宣教

2022-06-25
6月26日「サーヴァント・リーダー」

マルコ10:35~45
 勝ち組、負け組という言葉があります。その言葉自体が、この世界の歪みを言い表していると思います。人より良い暮らしをするのが勝ち組で、そうでなかった人々はみな負け組なのでしょうか。では、主イエスほど負け組に該当するお方はいらっしゃるでしょうか。それでも、主はおっしゃいました。「私はすでに世に勝利している。」
 主は果たして何に勝利されたのでしょうか。私たちが勝利者である実感が無いとすれば、人の考える勝利と、主の勝利とどこかが違うのでしょうか。あなたにとって、勝利とは何でしょう。
 ヤコブとヨハネは、主の側近としての場を求めました。その場所には名声もあり、豊かさもあると考えたかもしれません。しかし、主はおっしゃいました。「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。」
 主はすべての弟子を集めて、偉い人とはどういう人か、そして仕えるとはどういうことなのかを教えられました。そして、ご自身について「仕えられるためではなく仕えるために」命を献げるために来たのだとおっしゃいました。
 仕えること、その生涯こそ、主にとっての勝利だったのです。

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2022-06-19
6月19日「信じて宣言する」

マルコ11:22~24
 山に向かって「海に飛び込め」と言えばその通りになる。主イエスは弟子たちに、そう教えました。あなたは山が海に飛び込むことなど信じられますか?
 幼稚園児に御言葉を語ると、ある子が言いました。「だから、海には島があるのか!」常識的な大人たちは彼の発言を笑うでしょう。そんなことはないと思っているからです。しかし、天地創造にあたって、主なる神は、水の中から乾いた地を生じさせるため、海に命じたのです。そして、その通りになりました。
 同じように、神はあなたを生じさせました。「高価で尊い」という言葉をもって。「極めて良い」という感嘆をもって。そして、その通りになりました。
 ところが、問題が生じ、苦悩が生まれ、悲しみや嘆きの中で、あなたはその言葉から離れるときがあります。「私は無理だ」「どうせ~」と。そんなあなたを見て、主はおっしゃるのです。「信じて、口にした通りになってしまうよ!」
 主の約束は真実です。あなたはどんな人になりたいですか、どんな人生を送りたいですか。あなたが信じ、口にした通りになります。
 神が人となり、十字架にかかり、復活され、今もそばにいる。信じがたいことですが、主が口にされた通りになりました。

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2022-06-12
6月12日「イエス様の派遣を発見!」

コヘレト4:9~12
 かつて、神は天地を創造し、人をおつくりになって言われました。「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)
 人生はどこに行っても小グループです。家族、職場、学校、友人関係…。属する小グループの祝福はあなたから始まるのです!

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2022-06-05
6月5日「わたしを強めてくださる方」

イザヤ48:17 フィリピ4:13 初代教会が誕生したペンテコステの日に、弘前西教会の誕生の時から今日までの歩みを振り返る時を与えられ感謝します。いと小さき者が牧師の奥さん(パートナー)として48年、伝道師になって34年、その歩みが導びかれ、支えられてきたのは、「わたしを強めてくださる方」(フィリピ4:13)が、共にいて下さったからです。
 弘前西教会は初期の頃から、教会に集う方々と心を合わせて祈ることを学びました。「祈り求めるものはすべて既に得られた信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)イエス様の御言葉に信頼して、祈りを共にしてきました。
 小さな群れの祈りに、神様はいつも最善の備えをして応えて下さいました。その時に相応しい助けを与えて下さり、言葉では言い尽くせぬ沢山の驚きと喜び、神様の奇しき恵みを教会の皆さんと分かち合ってくることができました。
 「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」(イザヤ48:17)との約束をして下さる主に信頼して歩む時、神様が最善へと導き、恵み溢れる道を歩むことができることを感謝します。

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2022-05-29
5月29日「不信仰な信仰」

マルコ9:14~29
 マルコの福音書9書22節には悪霊に取りつかれた息子をもった父が登場します。父の頼みを聞いたイエス様は、「信じる者には何でもできる。」とおっしゃいました。その時、父はすぐに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだのです。
 私たちも信仰生活の中でイエス様に「信じる者には何でもできる。」とよく言われますが、その言葉を聞く私たちは「本当に本当か?」と逆に疑ってしまうのではないでしょうか。疑うというのは人間が、無限なる神さまに対して持つ自然な反応かもしれません。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、弟子たちも疑いました。
 当たり前のように疑いがやってきた時、私たちは今日の話で出てくる父のように、自分の信仰のない姿を認めて、自分の不信仰のために祈らなければならないと思います。神さまはそのお祈りを祝福し、また新しい力を与えてくださるのです。この1年間日本宣教の厳しさにまた改めて知りました。挫折した時、失敗した時、「もうダメだ」と思った時、自分の不信仰を告白し、神さまに助けを求めると、再び必要な力を私に与えてくださいました。皆さんも神さまの前に行って、自分の力ではできませんと告白し、神さまからの助けを求めていきましょう。

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2022-05-22
5月22日「弱さが強さ」

士師記3:12~30
 かつてイスラエルは罪を犯し、モアブの王エグロンをはじめとする同盟軍に破れ、18年間の支配を受けることとなりました。圧政の中、人々は再び神の助けを真剣に求める民へと変えられていったのです。
 助けに応えて神が与えた救助者は、ベニヤミン族のエフドでした。彼は左利きでした。
 ベニヤミンというのは「右手の子」という意味で、古代イスラエルでは神の右の座、右の手、といったように、力や強さを象徴とするのは右側でした。しかし、神が選ばれた救助者は「右手の子」ではなく、左利きのエフドだったのです。当時の社会的状況を鑑みるに、エフドは生きづらさを覚えていたのではないでしょうか。右手が大事とされる文化の中で左利きとして生きることは、日常的な差別や自らの出自への呪いとの共存だったのではないでしょうか。彼にとって、左利きは特別な長所ではなく、単なる弱さであり、短所だったに違いありません。しかし、主はその弱さを通して栄光を現されました。勝利は右側だけに与えられた特権ではないのです。
 神はあなたを最高傑作として創造されました。でも、短所がある、そう思っていませんか。それは、その弱さに神が働かれる余地がある証拠なのです。

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2022-05-15
5月15日「神の姿」

マタイ5:43〜48
 聖書は愛についてたくさんの区別をしています。「神は愛」であり、その愛は無条件だと聖書は言います。しかし、聖書を読んでいくと、「〜するならば」という条件付きの約束も多く見られます。これは無条件の愛と矛盾するのではないか。そんな疑問があるのではないでしょうか?
 家庭の様子を想像してみてください。ありのままを受け入れてくれる無条件の愛がある家庭は幸せです。しかし、条件の何もない状態で、果たして秩序が保たれるでしょうか?子どもが好き勝手なことをしていても、横で微笑んでいるだけであれば、それは親としての役割を果たしていないのではないでしょうか?
 神は母性と同時に父性をも併せ持っておられます。無条件の愛という母親の愛と同時に、条件つきの父親の愛をも完全に満たしておられる神は、無条件にいのちを与え、生かしていて下さいますが、さらに、悔い改めてご自分に立ち返ることを求めておられます。
 神の要求に従っていくことは、愛されていることを喜ぶ、受動的な世界から、御言葉に従う能動的な世界へと舵を切る事になります。そこは、約束の地。神があなたに見せたいと願っている場所なのです。

※音量が小さいのでお聞きづらい点をご了承ください。

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2022-05-08
5月8日「教会が教会に、私が私になる祈り」

詩編136:1~3  マタイ6:9~13
 牧師として歩む中で、本当に大事なことは何なのかを繰り返し考え続けています。イエス様は、「わたしが天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:37)と言われました。ならば、わたしたちもまた、「わたしが地に在るのは、わたしを遣わされた主の御心を行うためです」ということができるはずです。この、「御心」を行うための源が、「主の祈り」と言うことえい出来ます。
 「教会はキリストの体であり、一人一人はその部分です」(1コリ12:27)とあるとおりです。イエス様の教えてくださった祈りは、わたしたちの道標であるばかりではなく、そのように生きることへの招きです。この祈りは、「わたしたちの祈り」であるばかりでなく、「わたしたち」の祈りである ことをはっきりと明らかにしています。
 「天にいますわたしたちの父よ、御名が、御国が、御心が」、「われらの日毎の糧を…。われらに罪を…われらの罪をも赦し給え…」の祈りを、今一度心に刻むことが必要です。教会はこの祈りを2000年間祈り続けてきました。今こそ、主の祈りに生きるように招かれている私たちです。

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2022-04-30
5月1日「御国がくる」

マタイ6:5~10
 主の祈りは、当時のユダヤ社会においても、そして現代においても特殊なものであると言うことができるでしょう。なぜなら、多くの人が考える、または自然に出てくる祈りとは、自分を中心にした祈りだからです。しかし、主の祈りは、そのような私たちの心の状態に逆らうかのような言葉で始まります。御名があがめられ、御国が来ますように、と。
 かつて、ユダヤの人々は手を上げて、天を仰ぐように祈りました。今、私たちは手を組み、かがんで祈ります。実は、目を閉じて祈るようになったのも中世以降なのです。これは、どちらが良いということではなく、それぞれに祈りの姿勢による特徴があります。
 手を上げ、天を仰ぐ祈りは外向きで、祈りとはすなわち対話であり、独り言ではないことを物語っています。また、現代的な祈りは内省的で、静まって神の声を聞くことを示しています。そして、神の声とは、すべて神の国に関することです。
 御国が来ることを本気で望んでいるでしょうか。もし、今、ここに御国が来たらどうなるでしょう。それが主イエスの歩みに描かれた出来事です。預言がすべて成就し、人々は生き生きとし、世的な価値観は打ち砕かれます。さあ、準備はいいですか?

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2022-04-24
4月24日「私が私になっていく」

ヨハネ3:1~3
 ユダヤ教の教師であり、議会のメンバーであったニコデモは、仲間が毛嫌いする主イエスのことが気になって仕方がありませんでした。「会ってみたい」彼の生まれ変わりはそこからスタートしました。
 生まれ変わる。つまり、メタモルフォーゼといえるような変化が私たちの人生に与えられる。異世界転生もの、というジャンルが世間に拡がる今に始まることではありませんが、私たちは別の世界で別の人格に生まれ変わるような物語に興味をそそられます。それはなぜでしょうか。
 ニコデモは主に「新たに生まれる」というテーマで講義を受けました。彼にはよく分かりませんでしたが、主の御言葉は彼を捉えていました。彼は御言葉の力を受けながら、徐々に生まれ変わりの過程を歩んでいきます。仲間の議員たちに意見し、十字架の主の遺体を引き取るまでに変えられていきます。夜遅く人目を気にして主に会いに来た彼が、恐れを克服しているように見えます。彼は生まれ変わったのです。
 主が与える生まれ変わりは、別人格になるものではありません。むしろ、ますます自分になっていく変化だといえます。あなたがまだ気づいていないあなたを唯一ご存知なのは主だけなのです。

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2022-04-17
4月17日「生きている者の神」

マタイ22:23~33
 サドカイ派の人々は、死者の復活を否定する人々でした。その一派が主イエスに問いを投げかけます。
 彼らが問うのは、一族の血を絶やさないために与えられた律法の正当性と、永遠の命の世界における婚姻関係についてでした。彼らは律法の専門家であり、権力を握る人々でもありました。彼らが固執していることを見抜いた主は、聖書の専門家である彼らに言いました。「聖書を知らないから思い違いをしている。」と。では、彼らが思い違いをしていたこととは一体何だったのでしょうか。
 あなたは聖書のどの部分を信じることができ、どの部分は信じることができないですか。嵐を鎮めるくらいは信じられるけど、水の上を歩くのは無理でしょ、という読み方でしょうか。サドカイ派の人々が陥っていたのは、この読み方でした。彼らは専門家故に陥りやすい、自己中心的な解釈に走っていたのです。
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」という主の言葉は衝撃的なものでした。彼らが日常的に唱えている言葉から、神が将来的に信仰者に与えようとしていることを浮き上がらせたからです。
 復活。それは、人知を超えた、まったく新しく、素晴らしいことが起こることなのです。

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2022-04-10
4月10日「十字架の証人」

詩編23:4   ルカ23:32~43
 わたしたちがイエス・キリストと出会うとき、そこに思い煩いからの解放が与えられます。有名な詩編23篇「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」ことを信じることが出来ます。「同行二人」という言葉があります。そうです!わたしたちの道行きは、インマヌエルの主と共なる歩みです。特別の時においてそうなのではなく、いつ、どんな時も「御手の中」(詩31:15)なのです。
 ゴルゴタの丘には3本の十字架が立ちました。中央にはキリストが、その両側には二人の犯罪人が付けられました。この2人のために、また、十字架を仰ぎ罵る者達の為にキリストは死なれました。敬虔な者達のためにではなく、神を畏れぬ者達のために。
 何よりも先ずこの二人のために、主は死に渡されました。最も相応しくない彼らのために。主は最後の晩餐に於いて明言された救済を実現されたのです。「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」(ローマ6;8)とパウロは宣言します。とすると、この強盗たちこそ!
 救われない一人を特定するのではなく、「最初に」キリストの救い、贖いを受けた証人がここにいるのです。この二人の犯罪者に続くのがわたしたちです。

※ ビデオの録画にエラーがあり、動画の公開ができませんでした。楽しみにしてくださっている皆様に大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。

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2022-04-05
4月3日「天国に行く日」

ルカ23:32~43
 主イエスはその日、二人の犯罪人に挟まれて十字架の上にいました。これは、罪人と同列、という意味が込められていたのです。まさに、主は神でありながら、罪人の気持ちにさえ寄り添うお方であることが、人々の辱めを利用してなされた瞬間でした。
 当初は二人の犯罪人は主を侮辱していましたが、悔い改めに導かれた一人の犯罪人の姿が私たちに語りかけます。かつて、あなたは神、という言葉を聞くと嫌悪感さえ覚えたかもしれません。神に対する不満や嘲りを浴びせかけたかもしれません。むしろ、神を信じる人々に対する嘲りはそれ以上だったかもしれませんが。それでも、神を信じることをやめず、十字架の傷を受ける中で人々に仕える姿は、犯罪人の氷のような心を溶かすには十分だったのでしょう。この壮絶な”いじめ”の現場の中で、唯一、平和に生きようとされている方の姿は、その方の信じるものに興味を持たせるに十分だったのでしょう。犯罪人の一人は他の誰でもない、この傷ついた若い青年に自分自身を委ねる決意をするに至りました。それは、何の確証もない賭けのようなものだったかもしれません。
 彼の賭け、それは小さな信仰でしたが、彼の姿が私たちの信仰への歩みを確認するものとして、永遠に語り継がれる天国へのストーリーとなったのです。

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2022-03-27
3月27日「王家の者として」

Iペトロ1:20~25
 福音は、英語でグッドニュースと訳されます。何が良い知らせなのでしょうか。
 あなたはクリスチャンではない方々から「教会では何をしなければならないのですか?」という質問をされたことがありますか。ほとんどの方は、キリスト教という宗教を考えています。では、あなたは「神は何をしてくださったんですか?」という質問を受けたことがありますか。それは、宗教ではなく、福音に関する質問です。なぜなら、私たちが何かをするのが福音ではなく、神が私たちのためにしてくださった、というのが福音、グッドニュースだからです。
 神は私たちの立場を明確にしてくださいます。どこかの国の小市民ではなく、神の国の偉大な国民であること。さらに、平凡な一般人ではなく、王の王たる神の子であること。私たちは朽ち果てる世に属すのではなく、朽ちることのない永遠の命に属しているのだと。
 王家の者として、あなたは特別な人生を用意されています。王の子が自動的に王子、王女になるように、あなたに身分を与えるのは王であり、父である神です。あなたを愛するあまり、その王は命を捨てました。ですから、あなたは生かされているのです。
 あなたは十字架の家紋をつけた王族の一人です。

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2022-03-20
3月20日「キリストのように」

エフェソ3:14~21
 聖書の目的は、主なる神のご計画を人々に伝えることです。それは、十字架の愛であり、復活の希望です。しかし、神の目的は私たちが天国行きのきっぷを手に入れることだけではありません。
 私たちが主イエスの姿に変えられていく、これが聖霊の働きだと聖書は語ります。では、それはどのように可能となるのでしょうか。
 パウロは祈りの中で、神ご自身が聖霊の働きを強めてくださること、そして信仰によってキリストご自身が私たちの内側に住んでくださるように、と祈っています。私たちはそのような祈りをしたことがあるでしょうか。そして、その祈りが現実となり、しっかりと愛に根ざし、愛にしっかりと立つ人になれるように、とパウロは神に願うのです。
 私たちが人を愛せるように努力したり、我慢したりする力を磨くのではなく、愛に根ざし、愛に立つ人とは、神の愛である主の十字架に結びついた人生のことです。私たちが愛を創造したり、理解しているのではなく、愛を創造し、完全に理解しておられる方に委ねることをはじめるのです。
 その愛は人間の理解を超えた愛であるため、何よりも、聖霊の助けが必要なのです。

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2022-03-14
2022年3月13日「人生=礼拝」

創世記12:1~8
 私たちの教会は、日曜日の礼拝が10時から始まります。これは神の家族が顔を合わせ、共に神を礼拝する特別なイベントです。しかし、教会を出ると、次の礼拝までにガス欠になったりしませんか。
 アブラハムは特別なイベントごとに礼拝をささげていたのでしょうか。彼は行く先々で祭壇を築きました。これは彼のパーソナリティであることを超えて、イスラエルという神の民のアイデンティティになっていくのです。イスラエルがその事をやめたとき、彼らは国を追われる自体に直面するのです。
 あなたは祭壇を築く人生を送っているでしょうか。それは、神を礼拝することと同義です。つまり、人生とは、神を礼拝することとイコールなのです。詩篇記者は、人間は神を賛美するために創造されたと記しています。ガス欠になったり、自己中心的な判断に頼り切って失敗したり、あなたはそのようなことをしなくてもよいのです。
 主イエスは多忙な日々の中でさえ、ひとり礼拝の時を持っていました。そこから力を受けとっていたのです。進むべき道、将来のビジョン、否定的な感情からの解放。祭壇には、神が与えてくださる、あらゆる恵みで溢れかえっているのですから。

※オンライン礼拝のため、録画はありません。ご了承ください。

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2022-03-14
2022年3月6日「祈りの力」

ヤコブ5:13~20
 共に祈りを合わせる時、あなたの意識はどこに向かっているでしょうか。祈りを通して父なる神に自らの思いを明け渡すことができているでしょうか。
 順番に祈る時、「そろそろ私の番だな」、「あ、そのこと祈られちゃったか~」などと、考えているのは私だけでしょうか。
 主は祈りの言葉の流麗さを気になさらないばかりか、信仰が伴っている祈りだけを聞くわけでもないようです。ペトロのために祈っていた人々は、彼が本当に牢獄から解放されると信じていなかったようですし、まだクリスチャンでもない方々の切実な願いを聞き入れてくださった証を聞いたこともあるでしょう。
 事実、祈りには絶大な力があります。そして、神はそのことを知ってほしいのです。祈ってみたい。弟子たちにそう思わせるために、主イエスは「何でも叶えてあげよう」とおっしゃいました。
 あの日、祈ること以外に望みはない、というところに置かれた時、あなたの意識は完全に神に向かっていたことでしょう。その時、あなたは祈ることに何よりも価値を見出していたことでしょう。
 あなたは今、何を本気で祈りたいですか?

※オンライン礼拝のため、録画はありません。ご了承ください。

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2022-02-28
2月27日「復活の証人」

使徒2:32
 初期キリスト教会の人々は、聖書を手にしていませんでした。彼らが持っていたもの、それは復活の主に出会った、という証でした。
 あの日、荒野で洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けた時、ユダヤ全土から人々が押し寄せました。しかし、復活を目にした人たちはたったの120人。ペトロの情熱的な証により、復活の主を目にしたわけでもないのに信じた人々がおよそ3000人でした。一見、多く見えますが、父なる神を信じる人々全体から見れば、まだ微々たるものでした。
 しかも、この復活の話は荒唐無稽過ぎて、アテネの町では嘲笑の的になりました。それは、この話が口で伝えたからといって、すべての人が受け入れられるような話ではないからです。では、そのような信じがたい出来事が、現代になっても力を持つのはなぜでしょうか。
 そこに、命を奪われる状況の中にあっても喜んで天国の希望を持つ人々がいました。主のように、砕かれた人に寄り添う人々がいました。互いに愛し合う、共同体の謙遜な姿がありました。
 証とは、復活の主を見た人々を見た人々の話です。綿々と受け継がれる聖霊の流れの中に、今、あなたもいます。

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2022-02-20
2月20日「喜びの根拠」

フィリピ4:4~7
 フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれています。しかし、執筆したパウロは牢獄の中にいました。そのような状況にあって、「喜びなさい」と言うのです。
 喜べるような現実がある人に、「喜びなさい」と言う人はいないでしょう。言われるまでもなく、喜べるのですから。この手紙は、フィリピの教会で失われつつある「喜び」に再びフォーカスするようにと、パウロがしたためたものなのです。
 ところで、喜ぶためには根拠が必要でしょう。自分にとって嬉しいことがあれば喜ぶ根拠となるように、喜べないときに喜ぶためには、ひきつった笑顔にならないための根拠が必要なのです。パウロは喜ぶことの根拠をどこに置いていたのでしょうか。それは、彼の信仰の歩みに神ご自身が応えられた、その体験でした。
 牢獄の中で賛美していると、看守や囚人たちは平安になり、錠前が外れ、扉が開き、神の出来事が起こったのです。神への賛美と福音の喜びが世界を切り開いた瞬間でした。
 私たちは、あの時の神と同じ神を信じています。彼らに起こったことが私たちには起こらないと、どうして言うことができるでしょう。賛美の中に住まわれる主が、あなたの喜びの根拠です。

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2022-02-13
2月13日「愛に選ばれた私達」

申命記7:6-8  ヨハネ15:11-17
 わたしたちの思いと神様の思いの何と異なることでしょう(イザヤ55章8-10)。この真実は、新約に限られたことではありません。さすらいの1アラム人であったアブラハムにも、さらに時代を経て、出エジプトにおける神様の宣言の中にもみられるものです。「イスラエルの選び」について、その選びは、ただ一方的な神様の側からの選びであり、その理由は、「最も貧弱であった」ことによると宣言します。
 これこそが「神の愛の選び」なのです。それは時を経て、主の喜びが「あなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」との、弟子たちの、そしてわたしたちの選びへと繋がっているのです。「神の永遠の救いの選び」は、その根拠はわたしたちの内はありません。「神のわたしたちの選び」は一方的神の永遠の愛にあることを、しっかりと受け入れる時に、主観的感情に左右されない、神の出来事となります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたし(主イエス)があなた方を選んだ」という、神ご自身による出来事となるためです。
 それはまた、「主の愛の実を結ぶ」世への証人としての招きなのです。わたしたちは貧しきが故に、選ばれたのです。キリストの愛を生きるためです。喜びが満ち溢れる愛の証人となるためです。

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