宣教

2020-03-28
3月29日「はじまりは神」

ローマ10:9〜17
 キリストを信じることにおいて、熱心さが注目されることがあります。一晩中祈ったり、断食したり、宣教に励んだり。そのような人を見ると、信仰深いと思いませんか。しかし、聖書の語る信仰とは、人間側の努力や才能に力点を置いていません。幸いなことに、この福音は、私たちを修行僧のようにしたいわけではありません。
 聖書が語る信仰とは、浅い、深いとランク付けをするようなものではなく、その浅い人のところにさえも、主イエスは来てくださって、その浅さ故に十字架にかかってくださったという、神の愛の側に力点が置かれているものです。ですから、私たちは、自らの罪深さを知って悔い改め、そのことを喜んで受け入れるだけで良いのです。人間側にできる反応があるとすれば、そのようなことだけです。
 かつて、その救いの大きさゆえに人々は、命がけで伝道しました。それは、喜びがあったからです。かつて、飲み食いも忘れて祈りに没頭した人々がいました。それは、神との交わりを喜んでいたからでした。すべては、神が与えてくださった御言葉を聞いて、喜ぶことからスタートしました。
 神はあなたを喜びとされています。あなたはそのことを喜んでいますか?

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2020-03-25
3月22日「選択と決断の時」

ヨハネ8:1〜11
 怒り、憎しみ、悲しみ、妬み…。私たちには何と多くの否定的な感情が潜んでいるのでしょうか。そんな気持ちになりたい人はいませんが、しかし、私たちにそのような感情を抱かせる事態は起きるものです。では、どのように対処すれば良いのでしょうか。
 姦通の現場で捉えられた女性に対して、また、その女性を利用して主イエスを貶めようとする人々に対して、主が取られた行動はどのようなものだったでしょうか。
 権利は復讐の感情をもって相手に仕返しをすることですが、赦すことは選択です。相手に対して否定的な感情を抱いたり、仕返しをする権利を放棄すること。(リチャード・マークス)これが主のとった態度でした。このような姿勢で生きることは、一見するとやられ損のような気がしますが、復讐は神がすることだと聖書が語るように、罪を裁くのは人ではなく、神の律法によるのです。ですから、手に持った石を相手に投げるのを待ち、神にその石を提出するのです。それこそ、相手を赦す、ということの意味です。
 あなたは赦すことで決して損はしません。それどころか、平安と解放が与えられ、もし不当な傷であるのなら、主ご自身が正しく裁いてくださるでしょう。

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2020-03-15
3月15日「示された一本の木」

出エジプト15:22〜27
 聖書は人の心の移り変わりを誤魔化さずに描いています。例えば、イスラエルの人々は奇蹟的な救いを体験し、主なる神を力強く賛美しますが、その三日後には不平で満ちていきます。問題が解決しても、また次に問題が起こるという、苦い水を飲み続けるような繰り返しこそが人生であると言われているような気がします。
 しかし、その苦い水を甘い水に変える方法があると聖書は教えています。そのために示されたのは一本の木でした。飲水が欲しかった人々に与えられたのは、水ではなく木だったのです。その木を苦い水に投げ込むと、水は甘く変化しました。このことは私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 主イエスは救い主です。私たちに苦い水を飲ませたがっている方ではなく、苦い水を甘くしたいと願っている方です。なぜなら、「わたしはあなたをいやす主である」と約束されている方だからです。人々は飲水が欲しかったのですが、木を与えたように、人々は力強い王を求めましたが、与えられたのはロバにまたがる柔和な方でした。そして、結果的に水は与えられ、十字架によって救いは与えられました。
 苦い水という名の問題に、主の十字架を投げ入れる。実は、それこそがオアシスへの近道なのです。

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2020-03-07
3月8日「祝福の軽き荷を担う」

 イザヤ46:1~4  マタイ11:28〜30
 人生に「重荷」は付きものです。徳川家康の遺訓「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし~」はよく知られています。息苦しくありませんか?
 イエス様は「疲れている者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。~わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、わたしたちを招きます。
 ご自身との出会いに、わたしたちを招かれる主は、「あなたは、わたしと一緒に、わたしの荷を担い歩みなさい」と、言われます。強引とも思える仕方で近づいて愛の重荷を与えます。これが祝福です。
 イザヤは、「生まれた時から負われ~白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と御心を告げます。わたしたちが神を追いかけるのではなく、神がわたしたちを追いかけ、担われるのです。「主が共に―インマヌエル―」の原事実が、キリストに在って解放を与えます。主と共に愛の重荷を生きる時、人生は軽やかになります。キリストと共なる「愛」の荷は軽いのです。「愛がなければ無に等し」く、「最も大いなるものは愛」です。共に新しい旅立ちを!

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2020-03-01
3月1日「風と共に歩む」

ヨハネ3:1〜8
 聖書の至るところに自制や鍛錬を奨励する箇所があります。ところが、このような言葉を見ると、とたんに拒否反応が起こる人たちがいるかも知れません。「鍛錬」と聞くと、非常に退屈で忍耐を必要とするもので、正直あまり面白みのないものと考えませんか。それは、聖書の言う霊的鍛錬と、単なる頑張りとを混同しているからだと思います。
 しかし、主イエスは、ご自身が与える軛は負いやすく、荷は軽いと言われました。そして、主のように変えられていくことこそ、神が私たちに求めておられることです。それは、私たちが歯を食いしばって獲得するようなものではありません。聖霊がそのことを導いてくださると聖書は教えているのです。
 主は議員のニコデモに「風は思いのままに吹く」と聖霊の話をされました。聖霊はいつも自由であり、私たちもいつでも自由です。実際のところ、私たちが不自由を感じたり、霊的成長に困難を感じているとすれば、主が意図するものと何かが違っているのかもしれません。
 私たちがキリストのように変えられていくのは、神の奇跡です。変えてくださるのは神であり、私たちが努力で勝ち得るものではないからです。

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2020-02-22
2月23日「あなたは独りではない」

 ヨハネ16:25〜33
 主イエスは、人々にたとえ話を通して神の国の福音を知らせてきましたが、その中には、皆が知っている自明のものではないものも含まれていました。それは、十字架と復活の光に照らされなければ、決して理解できない内容です。
 弟子たちは主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを信じていました。しかし、激しい試練の中で、その信仰が試され、彼らは敗北しました。しかし、自分に死ぬことは、主から命が与えられること。十字架と復活の、その福音の真理が彼らの中に入った時、聖霊は人の中で主権を取り戻し、彼らを主の弟子として、キリストと同じ姿にまで変化させたのです。使徒の働きの中に描かれている彼らの姿は、まさに主ご自身のようです。
 人生に起こる艱難の中で、それでも勇気を持つことができるのは、それなりの根拠が必要でしょう。でも、自力で打ち勝つことのできない試練には、自分の力を勇気や平安の根拠とすることはできません。「しかし、わたしはひとりではない」と主が宣言された、この勝利の言葉と、神に対する信仰こそ、その根拠となります。目の前の試練に敗北感を感じているなら、それこそが、主の十字架と復活の栄光が現れるときです。

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2020-02-16
2月16日「祈りの力を解放する」

 マルコ11:22〜25
 主イエスは私たちに祈り方を教えてくれていますが、絶えず祈ることを求めておられるのがよく分かります。しかし、もしも祈ることが「お願い」だけであったなら、祈りのノートが何冊あればいいのでしょうか!それは大変に困難なことです。
 主は絶えず祈ること、つまり日常生活を送る中で、祈るということはどういうことかを教えていますが、「祈る前から必要をご存知だ」と仰っているように、私たちが願いを長々と述べることを求めていないことが分かります。では、主はどのように祈れば良いというのでしょうか?
 ここで、例として山を動かすほどの力が、祈りにあることを教えています。ただし、祈る前に主が命じているのは、「神を信じなさい」という一点のみです。わざわざそのようなことを仰るのは、それこそが、祈りの力を解放するための鍵だからです。
 そして、「少しも疑わず、自分の言うとおりになる」ことを信じるように教えています。とすれば、私たちの祈りはどのように変化するでしょうか。それは、「願い」ではなく、「宣言」になっていくはずです。
 神の力強さとその十字架の愛、復活の希望に根ざした信仰を宣言して歩むこと。それが祈りです。

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2020-02-10
2月9日「驚きの選び」

 申命記32:10  ヨハネ15:16〜17
 「あなたは自分が何者だと思っていますか?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか?「主は荒れ野で彼を見出し、獣の吠える不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、自分のひとみのように守られた」と、『モーセの歌』を通して遺言として語られた、神のイスラエルの真実の愛を告げられた主は、今、キリストを通して、さらに全ての人々に、ご自身の選びの愛を告げられます。
 「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…」。
 イスラエルを「不毛の地で見つけ」、「囲い」「いたわり」「守られた」、それもご自分の「目の瞳のように」!イスラエルの歴史の悲惨さは、この、自らの出自を忘れたことにありました。
 この、イスラエルの「選び」に連なる「キリスト者の選び」の主体は、キリストの十字架という「身代金を払って買い取られた」(Ⅰコリ7:23)ものなのです。わたしたちが人生を彷徨うのは、この驚くべき「愛」を忘れるところにあるのです。
津軽弁で言えば、「キリストとバグられた(取り換えられた)貴い自分」と出会うことです。あなたの命は、勿体なくも、キリストが担保なのです。

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2020-02-03
2月2日「神と人とのかくれんぼ」

ヨハネ12:35〜43
 主イエスがもたらす数々の奇蹟的な出来事を目の当たりにし、その主から直接語られた人々も、救い主として受け入れようとは思わなかったようです。なぜでしょうか。
 主が語られた「光の子として歩みなさい」という言葉は、彼らへの最後の訴えでもありました。しかし、彼らはその言葉を拒絶し、主は身を隠されました。
 聖書は、人々が主を受け入れなかったのは預言のとおりであるとして、主が拒絶されることが以前から分かっていたことであると証言すると同時に、信じることができなかった理由は、彼らが神よりも人を恐れていたことを示しています。
 もし、彼らが人ではなく、神の言葉とその力に信頼していたならば、主は立ち去らず、身を隠すこともなかったでしょう。神は我々といつも共にいる、という名の主が立ち去り、身を隠されるのは、どうしてなのでしょうか。主は隠れたいのでしょうか?
 そうではありません。主は私たちに御言葉を、そして肉となった神の言葉、主イエスをくださいました。主は生きて、今もここにおられます。目も耳も、その主を理解できませんでした。ただ信仰だけが、その方の光を理解したのです。

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2020-01-26
1月26日「清められた生き方」

 ヤコブ4:7〜10
 聖書には「純粋」、「無垢」といった言葉が良いものとして出てきます。それとは逆に、「二心」という言葉が、心の定まらない状態を指す言葉として記されています。
 ヤコブの手紙の中には、「二心」を持つ人々に対して、心を清めるよう教えています。そして、心を清めるために、為すべきことも示されています。それは、神に近づくことだというのです。そうすれば、神は近づいてくださるというのです。
 主イエスはいつも共にいると約束してくださったのに、なぜ、まず私たちが近づこうとする必要があるのでしょうか。それは私たちの「二心」のためです。
 試練などで心の定まらない状態に陥った時、聖書の言葉や登場人物は何を教えてくれるでしょうか。あなたに訪れている試練や危機は、彼らには無かったものでしょうか。
 荒れ狂う世の荒波の中で、神が遠くにいると感じているのは、実際に神が遠く離れているからではなく、私たちの心が神とその御言葉から離れているからなのです。
 これまで神はあなたに何を語り、何を為してくださいましたか?そこに清さの答えがあります。

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2020-01-19
1月19日「信仰によって生きる」

ハバクク2:1〜4
 先が見えず、過去を見れば後悔し、現実を見ればボロボロの状態の時、私たちは何処に目を向ければいいのでしょうか。イスラエルの現状もまさにそんな状態でした。
 そんな人々に、神は預言者を通して御言葉を語り続けました。ほとんどの預言者が語るのは「主に立ち帰ろう」という号令であり、忍耐して待ち続ける愛の神の姿でした。
 若い時、明確な目標がありませんでした。目標さえあれば、と無い物ねだりで欲張ってみても、自分が何をやりたいのかさえもわかりませんでした。では、神と出会った今は、明確な目標があるかと問うならば、未だ明確な目標はないと言ったほうがいいかもしれません。
 目標は持つことができる人とできない人がいるでしょう。目標を持つことは良いことですが、目標をもたないことは悪いことでしょうか。イスラエルの人たちすべてに、明確な目標はあったのでしょうか。
 いえ、彼らが持っていたのは、明確な目標ではなく、ただ信仰でした。それは、神が良くやったと声をかけてくださる日に向けられた信仰です。そして、これこそ、すべての人に与えられた約束であり、目標です。

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2020-01-12
1月12日「祝福の約束を生きる」

ヨシュア1:9  ヘブライ13:8
 この年も、恵みを数えつつ歩むことができる祝福の1年が与えられていることをまず感謝しましょう。
「今日こそ主の御業の日 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」(詩編118:24-25)とあります。ここの「日」ばかりでなく、「週」も「月」も「年」も、主の御手にある日です。
 大指導者モーセの後を継いだヨシュアの不安はいかばかりのものであったことでしょう。想像を絶するものだったことでしょう。主は、「わたしはモーセと共にいたように、あなたとともにいる。見放すことも見捨てることもしない。」と言われました。
 聖書は一貫して「インマヌエル-神われらと共にいます-」の恵みを伝え続けます。アブラハム、モーセ、ヨシュア…そして、ヨセフ、マリア、さらに月足らずで生れたわたしたちとも、共におられることを歴史を貫き訴え、伝え続けます。
 すべての時が、御手の中―クリスマス、新年、そして、「どの日も」―主の時なのです。インマヌエルの恵みが満ち溢れている聖徒たちへの守りです。
 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることの無い方です」と。主が共におられ、わたしたちが主のものであると宣言されているこの1年です。祝福の約束を、心から喜びましょう。

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2020-01-05
1月5日「代わってくださる主」

フィリピ1:29
 キリストのために苦しむ。これが恵みだ、という聖書の言葉を大喜びで受け取ることができるでしょうか。もちろん、恵みという言葉は、神から一方的に与えられるものを指す言葉ですから、苦しみが神から一方的に与えられるというのも納得できます。なぜなら、誰も苦しみを欲したり、望んだりしないからです。そして、主イエスご自身も、十字架という使命を神から与えられた方でした。それでもなお、苦しみが与えられるように、と神に願う人は多くないと思います。
 神が私たちに代わって戦ってくださる。今回、語られる貴重な証を通して、どのような御言葉の解き明かしが為され、主からの励ましがあることを期待します。

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2019-12-31
12月29日「信仰共同体の力」

マタイ2:14〜15
 主イエスは特別な人でしょうか。そうではない、とも言えるし、そう、とも言えるでしょう。今日は、そうではない、部分に注目したいと思います。
 イエス・キリストは人となった神です。ですから、私たちと同じく、赤ちゃんの時代もあったわけです。赤ちゃんですから、人の助けを必要とします。ひとりで食事をし、トイレに行き、勝手に寝ている赤ちゃんを見たことがあるでしょうか。それは、赤ちゃんではありません。主は、この世界でのご自身の歩みを完全に赤ちゃんから始められました。
 主がご自身を委ねられたのは、ヨセフとマリア。夫婦という名のチームでした。そのチームの特徴は、信仰共同体であったということです。そこは、教会でした。日々に祈りがささげられ、御言葉が語られ、愛で満ちていました。しかし、考えてみてください。彼らは最初から最高の夫婦だったのでしょうか?
 人は主とともに成長するものです。彼らも主とともにあって成長したのです。赤ちゃんがもたらすのは、その子どもの成長だけでなく、親の成長にもつながるものです。
 成長途中の彼らがいつも聞き従っていたのは、ただ主の御言葉とその約束だったのです。

※ ビデオの音声が録音できていませんでした。申し訳ございません。

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2019-12-22
12月22日「あなたに目を注ぐ神」

 マタイ1:23
 小さなことに忠実であることを主イエスは教えています。それは、小さなことを積み重ねて、大きなことにつながっていくからという動機づけになることもあります。しかし、小さなことに忠実なまま、大きなことが与えられずに終わるとすればどうでしょうか。
 神は小さくなられた。これがクリスマスの出来事です。神その豊かさを人が見るようにではなく、ご自身の尺度で測られたのです。誰からも注目されることなく、静かに祝われた世界で初めてのクリスマスを見れば、そのことが明らかです。
 主は、大きなこと、豊かなこと、注目されることを求めるのではなく、ただ一度、小さくなり、貧しくなり、注目されないことを選ばれました。それはなぜでしょうか。
 日本の社会福祉の礎を築いた賀川豊彦夫妻は、クリスマスの日、最も貧しいとされる地域に引っ越しました。それは、主が貧しくなられたから、という理由でした。
 小さなこと、貧しいことは、誰からも注目されないところ、と考えられています。しかし、ただおひとり、主は、そこに注目されています。なぜなら、主ご自身がそこから始められたからです。

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2019-12-15
12月15日「信仰からはじまる物語」

出エジプト14:10〜14
 神の大いなる御業を見たイスラエルの人々は、意気揚々と神の言葉に従って歩みました。そして、導かれたのは、袋小路でした。人々の希望は、乳と蜜の流れる地、約束の地だったことでしょう。しかし、彼らは今、危機的状態に陥ったのです。しかも、その状況へと導いたのは、他ならぬ神ご自身でした。
 人々は、神の約束とその言葉を忘れ、目の前に繰り広げられる絶望的な状況に圧倒されます。しかし、大騒ぎする人々の中に、たった一人、信仰に立っている人がいました。神はその信仰者に命じ、海を二つに割り、ご自身の約束が確かであることを再び証明したのです。
 神はご自身が三位一体の関係性の中におられるように、私たちにもチームであることを望まれています。しかし、そのチームが混乱し、一人ひとりが神から離れようとする状況のなかで、神は一人の人の信仰から物語を始められるのです。
 神の民というチームが混乱し、世が偽りに耳を貸す用になっていた時、神は一人の人からすべてを新しくすることを始められました。それが神の物語、イエス・キリストの出来事であり、聖書の神を信じる人々の物語なのです。

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2019-12-07
12月8日「何処で待っていますか?」

 イザヤ56:3〜6 マタイ21:28〜32
 「主イエス・キリストよ 身を低くしてくださったあなたのお姿が わたしたちの前に生き生きと立ち現れますように。わたしたちがそのお姿に引き入れられあなたの低さにおいてこそ あなたに似た者となることを望むようになりますように。あなたはその栄光のゆえにすべてのものをあなたのもとへ引き寄せてくださいます。」(セーレン・キェルケゴール) アドヴェント、クリスマスを迎えるのに、心を込めて祈りたい祈りです。
 自分のことだけに忙しくしている自らに気付きます。クリスマスを迎えるにあたり、自らを省みる時を与えられていることに感謝します。自分の願いのみに生きる時、塩水を飲むように乾きが激しくなります。イエス様の「二人の息子」の今一つの譬えは、「放蕩息子」以上に、悔い改めに対しての厳しいメッセージを語りかけます。
 「いいえ」と父を否んだ兄は、悔い改め祝福に留まりました。今、あなたはどこにいますか?宦官、異邦人、徴税人、娼婦…?どこにいても、救いの扉は例外なくあなたのために開かれています。イエス様の低きにいたるわたしたちへの道を通して。飼い葉桶のイエス様の、愛の「高さ、広さ、深さ」は十字架へと至る救いへの道です。あなたは今何処に?

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2019-12-01
12月1日「神に明け渡す信仰」

 マタイ8:23〜27
 小さな舟が嵐に遭い、波に飲まれそうになった時、主イエスは眠っておられました。激しく揺れ動く舟の中で、果たして眠ることなどできるでしょうか。しかし、聖書は確かに眠っていたのだと、当時の様子を記しています。
 この記事は、主に「従う」というテーマの文脈の中にあります。ですから、この出来事もそのように伝わることを期待されていたのでしょう。
 嵐とは、私たちの身の回りに起こる困難を示しているのだと思います。その中で、波に飲まれそうになる私たちは大騒ぎです。命の危険さえも感じさせるような出来事だからです。そのような問題が押し寄せてくる時、そこに眠っておられる神の御子がいるというのが、聖書の伝えようとすることです。
 問題の中、祈り、叫びをあげようとも、神がまるで眠っているかのように応答しない時がありませんか。それは、神があなたを無視しているのではありません。また、主が眠っておられる姿は、絶対的な信頼によるものです。自分の思いを超えて、神の御心を第一とする姿です。神のみ心は嵐に遭うことではなく、嵐から救い出すことでした。目の前の問題が、神によって取り扱われていく計画を、主は信頼していたのです。

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2019-11-26
11月24日「神様の語りかけ」

ヨハネ9:1〜3
 神様は私たちに語りかけて下さるのでしょうか。旧約聖書ではモーセの召命は神の語りかけによって行われたことが記されています。兄たちによってエジプトに売り渡されたヨセフも、神様が見せてくださる夢によってその国の為政者に神の約束を示しました。新約聖書の「ルカによる福音書」には、祭司ザカリアがバプテスマのヨハネの誕生について主の天使の語りかけがあったことが記されています。救い主の母マリアにも受胎告知が天使ガブリエルによってなされたことが記されています。「使徒言行録」では、異邦人コルネリウスのペテロとの出会いの経緯は、主の幻によったことが記されています。使徒パウロは、ダマスコへの途上で復活のイエス様の声を聞き、回心へと導かれ、異邦人伝道の務めへと向かいました。
 このように神様は、信じる者(時には、未信者にさえも)に聖書の言葉は当然のことならが、幻や音声としての声、また夢や心に訴えかける内なる声など様々な方法を通して語りかけることが明確に記されています。これを神様の力の単なる象徴だと考えますか。今朝は、私が肉親の精神的な病について心が落ち込んでいた時、「神の言葉(聖書)」と「祈り」に本格的に取り組むように示されたことをお証しさせていただきます。

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2019-11-17
11月17日「『人の子』とは?」

ダニエル7:13,14,27
 新約聖書は天国に行く方法を教えくれる書物ではなく、その中心的な主張は、神の国を実現させる支配者となる「人の子」が、あの十字架に付けられたイエスであるということです。中心的な教えはイエスの支配のもとに実現する神の国の在り方と、その国にふさわしい人になるために、どのような条件を満たす必要があるかということです。形ばかりの宗教ではなく、昔ながらの本物を求めていたユダヤ人の思いを満足させるために、イエス様は驚いたことに自分自身を提供しました。エジプトから出て来たイスラエルの民が荒野で奇跡的に与えられた食物、飲み物、そして闇を照らす光に代わってイエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇かない。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言いました。
 弟子たちにとって「人の子」として現れたイエス様の正体を理解するのは簡単なことではありませんでした。「神の国」の教えを見ても、色々な工夫を凝らし、多方面から説明しながら弟子たちの理解を深めようとするイエス様の姿が見られます。その一例は「からし種に似ている」という教えです。神の国は偉大な信仰者を必要としません。「人の子」として来られた方を信じるただの人がいると、神の国の成長が始まります。

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