宣教

2018-01-14
1月14日「ΑでありΩなるお方」

申命記11:11〜12 黙示録1:17,18
  主イエス・キリストは「初め」で在られる。この1年365日はすべてこの方の「御手」の中にあることを、年の最初にわたしたちは心に刻みたい。このこと故に、たじろぎ恐れる必要はない。世界とわたしたちの全ては、この方を離れては存在しない。世界とわたしたちの土台がわたしたちであるなら、他の何であっても、押し潰されてしまうことは明白である。歴史はそれを明らかにしている。高い理想を掲げ、独裁政権の転覆を企て成功した革命家も、時がたつと、多くは自らを絶対化して抑圧者の道を歩むことになる。
 人は、「自分が」始めであり、終わりになりたいと思う狂気―アルファ(α)であり、オメガ(ω)であろうとする―自己絶対化への逸脱が、容易に起こる。これこそが、自分が倒そうとした悪であることを忘れ、滅び向かってひた走る。わたしたちが始めである必要は全くない。「主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注いでおられる」(申11:12)約束の中故である故に。私の信じているものがわたしの一年になり、一生になる。「わたしの時はあなたの御手の中にあります」(詩31:15口語)。「キリストに初めと終わりを抱かれて インマヌエルを生きる喜び」。

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2018-01-07
1月7日「本当に大切なこと」

詩篇19:2 ルカ10:38〜42
 聖書は神がいるのかいないのか、存在を証明するために書かれていません。神が語っているかどうかについても同様です。つまり、私たちに問われているのは「神が語っているか」ではなく、人が「神に耳を傾けているか」ということなのです。
 マルタとマリアの正確は対照的です。これは、姉妹であっても人それぞれ特徴があるということ以上に、人生で「必要なことはただひとつ」であり、その必要なことを選び取って生きる人とそうでない人との対比を描いているのです。
 満足しない文化の中で生かされている人々は、神との関係や、祈りの本質さえも変化させてしまいました。その姿は、さながら赤子のようだと聖書は語ります。赤子は感謝しません。必要であれば泣き、当然のように受け、存在そのもので親に喜ばれます。しかし、いつか乳離する時がやってきます。それは大変な苦労を伴いますが、親子の関係をより成熟したものにしていきます。
 神の言葉を聞く生活は、すなわち従う人の生活です。その人の人生にご自身を現すと主イエスは約束されました。必要なのは、「聞く」こと。ただひとつです。

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2017-12-31
12月31日「助けることは、助けられること」

ホセア11:1 マタイ2:14〜15
 聖書は主イエスの若かりし頃の記録を一切残さず沈黙しています。少年時代の記録が一つあるだけで、あとは生誕にまつわる物語だけなのです。しかし、そのわずかな記録から見えてくるのは、昨日も今日も、永遠に変わらない主の姿です。
 主イエスの誕生によって地位を奪われると恐れたヘロデは子どもたちを虐殺しますが、主は両親に助けられて、かつて先祖が脱出してきたエジプトへと戻り、そこで守られました。主の公生涯が30歳を過ぎて始まったかどうかに関わらず、主の生涯は公生涯よりも前から始まっていたのです。それは、何と人に助けられる経験から始まったと聖書は記録しているのです。これは、助けることと、助けられることの大切さを神がご存知であることの証しなのです。子どもを親が育てているようで、逆に子どもに育てられていると感じるように、主は人と人が助け合う関係を生きるようにと招いています。そして、自らの御業の陰で、涙をのまなければならなかった人々の苦しみや悲しみをも、背負って行かれたのです。それが、あの十字架の出来事であり、復活の希望によって示された、尽きぬ命の主の物語なのです。

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2017-12-24
12月24日「まことの王が来られる」

  イザヤ9:5 ルカ2:10〜11
 救い主の誕生が神から約束されてから約600年の後、その救い主、主イエスがエルサレムの都に入城される時、主は救い主を歓迎し、熱狂する都の人々のために涙を流されました。それは、なぜでしょうか。
 神が預言者に告げた救い主の姿は、幼子であり、力なく、人の助けを必要とする存在でした。しかし、その赤子こそが救い主であり、「権威が彼の肩にある。」と言われたのです。これは、人々が考えつく権威とはまったく異なった種類のものでした。
 人々は凡庸で古臭く、二流の王たちに慣れてしまって、本当の権威とは何かを見失ってしまったのだと聖書は問いかけています。人々は慣れ親しんだ歌をうまく歌える特別な歌手を求めたが、実際に与えられたのは、それまでの歌曲をすべて覆してしまうような作曲家だった、ということです。主は全てを新しくされる、本当の王だったのです。
 創世の時代より人を助け続けてきた神が、一度きり、人になり、人に助けられる体験をした。それは、神がどれほど人を愛し、信頼してくださっているかの現れです。この王を自らの人生に迎え入れた人々は、クリスマスの本当の喜びを知ることになるでしょう。

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2017-12-17
12月17日「救いの計画」

申命記18:15〜22 ヘブライ7:24〜25
 救い主の誕生と十字架と復活へとつながる足音は、旧約聖書の至る所に見られます。モーセも霊に満たされて、預言者が与えられること、彼に聞き従う必要があることを民に宣言しました。
 やがて、神に背を向け、自らの不信仰を刈り取るように、絶望に沈んでいく人々を前に、預言者たちはその不信仰を厳しく問いただし、神に立ち帰るように語り続けてきました。しかし、主が山上で語られたように、人々は預言者の言葉に耳を貸さず、迫害し、殺しました。そしてついに、モーセをはじめとした預言者たちが言ってきた、その方がこの地にやってきました。盲人は目が開かれ、足の萎えた人は歩き、あらゆるものから解放された人々の喜びが広がっていきました。ところが、あの日、自分たちの思い通りにならないとわかると、人々はその方を迫害しました。
 神の言葉を携えてやって来た人の死。いつもと同じ景色が広がっていました。しかし、他の預言者とはまったく違っていたのは、その方は神ご自身であったということです。死から復活され、今も永遠に生きておられる方は、悲しみの連鎖を終わらせるために、ご自身の痛みを通して、人々の悔い改めを待っておられます。

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2017-12-10
12月10日「悲しみも祝福」

イザヤ40:6〜8 マタイ5:4
 わたしたちは、自分の経験、フィルターを通して事柄を捉えようとします。そんな中で御言葉は、わたしたちの思ってもみない方向を指し示します。御言葉を前に、つまずきを感じる時は、自分の感覚によらず御心を尋ね求めを祈ることです。大きな「悲しみ」を考える時、まず「死別」「別れ」が思い浮かびます。それならば、悲しくない「死別」「別れ」とは何でしょうか。
 そこにあるのは、乾いた潤いを失った心、愛のない生活、無関心が思い浮かびます。実は、悲しみの深さは、共に生きた愛の豊かさなのです。
 神様は、ご自分の御子をこの世に送るという別れを通して、わたしたち人間に対する愛を示されました。そればかりでなく、御子の十字架の死までも引き受けられました。この「悲愛」こそ御心です。
 「悲しむ人々の幸い」とは、この愛に支えられている自分と出会うことです。「草は枯れ 花は散る」のですが、主の約束、「インマヌエル」の神の現実の中にわたしたちがいます。御言葉、御心を生きる者は幸いです。 「主にありて悲しむ者の幸いは 共に生きたる愛の証ぞ」インマヌエルの恵みの中です。

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2017-12-03
12月3日「神の義、その確かさ」

  イザヤ51:4〜11 Iテサロニケ5:9
 人々が待ち望んできた知らせ。それは救いの知らせのはずでした。ところが、ペルシア王キュロスから祖国の都エルサレムへの帰還と神殿再建の許可が出たにもかかわらず、ユダの人々は不安と疑心に満ちていて、立ち上がろうとはしませんでした。なぜなら、彼らの前には、荒廃した都、険しく危険な道のり、人々の不信と疑念といった、人の心を絶望へと誘う、あらゆる要素が拡がっていたからです。
 しかし、預言者は語り続けます。「わたしに聞け」という神の御言葉に従って立ち上がり、都への途上を歩むなら、「頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る。」と。
 預言者たちの強調点はいつも「神の義」です。それは、神の正しさであり、恵みであり、救いの計画です。危険な道を旅して、荒廃した都に帰還することは、人間の目には愚かしいことですが、神の歴史の証人となるチャンスなのだというのです。
 人に罵られることを恐れず、十字架という最悪の道を歩まれ、神の言葉に忠実に従い、その生涯を栄光に変えられた方は、まさに、その神の救いの歴史の証人であり、私たちの証すべき方、主イエス・キリストです。

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2017-11-26
11月26日「幸せになるために・十戒 ⑦」

出エジプト記20:13 マタイ5:21〜26
 「人を殺してはならない」という律法は、もっとも守られていると思われる律法ではないでしょうか。しかし、私たちの心を探り、試される神は、「いなくなればいいのに」と人を排除したがる人の心をよくご存じです。
 主イエスは「殺してはならない」という律法を完全に守っていると言わんばかりの人々を前に、それがほとんど守られていないこと、そして守るためにはどうするべきかを含めて、解決の道を示しました。それが和解です。
 神と人との和解のために、主は十字架で命を捨てられました。犠牲的な愛だけが和解をもたらすことを身をもって教えられた主は、もし和解を望むのならば、助けてくださる方です。十字架という重い責務のため、主は父なる神に助けを求め、苦難の後、復活の勝利を与えられました。
 「殺してはならない」という言葉は、否定的な言葉ですが、この言葉を与えた主のみこころは、「生かさなければならない」という道です。罪に死んでいたのに、あの十字架で生かされたのは、誰だったのでしょうか。他でもない、私であり、あなたなのです。

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2017-11-19
11月19日「祈りの力」

宣教旅行中、日本にいる方々からの熱い祈りを強く感じました。そして、健康が守られ、主の臨在に触れ、たくさんの証しとみわざを仰ぎ見る日々となりました。宣教が前進するためには、背後の祈りが必要不可欠であることをあらためて確信しました。
 かつてインドネシア宣教に遣わされた大田裕作先生は、茶色く濁ってミルクティのようになった川の上を舟で移動していました。すると突然、舟が揺れ、幼かったお子さんが川に転落し、濁った川の中に見えなくなっていきました。愛するわが子を助けるために、奥様も続いて川に飛び込み、彼女も川の中に消えていきました。どうすることもできなくなった先生は、舟の上で泣き叫び、祈るしかありませんでした。そのとき、母教会で開かれている祈祷会の音が聞こえてきたといいます。「大田先生のご家族が守られますように…」「大田先生のご家族の健康支えてください…」兄弟姉妹のの熱い祈りが耳元に届く中で、「目を上げよ」という主の声が響いてきました。涙で濡れた目を開き、恐る恐る上げてみると、対岸に流れ着いて無事を叫ぶ、愛する妻子の姿がそこにあったといいます。
 祈りの力は絶大です。派遣されている人だけでは決してなし得ないことが可能となるための、チームプレイなのだと思わされました。

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2017-11-19
11月19日

ヨハネ8:1〜12
 神の前に「義人はいない。一人もいない。」と使徒パウロが言ったように、罪のない人はいません。たったひとつのミスでさえ、たとえそれが小さなものであっとしても、心の中だけで表に出ていなかったとしても、そのミス一つで天への道は閉ざされている。そのミスを犯さない生活をするように教えられる世界観の中で、それを守れない自分を隠しながら生きること、守れない人々を差別することで、自分の立ち位置を正当化すること。決して天に到達できない絶望感の中で諦観する人々の姿を今回の宣教地で見ました。しかし、そこに天からの光が、下に向かって降りてきました。それが救い主、主イエス・キリストです。
 人が努力しても決して届くことのない場所から、宣教地である地上に来てくださった主が、私たちの罪の文化をつくりかえ、人を新しく生まれ変わらせ、天に至る道を十字架の血潮によって開かれたように、私たちも宣教地に遣わされ、主を証しする者として励ますために、水村先生が津田から遣わされてきました。
 今回は主がどんなメッセージを私たちに伝えたいのか、期待でいっぱいです。          牛山

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2017-11-12
11月12日「わたしたちの食物」

イザヤ30:20 ヨハネ4:31〜34
 子供の頃、「これは体にいい」と言われる食物は、ことごとく嫌いだったように記憶しています。食べたいものや好きなものだけを食べていると健康を損ね、肥満に陥るのが常です。今だって同じです。
 イエス様が「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われ、「わたしの食べ物とは何であったか?」を鋭く問いかけます。10月31日は、宗教改革500周年の日です。それまで小さな群れであった原始キリスト教とはまったく異なり、御言葉ではないものに軸足を絡めとられる歴史の中で、教会が真の食物を取り戻すための悔い改めの時でした。
 「父の御心」がイエス様の食物であったように、教会とわたしたちの食物も、「あの時の愛」に立ち帰る時です。「これが行くべき道だ。右に行け。左に行け。」との聖霊を食物とする-神の愛と人々への愛を生きる-のです。「マナ」とは、インマヌエルの神との交わりです。御言葉に従うことが食物となるとき、新しい命の世界の住人となり力が溢れてきます。
 「あまたなる食物あれど何かせん まことの食物御心にこそ」、御言葉を反芻するわたしたちに。

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2017-11-05
11月5日「知に勝る領域」

 ヨハネ11:17〜27
 主イエスの友、ラザロが病のために死んでしまいました。弟を亡くした姉たちは嘆き悲しみながら、遅れて現れた主に揃って言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
 神がいるなら、そして、その神が愛だというのなら、なぜこの世界には悲しみが満ち、死という別れが存在しているのでしょうか。それは、等しく死というものを与えられている人間がもつ根源的な叫びではないでしょうか?
 悲しみの中で、姉のマルタは愛する弟の消息を知識に求めました。あらゆることを引き合いに出し、自分を納得させようと必死でした。しかし、どんな知識も、彼女を癒す力はありませんでしたし、まして弟を死から復活させることはできません。ところが、嘆き悲しむ彼女の前にいる方は、彼女の思いを理解しながら言いました。「わたしを信じるか?」
 その方こそ十字架と復活のイエス・キリストです。主は人の知識や経験では到達できない場所へ私たちを導きたいのです。そこは、信じる人だけが見ることができる、奇蹟と呼ばれる領域なのです。

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2017-10-29
10月29日「幸せになるために・十戒 ⑥」

出エジプト20:12 エフェソ6:1〜4
 十戒は大きく二つに分けられ、前半が神と人との関係を、後者が人と人との人間関係を取り扱っています。
 そして、人間関係の基本となる一番最初の戒めこそ、あなたの父と母を敬え、というものです。
 すべての人が敬えるような親であれば、このような律法は必要ありません。しかし、罪人である人類にとって、理想の親になるということは至難の業であり、その影響が子どもに伝わって、死ぬまで付いていくのが事実です。誰かがどこかで神に立ち帰り、父と母を敬う、ということを始めなければ、罪の連鎖が解かれることもなく、平安はありません。この戒めは、人間関係だけでなく、神との関係にも直結するものとされていたからです。
 こんな親だから、もっとこうしてくれたら。親にそんな思いを持つ人が多い現実の中、家族関係を回復し、平安な幸せを得るための神の計画は、父と母を敬うことから始まります。
 これは実践するのが難しい。そう諦めて差し出された幸せを手放すか、神の声に従って、本当にそうだった、と生ける神の姿を仰ぎ見るか。主はあなたにどちらを選んでほしいのでしょうか?

不具合により、映像がありません。ご了承ください。

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2017-10-22
10月22日「幸せになるために・十戒 ⑤」

出エジプト20:8〜11 ルカ13:10〜17
 日本では休まず働くことは美徳とされ、勤勉さを象徴するものです。しかし近年、それが労働問題へと発展しているのも事実です。
 聖書は休むことの大切さを教えています。しかも、当時にして、奴隷や家畜までをも休ませることは、周辺諸国を見ても異質と言わざるを得ません。しかし、必ず休むようにという神の配慮は、やがて休まない人を差別する方向へと向かっていくのです。
 安息日にやってはいけないことが羅列された言い伝えを大事にし、本来、神が与えたかった約束による幸せが失われていく社会の中で、人々は疲れ果て、束縛の中で滅びへと向かっていました。ここに来てくださったのが、救い主イエス・キリストです。
 主は、私たちを解放するために休息を下さった安息日の主です。慣習、しがらみ、自己否定、裁き、といったもろもろの束縛から私たちを解放してくださいます。その方を喜ぶために、安息日は積極的に用いられるべきであり、何かをしない、という消極的な日ではないのです。
 その解放は、男女も、奴隷も、家畜にも、すべての被造物に適用される恵みなのです。

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2017-10-15
10月15日「幸せになりために・十戒 ④」

出エジプト20:7 マタイ1:23
 名前はその人の人となりを示すものとして、単なる記号ではなく、自他共に影響を与えるものとして存在しています。そして、神の名を示すヘブライ語は、モーセに語られた「わたしはある」という言葉です。
 ユダヤ人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」という律法を極端に捉えて、神の名を呼ばない、という選択をしていきました。そして、主「アドナイ」と呼ぶように決め、いつしか「わたしはある」という名前が忘れ去られていきました。その名が忘れ去られていく時、「わたしはある」という方に出会ったときの感動も薄れていったのです。やがて、イスラエルの民の心は、神でないものへと移っていったのです。
 みだりに唱える、というのは、神の性質を誤らない、ということに近いと言えるかもしれません。神の働きを象徴する名前はたくさんありますが、私たちが神のことを誤って理解しないために、神はご自身のイメージをこの世界に投影されました。それが、主イエスであり、その十字架と復活の歩みなのです。
 その方の名はインマヌエル。我らとともにいてくださるお方です。あなたがそう感じないときでさえも、いつも「わたしはある」お方なのです。

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2017-10-08
10月8日「このわたしを、このわたしに」

詩篇36:10 マルコ3:13〜15
 虚栄心、功名心、復讐心、金銭欲、食欲、性欲、名誉欲、権力欲…にサタンは働きかけ、圧倒的力をもって、わたしたちを事ある毎に襲い、それこそが豊かな人生だと惑わします。その真っただ中で、イエス様は御国をもたらすために弟子たちを招きます。 
 主イエス様の12弟子はこれと言って見るべき際立った人間的な魅力と言うべきものは見当たりません。その彼らが、最も中心的にして重要な「いのち」を担ったのです。全世界を席巻する常識に抗して、ただの人が、すべての人に先駆けて新しい時を生きる者として登場します。そこにあるのは「キリストによる選び」です。人間的には取るに足りない「このわたしを」選び、「このわたしに」永遠の命の言葉を委ね、新しき時を担う者とされました。
 何ものをも持たないただ人が、「選ばれ、委ねられ」神の器とされる驚き。それが福音の真の姿です。主の権能の全てが委ねられたのです。この12弟子に与えられた全ては、わたしたちへの信仰の約束に他なりません。主が招いておられます!「信仰は己が力にあらずして 選び委ねしキリストの力」

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2017-10-01
10月1日「幸せになるために 十戒 ③」

 出エジプト20:4〜6
 偶像に関する戒めは、単に手でつくったものを拝むことを禁止するだけに留まりません。この戒めは、私たちが幸せになるためには、戦いがあることを明確にしているのです。その戦いの相手は、荒野でご自身を誘惑された、「この世の支配者」だと主イエスは弟子たちに教えました。
 さらに、主はご自身の偶像もつくらないようにと、私たちに警告しておられるのです。なぜなら、それは自分の思い通りの神存在を投影するものだからです。神に聞き従う姿勢こそ、主が私たちに求めておられる信仰であり、自分の都合で神を利用することは、一時的な平安を得られるかもしれませんが、永遠の命に至る喜びの道への遠回りになってしまうのです。
 偶像に対する戒めは、約束を伴った戒めであり、それほどに戦いが罠に陥りやすく、過酷であることを物語っています。しかし、主はその勝利に、子々孫々にわたる祝福を用意してくださっていること、その勝利の法則を、御子イエス・キリストの生き様に示されたことで、私たちにも道を開いてくださいました。
 あらゆる偶像を捨て、まことの神に立ち返る時。それが今です。

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2017-09-24
9月24日「エルサレム教会(母教会)の役割」

使徒言行録8:1〜5
 今回で二回目となる水村先生を招いての礼拝。前回は弟子について、思い込みや先入観から解放してくださる素晴らしい礼拝の時を導いてくださいました。解放された喜びは、今も燃える火となって、私たちの心を熱くし続けてくれています。
 今回はエルサレム教会の役割について導いてくださいます。ちょうど、祈祷会でも使徒言行録を分かち合っている中で、最近読んだ箇所が選ばれていることに驚きと摂理を感じざるを得ません。主が働き、満たされた時となることは間違いありません。
 厳しい迫害にあい、散らされていった次世代の主の弟子たちは、あの十字架から逃げ去った過去の使徒たちとは異なり、聖霊に満たされ、逃げ隠れせずに、かえって大胆に宣教しながら巡り歩いたと記されています。もちろん、使徒たちは大迫害のさなか、エルサレムに残る決断をしているのですから、なおさら聖霊の働きによる、恐れからの解放の力は凄まじいものです。
 主が来てくださり、どんな礼拝を導いてくださるのか、今から楽しみで仕方ありません。

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2017-09-17
9月17日「幸せになるために・十戒②」

 出エジプト20:3 マタイ6:24
 イスラエルの民を奴隷状態から救い出し、荒野という人間の努力ではどうにもならない場所で人々を養い、ご自身が信頼に値する方であることを証明してくださった神は、同じように主イエスの十字架と復活によって、私たちに救いの道を用意し、どれほど深い愛で導いておられるかを示してくださいました。その前提があって、人は愛に応答できる存在だということを神はよくご存知です。
 十戒の第一戎、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という御言葉は、信頼に値する方、主であるイエス・キリスト以外を神として仕えていくことが、人間にとって望ましくない結果につながっていくことを排除する、神の愛の視点があるのです。主は「神と富」という対象的な物事を対比させ、私たちが仕えるべき主人を明白にします。
 ここでいう富とは、お金のことを指していますが、お金を主人として仕える人生と、神に仕えて富を支配する人生には大きな違いが出てきます。あなたが仕える方は、時と場合によって価値が変わってしまうような紙切れではなく、昨日も今日も、永遠に変わらない愛で、あなたを見つめておられる方なのです。

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2017-09-10
9月10日「悲しみも祝福」

イザヤ40:6〜8 マタイ5:4
 祈りの中で突然、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と言われた主イエス様の言葉が浮かんできました。わたしたちは、自分の経験、フィルターを通して事柄を捉えようとします。そんな中で御言葉は、わたしたちの思ってもみない方向を指し示します。
 大きな「悲しみ」を考える時、まず「死別」「別れ」が思い浮かびます。それならば、悲しくない「死別」「別れ」とは何でしょうか。そこにあるのは、乾いた潤いを失った心、愛のない生活、無関心が思い浮かびます。実は、悲しみの深さは、共に生きた愛の豊かさなのです。神様は、ご自分の御子をこの世に送るという別れを通して、わたしたち人間に対する愛を示されました。そればかりでなく、御子の十字架の死までも引き受けられました。この「悲愛」こそ御心です。「悲しむ人々の幸い」とは、この愛に支えられている自分と出会うことです。「草は枯れ 花は散る」のですが、主の約束、「インマヌエル」の神の原事実の中にわたしたちがいます。御言葉、御心を生きる者は幸いです。 「主にありて悲しむ者の幸いは 共に生きたる愛の証ぞ」インマヌエルの恵みの中です。

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