宣教

2022-01-08
1月9日「キリストに倣う」

詩編41:10  ヨハネ13:12-20
 この年、日々の歩みの中で、教会とわたしたちが、キリストの証人として歩みを祈る中で、心に留めなければならないことは何でしょうか。それは、「キリストに倣う」以外のことではありません。
 「インマヌエル」の恵みに支えられつつ、「わたしの時はあなたの御手にあります」、の御言葉に生きる歩みです。それを生きた一人がフランスの神父、アベ・ピエール神父です。「それでも、永遠なる神は愛である」「それでもわたしたちは愛されている」「それでもわたしたちは自由である」がそれです。
 主は、十字架につけられる前日の木曜日、最後の晩餐の席で、事もあろうに、弟子たち全員の足を洗われました。上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻かれたた主の姿は奴隷の姿そのものでした。
 主は「ご自分の時(十字架につけられる)」が来たことを知り、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」姿が出来事となったのです。
 時を経ずして、それほどまでに愛された弟子たちは、ユダ、ペトロのみならず、全員が主を裏切ったのです。その彼らに、彼らの言動を知りつつ、主は、「わたしがあなた方にしたとおりに、あなたがたもするように」言われたのでした。主に従うこととは、主に倣うことに他なりません。あなたは⁉

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2022-01-02
1月2日「信仰によって」

ハバクク2:1~4  ローマ1:17
 善人が苦労し、悪人が栄える。そんな荒廃した世を憂いで、預言者ハバククは主なる神に訴えかけます。なぜそのままにしておられるのか、と。
 この問いは、クリスチャンであろうとなかろうと、人間であれば誰しもが抱いている共通したテーマのように思います。そして、聖書はそのような問いを持つことを否定しません。もちろん、ハバククの発した疑いを、神は不信仰とみなして断罪せず、ただちに答えを与えています。それは、約束は必ず成就するという御言葉です。
 ヘブライ人への手紙には、旧約時代に登場する人物の名を挙げて、信仰に歩んだそれぞれの人生を綴りながら、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たと伝えています。彼らは見たかったことでしょう。いや、ある意味、私たちも彼らと同じだと言えるかもしれません。なぜなら、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Iペトロ1:8)
 正しい人は信仰によって歩む。神の約束に立ち、「信じます!」の言葉が私たちを解放してくれます。

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2021-12-29
12月26日「確かな希望」

イザヤ30:15~18
 聖書には「希望」という言葉が多く出てきます。しかし、一番最初に出てくるのは、「希望はありません」という言葉です。
 人は誰しも罪の支配の中にあり、自らの内から希望は湧き出てこないというのが聖書の人間観であり、時代が変わっても、身の回りの利便性が高まったとしても、決して変わらない真理です。ですから、はるか昔も今も、希望は外から与えられるものであり、外とはまさに主なる神と、その言葉である主イエスをおいて他にないのです。
 今年もたくさんのことを願ったことでしょう。祈り求めた日々を思い返せば、叶ったことと、叶わなかったことがあるはずです。叶わなかった時、それは希望が打ち砕かれた時です。そして、聖書ではまさに主の十字架の出来事こそ、人間的に見れば、希望が打ち砕かれた瞬間でした。絶望の中、弟子たちは逃げ去り、隠れ、恐れの中にいました。しかし、主が与えられる希望とは、人間の常識やこの世界の普遍性を遥かに超えるものであり、被造物がどうにかできるたぐいのものではありません。それが復活です。
 主の与えてくださる希望は決して裏切りません。その希望によって救われた、とパウロは語るのです。

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2021-12-19
12月19日「へりくだるマリア、へりくだる神」

ルカ1:26~38
 2000年前のイスラエルの片田舎ナザレ、一人の少女に、天使が現れ「男の子を生むこと、その子をイエスと名付けよ」と告げました。少女マリアは驚き「そんなことがあるわけはありません」と反応しますが、天使は「神にできないことはありません」と告げ、マリアは「私は主のはしため、お言葉の通りになりますように(レット・イット・ビー)」と天使の言葉を受け入れます。神の前にへりくだる謙遜な姿の中に、この言葉の真意があるのです。
 クリスマスは、神が人間の肉体をとり、弱く無力な赤ちゃんとなられた出来事です。神は人に仕えるために、私たちよりも下に立って(アンダー・スタンド)、私たちの痛みや悲しみもすべてわかってくださるのです。マリアも神様の前では、自分は「はしため」にすぎませんと心から遜り、発した言葉が「レット・イット・ビー」です。この受胎告知の場面から、遜るマリア、そして遜る神に思いを馳せ、私たちは、改めて神の前にへりくだるということが、とても大切な姿であり、この世界を生きる私たちにとって、どれほど賢明な生き方であるのか思わずにはいられません。私自身も聖隷として、サーバント・リーダーシップという言葉を大切にしてきました。

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2021-12-12
12月12日「二つの受胎告知」

イザヤ7:14  ルカ1:5~7
 クリスマスと言えば「マリアの受胎告知」を誰もが心にも思い浮かべることでしょう。しかし、それに先んじること6カ月、老年にして不妊のエリサベトと夫のザカリヤとに天使が子供の誕生を告げます。
 クリスマスは、人間の不可能に神様が介入します。老夫婦と婚約中の若い男女にあり得ないことが告げられます。対極的な状況でありながら、神の時の訪れをこれ以上ないほどに鮮やかに示します。
 ザカリヤは疑うことにより、口がきけなくなり、マリアはあまりのことに、「どうしてそのようなことがあり得ましょう」と天使に抗議します。
 ザカリヤとエリサベトとヨセフとマリア、この出来事はわたしたちを、神の世界へと導きます。すべての時には神の備えが満ちているのです。
 マリアは大叔母であるエリサベトによりどれほどまでに力づけられたか知れません。30年後、ザカリヤとエリサベトの間に生まれた「バプテスマのヨハネ」が、主イエス様の道を備える者となります。
 ザカリヤとエリサベト、ヨセフとマリアは告知から10カ月の時を経て子供を抱くことになります。
 「神にはできないことはありません」とマリアに告げた天使の言葉こそ、クリスマスの偉大なメッセージです。神の愛の約束の中にいるわたしたちです。

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2021-12-05
12月5日「すべてが変えられる」

ローマ8:18~25
 天地創造の美しい世界が破壊されてから幾年月。人間を始めとしたすべての被造物は苦しみの中であえいでいる。これが使徒パウロの言わんとするところです。
 聖書は人間について多くのことを語りますが、動植物や自然界のことについては、例に出すことはあっても、その有り様についてあまり語りません。ですから、この箇所は非常に貴重です。
 実は、罪は宇宙規模で拡がっていることをパウロは指摘しています。弱視だと言われている彼も目にしてきたことでしょう。荒れ狂う自然、襲いかかる獣、心通わない人々を。そのすべての原因は罪にあるのだとパウロは宣言しています。
 私たちの苦しみの原因は、病でも、経済でも、人間関係でも、自分の欠点でもなく、罪の問題にあるのです。なぜなら、御国に罪はなく、その御国の様子は涙や労苦、争いがないところだと神ご自身が語られているからです。私たちが招かれている場所はそのようなところです。そして、その約束は絶対です。それが、私たちの希望です。
 確かな希望なくして荒波を乗り越えていくことができるでしょうか。初穂となった主イエスの十字架と復活。ここに確かな希望があるのです。

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2021-11-28
11月28日「準備はいいですか?」

ルカ12:35~48
 主イエスが再臨するという約束を告げてから2000年。未だに主はこの地に来ることがありません。その時がいつなのか、主はその事に興味がないご様子で、時期を計ることを気にしないよう弟子たちに教えられました。しかし、どのように待っていればよいのか、そのことだけはしっかりと教えられたのです。
 聖書では、たびたび「待つ」ことを要求されています。私たちは忘れていますが、実は旧約時代の信仰者は、死してなお、待ち続けている状態にあります。もちろん、視点を変えれば、神ご自身が私たちを忍耐して待ち続けられた方であることも分かります。
 さて、再臨の主が来られるための姿勢とはどのようなものでしょうか。主はそのことについて、すべての人に摘要できる御言葉をくださいました。それが、しもべのたとえ話です。ここには、待つことの報酬と警告とが両方含まれています。
 多くの人が、キリストの福音は永遠の命のこと、天国のことであり、死ぬ直前に受け入れればいいと思っているかもしれません。しかし、あなたの終わりの日は、いったいいつ来ると言うのでしょう。それは、キリストが再び来られるのがいつかということと同様、分からないのです。さあ、今こそ準備の時です。

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2021-11-21
11月21日「あなたを迎えるために」

マタイ9:14~17
 ある時、洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスのもとにやってきて言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
 ヨハネ教団は、形骸化してしまった当時の一般的な戒律や信仰から自分たちを切り離し、人里離れた場所で信心深い生活を送っていました。彼らは主流派を改革したいと願っていたのです。そんな中、主イエスが弟子たちを招き、新たなムーブメントを開始したことが耳に入りました。彼らは主が自分たちと同じように、主流派を改革したいのだと考えていましたが、主のなさることは、彼らの想像をはるかに超えていました。それはもはや改革ではなく、新生のようでした。
 つまづく彼らに主は二つのたとえ話をされています。婚礼の話とぶどう酒を入れる革袋の話です。
 聖書は神と人との出会いをたびたび婚礼に例えます。花婿である神と花嫁である人間が婚礼の関係のように結ばれる喜びを示しているのです。また、当時の人々はぶどう酒を革袋に入れており、新しい酒はいつも新しい革袋に入れて保管していたのです。
 さあ、主が語られたこの二つのたとえ話は、私たちに何を伝えているのでしょうか。そのメッセージを受け取りましょう。

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2021-11-14
11月14日「一粒の麦として」

イザヤ53:1-6   ヨハネ12:20-26
 三浦綾子さんの書いた『塩狩峠』をよんだことがありますか?『信徒の友』で1966年から2年半連載された小説で、映画にもなりました。国鉄(JR)職員であった永野信夫の乗った列車が暴走…。
 この小説の最初に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」の御言葉が書かれています。実は、私の机の前の壁に、「一粒の麦 もし地に落ちて死なば 多くの実を結ぶ可し」と書かれた賀川豊彦の筆になる書が貼ってあります。遠く及ばぬ自分を見つめ、現在地を知る道標となっています。
 これは、イエス様がご自分の生を現わしたもので、
キリスト教会のみならず、自らの身を捨てて仕える姿を表す一般的な言葉としても用いられます。最も難しいことは、この「キリストに倣う」ことです。
 人々の歓呼の声に迎えられた「エルサレム入城」の後、訪ねて来たギリシャ人(福音が全世界に発信される小さな始まり)に語られたものです。福音の真実、十字架の出来事とその力を表した白眉ともいえる言葉です。福音とは「贖罪」であることを。
 「生」は死によってもたらされ、命を捧げることにより命が、愛のみが新しい命の時をもたらすことを知ること無しには!「一粒の麦に!」と。

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2021-11-07
11月7日「知性を超えて」

コヘレト3:11  ヨハネ11:25~26
 日本の方々に伝道すると、ほとんどの方がこうおっしゃいます。「うちは仏教なので。」そして、そのような方々のほとんどがこうもおっしゃるのです。「天国の誰々は~」と。
 私たちは有限な存在で、無限を理解することはできません。しかし、理解出来もしない無限や、永遠といった言葉が存在するのはどうしてでしょうか。その意味も知らず、到達したこともなく、計り知ることもできないものが、どうして言葉となって存在できるのでしょうか。これはとても不思議なことです。
 聖書は、このような永遠を思う私たち人間の心は神が与えたもうものだと教えています。神ご自身は永遠の方であり、その似姿として創造された私たちは、その方を完全に理解することはできずとも、その方が有限ではないことは理解できるのです。
 主イエスは死んだ弟ラザロを悼むマルタに言いました。「信じるか?」マルタは弟の死という現実を受け入れよう、神の言葉を理解しようと必死でした。しかし、主が問うのは知識や理解ではなく、信仰なのです。
 あなたも今日、主に問われています。死の先にあるのは永遠のいのちであるという信仰を。

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2021-10-31
10月31日「憐れみに生かされて」

 ヨハネ1:14~18
 ヨハネによる福音書の冒頭には、天地創造からイエス・キリストの十字架と復活まで、聖書のすべてが要約されています。神の言葉である救い主イエス・キリストが受肉され、人となられたことは驚くべきことです。なぜなら、神は罪のない方であり、罪の世に存在できない方だからです。
 このように、聖書の中には一見、矛盾していると思われるような記述が多くあり、神のなさることも時には疑問に思うことも多くあるのが事実です。では、聖書はなぜそのような矛盾をあえて置きながら、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
 かつて、世界には唯一の純粋な信仰者がいました。その名はノアです。彼は神の命令に従い、方舟を作るというライフワークをはじめます。毎日取り組んだとしても、一生かかってできるかどうかの大仕事です。方舟が完成すると、神は大水を送り、世界の罪を洗い流すのですが、この物語にはいくつかの矛盾点があります。
 「義人は一人もいない」と聖書が語るように、私たちはみな罪人です。それなのに、生かされ、祝福されています。この大いなる矛盾こそ、神の憐れみ深さの現出と言ってもいいでしょう。

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2021-10-31
10月31日「因果応報を超えて」

 先週の祈祷会では、「神様にお会いしたら、どんなことを聞いてみたいですか?」という質問に答えていただきました。「再臨はいつなのか」「先に召された方々は今どうしているのか」「自然災害はどうして起こるのか」「出産する前に召された命はどうなるのか」ほかにも様々な疑問が挙げられました。聖書があり、信仰が与えられていても、たくさんの疑問があるのが私たちです。その後、ヨブ記を皆で分かち合いました。
 同志社の授業でヨブ記を学んだときのことを思い出しました。その時、教授がおっしゃった言葉が忘れられません。「ヨブ記のテーマは『神とのまことの出会い』です。良い人が良い生活をし、悪い人は悪い生活を送る。この因果応報を超えていこうとするのが聖書であり、神の愛なんですよね。」
 祈祷会に参加されていた一人の方が言いました。「ヨブは友人たちのことを赦し、その祝福のために祈った時、祝福されましたよね。」素晴らしい気付きです。聖書が言うように、義人は一人もいない。どんな人でも神のみ前では罪人。そのことに気づかせてくださった神に感謝し、そのために十字架が必要だったことを考えると、胸がいっぱいです。

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2021-10-24
10月24日「助けの石」

サムエル記上7:2-12
 イスラエルの民はペリシテ人の脅威の中にいました。彼らはその問題の解決を求めて、多種多様な宗教、あるいは呪術などに傾倒していきました。そんな中で、指導者サムエルは人々に伝えます。「ただ主にのみ仕えよ。」と。
 あなたもペリシテ人のような問題課題を抱えていませんか。「いや、順風満帆だ。」という方がいたとすれば、100%の確率で訪れる死という問題に対しても、果たして順風満帆だと言えるでしょうか。
 イスラエルの人々にとって、死は身近な問題でした。今よりも寿命は短く、周囲には弱小民族を狙って虎視眈々と領地拡大に進む大国がせめぎ合っています。私たちも同じではないでしょうか。死という大国がいつ攻めてくるかもわからない状況。周囲には様々な問題課題が山積みです。もしかしたら、順風満帆だと言える方の多くは、死がリアリティのないものなのかもしれません。
 彼らは神の人サムエルのメッセージを受け入れ、罪を告白して裁きを受けます。それは、やがて来られる救い主、イエス・キリストを象徴するものでした。
 今、あなたが解放されるために必要なことは、全てを捨てて、ただ主に仕えることだけなのです。

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2021-10-17
10月17日「下にいる神」

出エジプト17:8-16
 聖書は私たちが戦場にいることを教えてくれます。あなたは神の武具を身に着けて、悪魔に対抗する戦士です。その戦い方はユニークで、想像もつきません。モーセたちはアマレク人という大きな壁を前にして、まさに戦いが始まろうとしています。神はモーセを通して人々に何と命じたでしょう。用意するのは人一倍大きな武器でしょうか、貫かれる恐れのない防具でしょうか、それとも歴史上の戦いのように、優秀な軍師が立てられたのでしょうか。いえ、違いました。
 神がモーセに語ったのは、杖を持って山に登り、手を上げ続けるということでした。直接戦いには参加しません。遠くで手を上げているだけです。最前線から不平が聞こえてきそうです。しかし、結果として彼らは勝利を手にしました。
 この戦いは、私たちに世の荒波の戦い方について教えています。モーセの傍らには支える人々がいました。手を上げて戦うモーセの下には岩が据えられました。神はそのことを記念するようにと、モーセが座っていた岩に「神の旗」と名付けるように命じました。岩が旗とはどういうことでしょうか。聖書に一度きりしか登場しない特別な言葉です。その意味について、一緒に学んでみましょう。

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2021-10-09
10月10日「聖なる無駄」

申命記7:6~8  ヨハネ12:1~8
 今日の有名な『ナルドの香油』の物語を読んで、O・ヘンリーの短編『賢者の贈り物』を思い出しました。貧しくも愛し合っている若い貧乏な夫婦が、互いのクリスマスのプレゼントに、高価な時計の鎖と、鼈甲の櫛を買いました~。役に立たなくなってしまったプレゼントの二人でした。そこに溢れたいのちの世界が懐かしく思い出されます。ラザロを復活させてくださったイエス様に感謝を表すためのマリアの好意を、ユダが、「なぜこの香油を300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか。」とマリアを非難しました。
 「それは無駄だ!」ということでしょう。多分、わたしも同じ場所にいたら同じ反応を示したことでしょう。「無駄!」このことがわたしの人生に影を落としていたことに気付きます。
 この世的に考えれば、イエス様のしたことは全てが無駄でした。世界を変える主の働き-「福音の出来事」-は「聖なる無駄」なしには、何一つなかったことでしょう。「効率」を気にして「愛」というキリストの救いの前を通り過ぎているわたしたちです。
 「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」との主からのチャレンジへと招かれています。主と共に「聖なる無駄」に向かうわたしたちです。

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2021-10-03
10月3日「叫ぶ石」

ルカ19:37~44
 聖書には「石」という言葉がたくさん出てきます。天地創造の中にも、石に関する記述があります。それは、エデンから流れ出る川の流域に存在するものでした。その石は「ショハム」という石です。この石が意味するものは何でしょうか。
 実は、この石は白と黒のスジが帯状に並んで浮かぶ石のことで、しまめのうとも呼ばれます。また、英語ではオニキスです。この石は、祭司のエフォドと呼ばれる礼服にあしらったり、他にもいくつかの記述があります。黒は何を意味し、白は何を意味するのか、聖書から紐解いてみたいと思います。
 石は聖書の中でも特別な存在です。あるときは枕になり、またあるときは律法が刻まれ、罪人に投げられたのもまた、石でした。
 今日の聖書にも、石が出てきました。主イエスを歓迎するエルサレムの人々の熱狂と、弟子たちの喜びが爆発しています。ことなかれ主義者たちは彼らを黙らせるよう主に願います。しかし、救いを叫ぶ人々の声は、それを覆ったところで隠すことはできず、十字架の救いへの道と、賛美を止めることは誰にもできないのです。

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2021-09-26
9月26日「すくい上げられた石」

ヨシュア4:1〜9
 偉大な指導者モーセの後、次世代のリーダーとして立てられたのはヨシュアでした。彼らは主なる神の導きに従い、荒れ狂うヨルダンの川を前に、その信仰を試されたのです。
 かつて、葦の海を二つに割って人々をエジプトから救い出したように、神はヨシュアたちにも信仰による体験をさせたかったのです。その日、前世代が経験し、事あるごとに聞かされてきたように、海が二つに割れるという信じがたい光景を、彼らは目にすることになりました。
 神はその経験を忘れず、次世代に伝えるために、12個の石を川底から取って記念とするようにヨシュアに告げます。彼らは言われたとおりに行いますが、なぜか、ヨシュアは別の12個の石を、今度は川底に積み上げるのです。この石は「今日までそこにある」と伝えられていますが、詳細はわかりません。この石は何を示しているのでしょうか。
 川底から拾い上げられ、陸地に積まれた石と、陸地から拾い上げられて川底に積まれた石。この双方が意味することは、ある方の出現まで謎のままでした。その方こそ、救い主イエス・キリストです。
 主は次世代である私たちに何を伝えたかったのでしょうか。

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2021-09-19
9月19日「Praise & Worship」

マタイ28:19-20
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

佐々木 章(ささき あきら)
 中学校の頃からギターを始め、盛岡市にある善隣館の音楽グループ「グッドネイバーズ」のメンバーとして、東北各地を演奏して回る。
 1984年には韓国ゴスペルフェスティバルに日本代表として招かれ、1987年にはアメリカ、オハイオ州ニューナックスビル教会の150周年記念に招待される。
 普段は善隣館書店の店長として働きながら、各地の幼稚園や保育園などで「歌のおじさん」として演奏を続けている。

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2021-09-12
9月12日「それがあなたの人生です」

列王記下6:15-17  ヨハネ9:35-41
 おなじ方から1日に何度も、電話がかかって来ることがあります。内容はいつも、「自分の不幸」「人々の冷たさ」の訴えで、さいごに、「どうしてわたしだけが⁉」と叫んで終わります。
 イエス様は度々、「あなたの信じた通りにあなたになる」といわれました。あなたは自分の人生で、何を信じていますか?自分はどんな存在だとおもっていますか?」そして、「自分の思った、その通り」の人生を生きていることに気付いていますか?
 マザーテレサの言葉をお持ちですか?「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから。」ドキッ!です。
 その時、誰あろう、その指先はまっすぐに自分を指しています。わたしたちが「現実」という時、それは自分の現実であっても他の人の現実ではないことの何と多いことでしょう。
 イエス様の失脚を意図する者の目は曇ってしまっていました。「何を見ているかに注意を払いなさい!」と言われる主の前に跪くものでありたいものです。

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2021-09-05
9月5日「どこにいるのか」

 ルカ15:11〜32
 福音書の中で、イエス・キリストと敵対した人々は、自分は誰よりも頑張っていると思っている人々でした。彼らは自分の英雄的な努力に目が向いていて、他者を愛する視点が欠けていたのです。彼らに必要だったのは、神にピントを合わせることでした。
 放蕩息子の姿は、神から離れた罪人がどのように神と再び結びつき、回復と成長の段階を歩んでいったのかが示されています。継続的な無知の中に生き続けた彼は、空腹の極みの中で我に返りました。自分の限界を知ったのです。そして、「息子と呼ばれる資格もありません」と、しもべとして父に会いに行きます。これは、悔い改めです。ところが、父は彼を無条件に赦し、しもべではなく、息子として迎え入れました。兄はこれを見て嫉妬します。この兄は、有能でプライドがある人の姿を示しています。これを打ち砕いて成長するためにも、私たちは聖霊という最も謙遜な方の力を借りて、克服する必要があります。
 何よりも、主が私たちに求めておられるのは、この父の姿です。この父は主ご自身です。父は、赦すにも、迎え入れるにも、与えるにも、報いを求めていません。霊的成長の最終段階は実に、そこなのです。 

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