宣教

2021-01-17
1月17日「聖なるリノベーション」

イザヤ64:7 コロサイ3:16〜17 イザヤ書の預言に描かれた暗い終末の様子に、一筋の光のように差し込まれた御言葉があります。私たち人間は粘土であり、主なる神が、私たちの陶工だという御言葉がそれです。
 人は個性を持っています。怒りっぽい人、小心者の人、人といるのが好きな人、そうでない人…。私たちは言います。「私はこういう性分ですから。」
 本当にそうでしょうか。自分は絶対変われない、という思いはどこから湧いてきたのでしょうか。いずれにしても、その自己判断が、私たちの人生の行く末を決めていきます。しかし、神は私たちを主イエスのようにしたいのだと聖書は語ります。果たして主は怒りっぽかったでしょうか、小心者だったでしょうか。あなたが主のように変化すると、どんな人になるのでしょうか。
 もし、あなたが身体のどこかに不調を抱えたとしたら、助けを求めたり、病院に行くはずです。心も同じではないでしょうか。
 もし、私たちが勝手な自己判断から離れて、心のリノベーションを神に発注し、その工程のすべてを委ねたとしたら、一体どのような素晴らしい変化が待っているのでしょうか。

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2021-01-15
1月10日「初めから終わりまで」

詩編31:14-15  黙示録1:8
 「始まり」と聞く時、クリスチャンである多くの人は、創世記1-1~の「初めに、神は天地を創造された。~神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。」を思い出すことでしょう。
 これほどまでに鮮やかに、世界の始まりを記しているものはありません。加えて人間の始まりと本質も明らかに記されています。主のものなる私です。
ここには、神と人間との深い関係の洞察のみならず、すべての事柄の理解に関するバックボーンがあります。この、「初めに神は」の言葉は、「初めに言葉があった」(ヨハネ1:1)を想起させます。
 聖書は、すべての始まりは「神の御手」の中に始まるだけでなく、終わりもまた、「神の御手」にある(詩編31:15口語訳)ことを明らかにしています。
 一年を始めるこの時、わたしたちは自分の始まりも終わりも、神の御手にあることを心に刻み、慈しみの招きの中を、生きる者でありたいものです。
聖書の最後の「ヨハネの黙示録」1章8節で、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られるお方、全能者が…『わたしはアルファでありオメガである』」と宣言します。インマヌエルの主と共なる、「御手にあるわたしたち」の一年が祝福の約束をもって始まりました。何という幸いでしょう。

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2021-01-03
1月3日「だから大丈夫」

創世記18:13〜15 「神に不可能なことがあろうか」
 聖書に散りばめられた数々の物語の中で、この言葉の当てはまらないものは一つもないでしょう。救い主の誕生においても、若く、未婚のマリアに天使が遣わされ、再びこの言葉が与えられています。「神に不可能なことは何一つない」
 アブラハムとサラの夫婦にも、不可能を可能にする神の大いなるみわざが示されました。それは、あまりにも驚くべきことで、信じがたいことだったので、彼らは笑ってしまうほどでした。
 もし、人間的に可能なことだけを神がなさってくださったら、誰が神の存在を認めるでしょうか。もし、あなたが神だとして、ご自身の存在を人々に表したいと思ったら、驚くべきことをしたいと思わないでしょうか。
 しかし、祈りが聞かれない、思い通りにならない、驚くべきことが起こらない。そう思うこともあるでしょう。もし、そこで諦めてしまうなら、祈ることをやめてしまうなら、あなたはその祈りや願いに対する神の答えを見逃すことになるかもしれません。
 大丈夫です。あなたの祈りや願いは必ず届いています。不可能が可能になる。これは神の約束です。

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2020-12-27
12月27日「共にいる神」

 創世記28:10〜22 神がご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現されます。これはどんな意味があるのでしょうか。
 もし、あなたがご自分のことを人々に示そうと思うなら、どこどこの誰々です、と言う時に、マイナス要素のあることを添えるでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブは、人間的に優れていたわけではなく、神を信じるようになってからも罪を犯すことがあったようです。しかしながら、神である主は、彼らの神であることを堂々と告げるのです。神は、どんな人の神と呼ばれることになろうとも、喜ばれる方であることを示しているのです。
 そして、神の名はインマヌエル。私たちと共におられ、決して見捨てない、という名です。もしかしたら、あなたは神を忘れて何週間過ごしても平気かもしれませんが、神はあなたを1秒たりとも忘れることはできません。そして、それは永遠に続きます。
 二人三脚で歩む夫婦や、仲間たちの素晴らしいエピソードが世界中にありますが、神とともに歩むエピソードを超えるものはありません。
 その計画は現在進行形であり、思い通りに行かないこともあるかもしれません。しかし、どんなことがあったとしても、主はここにおられるのです。

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2020-12-20
12月20日「救い主の道」

箴言3:6  マルコ1:1〜8 メリークリスマス!救い主の御降誕をたたえます。
 福音書の中で、唯一、主イエスの誕生の記事が書かれていないマルコによる福音書。4つの福音書に共通して書かれても良いはずの出来事ではないかと思いますが、同じ時期に記すものとしてマルコが選んだのは洗礼者ヨハネの記事であり、これが4つの福音書に共通して書かれています。
 すでにお生まれになった救い主を尻目に、人々は洗礼者ヨハネこそが救い主ではないかと困惑し、全土からやってきて次々に悔い改めの洗礼を受けていくのです。それは、一人の人の御言葉に対する忠実さからスタートしました。その御言葉とは、「主の道をまっすぐにせよ。」とのみ声でした。
 御言葉をまっすぐに受け取れない時があるでしょう。実際、救い主が宣教を開始されても、その方が救い主だと受け止めることができなかった人々の姿が記されています。特に、失うものが多かった人々は皆、救い主を拒絶しました。付き従う弟子たちでさえ、眼の前のお方が救い主であることに半信半疑だったと思います。
 クリスマスの今日、あなたは救い主をまっすぐに受け入れることができますか?

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2020-12-18
12月13日「貧しさの祝福」

ルツ2:4  マタイ1:5
 『ルツ記』-何と美しい聖書の一巻でしょう。不思議に、教会学校の時から大好きな物語でした。早熟だったばかりではなかったように思います。ここには、どんな不幸と思われる中にも、神の慈しみの及ばない処はないことを、静かに優しく語りかけてくれているからだと思います。
 異邦人モアブの出自の若い女性が義母ナオミと共にナオミの故郷ベツレヘムに移り住みます。夫を失ったルツというこの女性が、ボアズという男性と出会い、二人は結ばれ、オベドが生まれ、オベドはエッサイを、エッサイからダビデ王が…。不思議な人生の展開を描く「系図」が、マタイ冒頭のキリストの系図に直結します。
 神の永遠の救いの御計画の一端を、この不幸と思われる女性によって担われていることの驚きがここにあります。どんなに小さく貧しくあろうとも、そこに鮮やかに現れる神の栄光!神の御業です。
 聖書は驚きに満ちた神の御計画、人間の思いと全く異なる神の出来事、神の救いを語り続けます。この驚きを、「わたし」の出来事として受け入れる時がクリスマスです。出自も貧しさも、人間の側のどんな否定的要素も、神の救いの計画を止めることは出来ません。わたしたちもこの恵みの中にいるのです。

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2020-12-18
12月6日「成就される言葉」

ルカ1:5〜25
 ザカリヤとエリサベトに子どもが生まれる。それは、年老いた夫婦であり、なおかつ子供の産めない体であった妻を持つザカリヤにとっては信じられないことでした。もちろん、子どもを欲したことはあったでしょう。しかし、諦め、祈りの言葉さえ忘れてしまっていたかもしれません。しかし、信じることのできなかったザカリヤに天使は言いました。神の言葉は「時が来れば実現する」のだと。
 長い間祈ってきてもなかなか実現せず、忘れてしまったり、諦めてしまったことはありませんか。それはエリサベトにとっては恥に思えるようなことだったのです。恥を抱えたまま生きることの辛さを感じながら、もはやそれは墓まで持っていくというような解決しない問題のように思えました。しかし、神は不可能を可能にする方。時が来て、この夫婦の願いは実現しました。
 しかも、この夫婦は、もし子どもが与えられても、どのような子どもになるかまで想像ができたでしょうか。神の言葉は人の思いを遥かに超えて実現し、なおかつその将来にまで影響を及ぼします。
 諦めた祈りがありませんか?今一度、神の時を待ち望みましょう。

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2020-11-30
11月29日「疑いの中で」

詩篇27:1〜14
 聖書の約束が実現しないことを不安に思うことがありませんか?御言葉の通りにならないような気がして、神に対する疑いでいっぱいになりませんか?一生懸命に聖書の御言葉を読み漁れども、答えが与えられない時はありませんか?そんな気持ちになるのは、世界であなたがはじめてではありません。
 ダビデ王は敵に命を狙われ、逃亡中の身でした。神の答えはなく、御言葉の約束は破られているように思われるそんな時、彼の反応はどうだったのでしょうか。驚くべきことに、それは神を賛美することでした。
 もちろん、不安な気持ちがなかったわけではありません。彼の叫びが響き渡る言葉の数々は、どれほどの恐怖と疑いが襲いかかってきたか、容易に想像できます。しかし、彼は神への賛美をやめることがありませんでした。
 これは、やがて来る救い主の姿と重なります。不信仰と痛み、悲しみが拡がる世界に救い主イエスが来た時、その姿はどうだったのでしょうか。
 あの十字架の上、口汚く罵る敵、命が燃え尽きる間際にあってなお、主は神を賛美することを止めることはありませんでした。それは、希望に満ちた待ち望む人の姿勢そのものだったのです。

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2020-11-30
11月22日「祝福を生きる10%に」

創世記35:3  ルカ17:15〜16
 自分の物忘れの激しさを思い知らされ、自分の心の浅さを思い知らされています。じっとその所に佇み熟考することが出来ていない自分と出会います。要するに「チャカシ」なのです。反芻(はんすう)せずに、いつも先を急いでしまう自分に出会います。せっかちは祝福を追いやってしまうことにやっと思い至ります。要するに「慌て者」なのです。
 アニー・ゼリンスキーが、「心配の40%は『決して起こらないこと』、30心配の30%は『すでに起こってしまったこと』、心配の22%は『取るに足りないこと』、心配の4%は『わたしたちの力でどうにもならないこと』、心配の4%は『わたしたちが変えることの出来ること』である、と言っています。
 ヤコブは自分の思いに性急で狡猾、事を急ぐ者でした。しかし、沢山の葛藤を経て、生まれ故郷に向かう中、「ベテル」で祭壇を築きました。そしてイスラエル12部族の族長になりました。
 イエス様に助けを求めて来た10人の思い皮膚病の人たちは、願い通り祭司の所に行く途中、病が癒されたことを知りました。そして、その中のただ一人の異邦人だけがお礼を言いに、賛美しつつイエス様の所に戻ってきました。あなたはいかがですか?賛美と感謝に生きていますか?

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2020-11-14
11月15日「救いの十字架」

ヨハネ5:1〜9
 ハワイにいる時、労働ビザが降りず、仕事がありませんでした。そんな時、知り合いの方から観光案内をしてみないかと誘われました。その日から、ハワイの名所に出向いてガイドの話す内容に耳を傾け、ヒーリングスポットと呼ばれる場所を巡りました。
 ベトサダの池もそんなところだったのでしょう。そこには、日々、癒やしを願う人々でごった返していました。傷を追った人々が集まると美しい支え合いがあるように思えますが、実際には、競争原理の働く場であったことが示されています。日々、そのような光景を目にしてきて、かれこれ38年。そんな人がいました。主イエスは、その人に近づき、立ち上がって床を担ぐように促します。
 その人は癒やされましたが、癒やしてくださったのが誰だか分かりませんでした。なおかつ、その日は安息日で、床を担ぐことは禁止されていたのです。
 ヨハネによる福音書では、この事件が十字架への第一歩であったことを示しています。もし、あなたの問題が解決し、病が癒やされたことが、主の十字架につながったと知ったらどうでしょうか。十字架とはそのようなものです。十字架とは、どこか遠くのものではなく、すべて、あなたのためなのです。

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2020-11-08
11月8日「神の豊かさ」

エフェソ3:14〜21
 神の豊かさについて考える時、理解できないので、理解できるように矮小化してしまうことさえあります。しかし、神のなされることを人の許容範囲にとどめてしまうとすれば、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知ることはできません。
 神の豊かさについて知りたいならば、信仰によって心の内にキリストを住まわせることだと聖書は語ります。では、どのようにすれば、私たちは心の内にキリストを住まわせることができるのでしょうか。
 実は、聖書は人の努力や能力を超えたところにある神の豊かさについて語っています。つまり、「御父がその豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」くださることにより、神の豊かさと、その愛の範囲がどれほどのものかを知るのです。
 神の豊かさは、時に私たちに目に見えて示されます。あなたはそれを受け入れることができるでしょうか。十字架は、神の豊かさの頂点に位置しています。その愛がどれほどのものかを理解できたのは、あなたが特別に霊的な人だったり、敏感だったからではなく、ただ神の霊がすべての人に注がれているからです。
 神があなたに用意しているご計画は、あなたが求めている以上のものなのです。

※機材の不具合により映像の撮影ができませんでした。ご了承ください。

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2020-11-02
11月1日「永遠の命の世界」

伝道の書3:11
 人が神によって造られたことは、人間の特徴を見る時に明らかです。愛すること、愛されることが必要であり、創造的であること。そして、草や木が枯れる、有限な世界につながれながら、無限や永遠という言葉とその意味を知っていること。これらは、どんな人にでもある共通点ではないでしょうか。もし、私たちを製品に例えたならば、すべての人に「Made in Heaven」の銘が刻まれているのではないでしょうか。
 同じように、すべての人に訪れる「死」という現実も、共通した問題であると言えます。かつて、日常的に戦争があり、食料の問題、健康上の問題があって、死はより近い存在であったことでしょう。それだけに、多くの人がそのテーマに対する答えを求めていたはずです。
 学問の街アテネで、主イエスの復活を証ししたパウロの、あまりにもシンプルな話に、人々は嘲笑し、その話はいずれ、と言って去っていきました。死は複雑であり、その答えも複雑なものが良かったのです。しかし実際に、福音はあまりにも単純だったのです。
 当たり前の価値観が当たり前の世の中で、死がシンプルに解決することなど、あってはならないことです。しかし、主は復活し、その問題に答えを出したのです。

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2020-10-26
10月25日「神への信頼」

マタイ6:25〜34
 「思い悩むな。」そう言われて、思い悩まないことのできる人がいるでしょうか。思い悩んでしまうのが人間です。しかし同時に、信仰の究極の姿を言い表すとすれば、神への絶対的な信頼は、思い悩まないことへとつながっていることもまた事実でしょう。
 主イエスは思い悩む人々を前に、悩みに対していくつかの事例を上げて教えられました。まず、神への信頼を奪い去るような思い煩いの根源として、命を取り上げます。また、備蓄しない生物との比較、寿命を左右するもの、創造の美と人工美の違い、自分の限界を生きる人々の姿、そして、思い悩まないで生きるために神が与えた方向性です。
 このすべての事例について、必要なことは神に対する信頼、すなわち信仰です。この世界、この人生に何が起こるか分からない。そんな日常の中で、唯一確かなものを土台とすること。それが、神の国と神の義を第一とする、という命令なのです。
 明日、何が起きるかわからない世界で、明日は明日が心配する。すなわち、心配はない、とおっしゃってくださる方、明日を知る唯一の方。主なる神が、私たちの必要を満たしている。そのことに戻ることができる。そのために、御言葉が与えられ、信仰が与えられているのです。

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2020-10-18
10月18日「霊的な供え物」

Iペトロ2:1〜5
 聖書は一人の人をとことん大事にしています。それは、悪い意味ではアダムの罪が全人類に及んでいること、良い意味では、キリストの福音がすべての人に有効である、ということです。
 また、私たちは一人ひとりがキリストを頭とする共同体の祭司であると言うのです。祭司の役割は、神と人との間に立って、執り成しをすることでした。ユダヤ教の祭司は、会衆に混じって、人々と同じように祝福されることを許されていません。大祭司であるイエス・キリストは、同じように、祭司としての生き方を見せてくださいました。それは、神と罪人の間に立って、全てを背負い、祝福したということです。
 すべてのことは、一人の人から始まる。聖書を開いてみると、主イエスを頂点として、そのことが多く語られていることに気づくでしょう。神がもたらそうとする大きな祝福は、あなたという一人から始まるのです。
 十字架の上で一人ぼっちだった主の祭司としての姿は、それを見た弟子たちによって拡散されていきました。始まりはいつも一人の人なのです。
 聖書は、どんな人が祭司に向いているか、などと書かれていません。すべての人が祭司であり、そこから神の素晴らしいみわざが始まっていくのです。

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2020-10-12
10月11日「最強の味方と共に」

 申命記32:10  ローマ8:31〜32
 最近、一日の最初に、終わりに、事ある毎にフット心に浮かんでくる御言葉があります。「悪に負けてはいけない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)がそれです。わたしの自動思考は、「何やってるんだ!」「おかしいよ!」「馬鹿にして!」……等があります。反応しているのです。
 「生まれる前から神様に 守られてきたおともだち」(こどもさんびか 80番)があります。このことを本当に心に留めることが出来たら、虚空をつかむような歩みから解放されるはずです。人生の苦い味は、この真理を知らないことによります。
 「荒れ野で彼を見出し…」「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対できましょうか」と御言葉は宣言します。最強の味方である神様は、わたしたちの無条件の味方なのです。
 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ロ―マ5:8)そのお方が味方なのです。よけいな忖度必要ありません。新しいいのちの世界、愛の勝利への参与に招かれているわたしたちです。
 友よ、我らはつまらない復讐心に別れを告げ、キリストと共に愛を生きる勝利に招かれています。「立て、ここから出かけていこう!」最強の味方と共に。

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2020-10-05
10月4日「天国の大使として」

ガラテヤ3:5〜11
 主なる神は、主を信じる人々をご自身の子どもとしてくださっています。その約束は、かつて一人の人に与えられたものでした。それがアブラハムです。
 彼は年老い、子どももなく、不妊の妻と暮らしていました。そこに主が約束を与えました。それは、子孫が繁栄するということです。しかし、彼には子どもがなく、妻も不妊でした。人間的に見たら不可能なことで、彼自身もそのことを疑いました。そんな彼に、主は星の拡がる空を見せて、ご自身の偉大さを示されたのです。そして、アブラハムは神を信じました。彼がどんな人か、疑っているか、状況は最悪か、そんなことは関係ありません。神はアブラハムが信じたことを喜ばれ、彼を約束のとおりに扱われました。
 私たちもアブラハムと同じ祝福を受けることができると聖書は宣言します。しかし、律法主義という考え方がこの素晴らしい約束から私たちを遠ざけます。神が不要だとしたものを、私たち人間が付け加えているとしたら、どれほど悲しむべきことでしょうか。
 私たちはさながら神の国の大使のようなものです。あなたを祝福する人を神は祝福し、あなたを迫害するものを呪う。神が約束された素晴らしい福音を届けるため、あなたにはすべてが与えられています。

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2020-09-27
9月27日「希望の約束」

 エレミヤ29:10〜14
 不信仰のゆえに偽りを握りしめ、まことの神から離れていったイスラエルの民は、異国の地にいました。そこでは、原住民からののしられ、異教の教えを守ることを強要されました。そんな彼らに預言者は神の約束を伝えるのです。
 困難な現実を前にする時、私たちは自分を責めたり、他人のせいにしたりと、どうにかしてその苦しみから逃れようと過去に心を向けないでしょうか。それは防衛本能のように、私たちに一定の納得や後悔をあたえてくれるものでしょう。しかし、神の約束は常に現在と未来に向かっています。そして、その未来には希望があると約束しているのです。やがて異教の地から故郷に帰ってくる時、イスラエルの民は語られた神の約束が真実であったことを体験することになりました。
 神が計画する私たちの未来は、日々巻き起こる問題が解決することを意味しません。どんなに素晴らしい事が起こっても、解決があったとしても、それは次のステップへの通過点に過ぎません。人々が求めるリバイバルでさえ、通過点に過ぎないのです。
 神は良いお方で、約束に忠実な方です。あなたが勝利者であることは疑いなく、失敗も成功も、主が偉大な勝利を得るための証となっていくものです。

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2020-09-20
9月20日「今、ここにある門」

マタイ7:13〜14
  イスラエルの民は流浪の民で、遊牧民族でした。神を礼拝するための神殿はなく、移動式の幕屋が彼らの拠り所だったのです。そこには唯一の門があり、その門を通らなければ、至聖所へと至ることが出来ません。それは、私を通らなければ、誰も父なる神のもとへ至ることは出来ないとおっしゃった主イエスの到来を予感させるものだったのです。
 しかし、唯一の門をくぐっているのに、目の前にいる唯一の救い主に気づかなかったのは皮肉めいたことです。それほど、狭き門は狭いのです。
 ルカによる福音書では、同じ御言葉に「努める」という言葉が加えられています。狭い門を通ることは、並大抵のことではありません。発見しにくく、マイノリティの香りが漂い、努力しなければ通れないような門を、主は命に至る道として用意したのでしょうか。神はそれほど意地悪なお方なのでしょうか。
 聖書では、罪の発生原因は「肉」であると表現しています。狭くて人が通れないほどの門を通れば肉体はどうなるでしょうか。肉は裂け、血は滴り落ちるでしょう。まるで主の十字架のようです。
 狭き門は罪を砕く門。私たちをご自身の血潮で清めるため、主は招いておられるのです。

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2020-09-20
9月13日「確かな時の中に」

 創世記7:15〜16 フィリピ3:13〜14
  わたしたちの心は平安でしょうか?平安を求めているようで、自分の価値を自分以外のものに求めてはいませんか。豪華な沢山の宝石、肩書の多さが人の価値ではありません。「人の命は財産によってどうすることも出来ない」(ルカ12:15)と主は言われました。それはかえって渇きを増すのみだと。
 復活のキリストと出会うまでのパウロもそうでした。「生まれて8日目に割礼を…イスラエルの民…ベニヤミン族…ファリサイ派…教会の迫害者…」(フィリピ3:5~)と。人は装飾品によっては、平安も喜びも、真の命を生きることも出来ません。神の前に、神と共に生きること無しには。
ノアは神に生きました。箱舟に入った時、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」のです。一方、悲しいことにロトの妻は、ソドムから逃げる時「後ろを振り返ってはならない」との神の命令に背き後ろを振り返り、塩の柱になりました(創世記19:26)。
 「後のものを忘れ~目標を目指してひたすら走る」ことです。全き主の守りの中のわたしたちです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)「わたしについてきなさい」と主は「今、ここで」招いておられます。

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2020-09-11
9月6日「委ねられた権威」

マルコ2:1〜12
 4人の人たちが1人の中風の人を助けるため、大胆な行動に出る。この聖書の箇所はいろいろなことを教えてくれます。
 まず、この1人の病人はどんな人だったのでしょうか。何としてでも助けたいと思われる人だったのでしょうか。もし、そうだとすれば、この病人のように、人から慕われる人になりましょう。というような、薄っぺらい自己啓発にとどまるでしょう。しかし、主イエスは連れてこられた病人ではなく、この4人の人たちの信仰を問題とされました。良い人のために力を尽くそうと思うのは当たり前です。しかし仮に、そうではない人のために本気になるのは、信仰が与えられていなければ難しいものです。4人は、信仰によって愛と大胆さとを与えられていた人たちのようです。
 信仰によって与えられる愛は、様々な障害を乗り越えていく力になります。群衆という名の障害を乗り越えるため、屋根を剥がすという大胆な発想に導かれたのは、この人たちの信仰です。
 主は、良い人のためではなく、病人のために来られたのだと宣言しています。主は罪人のため、ご自身のすべてを差し出された方です。そして、十字架というありえない障害さえも、乗り越えていかれたのです。

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