宣教

2019-06-16
6月16日たいせつなきみ 「十字架のシール」

Iヨハネ4:10
 ある人形たちの国では、素晴らしいことをすると星印、ドジや失敗をすると灰色のダメ印のシールを貼る習慣があります。たくさん星印がついている人形は素晴らしいのですが、パンチネロという人形はダメ印ばっかりで、一つも星印がありません。彼は何をやっても失敗ばかり。そればかりか、つまずいて転んだり、ドジばっかり。「どうせ僕なんて…」と自信がありません。
 そんな時、彼は星印もダメ印も、何もついていない人形と出会います。その人形は、パンチネロに「エリ」のところに行くように誘います。そこで彼はエリに出会ったのです。
 なぜ、シールが付いていない子がいるのか尋ねるパンチネロに、エリは優しく答えます。「それは、他の人形がいうことよりも、私の言うことのほうが大事だと、あの子が決めたからなんだよ。」
 私たちが神に愛されていることは、あの十字架を見ればわかります。エリのところに行き、エリの話を聞いて信じたパンチネロから、シールが一つ落ちました。これがこの絵本の最後のページです。神の言葉を信じ、その愛に自らを委ねようと決断するなら、神は私たちをあらゆる罪から清め、神の子としての歩みを確かなものとしてくださるのです。

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2019-06-09
6月9日「約束の聖霊」

ヨハネ1:29~34
 世界ではじめての教会が誕生した時、救いの主イエスを信じる人々は聖霊のバプテスマを受けました。これは、聖霊を受ける、聖霊に満たされる、というものとは全く別の、体験的で特異的なものでした。
 聖霊によらなければイエスを主と告白できないと聖書にあるように、聖霊は私たちが主を信じることのできる力であり、キリストに属する者を導く助け主です。しかし、日々の生活を聖霊によって導かれることと、聖霊のバプテスマは別のものであることが聖書によって描かれています。
 ある信仰者は、信じたが、聖霊を受けていない、と告白し、見たことも聞いたこともないと告白しました。書簡の中には、聖霊のバプテスマを受けた人々が霊に満ちた歌を歌ったり、病を癒したり、異言を語ったことが記されています。
 信仰の先人たちも、人生のある時、ふいに救い主と出会い、救いの確信が与えられ、涙が止まらなかったというような経験をしています。この人々は、信じたあとでさえ、救い主を知らなかった、と告白するのです。
 聖霊のバプテスマは約束です。しかし、私たちが何かをすれば与えられるというものではなく、主ご自身の時に応じて、与えられる素晴らしい恵みなのです。

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2019-06-02
6月2日「一つの体として」

申命記10:11〜12 エフェソ4:1~6
 美しい万緑に包まれ、サラの散歩をしていると、「新しい酒は新しい革袋に」(マタイ9:17)のみ言葉が心に浮かび、新しい霊に満たされ、柔軟に生きることの大切さに気づかされます。ペンテコステの前の一週間は「アジアエキュメニカル週間」として、一つなる教会を考える時となっています。
 2001年には、世界には約238カ国33000教派があり、毎年、約300の教派が増え続けていると言われます。聖書には、「霊による一致を保つように…体は一つ、霊は一つ、一つの希望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、父である神は唯一」とあります。
 教会は、一つを生きる神の民なのです。そのことを一番忘れているのは、他ならぬ教会ではないでしょうか。わたしたちは翻って、「初めの愛」に立ち帰ることが求められています。
 今一度、わたしたちは一致を求めて立ち上がる時です。己の真実なる信仰という「正義」のために分裂を容認することを「是」としてはなりません。
 「実にキリストはわたしたちの平和、二つのものを一つにし、敵意という壁を…」であるからです。今こそ、「キリストにおいて一つの体」を生きる教会として歩むことが求められています。「キリストの体」十字架―復活を生きるために。「今」がその時です。

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2019-05-26
5月26日「しがみつく信仰」

創世記22:1〜19
 聖書に多く記されている言葉の一つとして「忍耐」というものがあります。この言葉を見ただけで暗い気持ちになります。なぜなら、誰もそんなことをしたくないからです。しかし、聖書にあって、神が私たちに求めておられるものの一つが「忍耐」であることは明確な事実です。
 アブラハムは信仰の父と呼ばれる偉大な存在ですが、彼を偉大たらしめているのは、彼の人となりではありません。嘘をつき、神の言葉を軽んじ、姦淫を犯し、神の計画をあざ笑ったアブラハムです。しかし、神は彼を義とされた、と聖書にあります。なぜでしょうか。それは、彼が「主を信じた」(創世記15:6)からです。
 彼に与えられた約束が今、破壊されようとしています。それも、彼がこの地上で最も大切にしているものが、失われようとしているのです。このことによって、アブラハムが神を捨てることさえもありうると思えるような大きな試練です。彼のような道を通っていったことが私たちにもあるでしょう。もしかしたら、今がその時なのかもしれません。そんな時、信仰の父は私たちにその姿を持って道を示しています。
 その姿は、父なる神の姿そのものです。何よりも、神ご自身が、私たちを忍耐してくださったこと。それが、あの十字架の出来事にほかなりません。

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2019-05-19
5月19日「口のある神」

サムエル上3:1〜10 マタイ6:5〜8
 「祈りは聞かれる」というのは、神を信じる人々の間で語られる常套句です。そして、それは真実でしょう。救い主、イエスの名によって祈ることの特権は、素晴らしい結果をもたらしてくださるのです。ですから、子どもが親のふところに飛び込むように、大胆に主のふところに飛び込むこと、これが祈りの本質だと思います。
 ところが、願い事を聞いていただいて、それで終了となる交わりが祈りだと勘違いすることがあります。親と子の会話のやり取りが一方通行だとしたら、それは健康な関係と言えるでしょうか。
 少年サムエルは主に仕えていましたが、祭壇の前で儀式を遂行するだけの生活の中で、神と交わったことがほとんどありませんでした。ですから、彼は神が自分に語りかけてくるなどと、考えたこともありませんでした。しかし、事実神は語りかけてくださる方であり、そのみ声によって人々と交わりをもってこられた方です。そして、サムエルも神の語りかけを聞いた時、まったく新しい歩みが始まったのです。それは、非常にチャレンジングな内容でした。しかし、彼はその挑戦を受け、やり遂げました。なぜなら、神はできないことを与える方ではないからです。

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2019-05-12
5月12日「最も肝心なこと」

サムエル上16:7 Ⅱコリ10:10
 わたしたちは聖書を読むとき、どのように聖書と向かい合い、出会っているでしょうか?相変わらずこの世の、あるいは自分特有の価値観を持って聖書に向かってはいないでしょうか?
 言うまでもなく、聖書の明らかにする真実、はわたしたちの思考の延長線上にあるのではなく、「新しく生まれる」(ヨハネ3:7)ことを通してのみ知ることが出来ます。これこそが最も肝心なことです。
 残念ながら、多くの場合、御心は、わたしたちの思いの対極にあります。パウロは、キリストの故に、この世の価値あるものを「糞土のように思っている(口語)」とさえ言い切ります。この真実を受け入れる時、解放され、神の国が自らの出来事となります。
 あのサムエルでさえ、御心を見誤るのです。弟子たちはキリストの選びを通し、神の選びを鮮やかに証しました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカ4:6)なのです。
 初代教会の使徒たちの働きの目覚しさは、言葉に表せないものがあります。虚しいこの世の価値観に惑わされてはなりません。パウロは、「容貌は貧相で、言葉つきも卑しい」と言われていたのです。その彼は、世界最大の宣教者となったのです。あなたもまた二人とないキリストの証人なのです。

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2019-05-05
5月5日「赦しからはじまる物語」

ヤコブ4:7〜10
 聖書の中を覗いてみれば、登場する人々の人生は、成功よりも、失敗の方がはるかに多いと思えるのではないでしょうか。サクセスストーリーであれば、真似てみようと考える人たちもいるかも知れませんが、なぜこのような失敗談を赤裸々に告白し続けてきたのでしょうか。
 実は、神に対する告白こそ、私たちをありのままの姿に戻すための作業に他ならないからではないでしょうか。そして何よりも、神はそのような失敗談があってもなお、私たちを愛してくださるということ。それがあの十字架の出来事だったのです。私たちは前提として、そこからスタートする必要があるのです。
 私たちの失敗談を聞くことは、神にとって必要なことではなく、私たちにとって必要なことなのです。神は私たちが失敗談を告白することを通して、自らの人生を軌道修正し、主イエスの歩みとその十字架に現された神の深い愛に気付くことを望んでおられるのです。罪の告白は、私たちの側に与えられた成長の場であり、将来の生き方を宣言する場です。
 聖書の登場人物の歩みが失敗とともに始まったこと。失敗こそ、神との出会い、予想もできなかった生涯への招待状だったことを思い出してください。

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2019-04-28
4月28日「与える信仰」

マルコ12:41〜44
 この聖書の時代、夫を失った女性は非常に貧しい暮らしを余儀なくされていました。誰かに養ってもらわなくては、食べていくことさえ難しかったのです。
 ある時、そんな女性が2つの銅貨を献金しました。これは日本円にすると200円位です。他の人たちはもっと多くの金額を入れていました。この女性はたった200円しか入れられなかったのですが、主イエスはその女性を賞賛しました。なぜでしょうか。
 他の人たちはあり余る中から少しだけを献げていたのですが、この女性はなんと生活費をすべて入れてしまったのだと主は言われたのです。この聖書の箇所は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 女性の全財産は、主をどうしたら殺すことができるだろうかと考える人々の手に渡ります。適切に使用されるはずもありません。このことは、献げるということが、権利につながるものではないことを教えてくれます。この点が税金などとは全く異なるのです。
 自分の生活をすべて主に献げていくことは、それがどう使われるかということ以上に、そのことにより、神が自分の人生にどのように介入してくださるかを知るチャンスなのです。
 この女性は、そのことにチャレンジし、実りを見てきた人だったのでしょう。

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2019-04-21
4月21日「復活 ー 限界を超えて」

イザヤ55:8〜11  使徒言行録17:16〜34
 聖書には「新しい」という言葉が多く出てきます。主イエスもご自身の与える新しい時代を様々なたとえ話で語りました。実は、神は「新しい」ことが大好きなのです。しかも、その真新しさは人間の想像を遥かに超えるものであり、サプライズをもたらすものです。それは、神の独り子が地上に派遣され、十字架で命を捨てるという出来事だけでは終わりません。その先に、復活があったのです。
 このような話は荒唐無稽であり、信じることは難しいものです。しかし同時に、人間の知性を遥かに超えるこの事実は、信じることのみによって開かれる世界でもあります。主イエスの死者からの復活という、この信じられないような出来事を体験することができた当時の人々が羨ましいと思うなら、彼らの姿を聖書の中から覗き見ればいいのです。
 主イエスは十字架で彼らの罪深さを示し、それを赦し、復活して神のもとから来たことを証明しました。彼らは全くつくりかえられてしまいました。保身に走っていた時代が嘘のように、彼らは命がけであらゆる場所に出向き、そのことを伝えました。復活の主に会ったからです。
 それは昔の話ですか?いえ、主は今も生きておられます。彼らの姿は私たち自身の姿でもあるのです。

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2019-04-14
4月14日「神の与えたビジョン」

箴言29:18  使徒言行録20:17〜24
 神は確かなビジョンをもってこの世界を創造されました。その計画の綿密さは目を見張るほどです。それは、小さな身体の中に、地球何周分もの神経細胞が張り巡らされている私たち人間に対する計画も同様です。
 命を失ってもいい、と口にした使徒パウロは、あることに情熱を燃やしていました。それは、神から与えられた計画です。人が命をかけてもいい、と思えるのはどんな時でしょうか。それは、神のビジョンと私たちの喜びが交差する瞬間です。パウロの人生にもいろいろなことがありました。大きな失敗を犯してきました。しかしパウロ同様、神はご自身の計画が欲しいと願う人に、誰でも、いつでも、その計画を明らかにし、聖書に記されたように、その約束を果たしてこられました。
 「夢破れて」という言葉をよく耳にします。しかし、夢が消えてしまったと私たちが感じていたとしても、神の夢は今もあなたの中にあるのです。いえ、あなた自身が神の夢なのです。
 神があなたを夢見て、何千、何万もの時を越えて、今あなたがここにいます。そのあなたの喜びは、神の喜びでもあるのです。

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2019-04-07
4月7日「主が共に、主と共に」

イザヤ55:9  ヨハネ5:19
 1974年4月7日、45年前の今日、弘前西教会(伝道所)は設立されました。最初の礼拝は、5人で守られました。記念日の尊さは、懐古することではなく、原点に立ち返ることにあります。「尊いのは愛によって働く信仰のみ」(ガラ5:6口語)が、それであることを、恵みの中に噛みしめています。
 教会とは、御言葉によっていつも造り変えられ続けることにより、教会となります。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)からです。この世の価値観に乗っ取られると、「教会も自分もどこにいるのか」を見失ない、「塩と光」を失います。
 教会の使命は、「御心を生きる」以外のことではありません。イスラエルのみならず、教会の歴史もまた、神への信実を見失う中に漂ってきました。この世の価値観に追随し、翻弄されたからです。
 わたしたちは今一度、イエス様の教えてくださった「主の祈り」を生きる教会となることです。そのためには、聖霊による愛により、いつもあらたにされることです。「主の霊のおられるところに自由がある」からです。「御名が、御国が、御心が」の祈りこそ、聖霊による愛の待ち望み生きる教会の祈りです。
 主はこの教会を通し、御業を前進させたいと願っておいでです。「天を地にもたらす教会」として。 

いつも楽しみにしてくださってありがとうございます。
PCの不具合により配信できない期間がありました。大変申し訳ありませんでした。

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2019-03-31
3月31日「持てる全部で」

マルコ6:31〜44
 主イエスは休息を取ることを奨励される方であり、決して何かに急かされる方ではありませんでした。しかし、この世界はスピード感を求めていないでしょうか。そして、神の奇跡的なわざは、人里離れた場所で起こりました。
 その日、主イエスは弟子たちに権威を委ねようとしましたが、彼らはそのことの意味をまだ理解していませんでした。そこで、主は人々を少グループに分けて、その一つひとつの家族的なグループを祝福され、奇跡で満たしたのです。
 この家族的なグループは過ぎ越しの祭りを一緒に祝うグループでした。日常的に交わり、そこで励まし合う関係を築いていました。それはまさに、現代の教会共同体のようなものだったのです。
 主は教会の頭であり、その共同体にご自身を分け与えてくださる方です。その共同体に求められているのは、持っているものを出し合うことでした。5,000人以上の人々を満たすために、パンは何百万円分も必要だと思うのが常識です。しかし、これで全部です、とそれぞれが精一杯を主に差し出すならば、たとえそれが常識的に見て不足していると思われるようなことであったとしても、人々が満たされる、というその目的が果たされていくのを見ることになるのです。
 

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2019-03-17
3月17日「約束された勝利」

ヨハネ16:25〜33
 主イエスの話されたことは、単なる自明の倫理ではありません。真理を語っているので、この世界の動きに合致する部分も多く見られますが、実際には主の十字架と復活における神の国の法則を語られていたのです。それは、人間の理解を遥かに超える奥義とも言えるものでした。
 不完全な信仰ではありましたが、すでに主を信じていた弟子たちは、確信を持って主に従う決意を新たにします。しかし、彼らはまだ人間的な努力の範囲を超える、超自然的な神の力を受け入れる前の段階にあったのです。すなわち、復活の勝利を体験していなかったわけです。
 信じ切っていたものが目の前で崩れ去る時、彼らはその状況を直視することができませんでした。主のためなら命を捨てる、と豪語していた弟子の一人も、自分は死刑になるような人物と関わりはないと偽り、逃げ出してしまうのです。かつて、湖で激しい嵐に襲われたときと、同じ反応でした。しかし、主の姿勢は一貫しています。あの時と同様に、今は命を捨てて、人々を取り戻そうとされたのです。それが十字架の奥義でした。
 主が語った「世に勝っている」という言葉は、決して十字架という試練を前にした強がりではありません。それは、天の国を知る方の確かな言葉なのです。

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2019-03-10
3月10日「奇跡の教会」

詩編51:12~14  ガラテヤ5:22~25
 R・ブラウニングは、「われと共に老いよ。最上のものは、これから先にある。~それは生命の最後である。~われらの時は神の御手にある。~恐るるなかれ。」と詠います。「思い違いをしてはなりません。神は、人から侮られることは在りません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。…肉に蒔く者は、肉から滅びを、…霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」と聖書は語ります。
 しかし、「朝毎に新たになる」(哀歌3:23)主の恵みと慈しみの真実の故に、わたしたちは新しく生きることが赦されています。ダビデは、赦されざる罪を犯しましたが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51:12)と祈り、聞き入れられました。大切なのは、新しく生まれること」(ヨハ3:3)なのです。
 教会とわたしたちが、キリストの器となるためには、「聖霊の実り」―愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制―です。教会の存亡はこの「聖霊の出来事」の一事にかかっています。 
蕎麦屋が美味しい蕎麦を作ることに心血を注ぐように、聖霊の実を結ぶこと、これが教会とわたしたちの求める最も大切なことです。「愛、喜び、平和…」に生きる「奇跡の教会」のわたしたちです。

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2019-03-03
3月3日「道をそれて」

出エジプト3:1〜6  ガラテヤ4:19
 世界には数多くのおとぎ話があります。それは、周囲の世界の変化を紡ぐものもありますが、たいていの場合、主要な登場人物たちが大きな変容を遂げるものです。そして、このようなおとぎ話と福音との共通点を上げた作家がいます。しかし、唯一の違いがあります。それは、福音は真実だということです。
 モーセという名の老人が茂みの前に腰を下ろしていると、柴が燃えだしました。しかし、いつまでたっても燃え尽きない柴を見て、彼は「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と腰を上げました。彼がこのように興味を持つものを神はご存知でした。そして、そのことを通して、ご自身を明らかにされたのです。もし、彼が燃える柴に興味がなかったなら、日々の活動を一旦止めていなかったら、道をそれていなかったら、このあと彼の人生と世界に起こった計り知れない変化はすべて起こりませんでした。
 使徒パウロはガラテヤ人への手紙の中で、人々が日々の活動をやめず、以前のような生活に戻っているのを知って苦悩しました。イエス・キリストの十字架を通して人生が回復され、今まさに生み出されんとされている変化が起こる予兆は見えましたが、彼らは、その道をそれ、燃え尽きる柴の方へ向かったのです。
 神が望まれていること、それは人間の変容であり、本来の姿に戻ることに他なりません。

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2019-02-24
2月24日「本当の謙虚さ」

ダニエル4:26〜34
 日本における「謙虚さ」、「謙遜」とは、自分自身を蔑むことで相手を高く上げることです。多くの人は、「自分には価値がない」といった旨の発言することが美徳とさえ考えているのではないでしょうか。
 聖書は文化や時代に左右されない本当の「謙虚さ」について教えています。そして、「地上の誰よりも謙遜であった」などと自ら書き記すことさえも、何ら矛盾にならないとされています。日本では、考えられないことです。しかし実際には、それこそが本当の謙遜さにつながる考え方なのです。
 バビロンのネブカドネツァル王は、その繁栄ぶりを自讃しているとき、まさにその王国の座から引き下ろされ、野の獣のように彷徨い、七年間も理性を失っていました。これは、謙遜さを学ぶためのステップでした。彼が天を仰いだ時、そこには永遠に変わらない方、主なる神の支配があったのです。彼は自分の王座を明渡し、何者かを知り、かつての繁栄がどこから来ていたのかを知りました。すると、彼に繁栄が戻り、以前よりも栄えていったのです。
 実のところ、謙虚さとは自分に価値がないとアピールすることではありません。自分に素晴らしい価値をおいてくださっている源を知ることにあるのです。あなたが信仰によるこの謙虚さを歩むことこそ、神に栄光を帰すことに他なりません。

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2019-02-17
2月17日「完成を見る神」

ローマ8:28〜30
 物事がうまくいかない時、この聖書の箇所を引用することが多くあります。そして、万事を益としてくださる神の約束は、まったくもって真実です。では、なぜ神は万事を益としてくださるのでしょうか。
 聖書のいたるところに、神が天地創造の前から私たちをご存知であったと記されています。時限的な世界の誕生の以前から、神は私たちをご存知だったということはどういうことでしょうか。
 また、聖書の登場人物たちがいかなる状況にあろうとも、神は彼らの未来には希望があることを語り続けてこられました。つまり、神は私たちのゴールから今を判断しておられるということでしょう。そして、神は永遠を生きる方であり、時間に制限されないということも忘れてはなりません。神を信じる人々が主イエスと共に王座に着いていることが現在形で語られている箇所を見ても、私たちの存在がどれほどのものかを垣間見ることができます。
 そして、神は私たちが栄光に満ちた生涯を送るために、すでにその道筋を用意してくださっているということです。何かをしてしまって後悔する時、私たちはそこに戻って別の道を行くことがあり得るでしょうか?いえ、神は私たちがどんな選択をするかさえも、予めご存知なのです。それでもなお、神は私たちを忍耐をもって見続けておられるのです。

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2019-02-10
2月10日「キリスト直筆の手紙」

エゼキエル36:26〜28 IIコリント3:1〜3
 イエス様はご自身のことを、ヨハネによる福音書では、「命のパン」,「世の光」、「良き羊飼い」、「復活であり命」、「道、真理、命である。わたしを通らなければだれも父の御もとに行くことはできない」と言われました。さらに、「まことの友」、「救い主」、「一粒の麦」…とも言われます。ところであなたは、イエス様を「誰」と信じ、告白し生きていますか?あなたの告白があなたの信仰ということになります。
 続いて、「ところで、あなたは誰ですか?」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。
 イエス様はあなたのことを、「友」と呼び、「弟子」、「世の光」、「地の塩」、「愛を生きる者」、「キリストの証人」、「全世界に福音を宣べ伝える者」、今日のみ言葉で言えば、「キリストの手紙」ということになります。何という光栄、驚きでしょう。わたしたちはこの事実を、知らないふりをして過ごしてきました。
 「キリストを生きる手紙」で、人々は「わたし」を読み、キリストと教会と聖書を知ることをしっかり心に刻みましょう。「わたし」がどんなに貴い者とされているかを知り、言い訳を退け、感謝しましょう。わたしたちは「歩く聖書」であり、「生きたキリストの手紙」です。このことを認め、告白し、大胆に愛と感謝に歩みましょう。新しい時に招かれています。

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2019-02-03
2月3日「神の友になる」

出エジプト32:7〜14  ヨハネ15:14〜15
 聖書は神のこと、そして救い主イエスのことを「王の王、主の主」と表現しています。主が王の王となるためには、他の王がいる必要があります。その王とは、誰のことでしょうか?
 主イエスは弟子たちに「主人としもべ」、「父と友」の対比について語られました。奴隷が主人に仕えるのは、支配から、または恐れからです。しかし、父に子が仕えたいのは、愛しているからであり、自発的なものです。そして、主が弟子たちを友と呼ぶということは、神も私たちの友になりたいと願っておられるということです。
 事実、聖書の中で神は人々との間に素晴らしい関係を築かれています。特に、モーセのことを、主は友と呼んで親しく関係を持たれました。人々が神に背き、好き勝手なことをしているさまを見た神は怒りに燃えて彼らを滅ぼそうとしますが、モーセは神をなだめて、不信仰な人々のためにとりなすのです。結果として、神は災いを思い直されました。
 神が全知全能性を放棄したようにも見えるこの箇所は、私たちに神が人格を持っておられることを提示しています。そして、何よりも神が操り人形ではなく、ご自身と顔と顔を突き合わせて交わる親しい関係を持つ存在として私たちを見ていることを示しているのです。もちろん、あなたもその神の友の一人です。

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2019-01-27
1月27日「回復された関係」

創世記18:1〜15  ヘブライ11:10〜12
 宗教は人々の罪に焦点を合わせます。宗教指導者である律法学者やファリサイ派の人々は、血の滲むような努力を重ねていたため、努力できない人々を受け入れることができませんでした。しかし、主は人々の罪を不問とし、その人本来の姿に焦点を合わせます。そして、私たちの本来の姿とは、神の似姿につくられた神の子どもとしての価値にあります。
 アブラハムの妻、サラは高齢で、なおかつ不妊の女性でした。子を生むことは不可能と考えられていたし、自らもそう思っていました。そしてあの日、主の御言葉を疑い、主の前に偽りを述べて罪を犯しました。それは、旧約聖書に記されているとおりです。彼女の罪は罪として記録され、残っているのです。それは彼女にとって、また世間体を気にするならば、消してしまいたい過去かもしれません。しかし、神である主はそのことをあえて残しているのです。なぜ、彼女の失敗を永遠なる記録として残しているのでしょうか?
 あのゴルゴタの丘の上に十字架が立てられ、神の御子が血を流した日まで、彼女の記録は罪深い女性という失敗の記録でしかありませんでした。しかし、その失敗は主イエスの血潮によって清められ、今や宝石のように輝いて人々に神の寛大さと栄光を伝えています。「信仰によって」神は罪を不問にするばかりか、その失敗をも輝かせてくださるお方なのです。

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