宣教

2018-04-22
4月22日「光の指す方向」

IIコリント4:6〜9
 主なる神は私たちに必要なものはすべて与えると約束しています。聖書の登場人物たちも、その約束を目の当たりにしてきました。しかし、それは誰しもが簡単に理解できるようなやり方を通してではなく、一人ひとりに対して、ユニークに与えられていくものでした。時には、それが欠けた器のひび割れのように、人々がいらない、と思い込んでいるところから始まっていくのです。
 この4月から新しい歩みを始められた方々に、また、新しいことに挑戦しようと試みている方々にも、すべての人に主は目を留めておられます。一人ひとりの輝きが増していくために、一人ひとりにユニークなひび割れを与えて、そこから光が溢れ出るようにデザインされたのです。しかし、ひび割れた部分を良しとできる世界を創造された神の意図に反して、ひび割れを恥じる時、人は闇の中を歩むことになります。
 主の光はいつも外向きです。その光は、あなたのひび割れを通って外に出たがっているのです。もし、自分が持っているひび割れを隠すことなく注視し、主が善いものをくださったと信じるなら、その裂け目から光が溢れ出し、あなたを通して世界は祝福に変えられていくでしょう。

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2018-04-15
4月15日「備えられた計画」

エフェソ2:10
 聖書は、人を神の作品であると語ります。神はあなたのことを他の誰ともまったく同じには造りませんでした。ですから、他の人を形作るための計画と、あなたが練られていく計画は異なっているのです。もし、一般的な計画に従っていくならば、神の願ったあなたらしさを失うことになっていくかもしれません。
 聖書の登場人物たちも、私たちと同じようにそれぞれ異なっています。その人々を成長させるために、神はまったく違う物語をそれぞれに用意しました。あなたがあなたらしく成長したいと願うなら、神の育成方法に注目すべきです。なぜなら、あなたが地上に生を受ける前から、あなたにどう生きて欲しいかをデザインされたのは神だからです。
 「神が前もって準備してくださった善いわざ」とは、あなたが心の底から喜び、「〜すべき」から解放されて、「〜したい」と思えることなのです。そして、神は何よりもそれを望んでおられます。
 主イエスの弟子たちの育て方も同じです。主の喜びは「神が前もって準備してくださった善いわざ」を歩んでいくことで、人々が自由になり、心の底から喜び、「〜したい」と輝いて生きる姿を見ることだったからです。

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2018-04-08
4月8日「陰府にくだるとも―愛の勝利」

詩編31:15(口語) Ⅰペトロ4:6
 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。~天に登ろうとも、~ 陰府に身を横たえようとも~あなたは、わたしの内臓を造り~」(詩編139)と。「わたしの時はあなたの御手にあります」と聖書は神を指し示します。毎礼拝ごとに告白する使徒信条に、「~死にて葬られ陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり~」とあります。
 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らは人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(Ⅰペトロ4:6)。「生きている時も、死んでも、わたしたちは主のもの」なのです。
 「陰府にくだり」、すなわち、死の世界にまで主イエス様が自ら赴いたとわたしたちは告白しています。「罪の支払う報酬は死」ですが、「神の賜物はわたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命」なのです。神の愛の足音は誰にも止められません。自分が後生大事に持っている物差しを放棄し、サタンの誘惑に勝利する時が訪れました。
 「陰府にまでおよぶ救いと愛を知り 主イエスと共に進み行く我と」心躍ります。

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2018-04-01
4月1日復活祭「神の栄光を見る」

 ヨハネ11:28〜44
 私たちは、祈りを通して、関わりを通して、医療などの癒やしを通して、人々を解放することができます。しかし、死後4日間も経った人を蘇らせることができると言われれば、信じることができるでしょうか?
 主イエスはあらゆる領域において、弟子たちに、そして人々にご自身の生き方を通して模範を示されました。そして、「はっきり言っておく、わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と、ご自身が行ったことと同じか、それ以上の働きができることを示されたのです。それが主の人材育成でした。
 主の人材育成は最初から最後まで一貫して、人が神に対する信仰を持つことでした。その最後のステップは、人が信じることのできない、不可能の領域に対する挑戦でもありました。それは、死というものに対する偽りからの解放です。そして、主は人を蘇らせ、ご自身も十字架の後に復活されたのです。もはや、死は私たちに対して脅威とはなりません。なぜなら、この方が今も生きているからです。
 主は私たちに不可能を可能とする神の権威を委ねてくれました。「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と主が招いておられます。

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2018-03-31
3月25日「誰も知らなかった計画」

 士師記6:11〜18 ローマ8:31〜32
 収穫期のイスラエルに毎度お馴染みの不安が漂っていました。いつ何時、ミディアン人たちが襲いかかってくるか知れないからです。彼らはすべてを食い尽くす「いなご」のように、いつもこの地を蹂躙するのです。今、イスラエルの人々の叫びは神に届き、救いの計画にピッタリの人物が選ばれました。しかし、その人物は誰よりも恐怖心が強く、弱々しいので、一見不向きと思われる、ギデオンその人でした。
 神は私たちが自分を見るようには見ず、または人々が私たちを評価するように評価しません。神にとって、私たちは生まれる前から神の計画と愛の中にあり、どんな歩みによって過去を積み重ねてきたか、一切問題になりません。神は私たちの味方なのです。しかし、私たちを一般的、平均的という一見聞こえの良い方向に留めようとし、神の計画に歩ませないようにするための言い訳は無数に転がっています。身近な人の妬みもあるかもしれません。事実、主イエスも人々の妬みのために十字架につけられました。
 神の計画を歩む時、まず私たちがどんな存在であるかを知ることは大事なことです。そして、主はあなたを「勇者だ」と宣言されています。あなたの中にある神の計画があなたをそうするのです。

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2018-03-31
3月18日「神の道具箱」

 イザヤ55:8〜13
 神の計画は、愛する人々とともに神の国を建設することです。この王国は高いものが低くされ、低いものが高くされる、という価値の逆転によって支配されています。そして、この国を建設するために必要な資材は、恵みによって与えられる神の言葉です。
 多くの人は、クリスチャンであっても、ある種の問題解決は、その道の専門家のみが解決できると信じ込んでいます。確かに、専門家は目に見えて現れている問題に対処可能です。しかし、主イエスは問題の解決を、嵐の沈静化や病人の回復、死者の復活という対処療法に置いていませんでした。その根底にある、目に見えてこない本当の問題を、主はご存知であり、その問題の解決を優先されました。そして、問題の解決に向けて、主のなさったことは、神の言葉の実践でした。
 神は大きく、はかり知れないサイズの道具箱をもっています。有能な大工が作業によって道具を切り替えて用いるのと同様に、神の道具である私たちも個性で満ちています。神はご自分の愛する子である私たちをご自身の愛を世に解き放つ道具として創造しました。
 主が出会う人々を根本的な問題から解放していったように、私たちにも同じことができるのです。そして、同じことができるかどうかは、ただ信仰によるのです。

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2018-03-11
3月11日「ここは『神の家』」

創世記28:10〜16 IIコリント6:1〜3
 「どうして?」「何故こんなことが自分だけに?」と多くの人が人生に問いかけます。しかし、この問いに答えは出てきません。
 実は、人生に問うている自分は、逆に「人生から問われているのである」とV.フランクルは見事に事の真実を言い当てています。答えがわからないから問うている自分がいます。
 ヤコブはなかなかの曲者です。一言で言えば「食えない奴」です。自分の好き勝手をやって、逃亡し、不遇を嘆くのは虫が良すぎます。逃亡の途中で石を枕に夜を過ごす枕もとに、天使の上り下りする階段の夢を見て、「ベテル(神の家)だ」と叫びます。
 ペトロもパウロも、マリアもヨセフも、ザアカイもバルトロマイも、イエス様と出会った人たちは、「ここは神の家」との告白に導かれています。これらの人々は「荒れ野で恵みを受ける」(エレ31:2~4)とある通りです。
 「天使が上り下り」する場所とは、あなたが今いる、「その場所」なのです。「ここ」にこそ、主のおられる、「靴を脱ぐ」場所に他なりません。「今や恵みの時、今こそ救いの日」です。「昔ヤコブの見しはしご今ここに 主をば仰ぎしわれのもとへと」

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2018-03-04
3月4日「王の祭司として」

聖書全体を通して語られる神の計画は、すべての人の救いに関するものであり、それはイエス・キリストの十字架で頂点に達します。神の愛は深く、主イエスは人の罪を取り扱う以前から、その人の傷を癒やし、束縛から解放し、悪霊を追い出しました。それは、旧約の時代から変わらぬ神の姿勢です。
 イスラエルの民はエジプトの地で奴隷として厳しい苦役と虐殺の中で叫び続けていました。神はその人々の声を聞き、一人の祭司、モーセを立て、彼らの救いのために、その祭司にご自身の権威を与えました。それは、「私が共にいる」という約束とともに果たされました。
 エジプトを脱出した民は、人々を「わたしの宝」と呼んで愛してくださる神との出会いを果たしたのです。まさに新しい時代のはじまりでした。そして、それは民の一人ひとりに語られたことでしたが、不幸にも、イスラエルはその言葉を拒絶し、祭司であるモーセ一人だけを代表として神のもとに派遣し、自分たちは不信仰の罪に落ちていきました。
 しかし、神の計画は頓挫したわけではありません。すべての人々を奴隷状態から解放し、神の祭司としての新しい人生を用意し、そこで宝とされていることを喜ぶ生涯が、今目の前にあるのです。

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2018-02-25
2月25日「偽りからの解放」

ヨハネ8:39〜47
 はじめに天地を創造された時、神はそのすべてのものを完璧につくられました。しかし、アダムとエバが神に背いて禁じられた実を食べたときから、神と人との関係、人と人との関係は破壊されたと聖書は伝えています。そして、その罪を取り除き、神と人との関係を回復し、人と人の関係をも修復する救い主が来られたことを、私たちは信じて救われました。しかし、罪が取り除かれたはずなのに、未だに心の中には不安や悲しみ、怒りが満ちていませんか?そもそも、人が罪を犯す原因となったものは何でしょうか?
 主イエスは、聖書を知り、救われていることを知り、人々を神のもとに導き、指導する立場の人々に対して「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」と言って、人々が神の声ではなく、むしろ偽りの父からの声を聞いていることを明らかにしました。その偽りの父こそ、人に罪を犯させる原因になった蛇の姿なのです。人は騙されて罪を犯したのです。そして、人を騙すために偽りの父が用いたのは、人の中にあった弱さに対するささやきでした。
 もし、私たちが主なる神からの声を聞くことができるようになったなら、何が偽りで、何が真理かをはっきりすと悟るようになるでしょう。

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2018-02-24
2月18日「永遠の解決」

ヨハネ14:6〜7
 わたしたちはどこから来て、どこにいて、どこに行こうとしているのか。これは人類の永遠のテーマです。その答えを求めて、人はあらゆる領域へと乗り出し、深め、拡げ、獲得してきました。素晴らしい発見の数々は、私たちの生活を激変させるものさえありました。ところが、世界は未だに混迷を極め、はるか昔に聖書が向き合っていた現実と何ら変わっていないのです。その現実とは、人の罪の問題です。
 罪の問題を、誤り、過失、思慮不足といった言葉に置き換えてみても、たましいの問題そのものは解決せず、未だに手付かずのままです。その結果として、この世界には、死をはじめとした絶望が渦巻いているのです。その絶望の根は、はじめの人アダムとエバの子アベルの死から変わることがありません。あまりにも長く続いてきた悲しみは、人に「死は当たり前」だという感覚すら植え付けてきました。それこそが、偽りなのです。
 主イエスは、ご自身を真理であり、いのち輝く道であって、その道を通らなければ人は救われないと、人々に教えました。それこそ、人類が血眼になって探し求めてきた、永遠のテーマに対する答えだったのです。その答えを握っている私たちは、たとえ嵐の中であっても平和を保つことができるのです。

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2018-02-11
2月11日「〜故に、わたしは生きる」

創世記39:21〜23 ヨハネ14:15〜19
 わたしたちの人生はどのようにして形成されるのでしょうか?よくご存じのように、まずは幼い頃からの養育者との関係により、環境により、学習によって自分の内に人生を取り込みます。その結果、多くの人は「自分の信じているとおり」の人生を過ごすことになります。結果、自分の人生を自分が選ぶということになります。
 人生は、「学び」である以上に、「真似び」であることになります。しかしこれは絶対的なことではありません。聖書はわたしたちに、「関係」は「選び」によっても開かれると語ります。「わたしがあなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)と主は語られます。この選びを信じ、キリストへの「真似び」に生きるのです。新しい時の中の自分に出会うことができます。
 ヨセフは兄弟たちに憎まれ、エジプトに売られましたが、エジプトの宰相にまで上り詰めます。
 そのキーワードは、「主がヨセフと共におられたので…」です。イエス様は、「わたしが生きるので、あなたがたも生きることになる」と言われました。誰と共に歩むのか?それが人生において最も大切なことなのです。「インマヌエル」こそ、人生の原点です。あなたはどこに、だれと共に?「生きるとは愛と自由の原点のインマヌエルの内にこそあれ」

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2018-02-04
2月4日「御国の視点」

創世記1:29〜31 ヨハネ15:9〜16
 神は天地を創造し、人を創造された時に、その素晴らしい出来栄えにとても満足しました。神の目には「極めて良い」完璧な状態だったのです。そして、人にすべてを与えて、祝福しました。しかし、人がこの祝福のうちを生きられなくなった原因を、聖書はエデンの園の出来事を通して私たちに教えています。
 三位一体の神は関係の中に生きておられる方です。その関係とは、愛の関係です。主イエスは、ご自身につながっていれば必ず実を結ぶと弟子たちを励ましました。しかし、つながっていても実を結ばない枝は神の手が入ると約束しています。では、その実とは何でしょうか。それは、幹である主がもっとも喜ばれることです。
 主はご自身をぶどうの木だとたとえられました。ぶどうの木は、りんごなど、他の実を結びません。一つの実を結ぶのです。そのたった一つ、主がもっとも喜ばれる実は、救いです。なぜそう言えるのか、それは、神が命を捨ててまでも手に入れたかったものです。あの十字架が、復活が、それを証ししています。
 友のために命を捨てる時が来ました。あなたがそのみ言葉に生きる時、主が姿を表します。創世記1:29〜31 ヨハネ15:9〜16
 神は天地を創造し、人を創造された時に、その素晴らしい出来栄えにとても満足しました。神の目には「極めて良い」完璧な状態だったのです。そして、人にすべてを与えて、祝福しました。しかし、人がこの祝福のうちを生きられなくなった原因を、聖書はエデンの園の出来事を通して私たちに教えています。
 三位一体の神は関係の中に生きておられる方です。その関係とは、愛の関係です。主イエスは、ご自身につながっていれば必ず実を結ぶと弟子たちを励ましました。しかし、つながっていても実を結ばない枝は神の手が入ると約束しています。では、その実とは何でしょうか。それは、幹である主がもっとも喜ばれることです。
 主はご自身をぶどうの木だとたとえられました。ぶどうの木は、りんごなど、他の実を結びません。一つの実を結ぶのです。そのたった一つ、主がもっとも喜ばれる実は、救いです。なぜそう言えるのか、それは、神が命を捨ててまでも手に入れたかったものです。あの十字架が、復活が、それを証ししています。
 友のために命を捨てる時が来ました。あなたがそのみ言葉に生きる時、主が姿を表します。

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2018-02-03
1月28日「神さまの恵み」

 エフェソ2:1〜9
 教会で使う神の「恵」、「恩寵」(Divine Grace)とは何でしょうか。イエス・キリストの十字架の死と復活。日本から遠く離れた、エルサレムで、今から二千年程前の過去に起きたこの事件について解説をしても多くの人にとって、それが自分の「罪」のためであったことを信じることは難しいことでしょう。人は自分が、善良な人間ではないにしろ「罪人」だと認めることに抵抗を持つからではないでしょうか。
 さらに、イエス・キリストの十字架の死と復活が歴史上の事実だとしても私の罪と、この事実との間にどんな論理的な関係があるのでしょう。多くの人にとって、二千年前に、エルサレムで起きた事件は、時間と空間と論理の「不連続」しかないでしょう。
 しかし、私たちクリスチャンはこの「不連続」を信じ受け入れて救われました。これを信じる時、神様の恩寵がその人の中に、その力を現し始めます。私とイエス様の十字架と復活の出来事が、連続していたことを恩寵によって知るのです。私たちは、確かにこの恩寵によって変えられる(transformation)のです。これは、十字架の死と復活を信じる人に与えられる神の約束です。恩寵によって信仰告白の文言に心から「アーメン」と言えるのです。

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2018-01-21
1月21日「神の約束を生きる」

ヨハネ16:25〜33
 主イエスは、神の国の福音をたとえ話の奥に隠して、求めるものだけが理解できるように鍵をかけました。すべてのたとえ話は、十字架と復活という光に照らされてはじめて鍵が開き、神の御心とその啓示である御子の出来事を示すことになるのです。
 あの日、直後に激しい試練にさらされることを感じつつも、弟子たちは目の前のイエスを救い主として信じ、従う決意を新たにしていました。しかし、彼らに決定的に欠けていたのは、十字架と復活という体験でした。主は「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」と弟子たちの逃亡を予見し、それでもなお「わたしはひとりではない」と神がともにいてくださるという確信に支えられていました。
 主の言葉通り、旧約の時代に預言されていたことが成就しました。それは、救い主が苦難し、勝利したということです。罪と死に縛られているこの世にあって、唯一、その束縛から解放してくださる方は、十字架と復活のイエス・キリストをおいて他に存在しません。その方を見上げて歩む時、世とは何か、勝利とは何か、罪とは何か、死とは何かが浮かび上がってきます。また、そのすべての解決は、この方のもとにあることも。

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2018-01-14
1月14日「ΑでありΩなるお方」

申命記11:11〜12 黙示録1:17,18
  主イエス・キリストは「初め」で在られる。この1年365日はすべてこの方の「御手」の中にあることを、年の最初にわたしたちは心に刻みたい。このこと故に、たじろぎ恐れる必要はない。世界とわたしたちの全ては、この方を離れては存在しない。世界とわたしたちの土台がわたしたちであるなら、他の何であっても、押し潰されてしまうことは明白である。歴史はそれを明らかにしている。高い理想を掲げ、独裁政権の転覆を企て成功した革命家も、時がたつと、多くは自らを絶対化して抑圧者の道を歩むことになる。
 人は、「自分が」始めであり、終わりになりたいと思う狂気―アルファ(α)であり、オメガ(ω)であろうとする―自己絶対化への逸脱が、容易に起こる。これこそが、自分が倒そうとした悪であることを忘れ、滅び向かってひた走る。わたしたちが始めである必要は全くない。「主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注いでおられる」(申11:12)約束の中故である故に。私の信じているものがわたしの一年になり、一生になる。「わたしの時はあなたの御手の中にあります」(詩31:15口語)。「キリストに初めと終わりを抱かれて インマヌエルを生きる喜び」。

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2018-01-07
1月7日「本当に大切なこと」

詩篇19:2 ルカ10:38〜42
 聖書は神がいるのかいないのか、存在を証明するために書かれていません。神が語っているかどうかについても同様です。つまり、私たちに問われているのは「神が語っているか」ではなく、人が「神に耳を傾けているか」ということなのです。
 マルタとマリアの正確は対照的です。これは、姉妹であっても人それぞれ特徴があるということ以上に、人生で「必要なことはただひとつ」であり、その必要なことを選び取って生きる人とそうでない人との対比を描いているのです。
 満足しない文化の中で生かされている人々は、神との関係や、祈りの本質さえも変化させてしまいました。その姿は、さながら赤子のようだと聖書は語ります。赤子は感謝しません。必要であれば泣き、当然のように受け、存在そのもので親に喜ばれます。しかし、いつか乳離する時がやってきます。それは大変な苦労を伴いますが、親子の関係をより成熟したものにしていきます。
 神の言葉を聞く生活は、すなわち従う人の生活です。その人の人生にご自身を現すと主イエスは約束されました。必要なのは、「聞く」こと。ただひとつです。

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2017-12-31
12月31日「助けることは、助けられること」

ホセア11:1 マタイ2:14〜15
 聖書は主イエスの若かりし頃の記録を一切残さず沈黙しています。少年時代の記録が一つあるだけで、あとは生誕にまつわる物語だけなのです。しかし、そのわずかな記録から見えてくるのは、昨日も今日も、永遠に変わらない主の姿です。
 主イエスの誕生によって地位を奪われると恐れたヘロデは子どもたちを虐殺しますが、主は両親に助けられて、かつて先祖が脱出してきたエジプトへと戻り、そこで守られました。主の公生涯が30歳を過ぎて始まったかどうかに関わらず、主の生涯は公生涯よりも前から始まっていたのです。それは、何と人に助けられる経験から始まったと聖書は記録しているのです。これは、助けることと、助けられることの大切さを神がご存知であることの証しなのです。子どもを親が育てているようで、逆に子どもに育てられていると感じるように、主は人と人が助け合う関係を生きるようにと招いています。そして、自らの御業の陰で、涙をのまなければならなかった人々の苦しみや悲しみをも、背負って行かれたのです。それが、あの十字架の出来事であり、復活の希望によって示された、尽きぬ命の主の物語なのです。

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2017-12-24
12月24日「まことの王が来られる」

  イザヤ9:5 ルカ2:10〜11
 救い主の誕生が神から約束されてから約600年の後、その救い主、主イエスがエルサレムの都に入城される時、主は救い主を歓迎し、熱狂する都の人々のために涙を流されました。それは、なぜでしょうか。
 神が預言者に告げた救い主の姿は、幼子であり、力なく、人の助けを必要とする存在でした。しかし、その赤子こそが救い主であり、「権威が彼の肩にある。」と言われたのです。これは、人々が考えつく権威とはまったく異なった種類のものでした。
 人々は凡庸で古臭く、二流の王たちに慣れてしまって、本当の権威とは何かを見失ってしまったのだと聖書は問いかけています。人々は慣れ親しんだ歌をうまく歌える特別な歌手を求めたが、実際に与えられたのは、それまでの歌曲をすべて覆してしまうような作曲家だった、ということです。主は全てを新しくされる、本当の王だったのです。
 創世の時代より人を助け続けてきた神が、一度きり、人になり、人に助けられる体験をした。それは、神がどれほど人を愛し、信頼してくださっているかの現れです。この王を自らの人生に迎え入れた人々は、クリスマスの本当の喜びを知ることになるでしょう。

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2017-12-17
12月17日「救いの計画」

申命記18:15〜22 ヘブライ7:24〜25
 救い主の誕生と十字架と復活へとつながる足音は、旧約聖書の至る所に見られます。モーセも霊に満たされて、預言者が与えられること、彼に聞き従う必要があることを民に宣言しました。
 やがて、神に背を向け、自らの不信仰を刈り取るように、絶望に沈んでいく人々を前に、預言者たちはその不信仰を厳しく問いただし、神に立ち帰るように語り続けてきました。しかし、主が山上で語られたように、人々は預言者の言葉に耳を貸さず、迫害し、殺しました。そしてついに、モーセをはじめとした預言者たちが言ってきた、その方がこの地にやってきました。盲人は目が開かれ、足の萎えた人は歩き、あらゆるものから解放された人々の喜びが広がっていきました。ところが、あの日、自分たちの思い通りにならないとわかると、人々はその方を迫害しました。
 神の言葉を携えてやって来た人の死。いつもと同じ景色が広がっていました。しかし、他の預言者とはまったく違っていたのは、その方は神ご自身であったということです。死から復活され、今も永遠に生きておられる方は、悲しみの連鎖を終わらせるために、ご自身の痛みを通して、人々の悔い改めを待っておられます。

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2017-12-10
12月10日「悲しみも祝福」

イザヤ40:6〜8 マタイ5:4
 わたしたちは、自分の経験、フィルターを通して事柄を捉えようとします。そんな中で御言葉は、わたしたちの思ってもみない方向を指し示します。御言葉を前に、つまずきを感じる時は、自分の感覚によらず御心を尋ね求めを祈ることです。大きな「悲しみ」を考える時、まず「死別」「別れ」が思い浮かびます。それならば、悲しくない「死別」「別れ」とは何でしょうか。
 そこにあるのは、乾いた潤いを失った心、愛のない生活、無関心が思い浮かびます。実は、悲しみの深さは、共に生きた愛の豊かさなのです。
 神様は、ご自分の御子をこの世に送るという別れを通して、わたしたち人間に対する愛を示されました。そればかりでなく、御子の十字架の死までも引き受けられました。この「悲愛」こそ御心です。
 「悲しむ人々の幸い」とは、この愛に支えられている自分と出会うことです。「草は枯れ 花は散る」のですが、主の約束、「インマヌエル」の神の現実の中にわたしたちがいます。御言葉、御心を生きる者は幸いです。 「主にありて悲しむ者の幸いは 共に生きたる愛の証ぞ」インマヌエルの恵みの中です。

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