宣教

2019-11-17
11月17日「『人の子』とは?」

ダニエル7:13,14,27
 新約聖書は天国に行く方法を教えくれる書物ではなく、その中心的な主張は、神の国を実現させる支配者となる「人の子」が、あの十字架に付けられたイエスであるということです。中心的な教えはイエスの支配のもとに実現する神の国の在り方と、その国にふさわしい人になるために、どのような条件を満たす必要があるかということです。形ばかりの宗教ではなく、昔ながらの本物を求めていたユダヤ人の思いを満足させるために、イエス様は驚いたことに自分自身を提供しました。エジプトから出て来たイスラエルの民が荒野で奇跡的に与えられた食物、飲み物、そして闇を照らす光に代わってイエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇かない。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言いました。
 弟子たちにとって「人の子」として現れたイエス様の正体を理解するのは簡単なことではありませんでした。「神の国」の教えを見ても、色々な工夫を凝らし、多方面から説明しながら弟子たちの理解を深めようとするイエス様の姿が見られます。その一例は「からし種に似ている」という教えです。神の国は偉大な信仰者を必要としません。「人の子」として来られた方を信じるただの人がいると、神の国の成長が始まります。

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2019-11-03
11月3日「栄光を受ける時」

              ヨハネ12:24〜26
 主イエスが宣教の働きをされた期間は3年ほどだと言われています。つまり、主は余命3年の生き方をしていたと言えるでしょう。
 自分がもはや長くないと悟った人の生き様は、その人の本性を映し出すものです。ですから、死の前に残した宝石のような言葉が後の人々によって語り継がれているのです。そして、主そ言葉も、その生命の終わりを見据えてのものでした。
 一粒の麦が地に落ちて死ぬ。これは、天から来られた主が十字架にかかって死ぬことを指しているとされています。死ぬことは嫌なことで、できれば避けたいものであり、特に日本の場合、口に出すのもはばかられる忌むべきものとされています。しかし、主はこの言葉の直前、ご自身が「栄光を受ける時が来た」と、まるで十字架の死を喜んでいるかのような表現をされています。
 死を喜べる人はいません。別れがあり、不安があり、悲しみがあります。それは、主も同じでした。十字架の前夜、嘆き悲しむ主の姿はそのことを示しています。それでも、死は栄光だと宣言できる主の根拠はどこにあるのでしょうか。

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2019-10-27
10月27日「もう一艘の舟」

ルカ5:1〜11
 聖書はすべての人に語りかけている神の言葉です。決して一部の霊的エリートに語られているのではありません。そのことは、聖書を読めば分かります。そこには、失敗ばかりの人々が待ち受けているからです。
 ある日、ペトロも主イエスに招かれました。そのことは、彼の生活の場で起こりました。そこは彼の人生であり、専門分野であり、他の人よりも幾分勝っている部分だったかも知れません。しかし、その日、彼は途方に暮れていました。魚がまったく取れないのです。かつて、そういうこともあったかもしれません。でも、今回は違いました。なぜなら、そこに神ご自身がいらっしゃったからです。
 一人の人の人生が主によって変えられていくこと、そして、人間を取る漁師になるという招きの通り、ペトロは人々を主に導く人になりました。それは、彼が優れているからではなく、彼を招いた方がご自身の約束のゆえに、彼を用いたからに他なりません。もし、彼は特別だったからだと考えるのであれば、聖書は役に立ちません。神は「無学な普通の人」を用いたいのです。いえ、むしろ普通よりも劣っていると世の価値基準で判断されているような人々を用いたいのです。なぜなら、そこに神がいなければ不可能なことが明らかになるためです。

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2019-10-20
10月20日「何もなくても大丈夫」

ヨハネ6:27〜40
 主イエスはご自身を「私が命のパンである。」と宣言し、ご自身がどのような方か人々の明らかにされました。そして、そのことを信じる人々は決して飢えることがなく、渇くこともないと約束されたのです。
 ところが、人々の興味は現実の生活の中で消費する食べ物と目の前にいる生きている神の御子の存在とをつなげて理解することができませんでした。なぜなら、直前に起きた大勢の人を満腹にするという出来事があまりにも印象的だったからです。
 主が「朽ちる食べ物」を追い求めていくことの危険性を指摘したのは何故でしょうか。それは、食料がなくなり、病が癒やされず、神の声が聞こえなくなるほどの出来事が襲いかかる時、人は簡単に神のもとを離れていくことをご存知だったからです。
 「人々はしるしを欲しがる」と主は警告されています。もし、あなたに何のしるしも与えられなかったら、その時、私たちは何に依り頼めばいいのでしょうか。主はそのことを教えるために、ご自身のところに来るようにと招かれているのです。
 「私はある」それが神の名です。飢えの中に、渇きの中に、病の床に、絶望的な状況の中でさえ、主は共におられる。それがパンの与える力です。

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2019-10-13
10月13日「祝福は人生の荒れ野から」

申命記8:1~10 ヘブライ12:4~11
 神の約束の民イスラエルの民族は、エジプトの地を脱出はしたもののその罪の故に40年間砂漠を彷徨いました。しかし、これは、結果的に彼らの神への信仰が磨かれ成長する契機となりました。神の約束を信じてエジプトを出発したのですが、カナンにたどり着くまでの間に、文字通り「荒れ野」を通ったのです。今を生きる私たちも、「天国」というカナンへ向う旅の途上にあり、「荒れ野」を経ます。洗礼式、自分の古い体質、罪への傾向が一瞬のうちに完全に消えたという経験を持つ方が一人もいないとは断言しませんが、私を含む多くの人は、信仰生活の歩み中で徐々に罪を示され、悔い改めるという、まるで体内の余分な悪性脂質が燃やされるよう体験をします。それまでの自分の経験や人間的な知恵や努力では対処できない人生の「荒れ野」を通る時、人に対する怖れや神様に対する不満が私たちの心の中に生まれます。それでもなお、その場所こそが、神様と出会うことができる最高の場所となるのです。

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2019-10-05
10月6日「祝福との出会い」

 詩編107:1 ヘブライ4:15~16
 幼い頃、ラジオ番組、「心の灯」で毎回、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」の言葉が放送の最初に流れ、だれもが知っていました。誰かが文句を言うと、「暗いと不平を~」と誰かが言ったことを懐かしく思い出します。子供心にもその真理性に気付いていたのでしょうか。
 毎日のように電話をくださる方がいました。電話をとるといきなり、「わたしがどんな悪いことをしたっていうの!」と泣き叫びます。自分がどんなに辛いか、死んでも当然だと訴え続けます。
 どんなことでさえも、「不平と不幸」の原因になることを新ためて思わされます。笑顔ですら、「馬鹿にして!」という、怒りの対象になるのです。わたしという心の鏡が、わたしの今相応しく、スクリーンのように鮮やかに人生の今に映し出すのです。
 得ているもの、与えられているものの多さに比例して、不幸になっているとさえ言える今日です。共に悲しんでくれる人がいることは何という幸いでしょうか!「主は、わたしたちの弱さに同情されるお方」共に悲しんでくれるお方です。慰めが満ちます。
 祝福は、感謝との出会いの中に与えられます。愛され、守られ、慈しみの中を歩んでいる、わたしを見出す旅を、主と共に今一度、人生に笑顔をもって!

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2019-09-29
9月29日「タラントンのたとえ話」

マタイ25:14〜30
 このたとえ話は、自分に授けられたタラントン(才能・能力)を用いて励む時、 主なる神は大いなる恵みと喜びをもって報いてくださり、そうでない者には厳しい 裁きが下される。果たしてそうでしょうか?
主イエスは忠実な神の民として生きようとする紀元1世紀のガリラヤの農民たち の苦悩を見て、農民たちから土地を奪い取り、大土地所有者として贅沢な生活をし ている金持ちたちの不正な支配によって成り立っている経済的、社会的構造を変革 していく戦いを促している話ではないかと思えます。
このたとえ話は少なくとも勤勉のすすめなどではないと思います。まず、巨大な 搾取と抑圧差別の絡まりあった社会システムのただ中で喘ぎつつ、正義を求めてい る者たちがどう生きれば良いのか、どのようにしたら今こそ「神の国」の道につな がるのかという大きな重い問いかけを残すたとえ話であるとともに、ヒントを残そ うとしているたとえ話であるように思えます。

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2019-09-22
9月22日「神の子として生きる」

ヨハネ12:20〜26
 主イエスは十字架にかかる直前、「栄光を受ける時が来た」と宣言します。何の落ち度もなく、不当な裁判で極刑に処せられることの、どこが栄光に満ちたことだというのでしょうか。
 神の使命に生きる時、「何故このようなことが」と思われるような試練に遭遇するときがあります。このような試練が取り去られればいいのに、と願って当然のことが起こる時、私たちは揺さぶられます。主ご自身でさえ、十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園でそのように振る舞いました。
 日本で放映されたアニメ版の小公女のストーリーは、虐げられてきた少女が、その気高さを失わず、最後まで誇りを持って生きる姿が印象的でした。原作とは大きく違うこの少女の姿に、主イエスの姿が重なります。十字架の上でさえ、人を裁かず、赦しを願う。それは、神の子としての誇りを失わず、使命に生きる一人の人間の苦悩の姿が示されています。
 主のこのような姿をそばで見ていた異邦人の百人隊長が言いました。「この方こそまことに神の子であった」
 あなたは神の子です。生まれた境遇や通ってきた道は関係ありません。あなたがそのことを信じ、歩み始める時、それが現実になるのです。

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2019-09-08
9月8日「罪と絶望のただ中で」

創世記28:10~22  ヨハネ21:6
 ヤコブ(かかとを 握る者)は族長の一人で、イスラエ12部族の父でもある。彼は、兄エサウをだまして長子の特権を奪い逃亡します。
 奸計をめぐらし、自分の事しか考えようとしないヤコブが、どうしてイスラエルという名前まで与えられて、12部族の父祖とされたことに、素直にうなずけないものがあります。
 彼が兄の仕返しを恐れて逃亡する途中、荒れ野で石を枕にして眠った時、見た夢はあまりに有名です。「先端が天にまで達する階段を…神のみ使いたちが上り下りして」いたのです。自らの罪故に陥った荒れ野にも、思いもかけない確かな主の守りが。
 夜通し働いたが何も魚一匹獲れなかったペトロたちでした。しかしその所にも、共におられたお方がいたのです。そのお方の「ことば」に聞き従ったとき、同じ湖で、同じ網で、同じ仲間で、まったく異なる出来事と出会った彼らでした。
 わたしたちは、わたしたちそれぞれの物差しで人生を測ります。しかし聖書は、どんな状況の中にも新しい時が訪れることをわたしたちに語っています大切なことは「誰と共に」生きるかです。神の約束である、「インマヌエルの原事実」に目覚める者こそが、新しい時を生きる者とされるのです。

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2019-09-01
9月1日「ちょっとその前に」

列王記上3:4〜15 マタイ6:33〜34
 神の国と神の義をまず第一に求める、とはどういうことでしょうか。それは、神の言葉とその約束とを、主な関心事とするということです。
 もちろん、それは他のことを気遣わないという意味ではありません。自分や他者の命、持ち物や財産について責任ある管理をそっちのけにすることでもありません。しかし、私たちが生活の中で遭遇する困難や課題に思い悩みながら向き合うということではなく、その困難や課題の中だからこそ、神の言葉と約束とに信頼して向き合うということです。
 栄華を極めたソロモンは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」という神の恵みを受けましたが、望んだのは、富でも長寿でもなく、ただ民を正しく裁くための善悪の知恵でした。神はその姿勢を喜ばれ、彼に知恵だけでなく、「加えて」富や長寿をも与える約束をしたのです。
 主イエスはこのことを強調されました。困難を抱える人たちや、貧しい人のために生きる前に、家族との関係を大事にする前に、仕事の成功を願う前に、私たちは神の前に出ることが素晴らしい結果を生むことを約束しているのです。
 必要なものは、すべて神の前にあるからです。

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2019-08-25
8月25日「神の国への入国審査」

マタイ18:1〜5
 主イエスは「悔い改めよ、神の国は近づいた。」と宣教を開始され、ある時はたとえ話を用いてわかりやすく、神の国について人々に教えられました。主の宣教のテーマは神の国でした。そして、弟子たちにも神の国を宣べ伝えるようにと派遣されています。弟子たちをはじめ、使徒パウロも、いつでも宣教のテーマは神の国でした。ところが、神の国は将来完成するものとして強調され、現在の教会で語られるテーマは神の国のごく一部を切り出したものと言えるでしょう。  しかし、神の国の現れは現在の事柄です。主はその入国審査について、明確に語っておられます。「〜でなければ、神の国に入ることはできない」といった具合に。将来、神の国が完成する時には、このような審査もいらなくなるでしょう。しかし、地上における生活の中で神の国に入りたいと願うならば、主が教える入国の手続きを通る必要があるのです。
 愛、赦し、癒やし、解放、その他、神から受けた素晴らしい経験があるとすれば、それこそが、神の国の力の現れです。生活のあらゆる領域で神の国を体験することを招いておられるのは、神ご自身です。
 その招待状を持って、入国審査を通りましょう。入国できるかどうかは、あなた次第なのです。

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2019-08-18
8月18日「神が求める生活?」

申命記10:12〜16  Iヨハネ5:3
 遊びでサッカーをしていた時、サッカーは簡単な遊びだと思っていました。しかし、本気でサッカーをやり始めた時、かなり難しいものだと分かりました。むしろ、遊んでいたときの方が自由で、楽でした。でも、うまくなりたくて、毎日夜遅くまで独りで練習しました。そのうち、ボールを見なくてもコントロールでき、いつまでもリフティングを続けることができるようになりました。そこには、ボールを自由に扱える、真の解放感が存在していました。
 聖書の真理も同じです。主イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」と教えましたが、それは、真理を知ることによってのみ、可能となるということも併せて伝えています。
 あなたが本当の自由さを、解放を求めるなら、真理を知るために、神の言葉に浸り続けることが必要です。もし、このチャレンジをあなたが受け入れ、できないながらも、聖霊に助けを求めながら歩むならば、あなたは気づかずに、真の自由さを知ることのできる領域にまで到達できるでしょう。
 これは、難しいことだと思うかもしれません。しかし、聖書は簡単だと言います。そこに、真の自由さから見た世界があるからです。

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2019-08-11
8月11日「かたちなきいのち―愛」

エレミヤ31:2  Iコリント12:31b〜13:3
 日を追うごとに、このみ言葉が心に響いてきます。「愛がなければ、無に等しい。」がそれです。思い出される一つ一つに、「あの時、あそこに、愛があっただろうか?」と問う日々です。そして、この今に!
それと共に、マザーの、「生きている愛は傷つきます イエス様はご自身の愛を証するため わたしたちの身代わりとして 十字架上で死なれました母親は自分の子を産むために 苦しまなくてはなりません もし皆さんがお互いに正しく 本当に愛し合っているのなら 大きな犠牲がなければなりません」の言葉を思い出します。
 「預言、神秘、あらゆる知識、山を動かすほどの完全な信仰」を、信仰のもとに手にしたいわたしたちです。そのようなわたしたちに、「愛がなければ無に等しい、何の益もない」のみ言葉には、一点の曇りもありません。見事です。わたしたちはこのところに召されています。なんという明快さでしょう。
 イエス様の歩みの、何という香しさでしょう。八木重吉の、「神のごとくゆるしたい 人が投げる憎しみをむねにあたため 花のようになったらばかみのまへにささげたい」の祈りの前に首を垂れる自分です。今一度、「今ここに、このわたしに」愛があるだろうかと問う信仰でありたいものです。

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2019-08-05
8月4日「人を信頼する神」

イザヤ60:1〜2
 使徒パウロがはじめて主イエスに出会った時、彼は自分がこれからどのように行動すべきか、主に尋ねました。このことは、私たちに聖書の時代における祈りの原則を教えてくれています。
 よく「請求書の祈りではなく、領収書の祈り」を目指そうという声を聞きます。神は私たちの願いを聞いてくださる方ですが、すべてが私たちの思い通りになったら何が起こるでしょうか。大きな視点で見ると、人類が欲しがったものはほとんど叶えられてきましたが、人類はほとんど不幸に遭遇することなく、歩んでいると言えるでしょうか。
 聖書に登場する信仰の先人たちも、私たちと同様に、神に願い出ることもたくさんありました。しかし、神からの答えは、時には「イエス」で、時には「ノー」でした。主は私たちに必要なものをよくご存知なのです。だとするならば、何が必要であるかを聞く祈りが大切だということが分かります。
 神は人を信頼しきっています。それは、天地創造のころから永遠に変わることはありません。神は愛するあなたの人生に栄光を現したいと願っておられる方です。頑張るのをやめて、どう頑張るべきかを主に尋ねてみましょう。

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2019-07-28
7月28日「驚くべき約束」

ヨハネ14:12〜14
 「祈りは聞かれる」おそらく、多くの信仰者が同意する文言だと思います。それはなぜでしょうか。すべての願いが思い通りになった、という方は皆無ではないでしょうか。それでもなお、私たちは「祈りは聞かれる」と言っている人たちを知っています。
 それと同時に、「なぜ、私の祈りは聞かれないのか」という声も耳にします。弟子たちに告げた「何でも叶えてあげよう」という約束は効力を失ったのでしょうか。そう思える時があるのもまた事実です。
 しかし、この約束が何度も何度も繰り返し告げられていることは、主の言葉の中でも類を見ないものです。そして、厳粛な状況の中、特別な時にさえも、主はこの約束を繰り返されるのです。それは、祈りこそが私たち人間に与えられた最も驚くべきツールであり、全宇宙を支配しておられる方、無から有を生み出すことができ、不可能を可能にする方とつながる唯一の行動だからです。
 主は祈りについて、2つのことを命じています。絶えず祈ること、隠れて祈ること、です。この二つは相反するもののようですが、実は一つです。
 主は私たちにもっと求めるようにと招いておられます。主は祈りの質よりも、むしろ量を求めておられるのではないでしょうか。

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2019-07-21
7月21日「私たちはぶどうの枝」

ヨハネ15:1〜4
 19歳で洗礼を受けた私は、受洗準備講座で罪・十字架・復活について「知的同意」をしただけで受洗したように思います。しかし、不思議なことに、洗礼を受けてしばらくして、「まことのぶどうの木」であるイエス様が、「知的同意」から私を解放し、「現実的理解」へと導く工程を開始されました。いわゆる「霊的成長」と呼ばれるこの行程は、救い主としてイエス様を受け入れたすべての人に約束された祝福です。行程には終了がありません。信仰者として「成熟」させていただき、「実をつける」成長過程は、人生の旅路を終えるまで続く魂の「変容」と言い換えてもよいでしょう。私は、これまでに幾度か十字架の意味について考える時が与えられてきましたが、なぜかまた最近このことを考えるように導かれています。「ぶどうの枝」である私達が父なる神様に手入れをしていただけることは、なんと感謝なことでしょうか。『十字架を説明しようとしまい、十字架のなかへとびこもう、十字架の窓から世界を見よう』。あのクリスチャン詩人、八木重吉の詩です。重吉のような熱心な信徒でさえ、信仰生活の始めた当初は、十字架の死の意味をはっきりとは理解していなかった様子がこの詩から窺えます。乱暴な言い方かもしれませんが、信仰生活は神様に枝を手入れしていただくためにあるのではないでしょうか。愛なる神様に信頼しましょう。

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2019-07-14
7月14日「愛と祝福の今を」

出エジプト7:6 ローマ11:36  アブラハムは70歳にして!モーセは80歳にして!なんという励ましでしょうか!聖書は常にわたしたちにチャレンジしてきます。ダビデが若くして神の器として用いられるその時、神様はサムエルに、「(主は)…人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」と言われました。「神の思いと人の思いは異なる」のです。
 わたしたちは、「あの頃に!」とよく思い言います。本当にそうでしょうか。「大学に行ったら、就職したら!結婚したら!」と言っていたのに、今は、「子供の頃に!学生の頃に!結婚しなかった頃に!」と!
 友よ、わたしたちは、まだ来ない時に憧れ、過ぎ去った時に懐かしさを覚えるのです。こんな自分の不信仰な姿に気付かないことは不幸です。わたしたちに与えられているのは、「今日」であり、「今」であることを心に刻む必要があります。
 男鹿教会に行き、懐かしくも、飯淵よし牧師の足跡を思い起こし、「今」を生きた天国の先生に今一度教えられました。「あの地」に、二つの教会を建てた信仰に、魂が揺さぶられました。
 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のです。いつも、「神様の愛と祝福の中」なのです。栄光を神に!

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2019-07-07
7月7日「愛だけが人を変えられる」

マタイ22:34〜40
 罪を犯した人々は、愛や喜びを受けられなくなって当然だ、ということが、罰という形で表れているのが牢獄です。そして、そこにはルールを破ってしまった人々がひしめいています。では、牢獄の外は、愛と喜びに満ち溢れた場所だと言えるでしょうか。
 主イエスはすべての人々に問います。「あなたは愛に生きているか」と。神を愛すること、人を愛すること、主はそれがすべてだと断言しました。とするならば、牢獄の中も外も同じ神の支配があり、同じルールが適用される場所です。「あなたは愛に生きているか」それは、すべての人を照らす光です。
 神は牢獄の中の人も愛しておられる。それは、罪の中で生きていたにもかかわらず、十字架によって身代わりに命を与えられた人々にとって、当然の思考でした。そして、もっとも愛から遠く離れた人にこそ、愛が必要だということを歴史が示しています。
 人が生まれ変わるというのは、別人格になることではありません。その人が神のデザインされた姿に戻ることです。そして、人が変化するために必要なのは、ただ愛だけなのです。
 全知全能の神が計画された唯一の方法は、それでも愛する、という十字架の方法だったのです。

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2019-06-30
6月30日「あなたはどんな人?」

Iヨハネ3:2
 私たち人間は、日々変化していくものです。それは良い変化も悪い変化もあります。もし、ご自分の人生を振り返るならば、あなたはどんな方向に向かっているのでしょうか。あなたはどんな人になっているのでしょうか。
 人は、何かを礼拝せずにはいられないものです。そして、何を礼拝しているか、というのことは、その人の人生に大きく影響するものです。聖書では、神以外のものを礼拝することを偶像崇拝としています。しかし、聖書のいたるところで教えられているように、神の似姿として創造されている人間が、神以外のものを礼拝し、悪い変化が起こっていくことを、神は悲しんでおられます。
 聖書が語る人間観は、あなたが全く別の人になることではありません。あなたがありのまま、神の創造の姿に回復することを語っているのです。神は、あなたが幸せであることを望み、あなたが生まれたての状態に戻ることを期待しています。そのために必要なことは、どんなことなのでしょうか。共に考えるときを持ちたいと思います。

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2019-06-23
6月23日「癒やしの法則」

 出エジプト15:22〜27  フィリピ4:4〜7
 聖書には「喜びなさい」という命令が出てきます。実際に、周りを見渡してみると、喜べることばかりでしょうか。いえ、もしかしたら喜べないことのほうが多いかもしれません。それでは、なぜ聖書では喜ぶことを何度も命じておられるのでしょうか。イスラエルの人々の姿を見ながら、考えてみたいと思います。
 彼らは奴隷状態から解放され、神がおられることを体験しました。そして、神を信じたのです。しかし、依然として彼らの眼前には何もない荒野が拡がっており、水や食料に対する不安がいっぱいでした。ようやくたどり着いた水も、苦くて飲めませんでした。彼らの不満は爆発し、とても喜んでなどいられません。
 ところが、神がそこに法則をもたらすと、水は甘くなって飲めるようになったのです。苦い水が甘くなる法則は、神の側に用意されていたのです。それは一本の木でした。やがて、彼らはオアシスに導かれます。
 イスラエルの人々の姿は、時代を超えて私たちが永遠に変わることのない同じ愛の法則に置かれていることを教えているのです。
 喜べない状況で喜ぼうとする時、その根拠が必要です。そして、十字架と復活にこそ、永遠に変わることのない神の愛の法則であり、私たちの力の源です。

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