇天後、およそ25年で衰退したが、アンテオケ教会は成長し続け、異邦人伝道の拠点となり、教会発展の基地となりました。「クリスチャン」と呼ばれるようになったのも、このアンテオケにおいてでした。
この教会は、①伝道する教会、 ②すべての人を受け入れる教会、③働くことを奨励する教会、④惜しみなく献げる教会として歩みました。いつも外に向かって開かれている喜びの教会だったのです。
「キリストと共に在る者」としての、喜びに満ち溢れ、全ての人と共に、特に虐げられている人々と共に生きる、愛にあふれた、生き生きとした命に満ちた群れでした。キリストの福音の生きた姿が、アンテオケ教会です。主の愛されるすべての人々と、その信仰を携え、受け継ぐわたしたちです。
2023-07-02
7月2日「何を見ていますか?」
イザヤ40:25~31
岩木山を見る時、とても素晴らしい山だと感動します。弘前だけがそうではないのです。他の地域でも見え方は違えど、人は自然界に感動を覚えます。そこで、霊山にしてみたり、高い杉にしめ縄を締めたりして拝みます。しかし、聖書は言います。もっと高いところに目を上げよ。
しかし、高いところに目を上げても、空が広がるだけで、主なる神は見えません。私たちはそこで、神の存在を疑ってしまいます。なぜでしょうか。目で見えるところに神を探すからです。しかし、主は言われます。あなたがたは見えているのに見えない、と。
すべてをご存知で、すべてをお造りになった方が言われた、あなた方は疲れる時がある。若者でも倒れるんだ、という言葉は真実です。誰しも、疲れ、倒れるときがあります。「しかし」と主は語られます。
聖書は「しかし」で満ちています。それは逆転の人生であり、絶望からの希望であり、十字架からの復活です。
あなたには帰ることのできる場所があります。魂の疲れを癒やすのは、魂の専門家でなければなりません。あなたを造られた主こそ、その道であり、真理であり、命なのです。
2023-06-25
6月25日「幸せは主のもとに」
申命記10:12~13
律法である十戒が与えられてから、イスラエルの民はそれによって幸せを得るはずでした。主がそのことをご計画されていたからです。
しかし、実際には律法によって人が人を裁き、できない人たちを脇に追いやる制度として定着してしまいました。神の御言葉は人を幸せに導くものであって、人を陥れたり、裁きのための道具ではありません。しかし、律法の遵守があまりにも難しかったために、その周りに幾重にも壁を作り、人々が十戒に近づけないようにしてしまったのです。
主イエスが来られた時、人々は新しい教えだと驚きました。ご自身が十戒そのものである方の言葉は、それほど本来のものからかけ離れてしまったということでしょう。
心いっぱい神を愛し、人を自分のように愛する。この律法はまさに主の生き方そのものです。しかし、人々はまたしても律法の創始者であり、完成者である主を人々から切り離そうとするのです。それがあの十字架でした。
律法を守ることではなく、律法のふところに生きること。十戒こそ主ご自身であり、すべての基準であると信じる人生こそ、幸せの存在する場所なのです。
2023-06-18
6月18日「神の子として」
マタイ5:9
ほとんどすべての教会に掲げてあるもの、それが十字架です。初期キリスト教会から受け継がれてきた十字架のイメージは、やがて荘厳な大聖堂にも刻まれるようになり、ロザリオのような祈りの象徴となり、現代ではアクセサリーにもなっています。しかし、これはおかしなことです。十字架とは処刑道具であり、凄惨な拷問道具であるにも関わらず、なぜそのようなものを身に着けたり、飾ったりするのでしょうか。
さらに、電気椅子やギロチンで代用可能なものではなく、十字架が十字架でなければならない理由があります。それは、神の御子が命を捨てたことを意味するからです。そして、それはあなたのためでもあるのです。
これまで、人類は様々な価値をこの世界に表現してきました。政治、教育、文化…。そのどれもが、諸手を挙げて歓迎され、今度こそは人間を平和に導くと期待されてきました。しかし、現実はどうでしょうか。
人間を真に平和へと導けるのは、道であり、真理であり、命なる主、イエス・キリストをおいて他にありません。
これからも世界を一変するような価値が生まれてくるでしょう。しかし、永遠に変わらない方にこそ、救いがあるのです。
2023-06-11
6月11日「新しくつくられた者」
詩編100:1~3 ヨハネ3:3~6 5月28日は、約束の時、「ペンテコステ」でした。教会の誕生日であると共に、初代の使徒たちと共に新しい地平へと導かれました。「自分が何者であるか」を知る時となりました。「わたしたちは主の者、その民、主に養われる羊の群れ」であることを。
アメリカの長老教会の子供のための教理問答の最初に、「あなたは誰ですか?」とあり、答えは「わたしは神様のこどもです。」とあり、「神様の子どもであるとはどういうことですか?」の問いに、「わたしは、わたしを愛している神様のものだということです。」と答えています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」(詩100:3)
主の業は常に、わたしたちの本来あるべき姿、喜びと感謝の回復の歌となります。「わたしたちは主のもの、その民」なのです。ペンテコステは、喜びの歌、賛美が満ち溢れた時でした。教会とわたしたちは、この時を通して再び、主の民とされました。今もこれからも変わることなく。
それは、バベル(混乱)から、「エデン(喜び、たのしみ)」に向かう今一度の招きでした。友よ!神様はキリストによって、ご自身の愛する者とし今一度、招いておられます。喜びと感謝に生きるために。
2023-06-04
6月4日「神が共にいるということ」
創世記39:1~6
聖書の中にある数少ないサクセスストーリーとして挙げられるのがエジプトに売られたヨセフの物語です。
ある日突然、身ぐるみ剥がされ、異国に売り飛ばされ、奴隷として生きる日々に追いやられました。彼に試練が来たのです。その時、彼はどう対応したでしょうか。
「うまく事を運んだ」と記されていますが、それは彼が優れていたからだと聖書は言いません。聖書は大切なことを繰り返す特徴があります。ここで繰り返されているのは、「主が共におられた」ということです。
主イエスは私たちに、夜の終わりまで共にいる、と約束してくださいました。そして、「うまく事を運んだ」と主のみわざを見るチャンスを与えてくださっています。
聖書全編を見るときに、主のみわざは何かしらの試練の中で現されるのではないでしょうか。平安と幸せの中にいる時、それは主の臨在の中にいるときであって、罪と試練の中にあるときに見せていただくみわざと感じ方が違うのは、コントラストの問題だと思います。
今、試練の中にあるのであれば、主のみわざがはっきりと現れる機会でもあるのです。
2023-05-28
5月28日「イエス様の証人」
使徒1:8
復活されたイエス様と40日間一緒に過ごした弟子たちは、もうすぐ主の日が来ることを確信したのです。
その心で弟子たちはイエス様に「主の日が来る時は今ですか?」と聞いたのです。ですが、イエス様は弟子たちに「それはあなたが気にするものではありません」と答えるのです。そして、「聖霊が降ると、力を受け、地の果てに至るまでわたしの証人となる」と仰いながら天に登られたのです。
その後、イエス様の最後の命令に基づいてペンテコステの日に教会が生まれたのです。イエス様の最後の言葉はただの命令だけではなく、約束であり、必ずそうなるという預言でした。イエス様を心から信じるならば救われると信じる人々には、もれなく聖霊と神の力が降り、イエス様の証人に、なりたくなくてもなってしまうのです。
結局イエス様が私たちに期待しているのは、私たちの行動ではなく、信仰なのです。皆さんはイエス様が私たちのために準備してくださった救いを心から信じますか?
2023-05-28
5月21日「正しい者」
ローマ1:16~17
使徒パウロはローマの異邦人たちに、そして私たち現代に生きる人々に対して、「わたしは福音を恥としない」と言います。
彼は福音を恥としていました。異邦人や主イエスを信じる人々を軽蔑し、迫害していました。ステファノの殺害に加担し、自らも女性や子どもという弱い立場の人々も捕らえようと躍起になっている姿は、福音を恥とする人の姿です。
しかし、主に出会い、十字架を通され、自らも迫害を経験する中で、彼は異邦人やものの数にも入らない人々。かつて自分が恥としていたような人々に対する愛と情熱がみなぎっているのを感じたのです。彼は福音を恥とするどころか、誇りとする人へと変えられたのです。
あなたが恥としている人は誰ですか。その方々はあなたにどんなひどいことをしたのでしょう。主が赦しなさいと命じても、決して赦せないのはなぜでしょうか。
神はあなたを決して恥とはしませんでした。それどころか、あなたのために命まで捨てられたのです。その方が与えてくださるもの。その愛に、その福音に今一度、立ち帰りましょう。
2023-05-14
5月14日「違いの祝福を生きる」
マラキ2:10 Iコリント12:27
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」なんと真実に満ちた、教会の本質を現した言葉でしょうか!
スペインの教会の祈りに、「愛そのものである神、どうぞ、わたしたちをその惨めな姿より解放してください。他者をいつも拒否してしまう狭量さから、他者をいつも非難する自己正当化から、他者の持っている良いものに目を閉じてしまう心の狭さから解放してください。どうぞ、わたしたちをそのような惨めな姿から解放し、愛することを、他者を識ことが出来ますように」があるそうです。
人間の集まりゆえに、沢山の問題が教会にも生じます。しかし、教会の迫害者にしてテロリストであったパウロが書いた手紙を読む時、教会の真実の姿が浮き彫りになってきます。
イエス様がおいでになったのは、裁くためではなく救いをもたらすためでした。「あなたがたはキリストの体」と宣言される時、わたしたちは、裁きではなく「愛」に、「一致」に導かれています。
星野さんが、「造られたもので目的のないものはないという。価値のないものもないという。動かない指を見ながら、今日はそのことを思っていた」と。
それぞれがかけがえのない神の最高の作品なのです。