宣教

2020-06-20
6月21日「赦されて生かされて」

ヨハネ8:1〜11
 姦淫の現場で捕らえられた女性は今、人々の前でさらしものになっています。犯した失敗はあれど、そのことを他の人に用いられて、道具のように扱われているのです。その目的は、主イエスを貶めるためでした。
 人の罪の深さは何と深いのでしょうか。コロナウィルスという武器を手にして、人々が暴徒と化しているような状況見る時、この姦淫の女性が目に浮かびます。 この聖書のテーマは、裁くのは誰か、ということだと思います。神の言葉が引きずり降ろされ、人間が神となって以降、現在に至るまで、このテーマは私たちにとって非常に大きな問題を提起しています。それは、正義を振りかざす基準が、人によって違うということです。
 聖書に精通した律法学者たちは、神の言葉の解釈を主に投げかけます。しかし、神は神の言葉を解釈すること以上に、神の前に罪を犯していないものがいるのかどうかを確認するのです。
 もし、赦せない人がいるとき、あなたがその人に石を投げることを神がお喜びになるかどうか、もう一度考えてみてください。神は人々に石を投げず、その石を自らお受けになりました。それは、あなたのため、その人のためでもあったのです。

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2020-06-20
6月14日「わたしたちの手で」

列王下4:42〜44  マタイ14:13〜21
 今日の聖書の個所はとても有名なところです。同じような出来事が旧約にあるのをしっていますか?エリシャが飢饉の時、大麦のパン20個で100人を養い残りが出たことが記されています。
 4つの福音書に残らず記されている「5つのパンと二匹の魚」で5000人が養われた出来事は、よく知られています。
 十字架のもとから恐れに満たされ逃げたあの弟子たちが、今や、聖霊約束の聖霊を与えられ、主のなされたような、目覚ましい働きをするに至ります。
 「できない彼ら」が、「できる者」とされ、「使徒言行録」に登場します。新しい時が始まりました。そこにいるのは、「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と言った弟子たちと、全く別人の彼らです。信じる者とされた見事な姿がここにあります。
 わたしたちは、「信ぜんがために知解する」ことを求めます。しかし真実は、アンセルムスの言うように、「知解せんがために信じる」のです。
 使徒言行録の弟子たちは、「信」から始まりました。そこに、聖霊の生ける業が現れました。彼らは、主が、「あなた方が彼らに食物を与えなさい」と言われた命令を実現する者となりました。「主によって、わたしたちの手で」、実現する時が訪れたのです。

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2020-06-20
6月7日「背負ったままで」

マタイ11:28〜29
 教会の外に聖書の言葉を掲げているところがありますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という主イエスの言葉を掲示しているところが多いのではないかと思います。実際、その言葉に導かれて、教会に足を踏み入れ、主と出会う方々の話をたくさん聞いてきました。
 しかし、多くの人が人生の休憩所のようだと感じて扉を叩いたこの「教会」というものは、重荷を下ろす場所ではありませんでした。主ご自身も、休ませてあげようとはおっしゃっていますが、荷物を下ろしても良いとはおっしゃっていません。かえって、私の軛を負いなさい、と追加の要求が与えられています。ただでさえ苦しい荷物に加えて、キリストに学ぶ、という新たな世界観を加えることで、安らぎを得られるとおっしゃった主の真意は何でしょうか。
 キリストを知らない人から見れば、クリスチャンは日々の重荷に加えて、キリストを重荷として背負っているように見えるでしょう。しかし、実際にキリストに学びつつ生きる人々は、キリストが自分の荷物を背負ってくださっていることを知っているのです。だから、その人が休み、そこに安らぎもあるのです。

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2020-05-31
5月31日「主の声を聞き分ける」

ヨハネ10:14〜16
 聖書には、神が人々に語りかけておられる様子が何度も描かれています。そして、その声に従っていった人々は、神の栄光を拝することとなりました。それは、聖書の中だけの物語でしょうか。
 私たちは聖書の中の登場人物と全く同じ経験をすることもあるでしょうが、仮にそうでなくとも、神の声を聞き、その声に従うことで起こりうる、想像を絶する体験へと導かれていることは確かです。
 しかし、多くの人が疑問に思うのは、どうやって神の声を聞き分けるか、ということでしょう。そうです。神の声が人間に語られると同様に、私たちを楽園から引き離そうとする存在もまた、人間に語りかけるのです。
 人間は神の声を聞き分けることができる、と主イエスは信頼を置いています。そして、一人の良い羊飼いの声に導かれて、一つの群れになるというのです。それは、どんな群れでしょうか。そして、その羊飼いはどのような良い羊飼いでしょうか。
 あなたの外からか、あるいは内側からか、その羊飼いの声がするでしょう。それが、良い羊飼いの声ならば、あなたは羊飼いがあなたのために十字架に向かう姿を見たのでしょう。

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2020-05-31
5月24日「何を見ていますか」

マタイ20:1〜16
 労働の対価を得ることが当たり前の世界にあって、ぶどう園の主人の物語は不公平に映ります。もちろん、この物語に出てくる主人とは、天の神のことでしょう。多く働いても、わずかしか働かなくても、与えられる対価は同じだという主人の主張に反論する労働者の姿は、等しく人間の姿だと言えると思います。
 人が不平を抱える時、その目線には何が映っているでしょうか。仮に、この労働者がそうであったように、主人である神との契約関係を忘れ、他の人との比較の中でしか自らを推し量れないとき、私たちは神のことを忘れています。また、歩んできた過酷な日々を思い出し、そのことに支配されるとするならば、私たちは神の支配よりもそちらを選んでいることになるのです。
 まるで夕闇のような人生の谷で、あなたを見つけ、何をしているのか尋ね、ぶどう園という名の素晴らしい天国へとあなたを連れてきた方は、あなたのために、何度、足を運んだことでしょうか。あなたが神のことを忘れているときでさえ、神はあなたのことを忘れたことはありません。そして、あなたに対する対価と他の人に対する対価は同じです。この世界のルールに照らす時、価値が変わってしまうだけなのです。

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2020-05-20
5月17日「能力によらず」

 ヨハネ1:10〜13
 主イエスが人となって私たちのところに来られたのは、ご自身がいつも一緒にいることを悟らせるためであった、とも言えると思います。キリストの誕生前、主はすでにこの世界におられたように、今もなお、主はここにおられます。そして、聖書の御言葉と神の救いの物語を通して、私たちにご自身を啓示しておられます。
 主から与えられた福音を、人々に届けたいと願う時、私たちは自分の能力を最大限に発揮しようと努めます。ある人は祈りに熱くなり、ある人は訪問し、ある人は集会を持つでしょう。それは、主がその領域であなたを輝かせるために与えた方法です。しかし、そのことに秀でていたからといって、救われる人が日々起こされるわけでもありません。そうです。救いはあなたの能力によって与えられるものではなく、神の与えるものだからです。
 ですから、あなたが福音を宣べ伝えたい人のことも、主に委ねましょう。人の救いは神の物語であり、神のみ心です。あなたの能力が及ばないから救われないのではありません。すべて、主が責任をとってくださいます。
 あなたも、そうして救われたのではなかったですか?

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2020-05-10
5月10日「奪いされないもの」

 IIコリント4:16〜18
 コロナウィルスの影響で、多くの人が仕事を失ったり、命を失ったりしています。また、当たり前にできていたことが制約されたりしています。非常な忍耐を必要とするこのような状況の中で、何を希望として抱いていけばよいのでしょうか。
 仕事、お金、勉学、命…。私たちが大事にしていたものが失われる時、その依存度が高ければ高いほど、受けるダメージも深刻です。パウル・ティリッヒという神学者は、宗教とはその人にとって究極的なもの、という概念を打ち出しました。主イエスの弟子として歩む私たちの歩みは、主が究極的に大切にしていたものを大切にすることです。
 聖書に出てくる、ある青年は、お金が大事すぎて主に従うことができませんでした。その青年にとって、お金は主ご自身よりも究極的なものだったからです。それを失うことは、ラクダが針の穴を通るほど難しいことでした。
 昨今の混乱の中で、人々が究極的なものを捉えなおす機会を与えられています。あなたにとって、究極的なものは何でしょうか。それは、永遠の価値があるものでしょうか。今一度、神のみ前でそのことを自分自身に問うてみる時です。

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2020-05-10
5月3日「自己実現から神実現に」

 IIコリント12:9〜10
 理想と現実のギャップ、という言葉をよく耳にします。人生には努力して変えられるものと変えられないものが存在します。身体的特徴、年齢、もしかしたら、現在直面している問題も、変えることができないものかも知れません。
 使徒パウロもそのような「とげ」を与えられていました。それはパウロを苦しめ、できれば無くなればいい、と何度も祈り求めてきたことでした。しかし、それは変えることのできない領域でした。
 変えることのできない領域を前にして、私たちはパウロのように落ち込んでしまします。できれば無くなってほしいと願うのは当たり前のことです。しかし、変えることのできないものを眺めていたところで、やはり何も変わらないのです。いえ、かえって精神的に苦しくなってくるかもしれません。
 そのとき、パウロは何に目を注いだのかを聖書は教えています。彼は「とげ」ではなく、もっと楽しそうな領域に目を向けて、歩んだのではありません。「とげ」をしっかりと見つめながら、その弱さにこそ、主イエスの栄光が現れることに注目したのです。
 あなたが受け入れがたい現実を前にした時、変えられない問題だからこそ、主の栄光が現されるのです。

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2020-05-10
4月26日「神に属する恵み」

 テトス2:11〜14
 神の恵みが現れました。そして、神の恵みが〜と教えています。と聖書にあります。恵みとは何でしょうか。それは、まず神が私たちを愛して、主イエスを与え、十字架につけたことだと聖書は語ります。すなわち、神の一方的な愛のこと。それを恵みといいます。
 また、神の恵みは私たちの生活に示されるようです。特に、不信心と現世的な欲望を捨てることを教えていますが、これは難しいと思いませんか。神は無理難題を押し付けて、私たちから自尊心を奪いたいのでしょうか。そうではありません。
 主イエスが十字架にかかられたのは、私たちを「ご自分のものとして清める」ためだったとあります。不信心と現世的な欲望を捨て去ることは難しいでしょう。しかし、これは聖書の言葉であり、教えです。難しいからといって、守らなくても良いものではありません。ですから、挑戦する価値があるのです。
 もし、主が与えてくださった一つひとつの御言葉に挑戦した時、あなたは自分がどれほど清くないかを知ることになるでしょう。そして、主がそんなあなたをどれほど愛しておられるかを深いところで理解するのです。恵みが、雨が降るように当然のことであった時が終わり、神との新たな関係がはじまります。

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2020-05-10
4月19日「喜びを背負って」

 ルカ9:21〜27
 映画やドラマの中で、「この十字架を背負って生きていきます。」というような言い回しがあります。それは、ほとんどが苦しい過去や、本当はやりたくないことを仕方なくやるというニュアンスを含んでいます。これは果たして聖書的な言い回しでしょうか。
 主イエスは弟子たちを含む、すべての人々に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と教えました。自分を捨てること、自分の十字架を背負うことは、何かしらストイックな修練の道を連想させます。しかし、救い主としての主イエスが、そのように招いておられるからには、その歩みこそがもっともいのちに近いのであり、神が人々に重苦しい荷物を手渡すようなものではないはずです。
 実際、「いつも喜んでいなさい。」の御言葉を体現していた主にとって、十字架は喜びでした。人が神からの使命を生きるとき、それは喜びなのです。もちろん、主ご自身がゲッセマネで見せたように、その道にも困難はあります。しかし、主が喜んだのは、十字架を背負うことではなく、あなたという十字架を背負うことでした。
 十字架を背負って生きること、それは「神が私たちを喜びとしてくださる」を生きることなのです。

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2020-04-16
4月12日「涙の理由」

ヨハネ11:17−44
 愛する友人ラザロの死に直面した人々を目にしたとき、主イエスは憤りを覚えました。人々の悲しむ姿を見て、どうして憤るのでしょうか。何に対してそれほどまでに腹を立てているのでしょうか。人々の不信仰でしょうか。
 人が死ぬ理由について、聖書には「罪の報酬は死」だと書かれています。また、「義人は一人もいない」とも書かれています。このことは、誰一人として、死を免れる人がいないことを見ても明らかです。人が罪に侵されていくことは、神の望む結果ではありませんでした。しかし、人は自らそれを選んだ、それが聖書の語る人間像です。
 主イエスが憤りを覚えたのは、人々の不信仰ではありません。罪それ自体に対して憤りを覚えたのです。罪が人々を縛り付け、神が与えようとしておられるすべての祝福を受けられない人々の悲しみ。その姿に主は涙を流されました。
 しかし、この方は罪とその報酬である死の前に無力ではありません。なぜなら、いのちを創造したのは、この方だからです。いえ、この方こそいのちだからです。

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2020-04-16
4月5日「この時に導かれて」

イザヤ52:13〜15 ルカ23:44〜49
 今日は、「棕梠の主日」、イエス様がエルサレム入城をされ、この6日後に十字架につけられます。この週は、受難週として覚えられています。わたしたちの教会は46年前の1974年4月7日に最初の礼拝が守られ、この日を教会の誕生日としています。
 受難週から始まった教会です。主の御受難がなければ、この教会はもとより、全世界に教会は存在しませんでした。主の十字架と復活を通して教会は誕生しました。この時がわたしたちの教会の誕生日であることは、原点を決して見誤ることの無いようにとの、神様の憐みであったのです。
 十字架上のイエス様について、四福音書はそれぞれに特徴ある記述をしています。それぞれの弟子たちの受けた印象の違いの記述は、福音の真実と豊かさを余すことなく伝えてくれます。
 マタイが、「わが神、わが神、どうしてわたしをおみすてになったのですか」は、ルカにおいては、「わたしの霊を御手に委ねます」になっています。ヨハネでは、「成し遂げられた」です。ルカでは、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ことにより、「道、真理、命」の主の姿が浮き彫りにされています。
 十字架の道に、教会とわたしたちの尊い命の真実が浮び上がります。友よ、十字架を見上げよう!

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2020-03-28
3月29日「はじまりは神」

ローマ10:9〜17
 キリストを信じることにおいて、熱心さが注目されることがあります。一晩中祈ったり、断食したり、宣教に励んだり。そのような人を見ると、信仰深いと思いませんか。しかし、聖書の語る信仰とは、人間側の努力や才能に力点を置いていません。幸いなことに、この福音は、私たちを修行僧のようにしたいわけではありません。
 聖書が語る信仰とは、浅い、深いとランク付けをするようなものではなく、その浅い人のところにさえも、主イエスは来てくださって、その浅さ故に十字架にかかってくださったという、神の愛の側に力点が置かれているものです。ですから、私たちは、自らの罪深さを知って悔い改め、そのことを喜んで受け入れるだけで良いのです。人間側にできる反応があるとすれば、そのようなことだけです。
 かつて、その救いの大きさゆえに人々は、命がけで伝道しました。それは、喜びがあったからです。かつて、飲み食いも忘れて祈りに没頭した人々がいました。それは、神との交わりを喜んでいたからでした。すべては、神が与えてくださった御言葉を聞いて、喜ぶことからスタートしました。
 神はあなたを喜びとされています。あなたはそのことを喜んでいますか?

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2020-03-25
3月22日「選択と決断の時」

ヨハネ8:1〜11
 怒り、憎しみ、悲しみ、妬み…。私たちには何と多くの否定的な感情が潜んでいるのでしょうか。そんな気持ちになりたい人はいませんが、しかし、私たちにそのような感情を抱かせる事態は起きるものです。では、どのように対処すれば良いのでしょうか。
 姦通の現場で捉えられた女性に対して、また、その女性を利用して主イエスを貶めようとする人々に対して、主が取られた行動はどのようなものだったでしょうか。
 権利は復讐の感情をもって相手に仕返しをすることですが、赦すことは選択です。相手に対して否定的な感情を抱いたり、仕返しをする権利を放棄すること。(リチャード・マークス)これが主のとった態度でした。このような姿勢で生きることは、一見するとやられ損のような気がしますが、復讐は神がすることだと聖書が語るように、罪を裁くのは人ではなく、神の律法によるのです。ですから、手に持った石を相手に投げるのを待ち、神にその石を提出するのです。それこそ、相手を赦す、ということの意味です。
 あなたは赦すことで決して損はしません。それどころか、平安と解放が与えられ、もし不当な傷であるのなら、主ご自身が正しく裁いてくださるでしょう。

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2020-03-15
3月15日「示された一本の木」

出エジプト15:22〜27
 聖書は人の心の移り変わりを誤魔化さずに描いています。例えば、イスラエルの人々は奇蹟的な救いを体験し、主なる神を力強く賛美しますが、その三日後には不平で満ちていきます。問題が解決しても、また次に問題が起こるという、苦い水を飲み続けるような繰り返しこそが人生であると言われているような気がします。
 しかし、その苦い水を甘い水に変える方法があると聖書は教えています。そのために示されたのは一本の木でした。飲水が欲しかった人々に与えられたのは、水ではなく木だったのです。その木を苦い水に投げ込むと、水は甘く変化しました。このことは私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 主イエスは救い主です。私たちに苦い水を飲ませたがっている方ではなく、苦い水を甘くしたいと願っている方です。なぜなら、「わたしはあなたをいやす主である」と約束されている方だからです。人々は飲水が欲しかったのですが、木を与えたように、人々は力強い王を求めましたが、与えられたのはロバにまたがる柔和な方でした。そして、結果的に水は与えられ、十字架によって救いは与えられました。
 苦い水という名の問題に、主の十字架を投げ入れる。実は、それこそがオアシスへの近道なのです。

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2020-03-07
3月8日「祝福の軽き荷を担う」

 イザヤ46:1~4  マタイ11:28〜30
 人生に「重荷」は付きものです。徳川家康の遺訓「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし~」はよく知られています。息苦しくありませんか?
 イエス様は「疲れている者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。~わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、わたしたちを招きます。
 ご自身との出会いに、わたしたちを招かれる主は、「あなたは、わたしと一緒に、わたしの荷を担い歩みなさい」と、言われます。強引とも思える仕方で近づいて愛の重荷を与えます。これが祝福です。
 イザヤは、「生まれた時から負われ~白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と御心を告げます。わたしたちが神を追いかけるのではなく、神がわたしたちを追いかけ、担われるのです。「主が共に―インマヌエル―」の原事実が、キリストに在って解放を与えます。主と共に愛の重荷を生きる時、人生は軽やかになります。キリストと共なる「愛」の荷は軽いのです。「愛がなければ無に等し」く、「最も大いなるものは愛」です。共に新しい旅立ちを!

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2020-03-01
3月1日「風と共に歩む」

ヨハネ3:1〜8
 聖書の至るところに自制や鍛錬を奨励する箇所があります。ところが、このような言葉を見ると、とたんに拒否反応が起こる人たちがいるかも知れません。「鍛錬」と聞くと、非常に退屈で忍耐を必要とするもので、正直あまり面白みのないものと考えませんか。それは、聖書の言う霊的鍛錬と、単なる頑張りとを混同しているからだと思います。
 しかし、主イエスは、ご自身が与える軛は負いやすく、荷は軽いと言われました。そして、主のように変えられていくことこそ、神が私たちに求めておられることです。それは、私たちが歯を食いしばって獲得するようなものではありません。聖霊がそのことを導いてくださると聖書は教えているのです。
 主は議員のニコデモに「風は思いのままに吹く」と聖霊の話をされました。聖霊はいつも自由であり、私たちもいつでも自由です。実際のところ、私たちが不自由を感じたり、霊的成長に困難を感じているとすれば、主が意図するものと何かが違っているのかもしれません。
 私たちがキリストのように変えられていくのは、神の奇跡です。変えてくださるのは神であり、私たちが努力で勝ち得るものではないからです。

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2020-02-22
2月23日「あなたは独りではない」

 ヨハネ16:25〜33
 主イエスは、人々にたとえ話を通して神の国の福音を知らせてきましたが、その中には、皆が知っている自明のものではないものも含まれていました。それは、十字架と復活の光に照らされなければ、決して理解できない内容です。
 弟子たちは主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを信じていました。しかし、激しい試練の中で、その信仰が試され、彼らは敗北しました。しかし、自分に死ぬことは、主から命が与えられること。十字架と復活の、その福音の真理が彼らの中に入った時、聖霊は人の中で主権を取り戻し、彼らを主の弟子として、キリストと同じ姿にまで変化させたのです。使徒の働きの中に描かれている彼らの姿は、まさに主ご自身のようです。
 人生に起こる艱難の中で、それでも勇気を持つことができるのは、それなりの根拠が必要でしょう。でも、自力で打ち勝つことのできない試練には、自分の力を勇気や平安の根拠とすることはできません。「しかし、わたしはひとりではない」と主が宣言された、この勝利の言葉と、神に対する信仰こそ、その根拠となります。目の前の試練に敗北感を感じているなら、それこそが、主の十字架と復活の栄光が現れるときです。

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2020-02-16
2月16日「祈りの力を解放する」

 マルコ11:22〜25
 主イエスは私たちに祈り方を教えてくれていますが、絶えず祈ることを求めておられるのがよく分かります。しかし、もしも祈ることが「お願い」だけであったなら、祈りのノートが何冊あればいいのでしょうか!それは大変に困難なことです。
 主は絶えず祈ること、つまり日常生活を送る中で、祈るということはどういうことかを教えていますが、「祈る前から必要をご存知だ」と仰っているように、私たちが願いを長々と述べることを求めていないことが分かります。では、主はどのように祈れば良いというのでしょうか?
 ここで、例として山を動かすほどの力が、祈りにあることを教えています。ただし、祈る前に主が命じているのは、「神を信じなさい」という一点のみです。わざわざそのようなことを仰るのは、それこそが、祈りの力を解放するための鍵だからです。
 そして、「少しも疑わず、自分の言うとおりになる」ことを信じるように教えています。とすれば、私たちの祈りはどのように変化するでしょうか。それは、「願い」ではなく、「宣言」になっていくはずです。
 神の力強さとその十字架の愛、復活の希望に根ざした信仰を宣言して歩むこと。それが祈りです。

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2020-02-10
2月9日「驚きの選び」

 申命記32:10  ヨハネ15:16〜17
 「あなたは自分が何者だと思っていますか?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか?「主は荒れ野で彼を見出し、獣の吠える不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、自分のひとみのように守られた」と、『モーセの歌』を通して遺言として語られた、神のイスラエルの真実の愛を告げられた主は、今、キリストを通して、さらに全ての人々に、ご自身の選びの愛を告げられます。
 「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…」。
 イスラエルを「不毛の地で見つけ」、「囲い」「いたわり」「守られた」、それもご自分の「目の瞳のように」!イスラエルの歴史の悲惨さは、この、自らの出自を忘れたことにありました。
 この、イスラエルの「選び」に連なる「キリスト者の選び」の主体は、キリストの十字架という「身代金を払って買い取られた」(Ⅰコリ7:23)ものなのです。わたしたちが人生を彷徨うのは、この驚くべき「愛」を忘れるところにあるのです。
津軽弁で言えば、「キリストとバグられた(取り換えられた)貴い自分」と出会うことです。あなたの命は、勿体なくも、キリストが担保なのです。

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