宣教

2018-11-18
11月18日「弘前市長がもしイエス様だったら」

マタイ6:9〜10
 弘前市長がもしイエスさまだったら。どうなるのでしょうか?リーダーがイエスさまだったら私たちの生活にどのような影響をもたらすのでしょうか?
 神田先生を通して語られる真理に期待があふれます。

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2018-11-11
11月11日「神の約束の然り(アーメン)」

民数記23:19  Ⅱコリント1:20~22
 「神は言われたことを為されないことがあろうか。告げられたことを成就されないことがあろうか。」
聖書は、世の力がいかに真実であるかを主張し、幅を利かせているように見えるこの世にあっても、神の真実はこの世を貫くことを明らかにしています。
 「権力への欲望、他者を踏みにじっても自分は得をしたい」という人間の本音の見え隠れする中にも、神の言葉と御業は前進して行きます。それが最も信実にこの地上に明らかにされたのが、「イエス・キリストの出来事」に他なりません。
 パウロは、「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。~神をたたえるためにこの方を通して『アーメン』ととなえます。」と断言します。言うまでもなく、十字架と復活を中心とした神の愛の御計画のことです。
「アーメン」とは、「神の真実」(エトメー)から来ています。「アーメン」とは、この神に対する信仰の告白であり、神讃美、喜ばしい服従の表明なのです。「アーメン」を唱える時、わたしたちは、旧約の民、新約の民に連なる神の民として神の恵みを唱和することなのです。アーメンこそ、神の「然り」を実現する神讃美です。何時、如何なる時も、「インマヌエル・アーメン」の恵みに生きる神の民として。

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2018-11-04
11月4日「天国の風景」

黙示録21:1~4
 聖書には希望という言葉がたくさん出てきます。この言葉は、ピンと張り詰めた糸を表しています。
 確かな未来につながっている糸があるならば、誰しもがその糸をたぐり寄せながら、その先へと向かうでしょう。そして、確かな未来とは、どこか知らない場所にあるのではなく、今ここに、主イエス・キリストの十字架と復活のもとにあるのです。神は永遠の方であり、いのちの主です。その方がおられる限り、私たちもまた不滅です。そして、その方、主イエスは復活されたので、私たちはその方の教えにこそ、確かな糸を見出すことができるのです。
 私たちのもとを去り、天に帰られた信仰の先輩たちは、もっとも確かな未来を、そしてピンと張られた糸を残してくださいました。たとえ肉体は滅びようとも、神の御手の中に、在りし日の思い出は刻まれており、時が来るとその愛の中で再び復活して、御国の相続人として迎え入れられます。これが神の約束であり、最初からご計画されていた神の国の奥義です。
 その恵みにあずかるために人間的な努力や地位や名誉は必要ありません。ただ、主はあなたの信仰を求めておられるのです。

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2018-10-28
10月28日「神の言葉に従うとき」

                詩篇1:1~6
 聖書には主イエスの弟子の定義が示されています。それは、互いに愛し合うこと、とすべての教えに従うことです。しかし、主の御言葉は従うのには難しく感じてしまうような箇所があることも事実です。
 もし、自分でできそうなところを選んで、その他の御言葉を「難しいから」と敬遠していたとしたら、聖書の約束をほんの一部分しか享受できていないことになります。その約束とは、あらゆる領域において「繁栄する」という約束です。アスリートが厳しいトレーニングの末にたどり着く領域があるのと同様に、御言葉に従うには訓練が伴うかもしれません。しかし、御言葉が約束していることは真理であり、真実です。御言葉に従うことは確かに難しいかもしれませんが、私たちにそうなってほしいと願う主の助けがまったくないはずがなく、必ず助けてくださるのです。
 聖書の神の言葉は難しく、従うことは困難で、単に理想が語られているだけ。無駄な努力に終わるに違いない。そんな偽りの言葉は私たちに御言葉の権威を忘れさせ、繁栄から遠ざけます。しかし、もし私たちが難しいと感じるような領域にさえも挑戦しようと決断するなら、あなたは御言葉の真実性を知るのです。

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2018-10-21
10月21日「祈りの力」

出エジプト17:8~16
 聖書は全知全能の神が、神を信じる人々の祈りに喜んで答える心備えがあり、かつ答えることができる方であるという御言葉で溢れています。
 奴隷状態だったイスラエルの人々がエジプトから脱出し、約束の地へ導かれる出来事は、すべて祈りに対する答えでした。嵐を鎮め、食物を与え、病を癒し、死人さえも蘇らせた主イエスの数々の奇蹟も同様です。世界ではじめての教会が誕生し、世界中に広がっていったときも、神は癒やしと救いを求める人々の祈りに答え続けてきました。
 人生の戦いの中で、イスラエルがアマレクを打ち破ったときのことを思い起こすとき、やはり祈りが神の勝利を現実に解き放つ鍵となりました。しかも、祈る人を助けるために、祈りの力を信じ、神により頼む人々を用意し、祈り続けられるように支えていく光景が描かれています。なんと美しい景色でしょうか。
 このような力を神が人生に注ぎ込むことを知っていながら、ポケットに手を突っ込んで、自分の力だけで何とかなると考えているならば、それはもったいないことです。
 祈りは神を体験できる最も確実な方法なのです。

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2018-10-14
10月14日「ここにも命の時が」

エゼキエル37:7~10 ルカ12:31~32
 聖書はわたしたちに、「神は愛である」こと、わたしたちは神に愛されていることを、一片の曇りなく伝えます。これを忘れる時、わたしたちに混乱が生じます。いつも、「わたしの思い」が人生の中心であり、「わたしの理解」が人生の現実であるからです。「わたしの心と目に映る今」以外に、真実の現実、「神の恵みの今」があることを忘れてはなりません。
 エゼキエルは、枯れた骨でいっぱいの谷に立ちました。命の失せた絶望的な光景に言葉を失います。彼が主の言葉を語った時、この骨は生き返ります。見事な神の御言葉の現実が明らかにされています。
 わたしたちの思いが、わたしたちの現実となります。わたしたちの現実「恨み、妬み、ひがみ」の酸味一体から、「父、子、聖霊」の三位一体の神の現実に生きるのです。 新しい「命の時」―骨に筋が、筋に肉が、肉に皮膚が、そして霊が吹き込まれる時―命の世界が始まります。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は、喜んで神の国をくださる」からです。主はまた、「恐れるな、語り続けよ」ともわたしたちに語ります。「わたしの時」でも、「あなたの時」でもなく、「命の時の中」に生きるわたしたちです。

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2018-10-07
10月7日「すべてはあなたのために」

箴言24:30〜32  ローマ15:4
 多くの教会では、牧師が聖書の専門家のような位置付けであり、特別な日に、特別なことを話す、という習慣が定着しています。もちろん、そのような賜物が与えられ、情熱を持って御言葉の解き明かしをする方々もいるでしょう。それは素晴らしいことです。しかし、そのことがかえって聖書の実生活への適用を遮っているのではないでしょうか?
 神が私たちの生活を豊かにするためにくださっている御言葉はすでに手元にあります。それは聖書です。そして、その真理に導いてくださる方、聖霊も与えられています。あなたはその導き手の力を借りて、聖書の専門家でも到達できないような神の栄光を見る特権をすでに与えられているのです。
 聖書には霊感によって記された二種類の導き手が存在しています。それは良い教師と反面教師です。私たちは生活の中で周囲の影響を受ける存在です。良いときもあれば、悪いときもあります。良い生活を送りたいと願うなら、良い生活を送っている人を参考にしませんか?そういう人が周りにいないと嘆いている人は、すぐそばに時代に左右されない教師たちが手元にいることを忘れてしまっているのかもしれません。
 聖書のすべてが、あなたのために用意されている神からのプレゼントなのです。

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2018-09-30
9月30日「姑ナオミの信仰」

             ルツ記1:1〜22
 冒頭に「士師が世を治めていたころ」とありますから、ルツ記は士師記と同時代の書です。士師記はイスラエルの暗黒時代でした。しかしたとえそうであっても、主の祝福にあずかった人たちが存在していたのです。
 1章の中心は姑ナオミです。飢饉のためパンを求めて、ナオミの家族はモアブの地に出て行った。でもそこで、夫は死に、嫁を迎えた二人の息子も子を授からないまま死んでしまった。このような困難と悲劇の中でナオミはどのように生きたのか。
 ナオミは嫁たちのためにこう祈ります。「どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」(9節)。でも自分の苦難について、こうも言っています。「主の御手がわたしに下された」(13節c)。これは、ナオミにどこまでもついて行こうとする二人の嫁を追い返すための強烈な言葉であると同時に、ナオミの心の中から搾り出されて来た主を信頼した上での言葉でもあります。
 このような姑ナオミであったからこそ、ルツは「あなたの神はわたしの神」(16節)という信仰告白へと導かれたのです。その時期は、「大麦の刈り入れの始まるころであった」(22節)。主の祝福の始まりを暗示させます。

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2018-09-23
9月23日「神の関係づくり」

 創世記39:1〜23
 族長ヤコブに愛されたヨセフは、大きな試練の中にいました。族長のもとで何不自由なく暮らしていた彼は、今や奴隷となり、何も持たない人になったのです。自分の力ではどうにもならなくなったとき、人は良くも悪くも神を意識するのです。ヨセフもそうでした。しかし、彼は神を呪うことなく、逆に神の良さに自分の人生を委ねたのです。
 日々の生活の中で、ヨセフは人に仕えることを学んでいきました。なぜなら、彼が注目した神は、仕える神だからです。その方の声に従うことは、すなわち主イエスのようになることでした。おのずと、彼の周りに祝福が拡がっていきました。主がそのようにされたからです。
 主人と奴隷という立場の侍従長とヨセフ。しかし、実質的には、ヨセフがリーダーなのです。なぜなら、彼がすべてを任されているからです。今や、立場が逆転してしまいました。それは、何も持たない1人の人の「主が共におられる」という信仰から始まりました。
 あなたが置かれた場所で、主の声に従って人々に仕える時、そこに主が働かれます。仕えること、それは誰にでもできる、最高の方法なのです。

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2018-09-16
9月16日「神の招きに応える」

ヨシュア1:1〜9
 新しい歩みを始めようとする時、そこには大きな壁が立ちはだかっていた。それはよくある話かもしれません。イスラエルの新しいリーダー、ヨシュアも同じでした。
 偉大な指導者のそばで仕え、様々なことを学びました。それまでは、このリーダーの言うとおりでよかったのです。しかし、最早このリーダーは世を去り、自分の人生と人々の導き手となったヨシュアは、神の声を聞きます。それは、「今」という内容でした。
 もし、あなたの姿が愛する人から見えなかったらどうするでしょうか。あの手この手で、自分の存在を伝えようと必死になるのではないでしょうか?主なる神もそうでした。「今」というのは、ヨシュアたちにとっては、難しい判断になることは間違いありませんでした。もしかしたら、全員が滅び去るかもしれないほどの決断を迫られたのです。しかし、その招きには約束が伴っていました。それが「あなたと共にいる」という聖書全体を通して表されている神の御名だったのです。
 主イエスの名はインマヌエル。「神、我らと共に」です。時代が変わっても、状況が難しくても、だからこそ、主は姿を表そうと、今もあなたを招いているのです。

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2018-09-09
9月9日「十分なるこの日」

詩篇31:15(口語)  マタイ6:34
 「一日の苦労は、その日1日だけで充分である」とイエス様は言われました。心理学者のアーニー・J・ゼリンスキーは、「心配の40%は『決して起こらないこと』であり、30%は『すでに起こってしまったこと』であり、22%は『取るに足りないこと』であり、4%は『わたしたちの力でどうにもならないこと』であり、4%は『わたしたちが変えることのできること』」であると言っています。『弘前西教会40年誌』を読んだ弘前学院長が、「先生全くその通りです」と感想を述べられたことを思い出しました。
 「わたしの時は、あなたの御手の中にあります」の御言葉は勇気を与えてくれます。福音書のイエス様をたどる時、「恵みの時」「救いの日」を生きられた主イエス様がそこにいます。福音記事はこのような人々、事柄で満ちています。「あなたは?」
 顧みて、「過ぎ去った過去」、まだ来ていない明日に代表される将来に心と、存在を乗っ取られている自分と出会います。 「み手によりて 日はのぼりみ手によりて 月はめぐる み手によりて 風はおこり み手によりて 雲は湧く つきぬ歓び み手よりきたり…」(ドイツ讃美歌)「今、主と!」です。

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2018-09-02
9月2日「神の教育方針」

申命記6:4〜9
 これから起こるであろう厳しい時代に備えて、指導者であるモーセは、自分の最期を悟りながら、人々にとって必要不可欠なことを伝えました。それは、信仰とその継承についてです。
 日本においても、その未来が危ぶまれるような予測が立てられています。それに対して、私たちはどのように歩み、次世代に何を残していくべきでしょうか?時代が変わっても同じ問題に直面する私たちに対して、モーセは主なる神の言葉を生活の中に適用するように命じています。
 「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6:7)
 モーセは律法について語りました。しかし、結果として、人々はその律法を守ることができませんでした。それが旧約の時代に記されている人の罪の深さです。しかし、主は人々を見捨てることはないと約束し、イエス・キリストを遣わして十字架につけて身代わりとし、新しい時代が始まりました。
 今、私たちが心に刻み、生活に適用し、語り継がなければならないものは、十字架と復活に表された神の愛。キリストご自身なのです。

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2018-08-26
8月26日「はじまりはいつも」

                イザヤ6:8
 イザヤの召命を受けて、いったい何人の方々が主に献身し、どれほどの場所に遣わされていったことでしょうか。そして、そこでどんな経験をされたことでしょうか。
 イザヤが示されたのは、理解に苦しむ内容でした。「心を頑なにするメッセージ」と言われる難解な内容を心に、それでもイザヤは人々に仕えていきました。彼が主から語られたこと、それはまさに、あの十字架の救い主、イエス・キリストのことだったのです。
 主は、主でありながら受け入れられませんでした。その物語は、人の理解を超えたストーリー展開で、誰も予想しないものでした。しかし、主が地上に来られる以前から、人々が主を受け入れない姿勢は現れていました。エジプトから救い出しても、約束の地に向かうときも、エルサレム神殿を再建しても、人々は主なる神のみわざを仰ぎ見ながら、一時のハネムーン状態を謳歌するにとどまったのです。それは、あのエルサレム入城にも見ることができます。
 今、心を頑なにすることから始まった主の物語は、それでもなお、主に信頼する人々によって受け継がれ、紡がれています。あなたは残された聖なる種子。あなたから主の新しい物語が始まるのです。

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2018-08-19
8月19日「Power of Your love」

創世記50:20  ローマ8:28
  私たちは神の壮大な物語に組み込まれた役者です。その物語の中には、苦難があり、涙があり、喜びがあり、解放があり、最高の芸術性をもって描かれています。この物語は大団円で終了します。しかしまだ、その全貌は明らかになっていません。物語の終わりを知っているのは、監督である神だけです。
 役者である私たちは監督に選ばれた最高のキャストの一人です。この役者たちはすべてアドリブで演じます。しかし、監督の声を聞き、輝きを増すこともできます。なぜなら、その役者がどういう役者で、どんな輝きを放つか、監督はすべてを理解した上で選んでいるからです。
 この物語の主役は役者ではありません。役者の中に主人公もいません。この物語の主役は監督である神です。最高の物語を完成させるために、神はすべての人々に参加してほしいと願っておられるのです。
 神の物語に参加しようと決意した日から、あなたの人生は神によって最高の形に作り上げられていきます。もしあなたがそう望むなら、今までのこと、そしてこれからのことが、どんなことでさえも、すべてが益となることを体験することでしょう。

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2018-08-12
8月12日「8月6・9・15に応えて」

ホセア10:12  エフェソ2:14~17
 「八月や 六日九日 十五日」という言葉を聞いたことがあると思います。勿論、広島、長崎への原爆投下と敗戦記念の日です。平和を考えるために与えられたこの時を忘れてはなりません。あれほどの悲惨さを味わいながら「いつか来た道」を繰り返す人間の愚かしさを噛みしめながら、自分の内にある「敵意」という争いの種に向かい合います。
「日本国憲法」―平和憲法―という歴史的な遺産に気付きます。平和は言葉で表現できないほどの代価を払って勝ち取りました。それが踏みにじられています。そのような中で「実に、キリストはわたしたちの平和である」と聖書は宣言します。敵対する一方を消滅することで、平和は実現しません。
 「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た」のです。 良い土地とは、石ころを、草を取り除くことなしには生まれません。また、良い土地ほど草も生えやすいのです。
「種を蒔け十字架の愛を今ここに 隔ての壁をこぼつそのため」平和は、このわたしから始まる神の出来事です。「平和を実現する人は幸いです~」

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2018-08-05
8月5日「七つの本質ー適応可能な構造」

マルコ2:23〜28
 主イエスが向かわれる場所では、いつも神の国の到来と、それによる悔い改めが起こりました。悔い改めとは、180度の方向転換をすることです。しばしば、それが人々の思想や価値観を根底から揺り動かすものとなり、ある人々は大切にしてきたものをないがしろにされたと思い、主に反発しました。
 人々の間で多くの議論を巻き起こしたのが安息日の規定についてのものでした。旧約の時代、安息日の周囲には細部に渡って禁止事項が付加されてきました。それを守れない者は罪人とされ、町の外に追いやられていきました。貧しい人は、その原因を罪に求められ、安息日に苦しんでいました。
 しかし、主はここにも悔い改めの必要を求められました。まさに180度の方向転換です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(2:27)
 これは人々にとってどれほどの解放感をもたらしたでしょうか。安息日の主は、その目的をはっきりと知っておられ、人々を呪われた労働から解放する意味を込めて休みを備えられたのです。それは、やがてくる完全な安息に向けてのプロローグでした。主は時代を変化するために、古いことを廃棄するのではなく、成就することを望まれています。

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2018-07-29
7月29日「手放し、明け渡して、あなたのために生きる」

最近、気に入っている賛美があります。「レプタ二枚」という曲で、全国でワーシップリーダーとして活躍されている中山有太牧師が作詞作曲したものです。
 〜レプタ二枚ささげた 貧しいやもめのように
 今の私の持てる全部を 惜しみなくささげる
 十字架を見上げて み前に行きます
 手放し 明け渡して あなたのために生きる〜
 私が同志社で研究したのは、毎週の礼拝出席者が2,000人を超えるメガチャーチと呼ばれている教会でした。礼拝はコンサートのようで、プロのアーティストが賛美をリードし、映像や演劇で問題を提起し、カリスマ的な牧師が素晴らしいメッセージを分かりやすく話していました。マーケティングの成果として、顧客満足度の高い教会には数万人の人々が押し寄せています。
 私は教会堂に人を集めることが主に喜ばれることだと思っていました。「100人で礼拝を」と祈っていた時期もありました。でも、今は知っています。主は人々を「地に満ちよ」と散らされることを。はじめの教会ができたとき、人々がそこから散らされて世界へ出ていったように。
 「手放し、明け渡して、あなたのために生きる」ただ、それでいいのだと主が語りかけてくださっています。

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2018-07-22
7月22日「七つの本質ー伝道と増殖」

ヨハネ13:34〜35
 私たちは大量消費社会の中で生きています。それは私たちの価値観に大きな影響を与えています。そして、「消費者」と呼ばれる人々にとっての生き方にも影響があります。主はそのことをどう扱っておられるのでしょうか?
 七つの本質の中で、「伝道と増殖」は教会の使命だと言えるでしょう。なぜなら、主は肉体的な癒やしを大切にしましたが、それ自体を目的にはされず、あくまでも、罪の赦しという救いにフォーカスしていました。そして、救われた人々は、主に招かれ、従っていきました。それが弟子たちです。もし、体の癒しや精神の癒やし、奇蹟的な出来事などがフォーカスされるならば、それは単なるご利益になり、なぜ主の弟子になるのか、という違いを生み出すことはできないでしょう。
 二種類の人々。群衆と弟子の違いについて、主ははっきりと「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」と教えています。
 あなたがその命令を生きようと決意するならば、主があなたを助けるため、み姿を現してくださり、皆は主を知ることになるでしょう。

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2018-07-08
7月8日「走り寄る神」

哀歌3:22〜27 ルカ15:20〜24
 正しいことを語っても人を悔い改めに導くことは出来ません。悔い改めという新しい命は、愛のみが為しうることです。それも「朝毎に新たになる」「慈しみと憐れみ」によるのです。
 有名な、イエス様による「放蕩息子」の譬えは、その神様の真実を鮮やかにわたしたちに明らかにします。有り得ない裏切り行為をもって、後ろ足で砂をかけ出て行った息子の帰りを、毎日待ち続ける父。ボロボロになって帰って来るであろう息子を抱き止めるべく、朝毎に戸口に立って待ち続ける父!
 福音書の記事は、主イエス様が、父の思いをこの地上で生きる姿を現しています。「何とも間抜けな姿」ではありませんか!しかし、それ故にこそ、救いの出来事がわたしたちの現実となったのです。
 神ご自身が、愚かな放蕩息子を日毎に、門に立って待ち続けるのです。そればかりか、父の方から息子に走り寄るのです。父が走り寄るその姿こそ、十字架によって示された神の愛です。新しい生は、「子の悔い改め」では決してなく、「父の愛」によって実を結ぶのです!「砂をかけ走り去りたるこの我を 日毎門にて待ちたりし父」 神の愛たるを知れ!

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2018-07-01
7月1日 「イエス中心の生活」

マタイ7:24〜29
 主イエスは山上で人々に向かって教えられました。神は「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」(申命記30:19)と語り、いのちを選んで祝福されるように教えました。主も同様に、二種類のたとえを用いて人々の生活に迫りました。
 やがて、山上での教えも終盤に差し掛かり、結びが語られます。それは、家の建て方についてのたとえ話でした。家を建てることは、こと日本においては一生に一度あるかないかの大事な決断となります。欠陥住宅だった場合、その失望は計り知れません。しかし、もし家を自分で建てることができたとしたら、誰が欠陥住宅に住みたいと思うでしょうか?きっと家族や自分の幸せを願って、最善の策を講じるに違いありません。では、自分の人生を家に見立てたとしたら、どうだろうか?主はそのことを語りながら、揺るぎない人生の設計をするようにと導いておられるのです。
 「どのように建てるかについては注意しなければなりません。」と使徒パウロが警告するように、日々の生活の中で建材を整え、ひとつずつ組み上げ、完成すると人はその中に住みます。その建材は何でしょうか?組み上げるためにはどう行動すべきでしょうか?
 すべてはあなたが祝福される道筋なのです。

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