宣教

2019-08-25
8月25日「神の国への入国審査」

マタイ18:1〜5
 主イエスは「悔い改めよ、神の国は近づいた。」と宣教を開始され、ある時はたとえ話を用いてわかりやすく、神の国について人々に教えられました。主の宣教のテーマは神の国でした。そして、弟子たちにも神の国を宣べ伝えるようにと派遣されています。弟子たちをはじめ、使徒パウロも、いつでも宣教のテーマは神の国でした。ところが、神の国は将来完成するものとして強調され、現在の教会で語られるテーマは神の国のごく一部を切り出したものと言えるでしょう。  しかし、神の国の現れは現在の事柄です。主はその入国審査について、明確に語っておられます。「〜でなければ、神の国に入ることはできない」といった具合に。将来、神の国が完成する時には、このような審査もいらなくなるでしょう。しかし、地上における生活の中で神の国に入りたいと願うならば、主が教える入国の手続きを通る必要があるのです。
 愛、赦し、癒やし、解放、その他、神から受けた素晴らしい経験があるとすれば、それこそが、神の国の力の現れです。生活のあらゆる領域で神の国を体験することを招いておられるのは、神ご自身です。
 その招待状を持って、入国審査を通りましょう。入国できるかどうかは、あなた次第なのです。

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2019-08-18
8月18日「神が求める生活?」

申命記10:12〜16  Iヨハネ5:3
 遊びでサッカーをしていた時、サッカーは簡単な遊びだと思っていました。しかし、本気でサッカーをやり始めた時、かなり難しいものだと分かりました。むしろ、遊んでいたときの方が自由で、楽でした。でも、うまくなりたくて、毎日夜遅くまで独りで練習しました。そのうち、ボールを見なくてもコントロールでき、いつまでもリフティングを続けることができるようになりました。そこには、ボールを自由に扱える、真の解放感が存在していました。
 聖書の真理も同じです。主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」と教えましたが、それは、真理を知ることによってのみ、可能となるということも併せて伝えています。
 あなたが本当の自由さを、解放を求めるなら、真理を知るために、神の言葉に浸り続けることが必要です。もし、このチャレンジをあなたが受け入れ、できないながらも、聖霊に助けを求めながら歩むならば、あなたは気づかずに、真の自由さを知ることのできる領域にまで到達できるでしょう。
 これは、難しいことだと思うかもしれません。しかし、聖書は簡単だと言います。そこに、真の自由さから見た世界があるからです。

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2019-08-11
8月11日「かたちなきいのち―愛」

エレミヤ31:2  Iコリント12:31b〜13:3
 日を追うごとに、このみ言葉が心に響いてきます。「愛がなければ、無に等しい。」がそれです。思い出される一つ一つに、「あの時、あそこに、愛があっただろうか?」と問う日々です。そして、この今に!
それと共に、マザーの、「生きている愛は傷つきます イエス様はご自身の愛を証するため わたしたちの身代わりとして 十字架上で死なれました母親は自分の子を産むために 苦しまなくてはなりません もし皆さんがお互いに正しく 本当に愛し合っているのなら 大きな犠牲がなければなりません」の言葉を思い出します。
 「預言、神秘、あらゆる知識、山を動かすほどの完全な信仰」を、信仰のもとに手にしたいわたしたちです。そのようなわたしたちに、「愛がなければ無に等しい、何の益もない」のみ言葉には、一点の曇りもありません。見事です。わたしたちはこのところに召されています。なんという明快さでしょう。
 イエス様の歩みの、何という香しさでしょう。八木重吉の、「神のごとくゆるしたい 人が投げる憎しみをむねにあたため 花のようになったらばかみのまへにささげたい」の祈りの前に首を垂れる自分です。今一度、「今ここに、このわたしに」愛があるだろうかと問う信仰でありたいものです。

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2019-08-05
8月4日「人を信頼する神」

イザヤ60:1〜2
 使徒パウロがはじめて主イエスに出会った時、彼は自分がこれからどのように行動すべきか、主に尋ねました。このことは、私たちに聖書の時代における祈りの原則を教えてくれています。
 よく「請求書の祈りではなく、領収書の祈り」を目指そうという声を聞きます。神は私たちの願いを聞いてくださる方ですが、すべてが私たちの思い通りになったら何が起こるでしょうか。大きな視点で見ると、人類が欲しがったものはほとんど叶えられてきましたが、人類はほとんど不幸に遭遇することなく、歩んでいると言えるでしょうか。
 聖書に登場する信仰の先人たちも、私たちと同様に、神に願い出ることもたくさんありました。しかし、神からの答えは、時には「イエス」で、時には「ノー」でした。主は私たちに必要なものをよくご存知なのです。だとするならば、何が必要であるかを聞く祈りが大切だということが分かります。
 神は人を信頼しきっています。それは、天地創造のころから永遠に変わることはありません。神は愛するあなたの人生に栄光を現したいと願っておられる方です。頑張るのをやめて、どう頑張るべきかを主に尋ねてみましょう。

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2019-07-28
7月28日「驚くべき約束」

ヨハネ14:12〜14
 「祈りは聞かれる」おそらく、多くの信仰者が同意する文言だと思います。それはなぜでしょうか。すべての願いが思い通りになった、という方は皆無ではないでしょうか。それでもなお、私たちは「祈りは聞かれる」と言っている人たちを知っています。
 それと同時に、「なぜ、私の祈りは聞かれないのか」という声も耳にします。弟子たちに告げた「何でも叶えてあげよう」という約束は効力を失ったのでしょうか。そう思える時があるのもまた事実です。
 しかし、この約束が何度も何度も繰り返し告げられていることは、主の言葉の中でも類を見ないものです。そして、厳粛な状況の中、特別な時にさえも、主はこの約束を繰り返されるのです。それは、祈りこそが私たち人間に与えられた最も驚くべきツールであり、全宇宙を支配しておられる方、無から有を生み出すことができ、不可能を可能にする方とつながる唯一の行動だからです。
 主は祈りについて、2つのことを命じています。絶えず祈ること、隠れて祈ること、です。この二つは相反するもののようですが、実は一つです。
 主は私たちにもっと求めるようにと招いておられます。主は祈りの質よりも、むしろ量を求めておられるのではないでしょうか。

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2019-07-21
7月21日「私たちはぶどうの枝」

ヨハネ15:1〜4
 19歳で洗礼を受けた私は、受洗準備講座で罪・十字架・復活について「知的同意」をしただけで受洗したように思います。しかし、不思議なことに、洗礼を受けてしばらくして、「まことのぶどうの木」であるイエス様が、「知的同意」から私を解放し、「現実的理解」へと導く工程を開始されました。いわゆる「霊的成長」と呼ばれるこの行程は、救い主としてイエス様を受け入れたすべての人に約束された祝福です。行程には終了がありません。信仰者として「成熟」させていただき、「実をつける」成長過程は、人生の旅路を終えるまで続く魂の「変容」と言い換えてもよいでしょう。私は、これまでに幾度か十字架の意味について考える時が与えられてきましたが、なぜかまた最近このことを考えるように導かれています。「ぶどうの枝」である私達が父なる神様に手入れをしていただけることは、なんと感謝なことでしょうか。『十字架を説明しようとしまい、十字架のなかへとびこもう、十字架の窓から世界を見よう』。あのクリスチャン詩人、八木重吉の詩です。重吉のような熱心な信徒でさえ、信仰生活の始めた当初は、十字架の死の意味をはっきりとは理解していなかった様子がこの詩から窺えます。乱暴な言い方かもしれませんが、信仰生活は神様に枝を手入れしていただくためにあるのではないでしょうか。愛なる神様に信頼しましょう。

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2019-07-14
7月14日「愛と祝福の今を」

出エジプト7:6 ローマ11:36  アブラハムは70歳にして!モーセは80歳にして!なんという励ましでしょうか!聖書は常にわたしたちにチャレンジしてきます。ダビデが若くして神の器として用いられるその時、神様はサムエルに、「(主は)…人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」と言われました。「神の思いと人の思いは異なる」のです。
 わたしたちは、「あの頃に!」とよく思い言います。本当にそうでしょうか。「大学に行ったら、就職したら!結婚したら!」と言っていたのに、今は、「子供の頃に!学生の頃に!結婚しなかった頃に!」と!
 友よ、わたしたちは、まだ来ない時に憧れ、過ぎ去った時に懐かしさを覚えるのです。こんな自分の不信仰な姿に気付かないことは不幸です。わたしたちに与えられているのは、「今日」であり、「今」であることを心に刻む必要があります。
 男鹿教会に行き、懐かしくも、飯淵よし牧師の足跡を思い起こし、「今」を生きた天国の先生に今一度教えられました。「あの地」に、二つの教会を建てた信仰に、魂が揺さぶられました。
 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のです。いつも、「神様の愛と祝福の中」なのです。栄光を神に!

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2019-07-07
7月7日「愛だけが人を変えられる」

マタイ22:34〜40
 罪を犯した人々は、愛や喜びを受けられなくなって当然だ、ということが、罰という形で表れているのが牢獄です。そして、そこにはルールを破ってしまった人々がひしめいています。では、牢獄の外は、愛と喜びに満ち溢れた場所だと言えるでしょうか。
 主イエスはすべての人々に問います。「あなたは愛に生きているか」と。神を愛すること、人を愛すること、主はそれがすべてだと断言しました。とするならば、牢獄の中も外も同じ神の支配があり、同じルールが適用される場所です。「あなたは愛に生きているか」それは、すべての人を照らす光です。
 神は牢獄の中の人も愛しておられる。それは、罪の中で生きていたにもかかわらず、十字架によって身代わりに命を与えられた人々にとって、当然の思考でした。そして、もっとも愛から遠く離れた人にこそ、愛が必要だということを歴史が示しています。
 人が生まれ変わるというのは、別人格になることではありません。その人が神のデザインされた姿に戻ることです。そして、人が変化するために必要なのは、ただ愛だけなのです。
 全知全能の神が計画された唯一の方法は、それでも愛する、という十字架の方法だったのです。

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2019-06-30
6月30日「あなたはどんな人?」

Iヨハネ3:2
 私たち人間は、日々変化していくものです。それは良い変化も悪い変化もあります。もし、ご自分の人生を振り返るならば、あなたはどんな方向に向かっているのでしょうか。あなたはどんな人になっているのでしょうか。
 人は、何かを礼拝せずにはいられないものです。そして、何を礼拝しているか、というのことは、その人の人生に大きく影響するものです。聖書では、神以外のものを礼拝することを偶像崇拝としています。しかし、聖書のいたるところで教えられているように、神の似姿として創造されている人間が、神以外のものを礼拝し、悪い変化が起こっていくことを、神は悲しんでおられます。
 聖書が語る人間観は、あなたが全く別の人になることではありません。あなたがありのまま、神の創造の姿に回復することを語っているのです。神は、あなたが幸せであることを望み、あなたが生まれたての状態に戻ることを期待しています。そのために必要なことは、どんなことなのでしょうか。共に考えるときを持ちたいと思います。

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2019-06-23
6月23日「癒やしの法則」

 出エジプト15:22〜27  フィリピ4:4〜7
 聖書には「喜びなさい」という命令が出てきます。実際に、周りを見渡してみると、喜べることばかりでしょうか。いえ、もしかしたら喜べないことのほうが多いかもしれません。それでは、なぜ聖書では喜ぶことを何度も命じておられるのでしょうか。イスラエルの人々の姿を見ながら、考えてみたいと思います。
 彼らは奴隷状態から解放され、神がおられることを体験しました。そして、神を信じたのです。しかし、依然として彼らの眼前には何もない荒野が拡がっており、水や食料に対する不安がいっぱいでした。ようやくたどり着いた水も、苦くて飲めませんでした。彼らの不満は爆発し、とても喜んでなどいられません。
 ところが、神がそこに法則をもたらすと、水は甘くなって飲めるようになったのです。苦い水が甘くなる法則は、神の側に用意されていたのです。それは一本の木でした。やがて、彼らはオアシスに導かれます。
 イスラエルの人々の姿は、時代を超えて私たちが永遠に変わることのない同じ愛の法則に置かれていることを教えているのです。
 喜べない状況で喜ぼうとする時、その根拠が必要です。そして、十字架と復活にこそ、永遠に変わることのない神の愛の法則であり、私たちの力の源です。

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2019-06-16
6月16日たいせつなきみ 「十字架のシール」

Iヨハネ4:10
 ある人形たちの国では、素晴らしいことをすると星印、ドジや失敗をすると灰色のダメ印のシールを貼る習慣があります。たくさん星印がついている人形は素晴らしいのですが、パンチネロという人形はダメ印ばっかりで、一つも星印がありません。彼は何をやっても失敗ばかり。そればかりか、つまずいて転んだり、ドジばっかり。「どうせ僕なんて…」と自信がありません。
 そんな時、彼は星印もダメ印も、何もついていない人形と出会います。その人形は、パンチネロに「エリ」のところに行くように誘います。そこで彼はエリに出会ったのです。
 なぜ、シールが付いていない子がいるのか尋ねるパンチネロに、エリは優しく答えます。「それは、他の人形がいうことよりも、私の言うことのほうが大事だと、あの子が決めたからなんだよ。」
 私たちが神に愛されていることは、あの十字架を見ればわかります。エリのところに行き、エリの話を聞いて信じたパンチネロから、シールが一つ落ちました。これがこの絵本の最後のページです。神の言葉を信じ、その愛に自らを委ねようと決断するなら、神は私たちをあらゆる罪から清め、神の子としての歩みを確かなものとしてくださるのです。

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2019-06-09
6月9日「約束の聖霊」

ヨハネ1:29~34
 世界ではじめての教会が誕生した時、救いの主イエスを信じる人々は聖霊のバプテスマを受けました。これは、聖霊を受ける、聖霊に満たされる、というものとは全く別の、体験的で特異的なものでした。
 聖霊によらなければイエスを主と告白できないと聖書にあるように、聖霊は私たちが主を信じることのできる力であり、キリストに属する者を導く助け主です。しかし、日々の生活を聖霊によって導かれることと、聖霊のバプテスマは別のものであることが聖書によって描かれています。
 ある信仰者は、信じたが、聖霊を受けていない、と告白し、見たことも聞いたこともないと告白しました。書簡の中には、聖霊のバプテスマを受けた人々が霊に満ちた歌を歌ったり、病を癒したり、異言を語ったことが記されています。
 信仰の先人たちも、人生のある時、ふいに救い主と出会い、救いの確信が与えられ、涙が止まらなかったというような経験をしています。この人々は、信じたあとでさえ、救い主を知らなかった、と告白するのです。
 聖霊のバプテスマは約束です。しかし、私たちが何かをすれば与えられるというものではなく、主ご自身の時に応じて、与えられる素晴らしい恵みなのです。

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2019-06-02
6月2日「一つの体として」

申命記10:11〜12 エフェソ4:1~6
 美しい万緑に包まれ、サラの散歩をしていると、「新しい酒は新しい革袋に」(マタイ9:17)のみ言葉が心に浮かび、新しい霊に満たされ、柔軟に生きることの大切さに気づかされます。ペンテコステの前の一週間は「アジアエキュメニカル週間」として、一つなる教会を考える時となっています。
 2001年には、世界には約238カ国33000教派があり、毎年、約300の教派が増え続けていると言われます。聖書には、「霊による一致を保つように…体は一つ、霊は一つ、一つの希望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、父である神は唯一」とあります。
 教会は、一つを生きる神の民なのです。そのことを一番忘れているのは、他ならぬ教会ではないでしょうか。わたしたちは翻って、「初めの愛」に立ち帰ることが求められています。
 今一度、わたしたちは一致を求めて立ち上がる時です。己の真実なる信仰という「正義」のために分裂を容認することを「是」としてはなりません。
 「実にキリストはわたしたちの平和、二つのものを一つにし、敵意という壁を…」であるからです。今こそ、「キリストにおいて一つの体」を生きる教会として歩むことが求められています。「キリストの体」十字架―復活を生きるために。「今」がその時です。

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2019-05-26
5月26日「しがみつく信仰」

創世記22:1〜19
 聖書に多く記されている言葉の一つとして「忍耐」というものがあります。この言葉を見ただけで暗い気持ちになります。なぜなら、誰もそんなことをしたくないからです。しかし、聖書にあって、神が私たちに求めておられるものの一つが「忍耐」であることは明確な事実です。
 アブラハムは信仰の父と呼ばれる偉大な存在ですが、彼を偉大たらしめているのは、彼の人となりではありません。嘘をつき、神の言葉を軽んじ、姦淫を犯し、神の計画をあざ笑ったアブラハムです。しかし、神は彼を義とされた、と聖書にあります。なぜでしょうか。それは、彼が「主を信じた」(創世記15:6)からです。
 彼に与えられた約束が今、破壊されようとしています。それも、彼がこの地上で最も大切にしているものが、失われようとしているのです。このことによって、アブラハムが神を捨てることさえもありうると思えるような大きな試練です。彼のような道を通っていったことが私たちにもあるでしょう。もしかしたら、今がその時なのかもしれません。そんな時、信仰の父は私たちにその姿を持って道を示しています。
 その姿は、父なる神の姿そのものです。何よりも、神ご自身が、私たちを忍耐してくださったこと。それが、あの十字架の出来事にほかなりません。

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2019-05-19
5月19日「口のある神」

サムエル上3:1〜10 マタイ6:5〜8
 「祈りは聞かれる」というのは、神を信じる人々の間で語られる常套句です。そして、それは真実でしょう。救い主、イエスの名によって祈ることの特権は、素晴らしい結果をもたらしてくださるのです。ですから、子どもが親のふところに飛び込むように、大胆に主のふところに飛び込むこと、これが祈りの本質だと思います。
 ところが、願い事を聞いていただいて、それで終了となる交わりが祈りだと勘違いすることがあります。親と子の会話のやり取りが一方通行だとしたら、それは健康な関係と言えるでしょうか。
 少年サムエルは主に仕えていましたが、祭壇の前で儀式を遂行するだけの生活の中で、神と交わったことがほとんどありませんでした。ですから、彼は神が自分に語りかけてくるなどと、考えたこともありませんでした。しかし、事実神は語りかけてくださる方であり、そのみ声によって人々と交わりをもってこられた方です。そして、サムエルも神の語りかけを聞いた時、まったく新しい歩みが始まったのです。それは、非常にチャレンジングな内容でした。しかし、彼はその挑戦を受け、やり遂げました。なぜなら、神はできないことを与える方ではないからです。

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2019-05-12
5月12日「最も肝心なこと」

サムエル上16:7 Ⅱコリ10:10
 わたしたちは聖書を読むとき、どのように聖書と向かい合い、出会っているでしょうか?相変わらずこの世の、あるいは自分特有の価値観を持って聖書に向かってはいないでしょうか?
 言うまでもなく、聖書の明らかにする真実、はわたしたちの思考の延長線上にあるのではなく、「新しく生まれる」(ヨハネ3:7)ことを通してのみ知ることが出来ます。これこそが最も肝心なことです。
 残念ながら、多くの場合、御心は、わたしたちの思いの対極にあります。パウロは、キリストの故に、この世の価値あるものを「糞土のように思っている(口語)」とさえ言い切ります。この真実を受け入れる時、解放され、神の国が自らの出来事となります。
 あのサムエルでさえ、御心を見誤るのです。弟子たちはキリストの選びを通し、神の選びを鮮やかに証しました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカ4:6)なのです。
 初代教会の使徒たちの働きの目覚しさは、言葉に表せないものがあります。虚しいこの世の価値観に惑わされてはなりません。パウロは、「容貌は貧相で、言葉つきも卑しい」と言われていたのです。その彼は、世界最大の宣教者となったのです。あなたもまた二人とないキリストの証人なのです。

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2019-05-05
5月5日「赦しからはじまる物語」

ヤコブ4:7〜10
 聖書の中を覗いてみれば、登場する人々の人生は、成功よりも、失敗の方がはるかに多いと思えるのではないでしょうか。サクセスストーリーであれば、真似てみようと考える人たちもいるかも知れませんが、なぜこのような失敗談を赤裸々に告白し続けてきたのでしょうか。
 実は、神に対する告白こそ、私たちをありのままの姿に戻すための作業に他ならないからではないでしょうか。そして何よりも、神はそのような失敗談があってもなお、私たちを愛してくださるということ。それがあの十字架の出来事だったのです。私たちは前提として、そこからスタートする必要があるのです。
 私たちの失敗談を聞くことは、神にとって必要なことではなく、私たちにとって必要なことなのです。神は私たちが失敗談を告白することを通して、自らの人生を軌道修正し、主イエスの歩みとその十字架に現された神の深い愛に気付くことを望んでおられるのです。罪の告白は、私たちの側に与えられた成長の場であり、将来の生き方を宣言する場です。
 聖書の登場人物の歩みが失敗とともに始まったこと。失敗こそ、神との出会い、予想もできなかった生涯への招待状だったことを思い出してください。

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2019-04-28
4月28日「与える信仰」

マルコ12:41〜44
 この聖書の時代、夫を失った女性は非常に貧しい暮らしを余儀なくされていました。誰かに養ってもらわなくては、食べていくことさえ難しかったのです。
 ある時、そんな女性が2つの銅貨を献金しました。これは日本円にすると200円位です。他の人たちはもっと多くの金額を入れていました。この女性はたった200円しか入れられなかったのですが、主イエスはその女性を賞賛しました。なぜでしょうか。
 他の人たちはあり余る中から少しだけを献げていたのですが、この女性はなんと生活費をすべて入れてしまったのだと主は言われたのです。この聖書の箇所は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 女性の全財産は、主をどうしたら殺すことができるだろうかと考える人々の手に渡ります。適切に使用されるはずもありません。このことは、献げるということが、権利につながるものではないことを教えてくれます。この点が税金などとは全く異なるのです。
 自分の生活をすべて主に献げていくことは、それがどう使われるかということ以上に、そのことにより、神が自分の人生にどのように介入してくださるかを知るチャンスなのです。
 この女性は、そのことにチャレンジし、実りを見てきた人だったのでしょう。

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2019-04-21
4月21日「復活 ー 限界を超えて」

イザヤ55:8〜11  使徒言行録17:16〜34
 聖書には「新しい」という言葉が多く出てきます。主イエスもご自身の与える新しい時代を様々なたとえ話で語りました。実は、神は「新しい」ことが大好きなのです。しかも、その真新しさは人間の想像を遥かに超えるものであり、サプライズをもたらすものです。それは、神の独り子が地上に派遣され、十字架で命を捨てるという出来事だけでは終わりません。その先に、復活があったのです。
 このような話は荒唐無稽であり、信じることは難しいものです。しかし同時に、人間の知性を遥かに超えるこの事実は、信じることのみによって開かれる世界でもあります。主イエスの死者からの復活という、この信じられないような出来事を体験することができた当時の人々が羨ましいと思うなら、彼らの姿を聖書の中から覗き見ればいいのです。
 主イエスは十字架で彼らの罪深さを示し、それを赦し、復活して神のもとから来たことを証明しました。彼らは全くつくりかえられてしまいました。保身に走っていた時代が嘘のように、彼らは命がけであらゆる場所に出向き、そのことを伝えました。復活の主に会ったからです。
 それは昔の話ですか?いえ、主は今も生きておられます。彼らの姿は私たち自身の姿でもあるのです。

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2019-04-14
4月14日「神の与えたビジョン」

箴言29:18  使徒言行録20:17〜24
 神は確かなビジョンをもってこの世界を創造されました。その計画の綿密さは目を見張るほどです。それは、小さな身体の中に、地球何周分もの神経細胞が張り巡らされている私たち人間に対する計画も同様です。
 命を失ってもいい、と口にした使徒パウロは、あることに情熱を燃やしていました。それは、神から与えられた計画です。人が命をかけてもいい、と思えるのはどんな時でしょうか。それは、神のビジョンと私たちの喜びが交差する瞬間です。パウロの人生にもいろいろなことがありました。大きな失敗を犯してきました。しかしパウロ同様、神はご自身の計画が欲しいと願う人に、誰でも、いつでも、その計画を明らかにし、聖書に記されたように、その約束を果たしてこられました。
 「夢破れて」という言葉をよく耳にします。しかし、夢が消えてしまったと私たちが感じていたとしても、神の夢は今もあなたの中にあるのです。いえ、あなた自身が神の夢なのです。
 神があなたを夢見て、何千、何万もの時を越えて、今あなたがここにいます。そのあなたの喜びは、神の喜びでもあるのです。

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