宣教
2024-12-01
12月1日「神のライフプラン」
イザヤ55:8~11
キリストを救い主と信じる信仰の素晴らしさは、良いことが起こったらハッピーで、悪いことが起こったら無意味とは決してならないことにあるのではないでしょうか。
主は、私たちの思いをはるかに超えた計画を、一人ひとりの人生に現してくださいます。一見すると、目の前で繰り広げられる出来事は、悪い事のように映るときもあるかもしれません。主イエスもおっしゃいました。「この世にあっては苦難がある。」と。
何よりも、主ご自身が、苦難を嫌と言うほど味わわれたのです。そうする必要もない方でありながら、です。
イザヤの預言を知っていた者たちでさえ、誰も信じられませんでした。神でありながら、人となっておとめに宿り、世話が必要な赤子として過ごし、貧しい村の大工として働き、その人が律法を成就するために来たと宣言し、およそふさわしくは見えない人々を弟子として、数々の奇蹟を実行し、仲間に裏切られ、不当な裁判で屈辱的な十字架で死ぬも、三日目に復活する。これのどこを理性で理解できるでしょう。しかし、この方法でしか、人を救うことができなかった。あなたを変えることはできなかったのです。
2024-11-24
11月24日「人生の豊かさ⑥」
マタイ6:19~21
天に富を積む。天国に入ったときのエピソードとして語られる笑い話の中に多く見られるように、地上で積んだ善行が天で反映される、という理解がほとんどではないでしょうか。しかし、これは因果応報の価値観が天国でも反映されてしまう悪い例だと私は思っています。
もちろん、神は善い行いを喜んでくださる方ですし、悪に対しては義をもって臨まれる方です。しかしながら、神はその愛の深さゆえに、因果応報の価値観に終止符を打った方でもあるのです。
罪を犯した者たちに対して、義をもって罰することもできたはずなのに、その罪を御子イエス・キリストにすべて負わせました。しかも、赦してくださいと泣きながら懇願する相手にではなく、ご自身に見向きもせず、神などいないと嘯く者にまで、その愛を拡大されたその姿こそ、あの十字架の姿です。
あなたが究極的に大切にしているものは何ですか、と尋ねると、ほとんどの人が地上に富を積むことを選びます。家族、友人、ペット、アイドル、金銭、推しグッズなどなど。それらは人生を豊かにしてくれる大事なものであることに異論はありませんし、主もそのことを理解しておられます。しかし、主はおっしゃるのです。それがあなたの心の場所なのだ、と。
あなたの心は、虫が食い、サビつき、奪われるかもしれないところにあるいませんか?今一度、考えてみましょう。
2024-11-17
11月17日「いつまでも期待する」
Iコリント12:31b~13:7
パウロは「すべては愛から始まること」、愛の内に生きることが大切だと語っていきます。パウロは、彼の「愛」の実感をこの手紙で語り始めます。元々キリスト者を迫害する者だった彼を、神様は長い間忍耐をして時を持っておられた。だから彼は愛を語る上で一番最初に「愛は忍耐強い、愛は情け深い」という言葉を語りました。同じように神様に背くことしか知らずに生きてきた私たちを、神様は受け入れてくださりました。長い時間かけて、立ち帰る最も良い時まで忍耐して待っていました。
救われたということは、本当に、愛されたということです。愛の道は、パウロの言う最も優れた道です。かつて何もしらなかったわたしたちは、神様に実際に愛されて初めて愛を知りました。
この愛の道はただ好きな人と歩む道ではありません。なんなんだこの人は、と思う人と歩むことのほうが、実際は多い。神様の御業を待ち望みつつ「すべてを期待し信じること」が、隣人を愛することの秘訣です。共に歩む隣人に対して、神様はこれから先一体何を見せてくださるのかと期待すること。そのような新しい忍耐によって、信じ、望み、隣人と一歩一歩共に歩むのが、「愛の道」です。この道を歩むには、イエス様と共に、そして隣人と共に歩む必要があります。神様を信じ、喜びの忍耐を持って、愛の道を歩む。それを今、愛をもって神様はわたしたちにいつまでも期待しておられます。
2024-11-10
11月10日「人生の土台ー神の然り」
創世記1:31 Ⅰテモテ4:1~5
あなたは今、「どんな言葉を生きていますか?」と問われたら何と答えますか?それは、「あなたに見えているものは?あなたの感じていることは?」への問いでもあります。
「どこにいるのか?」(創世3:9)は、神様が人間にされた最初の問いです。それ以来、神様はどんな時、どの時代においても、神様に立てられた人間(アブラハム、モーセ、預言者…)を通して問い続けてきました。時至り、イエス様を通して、語り続けておられます。「あなたはどこにいるのか?と。
聖書はその初めにおいて、「御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」と宣言しています。ここに、わたしたち人間の真実の姿が明らかにされています。全ての創造を終えた神様は、「それは極めて良かった」と喜ばれます。
イエス様は、「極めて良かった」人間と出会う歩みでした。主に続くパウロの宣教は、主の足跡を踏みしめるものでした。「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何ひとつとして捨てるものはない」との宣言の確信がここにあります。
わたしたちは、キリストという土台(罪の救いと永遠の命)の上に建てられています。感謝します!
2024-11-03
11月3日「理解を超えて」
使徒17:29~34
古代アテネは学問の街として栄えてきました。昼間から広場には学徒が集まり、様々な話題について議論を交わすような土地です。
使徒パウロが福音を携えてこの街を訪れたとき、人々は新しい思想や学問、話題が来たと大いに喜び、彼を歓迎したのです。
ところが、パウロが主イエスの歩みとその意味、そして、罪の赦しの十字架を語りだすと、人々の反応は薄れていきます。やがて、主が蘇られたことにまで話が及ぶと、人々は期待していたものとは違う福音の内容に、きびすをかえして去っていきました。
いわば、最高レベルの知識の集積所であるアテネの人々の問題点は、一体どこだったのでしょうか。彼らは何を欲しがっていたのでしょうか。そこに、人が求めるものと、神が与えたいと願うものの間にあるギャップが存在しています。
あなたが今、神に求めたいものとして真っ先に頭に思い浮かぶものは何でしょうか。そして、神があなたに与えたいものとは何でしょうか。聖書はそのことに注目させます。
神があなたに与えたいもの。それは永遠の命です。これは人間が努力しても、善行を積んでも、決して得ることができないものです。そのために、神は壮大なご計画を持って働かれた。それが聖書のストーリーです。
2024-10-27
10月27日「人生の豊かさ⑤」
マタイ5:38~42
主イエスが伝えられた聖書の御言葉は、どれも挑戦的な内容で実践が難しいものですが、この御言葉は別格でしょう。そして、あまりにも衝撃的なために、広くクリスチャン以外にも知られています。果たして、主は悪に対して無抵抗でいるように教えているのでしょうか。
この箇所は復讐を自分のところで終わりにする。そういう意味として読まれることの多い箇所ですが、それでもなお、やられ損のように感じてしまうのが正直な気持ちではないでしょうか。さらに、右の頬、左の頬という言葉は、やられた上にさらに別の暴力をするように、相手に仕向けることだと理解してしまいがちです。
しかし実は、右の頬を右利きの相手が打つ場合、手の甲で打つ必要があり、これは手のひらを汚さないために叩く屈辱的な行為であり、相手を見下すものでもあるのです。そんなことをされれば、相手に同じような苦痛を味わわせたくなりますが、ここで主は左の頬を差し出すように教えています。左の頬を出すことは、相手の手を汚すことでもあり、対等であること、いえそれ以上の高潔さ示すものでもあるのです。とすると、ここは、卑劣な悪に対しての戦い方を教えている箇所となります。
十字架の丘の上では、人々を愛し、あらゆる幸福で満たそうとされている主が、人々から屈辱的な扱いを受けていました。私たちもその一人です。それでも主は、左の頬を出し続け、勝利を得たのです。
2024-10-20
10月20日「人生の豊かさ④」
マタイ5:33~37
一切、誓いを立ててはならない。この箇所は、理解がとても難しいところです。なぜなら、他の箇所に誓いを立てている人々の姿が存在するからです。
そもそも、人間が何のために誓いを立てるのでしょうか。天地神明に誓って、神仏に誓って、など、ほとんどの場合、疑われている自分自身やその主張の正しさを証明するために誓うことをするのではないでしょうか。それは日本に住む私たちだけではなく、世界中で、またかつてのユダヤの民もそのようにしていました。そして「誓ったならば、必ず果たせ」という律法によって、その誓いを信用できるものとする努力が続けられたのです。
しかし、主イエスは「一切、誓いを立ててはならない。」とおっしゃいました。それは、人が自らの正しさを神の名を用いて証明しようとする試みだからです。神はご覧になっているのです。髪の毛一本さえも。それでもなお、あなたは自分の正しさを証明するために、神の名を証人として口にすることができるでしょうか。
もし、あなたが誓いを立てても問題のない人であるならば、あなたのために救いは必要なかったでしょう。主が地上に来られることもなかったでしょう。まして、十字架で罪のない主が、刺し貫かれることもなかったのです。しかし、それらのすべては現実となりました。
私たちは誓えないのです。そのような存在ではないのです。でも、主はそんな私たちのために、証人になろう、と命を差し出したのです。
2024-10-12
10月13日「私たちの勝利」
詩編18:26~31 ローマ8:31~39
聖書の示す「勝利」とは、なんと不思議なものでしょうか。「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:32)と言われる「主の勝利」とはどんなものなのでしょうか。
わたしたちの考える勝利は、相手を凌駕し、優位に立ち、奪い、支配することに他なりません。力が力を肥大させる、敵と言われる他者を徹底的に殲滅する力こそがこの世の勝利と言われます。
このように「神なし」で生きることを『この世』ということが出来ます。しかし、我らの主は全く正反対の方向と方法をお示しになられます。「人々に仕え、人に与え、人々を生かす」道がそれです。まことの勝利者主は、捕らえられ辱められ嘲笑され衣服を脱がされ、ムチ打たれ十字架を負わされ殺された、このお方を聖書は「勝利者」と宣言します。
「神との平和」これこそが真実の平和であることを心に刻むことです。この平和こそが「隣人との平和」、すべての「モノとの平和」こそが、世界と人々、自分に対する正しい関係の源なのです。
「敵軍を追い散らし、わたしの神によって城壁を超える」とは、十字架を見上げ、愛を生きることを通して、罪の城壁を超えるわたしたちのことです。神の愛に生きることこそ、まことの勝利の力です。
2024-10-12
10月6日「主の恵みの年」
ルカ4:20~21
近代社会は借金を返せなくなった人に対してとても寛容になりました。古代ローマでは自己破産すると奴隷にされるのが一般的でした。ローマの繁栄は、戦争捕虜や借金で奴隷になった人たちの労働力に大きく依存していて、ローマ市民はその労働によって娯楽や文化活動に専念することができました。
今日の聖書箇所に、イエス様が故郷のナザレに戻り、奴隷の解放と借金帳消しを宣言する場面が描かれています。これは旧約聖書のレビ記に記された、奴隷が解放され、買い取られた土地が返還される「ヨベルの年」についての教えに基づいています。イスラエルの歴史上、五十年に一度やって来るこの夢のような年が実現したという記録はありません。ユダヤ人はこの教えを単なる理想として考えていたようですが、イエス様は「その時は今だ」と言って、ヨベルの年が本当に来たと宣言しました。
奴隷生活や借金地獄とは無縁だと思うかもしれません。しかし、人間として生まれた以上、逃れられないのは人間関係の悩みや、自己破壊的な感情から来る心の抑圧です。イエス様は外面的な解放に限らず、人の内側の解放をも伝えています。「羊(人)が命を豊かに受けるために来た」と語ったイエス様の宣言は、今の私たちにも波及する物です。
2024-09-28
9月29日「人生の豊かさ ③」
マタイ5:21~26
主イエスは律法を完成するために来た、とご自身の役割を明確にされたあと、殺人についての律法を例にあげて、完成形を示されました。それは、人々も驚くような厳しさでした。
つまり、表に見える形での殺人はもちろんのこと、そこに至る過程としての怒りや恨みなど、表層に現れない部分にまで律法を適用されたのです。
確かに、腹の立つことがあったとして、たとえそれが不当なものであったとしても、腹を立てたり、怒り、憎むことは、何の役にも立たない、と冷静に考えれば分かります。不当なことに対しては、そのことに対して声を上げれば良いのであって、相手を憎んだり、まして殺したりすることは、かえって自分が苦しくなる不利益なことである、というのが主の言わんとすることでしょうか。
そして、律法の完成形を示された主は具体的な場面を例にあげながら、その解決を示されました。それが和解です。とはいえ、和解のために必要なのは、双方の歩み寄りではないでしょうか。そのために、私たちがすべきことを示されます。
裁判に向かう道、そこで和解をする。これは、日常生活の中で直面する場面として、ユダヤの人々の心を捉えました。しかし、このストーリーの背後には、神の救いのご計画が隠されていたことを、人々はまだ知らないのでした。
2024-09-28
9月22日「わたしは必ずあなたと共にいる」
出エジプト3:11~12
神はモーセにファラオのもとからイスラエルの人々を連れ出しなさいと言われました。この命令に対するモーセの最初の言葉は、「わたしは何者でしょう」でした。ヘブライ人として生まれ、ファラオの王女の子として育ったモーセの最初の言葉には複雑ともいえる生い立ちが影響を与えているようにも思えます。このモーセの返答に対して、神はモーセの能力やイスラエルの人々を連れ出すための資格について語りません。神は、「私は必ずあなたと共にいる」と答えられます。モーセを神と共にいる者として定め、遣わしました。私たちはそれぞれが異なる背景を持ってこの世界で務めを果たしています。また務めの形もさまざまであり、弱さをもった人間として迷うことも悩むことも嘆くこともあります。しかし、このような私たちを神に属した者として確立してくださる神を仰ぐとき、言い表せない力強さと恵みが与えられていることに気づくのです。神と共に一歩一歩を力強く歩むことができることを願います。
2024-09-28
9月15日「人生の豊かさ ②」
マタイ5:17-20
主イエスとその弟子たちは、律法を遵守する人々にとって異質な行動が目立つ存在でした。それゆえに、律法を守ることにかけては超人的な努力を重ねてきたファリサイ派や律法の大切さを教え、人々を導いてきた律法学者たちからは疎まれたのです。
しかし、主は律法を破るために来たのではなく、完成させるために来た、とおっしゃいました。しかも、神の律法の一点一画をもおろそかにしないと言われるのです。
聖書には様々な律法、すなわち神の定めたルールが記載されています。これは、神の国の法律と言ってよいでしょう。そして、私たちは望むと望まないとに関わらず、一人ひとりが神によって創造された、神の国の国民であり、神の国の法律のもとに置かれています。
主イエスを信じると、この法律が聖霊によって私たちの中にやってきます。忘れかけていた大切な基準です。その基準によって、この世界を見始めるときから、私たちの見る世界は変わっていきます。
さらに、外なる世界だけではなく、私たちの内なる世界も変化を見せ始めます。律法とは、すなわち十字架と復活の主ご自身であり、その基準が私たちが何者なのかを教え、導いていきます。
ですから、主は律法を廃棄される方ではなく、律法を成就する方なのです。それはすべて、あなたのためでした。
2024-09-28
9月8日「知恵のはじめと終わり」
箴言1:7 ヨハネ17:3
「世」には、知という知が溢れています。しかし、これらの知の何という頼りなさでしょう。ITの技術も私にとっては、あまりに高い山に思えます。しかしこの知識も、かってなかったほどの犯罪や不正の温床になっていることは悲しむべきものがあります。便利という知が犯罪の温床になります。
「知」とは何なのでしょう?もろもろの「知」を集めても、人は幸せになることは出来ません。知識の実を食べたアダムとエバを見るとよくわかります。そして人間の『知』は滅亡へと雪崩落ちる危険性をはらみます。このことは、創世以来変わることなく続いています。人間の「知」は、「知」のみにおいて幸せをもたらすものとはなりません。聖書は、わたしたちに、「主を畏れることは知恵の初め」と宣言し、「真の知」へと招きます。
友よ、科学の進歩は、一方では、限りなく、自然と人間の壊滅へと向かって舵を切ります。聖書はわたしたちを、イエス・キリストによって、「神への平和」へと招き続けています。インマヌエルの神は、神を畏れ敬うことにこそが「知」の初めであり、キリストの出来事-愛―こそ、神の救いの出来事、真の「知」なのだと断言します。神の御子の遜(へりくだり)りこそ、神の真の知恵なのです。
2024-09-01
9月1日「人生の豊かさ ①」
マタイ5:13-16
主イエスはある時、山の上から人々に語りかけられました。聞いていた人々は、弟子たちをはじめ、日々の生活に困窮している方々でした。そんな人々を前に、主は人生の豊かさについて教えてくださったのです。
まず、私たちはどういう存在なのか。地の塩、世の光という表現をもって語られました。
塩は欠かすことができない調味料であり、それが無ければ味がせず、なおかつ食品を腐敗から守る役割も担ってくれます。それが、私たちだとおっしゃるのです。あなたがいなければ、この世界は無味に等しい、と。あなたがいなければ、この世界は腐敗していく、と。そうおっしゃるのです。あなたはそんな自分の価値を知っていますか?
また、世の光だともおっしゃいました。その光は隠そうとしても隠せないほど強く輝くもの、隠そうとすること自体が無意味で、その輝きは人々の前で輝かせるために、主自らがデザインしたものだと教えられたのです。
また、世の価値観でいえば、決して立派ではない人々を前にして、あなたがたの立派な行い、とおっしゃるのです。私たちが考える立派な行い、というのは慈善事業でしょうか。律法を守ることでしょうか。あなたは何だと思いますか?
主がおっしゃっているのは、塩と光です。塩は塩らしく、光は光らしく、主が創造された役割を果たしていること。それこそ、立派な行いにつながるものだからです。
2024-09-01
8月25日「主の祈り II」
マタイ6:9-15
主イエスが人々に教えられた「主の祈り」。これは、他の聖書の御言葉と同様に、方法論ではなく本質論を語っておられることを分かち合いました。
まず、神を崇める根拠としての十字架と、御国の支配が私のところに来るように、と願う祈りから始まって、まことの自由と平安が神のもとにあることを確認しました。
続いて、日ごとの糧と人間関係についての祈りが続きますが、主は天の父が必要なものをすでにご存知だと教えてくださいました。では、その上で祈り求める、私たちに必要な日毎の糧とは一体何でしょうか。
主イエスはご自身をいのちのパンだと語られました。また、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、とも言われています。あなたは、毎日の食事や衣服のために、本気で祈ったことがあるでしょうか。仮に無かったとすれば、祈ってもいないことが与えられた時、それは父なる神が必要をご存知であることの何よりの証明となるでしょう。しかし、霊の糧はいかがでしょうか。
また、次に人間関係のことを祈るように促しています。社会性のある生物として、人間には人間関係が切っても切り離せないことだからでしょう。それも、赦す、ということがすべての人間関係において重要なキーワードになっています。なぜなら、主はそのことしか祈りに含まなかった上に、その補足までしておられます。
その補足とは、再び十字架を想起させます。十字架に始まり、十字架に終わる。これが「主の祈り」です。
2024-09-01
8月18日「主の祈り I」
マタイ6:9-13
主イエスは人々に祈りの本質について教えられたあと、「だから、こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えられました。
「だから」とは、何だったでしょう。キーワードは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」ということです。そのことを「だから」とおっしゃるのです。どういうことでしょうか。
「主の祈り」の冒頭、主は「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」と祈り始めるよう教えられました。「御名が崇められますように」ということは、「御名が崇められていない」現状に対する祈りです。
あなたは御名を崇めていますか。絶えず祈るということは、絶えず崇めるということと同義です。でも、主はそれができていない現状をご存知の上で、御名を崇められるように祈り始めることを教えたのです。
これは、祈りとは何かを考える上でとても重要なことです。「〇〇してください」の祈りの本質は「私の思い通りになりますように」です。そうではなく、まず最初に「御名を崇めること」つまり、私たち自身の思いよりも主の御名が偉大であること。その基本からすべてが始まるのだと主はおっしゃっているのではないでしょうか。
2024-08-11
8月11日「平和への一歩を」
イザヤ2:3~5 マタイ5:9
「8月や6日9日15日」(広島、長崎、敗戦記念日)と謳われる。この8月は、今一度、「平和への祈り」を、教会と、自らの祈りとして新たに生きることを求められています。「平和とは?」の問に、次の祈りがこたえてくれます。
「主よ、わたしを、あなたの平和の道具としてお用い下さい。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りには真理を、絶望に希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。慰められるより 慰めることを、理解されるより 理解することを、愛されるよりは 愛することを、求める者としてください。わたしたちは与えることによりより得、赦すから赦され、自分を捨てて死ぬからこそ 永遠の命をいただくのですから。」(アッシジのフランチェスコ)
そうなのです。平和は「いただくもの」ではなく、イエス様が語られるごとく、わたしたちが主イエス様によって、「実現するもの」なのです。それが、教会であり、わたしたちが召されているということです。「主よ、わたしをを、あなたの平和の道具としてお用い下さい」と共に祈りましょう。
2024-08-11
8月4日「すべての民を弟子とする」
マタイ28:18-20
聖書は主イエスの周りに集まっている人々を「群衆」と「弟子」というように明確に区別しています。そして、主は群衆によって十字架につけられ、弟子たちは十字架から逃亡しました。どちらも間違っているように見えますが、根本的に違います。
群衆の興味はいつも自分に向いています。奇跡的なこと、驚くこと、利があること。そのようなことが起こらず、自分たちの思い通りにならなければ、去っていきます。単に間違えているだけではないのです。
しかし、弟子たちはすべてを捨てて従った、と事あるごとに描かれているように、興味は主にあります。思い通りにならなくても、去ることはありません。しかし、間違えることはあっても、弟子としての悔い改めがあります。
主は、この世界のすべての民を弟子にするようにおっしゃいました。普通に考えれば、何かしらの流派の師匠であれば、見込みのない弟子は取らないでしょう。まして、自分たちの流派を汚すような弟子を入門させることはないでしょう。しかし、主は「すべての民を」とおっしゃいます。その中には、見込みがなかったり、流派を汚すような人々も含まれているはずです。そこに、主の十字架の恵みと憐れみを感じます。
私たちは「弟子とする」という命令を受けているのであって「群衆を集めよ」とは言われていません。そのことをもう一度、考えてみましょう。
2024-08-11
7月28日「その人たちの信仰を見て」
マルコ2:1~5
天地を創造された私たちの父である神様は、なぜイエス様を送って下さったのでしょうか。
4つの福音書の全てに示されているように、それは真の神を知らせて、私たちを罪から解放し、真の自由をもたらすためです。そして、その神様が遣わしたイエス様が神の独り子であり、唯一の救い主であることの正当性と証明は、福音書に記された具体的な生活指針と病の癒し、もろもろの悪霊からの解放の業に凝縮されています。とりわけ病の癒しと悪霊の追い出しに関する記述は、マルコの福音書に限って言えば全16章の内、1章から始まり10章までにおいて少なくても12か所(他に、自然をもご支配なさる記述5か所、死者-ヤイロの娘-の復活1か所)あります。
主の憐みと真実さを示すこれらの奇蹟が起こる背景には、必ず「信じること」があります。さらに、それは信じる人その本人の信仰とその周囲(信じる共同体全体)の人々の信仰、つまり、他者のための取り成しの祈りの信仰に関わるものの二つに大別できます。
ところで、私を含めて多くのクリスチャンは前者と後者を優劣関係において考えることはないでしょうか。つまり周囲の信仰(取り成しの信仰)ではなく、本人の信仰の方がクリスチャン生活を送るうえでより優れたものだと。したがって、聖書では本人の信仰よる奇蹟の業の記述の方が多いはずだと。しかし、この印象は、やはり印象にすぎませんでした。
2024-08-11
7月21日「祈りの本質」
マタイ6:5~13
かつて、ユダヤ教の偉大な教師たちは多くの弟子たちを抱え、それぞれに独自の祈り方を持っていました。そこで、弟子たちは自分たちにもイエス流祈祷法が欲しいと願ったのです。そこで、主イエスは弟子たちをはじめ、群衆に主の祈りを教えられたのです。しかし、主はどのように祈るべきか、その方法論を教えたのでしょうか。
私たちには「絶えず祈りなさい」という言葉が与えられており、それは神が私たちに求めておられることだと聖書は教えています。では、主の祈りを1日中、絶え間なく口にして、唱えることを主は「絶えず」とおっしゃるのでしょうか。「くどくど」と祈っていることにはならないのでしょうか。
聖書は私たちに物事の本質を教えています。ですから、文化や方法論が違っても通用する真理だと言えるのです。では、「主の祈り」の本質は何だったのでしょうか。
まず、御名が崇められますように、から始まります。これを方法論として捉えるならば、そのまま暗唱すればよいでしょう。記憶するには良いかもしれません。では、この言葉から本質を捉えるとするとどうでしょう。もし、この地上を見渡して、自分自身の胸に手を当てて、正しく御名が崇められているならば、崇められますように、と願う必要はありません。実のところ、主の御名は未だにあの十字架の丘の上と同じ状況にあるのです。
主の祈りはまずそこから、そして「絶えず」そこからなのです。