宣教

2018-07-08
7月8日「走り寄る神」

哀歌3:22〜27 ルカ15:20〜24
 正しいことを語っても人を悔い改めに導くことは出来ません。悔い改めという新しい命は、愛のみが為しうることです。それも「朝毎に新たになる」「慈しみと憐れみ」によるのです。
 有名な、イエス様による「放蕩息子」の譬えは、その神様の真実を鮮やかにわたしたちに明らかにします。有り得ない裏切り行為をもって、後ろ足で砂をかけ出て行った息子の帰りを、毎日待ち続ける父。ボロボロになって帰って来るであろう息子を抱き止めるべく、朝毎に戸口に立って待ち続ける父!
 福音書の記事は、主イエス様が、父の思いをこの地上で生きる姿を現しています。「何とも間抜けな姿」ではありませんか!しかし、それ故にこそ、救いの出来事がわたしたちの現実となったのです。
 神ご自身が、愚かな放蕩息子を日毎に、門に立って待ち続けるのです。そればかりか、父の方から息子に走り寄るのです。父が走り寄るその姿こそ、十字架によって示された神の愛です。新しい生は、「子の悔い改め」では決してなく、「父の愛」によって実を結ぶのです!「砂をかけ走り去りたるこの我を 日毎門にて待ちたりし父」 神の愛たるを知れ!

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2018-07-01
7月1日 「イエス中心の生活」

マタイ7:24〜29
 主イエスは山上で人々に向かって教えられました。神は「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」(申命記30:19)と語り、いのちを選んで祝福されるように教えました。主も同様に、二種類のたとえを用いて人々の生活に迫りました。
 やがて、山上での教えも終盤に差し掛かり、結びが語られます。それは、家の建て方についてのたとえ話でした。家を建てることは、こと日本においては一生に一度あるかないかの大事な決断となります。欠陥住宅だった場合、その失望は計り知れません。しかし、もし家を自分で建てることができたとしたら、誰が欠陥住宅に住みたいと思うでしょうか?きっと家族や自分の幸せを願って、最善の策を講じるに違いありません。では、自分の人生を家に見立てたとしたら、どうだろうか?主はそのことを語りながら、揺るぎない人生の設計をするようにと導いておられるのです。
 「どのように建てるかについては注意しなければなりません。」と使徒パウロが警告するように、日々の生活の中で建材を整え、ひとつずつ組み上げ、完成すると人はその中に住みます。その建材は何でしょうか?組み上げるためにはどう行動すべきでしょうか?
 すべてはあなたが祝福される道筋なのです。

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2018-06-24
6月24日「七つの本質ー能力付与」

ヨハネ14:6〜9
 主イエスは、道であり、真理であり、またいのちであるというのは真実です。この方を通らなければ、本当の意味で神を知ることはできません。そして、主もそのことを弟子たちに教え、実際に示されました。
 人を癒やし、悪霊から解放し、死人さえもよみがえらせる力を、主ご自身が持っておられるのだと弟子たちは思っていました。私たちはどうでしょうか?そんな奇蹟的な力は、主が特別だったからできたことだったのでしょうか。あなたにはそんなことはできないですか?
 確かに、主は特別でした。神の御子として、その力の源が自分の中からではなく、父なる神のもとから注がれていることを知っていたからです。そして、主は弟子たちにも同様の、いやそれ以上のことができると約束されました。そして、それを聞いたのはすべての弟子たちでした。
 使徒たちの働きを描いた物語を読めば、彼らが主のようであることを感じるでしょう。人が癒やされ、悪霊から解放され、自由にされた人々がさらに働きを拡大していきました。それは二千年前に起きた一過性の出来事だったのでしょうか?

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2018-06-17
6月17日「神の計画に参加する」

マタイ14:22〜33
 「召命」という言葉を聞いた時、あなたはどう考えますか?それは牧師や神父、伝道者といった特別な人々に関する事柄でしょうか?それとも、すべての人々に関する事柄でしょうか?そんな言葉は聞いたこともありませんでしたか?
 主イエスは人々をどのように取り扱い、何を見せ、どうなってほしいと望まれたのでしょうか?ペトロは人類史上初のチャレンジを通して、わたしたちにそのことを教えてくれます。人が人の努力でなんとかできる問題を解決できたからといって、誰が主に出会い、主に感謝し、この方こそ救い主だと告白できるでしょうか。今、ペトロは人にはどうすることもできない領域に一歩踏み出しました。それは簡単なことではありませんでした。でも、彼は踏み出したのです。これが信仰です。
 あなたは主から何を語られていますか?あなたの人生に、今、主が働かれる領域はあるでしょうか?もし、自分の力ではどうにもならない問題があるとするならば、そこが主の働かれる領域かもしれません。大切なことは、一歩踏み出すことです。
 主の計画がどのようになされていくか。その事を見ていきましょう。

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2018-06-15
6月10日「使徒たちの三ない運動」

使徒4:5〜14
 35年くらい前のバイクブームは交通事故死多発と暴走族の流行につながったため、高校生にバイクの免許を取らせない、バイクに乗せない、バイクを買わせないの「三ない運動」が盛んに行われました。使徒言行録に登場するイエス様の弟子たちも「三ない運動」を展開しましたが、彼らの場合はリーダーがいない、資金がない、教養がないの「三ない」でした。
 当時は権力者に脅威と見られる人物が処刑されると、必ずと言って良いほど、側近たちの処刑も行われました。しかし、イエス様が不在となると、後を継いでトラブルを起こしそうなリーダーが一人も見当たりませんでした。仮にいたとしても、運動を展開して行くのに必要な資金がなく、物乞いをする人に施しをするほどの余裕もありませんでした。更に決定的だったのは、宗教や哲学に通じた知識人を重んじる当時の社会風潮の中、当局者を感心させるほど、弟子たちに教養がなかったことです。
 「三ない」から始まった弟子たちの運動は絶望的な条件の下で、どのような観点から見ても不発に終わるはずでした。しかし、使徒言行録に記録された運動の結末は世界革命そのものでした。今日はこのあり得ない出来事に隠された秘密について学びましょう。

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2018-06-03
6月4日「水を汲むしもべに」

詩篇136:1〜3  ヨハネ2:1〜11
 イエス様の最初の奇跡が、「結婚式」で「水をぶどう酒に変えた」出来事にユーモアが感じられます。イエス様のたたずまいに心が明るくなります。さすが、「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の頭だ」(ルカ11:19)と言われるほどのことはあります。
 固定化した宗教観、信仰の定式を打ち破る新鮮な息吹が感じられます。母マリアも、「ぶどう酒がなくなりました」の訴えを拒否されつつも、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と召使いに言っています。緊張ではなく平和が満ちます。
 召使いが言われたとおりに、「水がめの縁まで水を満たした」のも見事です。「世話役がその葡萄酒をなめて不思議に思った」の記述に、神の業の奥義が見事に明らかにされます。そして、浪岡教会の!
 1)主のもとに行く 2)主の言葉に従う 3)必要とされている処に運ぶ―その時、御業の驚きと出会います。おののいてはなりません。主の奇跡は、「はい!」と水を汲む僕によりもたらされます。
 「御言葉を聞きて水を汲むただ人を 用いて進む宣教の業」 笑顔と共に主と共に、奇跡を通して。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と。

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2018-05-27
5月28日「七つの本質ー関係」

創世記2:25
 人間関係は最も難しいと言われます。しかし、主なる神は「人が独りでいるのは良くない」と、その最も難しいところに人間を置かれ、関係の中で生きるようにされたのです。そして神もまた、父と子と聖霊という関係の中に存在しておられます。
 神がはじめの人を関係の中に置かれた時、最初に人が発したのは「難しい」という悩みの言葉ではなく、「ついに、これこそ」という雄叫びのような歓喜の声でした。関係とは素晴らしいもので、良いものなのです。しかし、神中心から自己中心にライフスタイルが変化した時、神と人との関係は傷ついたものになってしまいました。それ以降、人間同士の関係も回復が必要な状態のままです。ですから「難しい」のです。
 しかし、主はすべてを癒すと約束されました。そして、どのようにして神と人との断絶を埋め、人と人との関係を回復させるのかを、主イエスの歩みによって明らかにされたのです。
 アダムとエバはエデンで良い関係を築いていました。それは、裸であることを恥としない関係です。誰かのそばで、あなたが主にある良い関係を築こうとするなら、主はあなたのそばにいて、必ず助けてくださるでしょう。

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2018-05-20
5月20日「一つになるために」

使徒言行録2:1〜4
 主イエスに従えば、何かしらの利益が自分にあると考えてかどうか、弟子たちは主と歩み始めました。自分にとって、「主はこういう方」という固定概念の中で、それぞれの弟子たちは、いつも主から叱咤されてきました。しかし、主が繰り返し語られる言葉さえも、彼らの固定概念を揺り動かし、自我を打ち壊すことはできませんでした。
 あの日、丘の上に十字架が打ち立てられた時、主が語られたことが現実になったことを受け入れざるを得ず、自分自身が弱い人間であることを受け入れざるを得ない中で、彼らの魂の領域にも、十字架が打ち立てられたのです。暗闇の中で、主の復活すらも信じられない彼らを前にして、主はこの不信仰な人々に宣教を委ねられました。
 主の深い愛を経由して、弟子たちは一つになりました。一つになるために必要だったことは、互いに愛し合うことができる状態に導かれることでした。彼らが一つになっているところに、聖霊の約束が実現したことは、決して偶然ではありません。それこそ、主が弟子たちを教え、導き、一緒に歩んできたことの集大成でした。
 今も、その共同体は存続し、永遠につづくのです。

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2018-05-13
5月13日「人は何者なのでしょう」遠藤一則 牧師        

 詩篇8:3〜9
 日本人は人のことを気にする、とよく言われます。そのこと自体は悪いことではありません。社会で円滑な生活を営むためには必要なことであり、役に立つことでもあります。しかし、それが高じると自分の考えを横において、人に合わせることがくせのようになり、考えることをやめてしまうことにもなりがちです。どうすれば、そのバランスをとることができるのでしょうか。人を無視せず、かといって気にしすぎもせず、軽やかに人生を生きていく方法があるのでしょうか。
 本屋さんには、「人と良いコミュニケーションをとる方法」「好感度アップの秘訣」「悩みを減らす思考法」等々、さまざまな知識があふれていますが、これらは処世術であり、時々の相手や時代によって変化します。自分という人間を支える土台、それに通じる真理は一体何でしょうか。今日は聖書からそれを発見していきましょう。
 キーワードは「たかが人間、されど人間」です。

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2018-05-06
5月6日「祝福の王道-賛美と感謝-」

詩篇102:19  Iテサロニケ5:16〜22
 聖書の学びを進め、1974年4月から説教の準備をしてから44年。少なくても14112回の説教をしていることになります。説教を続けることで多くの祝福を与えられたことは勿論です。が、いつの間にか(何度も軌道修正はしつつも)、最も大切な命を失っていたのでは?と問われる昨今です。
 それは、聖書の通奏低音とも言うべき、「愛 喜び驚き 賛美 感謝」のない、通俗的な「~あるべき、~が信仰」という宣教をしてきたのでは?という。
 わたしの語る宣教、生活、言葉を通して人々が「新しい命に導かれるか?」との問いを受けたのです。答えは当然のごとく、「否!」です。
 旧約でも、「賛美の歌を~、感謝の歌を~」信仰の命と語られ、新約の「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」信仰へと繋がります。
 賛美と感謝、これこそが信仰の息吹であり歌です。神様に、イエス様に、聖霊様の働きの御業にドキドキしたことはありますか?胸が熱くなりますか?
 仕切り直しの時です。愛を喜び、賛美し感謝する勝利の信仰に向かって。 「人生は賛美感謝の通奏低音 新しきいのち支えこだます」

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2018-04-29
4月29日「戻るべき場所」

詩篇56:4  ルカ22:39〜44
 主イエス・キリストは神の御子として、神と等しいお方だと聖書は語ります。しかし、同時に主は私たちと等しいとも語られているのです。主は神であると同時に、完全に人になられたのです。
 十字架という試練を前にして、主はゲッセマネの園で苦しみを露わにされました。その様子は、悲しみもだえ(マタイ)、地面にひれ伏し(マルコ)、血の混じった汗が地面に流れ出るほどでした(ルカ)。
 神が苦しまれる、という姿は、私たちを困惑させるかもしれません。人々を愛し、癒やし、奇蹟を行う方が、苦しまれることなどあるのだろうか。その疑問に対する答えがここです。実に、主は苦しまれたのです。それも、単なる不安などではなく、どうにもならない壁のような大きな試練に対する恐れをもたれたのです。
 しかし、主はその苦しみをどこに持っていくべきかを完全に理解しておられました。それは詩篇に描かれた信仰者の模範と重なります。そして主はご自身の状況を具体的に、誠実に主の前に注ぎ出しました。ありのままで向き合って、立ちはだかる大きな山が動かせないことに心をとめず、その山を創造した方の元に行ったのです。
 あなたも同じようにして良いのです。そこに主が用意した、あなたに必要なものがあるはずです。

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2018-04-22
4月22日「光の指す方向」

IIコリント4:6〜9
 主なる神は私たちに必要なものはすべて与えると約束しています。聖書の登場人物たちも、その約束を目の当たりにしてきました。しかし、それは誰しもが簡単に理解できるようなやり方を通してではなく、一人ひとりに対して、ユニークに与えられていくものでした。時には、それが欠けた器のひび割れのように、人々がいらない、と思い込んでいるところから始まっていくのです。
 この4月から新しい歩みを始められた方々に、また、新しいことに挑戦しようと試みている方々にも、すべての人に主は目を留めておられます。一人ひとりの輝きが増していくために、一人ひとりにユニークなひび割れを与えて、そこから光が溢れ出るようにデザインされたのです。しかし、ひび割れた部分を良しとできる世界を創造された神の意図に反して、ひび割れを恥じる時、人は闇の中を歩むことになります。
 主の光はいつも外向きです。その光は、あなたのひび割れを通って外に出たがっているのです。もし、自分が持っているひび割れを隠すことなく注視し、主が善いものをくださったと信じるなら、その裂け目から光が溢れ出し、あなたを通して世界は祝福に変えられていくでしょう。

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2018-04-15
4月15日「備えられた計画」

エフェソ2:10
 聖書は、人を神の作品であると語ります。神はあなたのことを他の誰ともまったく同じには造りませんでした。ですから、他の人を形作るための計画と、あなたが練られていく計画は異なっているのです。もし、一般的な計画に従っていくならば、神の願ったあなたらしさを失うことになっていくかもしれません。
 聖書の登場人物たちも、私たちと同じようにそれぞれ異なっています。その人々を成長させるために、神はまったく違う物語をそれぞれに用意しました。あなたがあなたらしく成長したいと願うなら、神の育成方法に注目すべきです。なぜなら、あなたが地上に生を受ける前から、あなたにどう生きて欲しいかをデザインされたのは神だからです。
 「神が前もって準備してくださった善いわざ」とは、あなたが心の底から喜び、「〜すべき」から解放されて、「〜したい」と思えることなのです。そして、神は何よりもそれを望んでおられます。
 主イエスの弟子たちの育て方も同じです。主の喜びは「神が前もって準備してくださった善いわざ」を歩んでいくことで、人々が自由になり、心の底から喜び、「〜したい」と輝いて生きる姿を見ることだったからです。

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2018-04-08
4月8日「陰府にくだるとも―愛の勝利」

詩編31:15(口語) Ⅰペトロ4:6
 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。~天に登ろうとも、~ 陰府に身を横たえようとも~あなたは、わたしの内臓を造り~」(詩編139)と。「わたしの時はあなたの御手にあります」と聖書は神を指し示します。毎礼拝ごとに告白する使徒信条に、「~死にて葬られ陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり~」とあります。
 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らは人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(Ⅰペトロ4:6)。「生きている時も、死んでも、わたしたちは主のもの」なのです。
 「陰府にくだり」、すなわち、死の世界にまで主イエス様が自ら赴いたとわたしたちは告白しています。「罪の支払う報酬は死」ですが、「神の賜物はわたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命」なのです。神の愛の足音は誰にも止められません。自分が後生大事に持っている物差しを放棄し、サタンの誘惑に勝利する時が訪れました。
 「陰府にまでおよぶ救いと愛を知り 主イエスと共に進み行く我と」心躍ります。

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2018-04-01
4月1日復活祭「神の栄光を見る」

 ヨハネ11:28〜44
 私たちは、祈りを通して、関わりを通して、医療などの癒やしを通して、人々を解放することができます。しかし、死後4日間も経った人を蘇らせることができると言われれば、信じることができるでしょうか?
 主イエスはあらゆる領域において、弟子たちに、そして人々にご自身の生き方を通して模範を示されました。そして、「はっきり言っておく、わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と、ご自身が行ったことと同じか、それ以上の働きができることを示されたのです。それが主の人材育成でした。
 主の人材育成は最初から最後まで一貫して、人が神に対する信仰を持つことでした。その最後のステップは、人が信じることのできない、不可能の領域に対する挑戦でもありました。それは、死というものに対する偽りからの解放です。そして、主は人を蘇らせ、ご自身も十字架の後に復活されたのです。もはや、死は私たちに対して脅威とはなりません。なぜなら、この方が今も生きているからです。
 主は私たちに不可能を可能とする神の権威を委ねてくれました。「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と主が招いておられます。

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2018-03-31
3月25日「誰も知らなかった計画」

 士師記6:11〜18 ローマ8:31〜32
 収穫期のイスラエルに毎度お馴染みの不安が漂っていました。いつ何時、ミディアン人たちが襲いかかってくるか知れないからです。彼らはすべてを食い尽くす「いなご」のように、いつもこの地を蹂躙するのです。今、イスラエルの人々の叫びは神に届き、救いの計画にピッタリの人物が選ばれました。しかし、その人物は誰よりも恐怖心が強く、弱々しいので、一見不向きと思われる、ギデオンその人でした。
 神は私たちが自分を見るようには見ず、または人々が私たちを評価するように評価しません。神にとって、私たちは生まれる前から神の計画と愛の中にあり、どんな歩みによって過去を積み重ねてきたか、一切問題になりません。神は私たちの味方なのです。しかし、私たちを一般的、平均的という一見聞こえの良い方向に留めようとし、神の計画に歩ませないようにするための言い訳は無数に転がっています。身近な人の妬みもあるかもしれません。事実、主イエスも人々の妬みのために十字架につけられました。
 神の計画を歩む時、まず私たちがどんな存在であるかを知ることは大事なことです。そして、主はあなたを「勇者だ」と宣言されています。あなたの中にある神の計画があなたをそうするのです。

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2018-03-31
3月18日「神の道具箱」

 イザヤ55:8〜13
 神の計画は、愛する人々とともに神の国を建設することです。この王国は高いものが低くされ、低いものが高くされる、という価値の逆転によって支配されています。そして、この国を建設するために必要な資材は、恵みによって与えられる神の言葉です。
 多くの人は、クリスチャンであっても、ある種の問題解決は、その道の専門家のみが解決できると信じ込んでいます。確かに、専門家は目に見えて現れている問題に対処可能です。しかし、主イエスは問題の解決を、嵐の沈静化や病人の回復、死者の復活という対処療法に置いていませんでした。その根底にある、目に見えてこない本当の問題を、主はご存知であり、その問題の解決を優先されました。そして、問題の解決に向けて、主のなさったことは、神の言葉の実践でした。
 神は大きく、はかり知れないサイズの道具箱をもっています。有能な大工が作業によって道具を切り替えて用いるのと同様に、神の道具である私たちも個性で満ちています。神はご自分の愛する子である私たちをご自身の愛を世に解き放つ道具として創造しました。
 主が出会う人々を根本的な問題から解放していったように、私たちにも同じことができるのです。そして、同じことができるかどうかは、ただ信仰によるのです。

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2018-03-11
3月11日「ここは『神の家』」

創世記28:10〜16 IIコリント6:1〜3
 「どうして?」「何故こんなことが自分だけに?」と多くの人が人生に問いかけます。しかし、この問いに答えは出てきません。
 実は、人生に問うている自分は、逆に「人生から問われているのである」とV.フランクルは見事に事の真実を言い当てています。答えがわからないから問うている自分がいます。
 ヤコブはなかなかの曲者です。一言で言えば「食えない奴」です。自分の好き勝手をやって、逃亡し、不遇を嘆くのは虫が良すぎます。逃亡の途中で石を枕に夜を過ごす枕もとに、天使の上り下りする階段の夢を見て、「ベテル(神の家)だ」と叫びます。
 ペトロもパウロも、マリアもヨセフも、ザアカイもバルトロマイも、イエス様と出会った人たちは、「ここは神の家」との告白に導かれています。これらの人々は「荒れ野で恵みを受ける」(エレ31:2~4)とある通りです。
 「天使が上り下り」する場所とは、あなたが今いる、「その場所」なのです。「ここ」にこそ、主のおられる、「靴を脱ぐ」場所に他なりません。「今や恵みの時、今こそ救いの日」です。「昔ヤコブの見しはしご今ここに 主をば仰ぎしわれのもとへと」

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2018-03-04
3月4日「王の祭司として」

聖書全体を通して語られる神の計画は、すべての人の救いに関するものであり、それはイエス・キリストの十字架で頂点に達します。神の愛は深く、主イエスは人の罪を取り扱う以前から、その人の傷を癒やし、束縛から解放し、悪霊を追い出しました。それは、旧約の時代から変わらぬ神の姿勢です。
 イスラエルの民はエジプトの地で奴隷として厳しい苦役と虐殺の中で叫び続けていました。神はその人々の声を聞き、一人の祭司、モーセを立て、彼らの救いのために、その祭司にご自身の権威を与えました。それは、「私が共にいる」という約束とともに果たされました。
 エジプトを脱出した民は、人々を「わたしの宝」と呼んで愛してくださる神との出会いを果たしたのです。まさに新しい時代のはじまりでした。そして、それは民の一人ひとりに語られたことでしたが、不幸にも、イスラエルはその言葉を拒絶し、祭司であるモーセ一人だけを代表として神のもとに派遣し、自分たちは不信仰の罪に落ちていきました。
 しかし、神の計画は頓挫したわけではありません。すべての人々を奴隷状態から解放し、神の祭司としての新しい人生を用意し、そこで宝とされていることを喜ぶ生涯が、今目の前にあるのです。

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2018-02-25
2月25日「偽りからの解放」

ヨハネ8:39〜47
 はじめに天地を創造された時、神はそのすべてのものを完璧につくられました。しかし、アダムとエバが神に背いて禁じられた実を食べたときから、神と人との関係、人と人との関係は破壊されたと聖書は伝えています。そして、その罪を取り除き、神と人との関係を回復し、人と人の関係をも修復する救い主が来られたことを、私たちは信じて救われました。しかし、罪が取り除かれたはずなのに、未だに心の中には不安や悲しみ、怒りが満ちていませんか?そもそも、人が罪を犯す原因となったものは何でしょうか?
 主イエスは、聖書を知り、救われていることを知り、人々を神のもとに導き、指導する立場の人々に対して「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」と言って、人々が神の声ではなく、むしろ偽りの父からの声を聞いていることを明らかにしました。その偽りの父こそ、人に罪を犯させる原因になった蛇の姿なのです。人は騙されて罪を犯したのです。そして、人を騙すために偽りの父が用いたのは、人の中にあった弱さに対するささやきでした。
 もし、私たちが主なる神からの声を聞くことができるようになったなら、何が偽りで、何が真理かをはっきりすと悟るようになるでしょう。

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