宣教

2022-12-04
12月4日「希望の源」

ローマ15:1~6
 希望は聖書に記された神の言葉が与えてくれる重要な要素です。私たちは信仰と希望、そして愛によって生かされています。
 しかし、なんと聖書で一番最初に希望という言葉が出てくる時、それは「希望はありません」と言う言葉です。なぜ、希望はないと聖書は語るのでしょうか。
 希望はありません、という言葉と同時に記されているのは、人生は影のようだ、という言葉です。つまり、この地上で影のように伸びたり縮んだり、出たり消えたりする地上の出来事に希望を見出すことは困難だという現実です。
 聖書における希望とは、「将来につながる確かな糸」という意味があります。私たちの将来はどうでしょう。あれも、これもと直近の未来を思い描くと同時に、この地上における将来に、誰しも迎えるのは死という得体の知れないものです。
 しかし、主イエスはこの得体の知れないものを、知ることのできるように、ただ一度、地上に描き出しました。それが復活の命に生きるということです。
 神が聖書を通して将来を約束してくれます。それは、移ろいゆく現象にではなく、確かなものに希望を置くことができるように、です。

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2022-11-27
11月27日「神を仰ぐ時」

歴代誌下20:1~19
 人生における絶体絶命は一度きりではありません。それこそ、山あり谷あり。それが私たちの人生です。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは世にあっては艱難がある。しかし勇敢でいなさい。私はすでに世に勝った。」と。
 今、ヨシャファト王も危機的状況に陥りました。目の前に広がっていたのは、もはや自力でどうにかなるような簡単な問題ではありませんでした。彼は恐れました。人として当然の反応です。しかし、次に彼が決心したのは、人として多くの人が選び取らない選択肢を選び取ることでした。それは「主を求める」ということです。
 「主を求める」これは世の常識ではあり得ない選択です。危機的状況で誰もしないであろうこの選択は、しかし、自力では無理だと常識的に判断できる状況を一変させる唯一の選択なのです。「非」常識を選ぶと「非」常識が与えられるのです。
 神は「非」常識な方です。神でありながら人となり、神でありながら十字架にかかり、罰を受けるべき人間の身代わりに自らが罰を受ける。これは常識ではあり得ないことです。
 あなたが見たいのは常識ですか、「非」常識ですか。

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2022-11-20
11月20日「天への手土産」

マルコ13:32~37
 主イエスは世界の終わりについて弟子たちに説明されました。当然のように、弟子たちはその日その時はいつなのか、気になりました。しかし、主はお答えになりました。「知らない」と。
 主は大事なことを教えてくださらない、無責任だと言う人もいるかもしれません。すべてをご存知で、過去と未来を縦断できる命の主が、そのことだけは知らないと言う。本当にそうなのでしょうか。
 実は、この「知らない」という言葉は「興味がない」という意味も持っています。主は世の終わりの日をご存知ないのではなく、そのことを特定することに興味がないのです。なぜでしょうか。
 仮に、この世界があと300年後に終わると知っていたら、あなたの生活はどう変化するでしょうか。もしかしたら、自分はそこまで生きていない、という理由で無関心になるかもしれません。しかし、今日、世界が終わると知ったらどうするでしょうか。
 誰しも、自分の最期を知っている人はいません。そして、すべての人は人生の最後に後悔したくないと思うでしょう。
 世を去る日、すべてを明け渡し、主の御手に委ねる日です。最高の人生だったと言うことができるはどのような人なのでしょうか。

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2022-11-20
11月13日「新しい時を生きる」

箴言29:18   ローマ12:9-21
 幼い時、「幻のない民は滅びる」と記憶した聖書が今日では、「幻がなければ民はちりぢりになる」と訳されています。どの訳も大切な真理を示唆します。
 使徒言行録をたどると、キリストによるヴィジョンを生きた使徒たちの働きが、手に取るように心に響き伝わってきます。愚かな自己理解から解放され、神の家族の道が示されるようになりました。
 主イエス様と共に歩んだ弟子たち、復活の主に出会った人々は、自らの回心を通して、新しい価値観、命、と出会い、新しい人生の航海に乗り出しました。
 それは、新しい自分との出会い―主イエス様との出会いによるーにより与えられました。「神に愛されている自分」を通し、生きる意味を見出しました。
 この自分のため、十字架で命を捨ててまで愛してくださったお方によって。新しい愛の力に満たされた彼らでした。それは「愛がなければ無に等しい」真理との出会いでした。愛されるだけでなく、愛する者へと変えられ、神の約束の航海へと船出しました。「幻」が与えられたのです。それは、人を屈服させる力ではない、「愛による勝利」を生きる力でした。友よ!彼らと共に、キリストと共に、愛の行進へと導かれているわたしたちです。偏狭な自己理解を超えて、主の示す「愛」の時に向かうわたしたちです。

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2022-11-06
11月6日「まことの糧」

ヨハネ6:34~40
 主イエスは男だけでおよそ5000人もの人々を、5つのパンと2匹の魚だけでお腹いっぱいにしてみせました。これは素晴らしい奇跡です。人々は、「この人についていけば、食べ物に困ることはないだろう」と予測し、主に従いました。
 日々の糧であるパンを求めて従った人々に、主がおっしゃったように「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。体を満たすパンを求めることは誰でもしていることですが、魂を満たす霊的なパンを求めている人はどれくらいいるでしょうか。
 主は体を満たそうとパンを求める人々に、あなた方に必要なのは神の与えるパンだと教え、そのパンとはご自身であることを告げました。
 体が満たされていても、霊的に満たされていないことを聖書では不健康だと教えます。そして、霊的に満たされるためには、主のもとに来ることだというのです。そこには飢えがなく、渇きもないという素晴らしい祝福が待っているからです。
 やがて私たちは着ている体を脱ぐ時が来ます。その時、私たちにできるのはたった1つのことだけです。それが、復活の主にすべてを委ねる、ということなのです。

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2022-10-30
10月30日「ゆるすこと、ゆるされること」

マタイ18:21~35
 イエス様が語られた1万タラントンの借金を帳消しにもらったのに、100デナリオンの借金のある仲間をゆるさない家来のたとえ話は、罪の赦しと借金の免除が比喩的に結ばれているところす。ここでは、デナリオンとタラントンという2種類の通貨の単位が出てきます。
 聖書度量衡・通貨表によると、1デナリオンは1ドラクメと等価で、労働者の1日分の賃金です。1タラントンは6,000デナリオンですから、一人が1年間に300日働いたとして、20年間働き続けてようやくもらえる賃金が1タラントンです。家来が主人から免除してもらった借金が1万タラントンですから、免除してもらった借金の額は、計算上20万年分の賃金になります。この借金額は、ある聖書注解書によると現在の価値で1万タラントンは、400億ドルに相当するとのことです。一人が負うには天文学的数字の額の借金をゆるしてもらったのに、仲間の100デナリオン=約3月分の賃金分の借金をゆるせない家来は、私自身ではないかと考えるようになりました。今、イエス様が、私では到底払いきれない罪の借金を十字架の上で完済して下さったことをあらためて知らされています。

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2022-10-23
10月23日「恵みによる成長」

IIペトロ3:8~18
 霊的成長。この言葉は多くの教会で唱えられ、多くの牧師や信徒が挑戦し、数多くの書籍でテーマとされてきました。
 子育てのプロが講演会を開いて、目からウロコの子育て論を展開し、多くのパパやママが感動するのはどうしてでしょうか。それは、全く知らなかった新しい知識を提供してくれるからです。でも、それは古代には無かったもの、ということではなく、単純に私たちが知らなかったというだけの話なのです。なぜなら、人を成長させるための知恵と知識は、すべて聖書と主イエスの言動に表されたものであり、現代になって新たに発見された手法ではないからです。
 聖書に啓示された神の言葉は、人間側に寄せて読むものではありません。もし、そのようなことをすれば、私たちは神の大いなる知恵と知識を、個々人の知的限界の中に詰め込むことになり、時代を貫く真理に出会うことができなくなる恐れがあります。
 時代が変われば溶け去ってしまう常識や知識ではなく、永遠の視点で語られる真理こそ、私たちの霊的成長に必要なものです。そして、それは私たちの努力にかかわらず、すでに神から一方的に与えられている恵みでもあるのです。

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2022-10-16
10月16日「神により頼む」

雅歌 8:5~7
 荒野とは、道もなく、植物も育まれない死の世界です。そこでは、明日のために素晴らしい計画を立てたとしても、明日が訪れる保証はありません。しかし、私たちに明日は見えなくとも、明日が見えているお方に寄りかかるとき、心に平安が満ち溢れてきます。主イエスは明日の心配は無用だとおっしゃいました。(マタイ6:34)荒野の人生は荒廃への道ですが、主イエスに寄り頼む人生は、天国が約束された人生です。魂を入れる土の器が壊れて、肉体を脱ぐ時が来ても、魂は永遠に残るものです。魂の行く先は肉体の行く末よりも大切なのです。
 しかし、年老いて、あるいは力を失って、寄りかかる力すらなくなる日が来るかもしれません。しかし大丈夫です。神は言います。「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」
 私たちは弱い存在です。荒野から上ってくるのは誰ですか?それは私たちです。主イエスが寄りかかる私たちを背負いながら、苦難を乗り越えてくださるのです。あの十字架を背負われたように。

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2022-10-09
10月9日「祝福を生きる道」

創世記19:26  フィリピ3:12-14
 幼いころに教会学校で、「ソドムとゴモラの町」が硫黄の火をもって滅ぼされる時、「決して後ろを振り返るな」と神様に言われました。が、ソドムの町が滅ぼされた時、ロトの妻は振り返り「塩の柱」になったことを教わり、不思議な切ない思いを抱いたのを思い出します。
 そして今日、多くの人と出会う中で、「後ろを振り返り塩の柱になる人」と沢山出会ってきたように思います。そして、自分も塩の柱になるような局面に立たされたことをも思い起こしします。「後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」生きることの大切さを新たに噛み締めています。
 ノアは、神様に命じられ「箱舟をつくった時」、神様の命じられたとおりにすべての事を進めていきました。全てのものが箱舟に入った時、神様は「ノアの後ろで戸を閉ざされた」とあります。神様ご自身が後ろの戸を閉ざすことを通し、ノアたちの新しい時を約束されたのです。
 「握ったものを離さない」わたしたちの性癖に別れを告げ、握ったものを手放すことです。自らの思いを手放し、後ろの戸を閉めることを委ね、神様の与えてくださった目標に向かい体を伸ばすことです。わたしたちのときは、「御手の中」に在ります。

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2022-10-02
10月2日「神の世界」

Iペトロ1:20~25
 エタニティ、アイオーン、エテルネルマン、エーヴィヒ、ヨンウォン、永遠。世界中に「永遠」という言葉のない国はないでしょう。では、その国々では、国内に永遠に存続する場所でもあるのでしょうか。とんでもありません。新品が中古になるように、私たちの住む世界は、有限の世界ですから、永遠の場所や物など存在しません。それでは、なぜ「永遠」という言葉が存在するのでしょうか。
 量子物理学の世界では、人の意識下にあるものはすべて存在するのだといいます。ですから、永遠は存在するのです。でも、この世界にないとしたら、どこにあるのでしょうか。
 聖書はこの領域のことを霊的な事柄として取り扱い、すべては神に帰するものだと伝えています。永遠は神のものなのです。その言葉は変わらず、愛は尽きず、決して見捨てない方。その存在そのものが永遠を指し示しています。
 しかし、二次元が三次元を理解できないように、私たちは神を理解できません。その次元の違いを超えてこられた方、それが主イエス・キリストです。
 あの十字架、そして復活、その歩み。まさに天国という無限が有限な世界に舞い降りた姿です。

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2022-09-25
9月25日「生涯現役の恵み」

申命記34:5~12
 主の僕モーセは120歳で天に召されますが、最後まで、目はかすまず、活力もうせてはいませんでした。つまり老衰で亡くなったのではありません。モーセは「主の命令によってモアブの地で死んだ」と不思議な書かれ方をしています。生涯現役という恵みにあったモーセは、病気でも老衰でもなく、ひとえに御心によって天に召されたということです。どんな人にでも、その人それぞれに神からあてがわられた役割があり、その役割を終えれば、神の御許に帰っていきます。私たちの命は、私たち自身のものではなく、神に属するものだからでしょう。
 今は人生100年の時代であると言われます。私たちも生涯現役で最後まで主に仕え働きたいと願うのではないでしょうか。そのような生き方こそが、最も生きがいのある幸せな生き方ではないでしょうか。人生100年の時代、「終活」ではなく「老活」こそが、65歳以上の人口が全体の3割近くを占める現代社会の課題とも言えます。
 ぜひモーセに倣いたいと思います。モーセの一生は、主の御心に聞き従う生涯でした。神さまと「顔と顔を合わせる」ようなとても親密な関係でした。主の僕としての姿にその秘訣があります。  青森教会 井垣勝男牧師

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2022-09-18
9月18日「神の霊に導かれて」

創世記12:1~4
 霊性(スピリチュアル)ということばの本来の意味は、ラテン語のスピリトゥスに由来し、「息」という意味と、「霊感」という意味の二つの意味があります。それぞれが欠かせないものとして捉えられており、天地創造の中でも、人間は神の命の息を吹き入れられてはじめて生きる者となったとされています。
 今から約4000年前のバビロニアの世界に一人の男が登場します。城塞都市での守られた豊かな暮らしの中で、言いようのない不満と苛立ちを抱えながら、人生の意味を問う彼は、ある時、神からの語りかけを聞くのです。神は彼に息と霊感を送り、すべてを捨てて冒険の旅に出るよう促します。それまで、人がこさえた偶像や、隣国の神々が融合と同化を繰り返すような、どっちつかずの神概念しかなかった人類にとって、彼の発見はとてつもなく偉大なものでした。彼の名はアブラム(「偉大な父」の意)です。
 神は人に外側から御言葉という名の息と霊感とを与え、その人の内側から力を引き出し、祝福の源になることができるように導いています。人が神をつくる時代から、神が人をつくる時代へ。アブラムがそうなったように、神の息、スピリチュアルはあなたにも注がれているのです。

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2022-09-11
9月11日「原点に帰って」

箴言1:7   1コリ1:18-33
 ユダヤ人の信仰であった聖書(旧約)が、今や、新約と共に、全世界の救いの出来事、信仰となったのは、イエス・キリストの十字架を通してでした。「ボタンの掛け違い」という言葉があります。最初のボタンを掛け違うと、最後には大きなゆがみとなります。直すためには、最初のボタンから始めて、すべてのボタンをはずさなくてはなりません。この第一ボタンこそ「神の愛、知恵たるキリスト」です。
わたしたちの知識(知恵)は、チリのような一片にすぎません。世界の知恵は、「初めに神は天地を創造された」出来事から始まります。「知恵の書」である箴言は、「主を畏れることは知恵の初め」、神こそ「全ての全ての第一原因である」と宣言します。
 今日の、人間の知恵や知識は、世界滅亡の予兆ですらある「核」の問題として浮上します。知恵とは、人間を生かし、平和を創造するものにして初めて「知恵」となるのではないのでしょうか。
 真の知恵-人間を生かし救う―を神様は教会託されました。逆説的に思えますが、「理解せんがため信じる」と言った、アンセルムスの言葉を思い出します。「神は愛である」の信の世界、「キリストは世界の平和」の宣言から始まる世界です。十字架という原点に立ち帰り、自らを整えるわたしたちです。

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2022-09-04
9月4日「常識破りの愛」

マタイ20:1~16
 聖書の「旧約」「新約」が「旧訳」「新訳」ではない理由をみなさんはご存知かと思います。そうです、これは契約の「約」です。神との新しい契約が、主イエスの十字架によってもたらされたからです。
 ところで、契約が新しくなったということは、ビジネスの現場がそうであるように、中身も変わるのでしょうか。実はそうではなく、契約内容が変わるのではなく、契約方法が変わったのです。
 ぶどう園の働き人たちも、農園のオーナーと契約した人々でした。契約内容は1デナリオンです。もちろん、早くから契約した人々は農園に入って多く働きました。一日の働きがもう終わろうかという頃合いに、何と新たな働き人たちがやってきたから驚きです。早くから来た人々は戸惑ったことでしょう。「こんな時間から来て!」と。
 仕事が終わり、いよいよ契約通りの報酬が割り当てられます。しかし、先に入った人々は、ほとんど働かなかった人々と同じ報酬であることに腹を立てました。この世界の価値観としては当然の主張です。
 しかし、聖書とその神は、因果応報の外にいる方です。そうでなければ、罪人は罰せられるべきでした。ところが、罰を受けたのは主ご自身だったのです。

※ 音声の録音状態が悪く、聞き取りづらいです。ご了承ください。

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2022-08-28
8月28日「あきらめないで」

イザヤ40:27~31 ローマ10:9~11
 暑い時に「暑い~」と口にし、寒い時に「寒い~」と口にする。そうすると、余計にしんどくなる時はありませんか。
 主イエスは「あなたの信じたとおりになる」とおっしゃいました。預言者イザヤも、見たこともない話を人々に宣言し、書き記しました。後の人々は、その言葉があまりにも具体的であるために、後代の誰かが起こったことを知った上で書いただけではないかと批判しました。しかし、それは単に神の力とその言葉を信じることができなかっただけなのです。
 疲れ切ったイスラエルの人々に対し、イザヤは神による救いを宣言しました。そして、神に力を与えられた人々は、まるで鷲のようだと告げるのです。
 鷲は様々な国の国旗の中に紋章として描かれていますが、それは鷲の力強さを象徴として、国力を誇示しているかのようです。しかし、鷲とはいつも強力な存在なのでしょうか。疲れたり、迷ったりしないのでしょうか。
 聖書は鷲について多くの言葉を取り上げています。そこには、鷲の驚くべき習性から、神と人との関係が語られているのです。

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2022-08-21
8月21日「すべてを神に」

ヤコブ5:13~20
 ヤコブの手紙は、信仰義認のキリスト教の中でも、異彩を放つ書簡です。この書簡は初期キリスト教会の礼拝で会衆が合同で読んでいたものとされています。当初、この書物を聖書に入れるかどうかの議論がなされましたが、行いによって救われるのではなく、信じて救われたことが行動を伴うとされ、聖書に編纂されました。
 ヤコブは迫害の中、散らされていった信仰者たちに、祈り、賛美、といった具体的なアクションについて語ります。それは日常生活の中で起こりうる問題について、そのすべてを主なる神に委ねるように促すのです。
 祈りは主にささげられ、賛美も主にささげられ、主の教会の交わりを通して神の栄光が現され、主の十字架によって罪が赦される現実を知る。教会という共同体を通して、何が起こるのかを観てきたヤコブだからこそ、語れることだったのです。
 これは、祈った通りの事が起こらない。私の祈りは聞かれているのだろうか、という不安の中にある時、教会の交わりがどれほど助けになるかを表している箇所だと思います。
 隣に兄弟姉妹がいる。なんという幸せ。詩篇の記者が歌ったように、信仰の友がいること、それはなんという恵みでしょうか。

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2022-08-14
8月14日「愛のハーモニー」

箴言11:13  フィリピ4:8-9
 あの、キリスト者迫害の急先鋒、ステファノの殺害に立ち合い、クリスチャンを絶滅させるために「殺害に息を弾ませながら」探し回ったサウロとは思えない、柔軟な魂を感じさせる言葉です。「これ以外は絶対ダメ!」から解放された姿がここにあります。
 「すべての気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と。あのサウロと同一人物とは思えない言葉を言い切ります。
 パウロは、今、自分の義を立てるためではなく、共に生きることへと方向転換しました。わたしたちに与えられた「キリスト信仰」は、キリストの平和、愛と喜びを共に生きるためのものなのです。
 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3:19~)を生きるようにと招くパウロです。いたわりと優しさへの招きに別人が見えます。私達も、キリストの愛に、優しさに、豊かさに招かれている自分と出会うことが出来ます。。
 家族と笑顔で接していますか?「売り言葉に買い言葉」の貧しさから解放されていますか?あなたは、「こんな人に会いたい!」と思う「こんな人」ですか?「悪口を言い歩くものは秘密を漏らす。誠実な人は事を秘めておく」と!チャレンジされています。

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2022-08-06
8月7日「障壁を超えて」

マルコ2:1~12
 昨今、孤独や分断という言葉が社会の抱える問題点として指摘されています。主イエスの時代にも、分断と孤独の中で、生きづらさを抱えている方々が多く存在していました。中風の人もその一人でした。
 しかし、彼には、彼のことを愛する四人の男性がいました。この男性たちが中風の人とどのような関係かは語られていません。この四人の男性が中風の人を屋根から吊り降ろす姿は、主イエスにとって「信仰」の事柄でした。
 男性たちの行動は、私たちに信仰が問題を乗り越えていく鍵になることを教えてくれます。彼らが直面した問題とは何だったでしょう。中風の人は明確に罪人であり、町の外にいたことでしょう。その人を街中に連れてくるのです。そして、目的地には戸口に隙間もないほどの群衆です。さらに、屋根を剥がすという行動に出るのです。主イエスはこれを信仰というのです。
 「主のもとに行きさえすれば」これが彼らの信仰であり、モチベーションであり、最初で最後の賭けでした。
 人々は、その結果を見ながら言いました。「このようなことは、今まで見たことがない。」
 あなたにも見たことがないことが起こります。

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2022-07-30
7月31日「贖いの代償」

民数記3:44~48
出エジプト記を読むと、今日の聖書箇所で登場する273人の長子は死ななければならない状況であることが分かります。そころで、神さまは273人を犠牲にするのではなく、彼らの罪を許し、彼らの命の代わりに5シェケルを払わせたのです。
 どうして神さまは彼らにお金を払わせたのでしょう。実は、神さまは彼らと続けて関係を保つために5シェケルを彼らに払わせたのです。彼らが自分の命の値段である5シェケル(約今の3500円)を見るたびに、神さまへの感謝や礼拝の心に満たされることを神さまは願っていたのです。
 私たちクリスチャンもイエス様に救われた後、「イエス様は人生で必要なのだろうか」と思うのでしょうか。具体的にそう思わなくても、私たちの日常生活はイエス様を忘れて生きる生活に近いのではないでしょうか。しかし、イエス様が私たちをお救いになった理由は、救われて終わるのではなく、私たちとの絆を毎日強くしたいからなのです。イエス様と共にするこの信仰の旅は素晴らしいものです。忘れそうな時、忘れたい時もあります。それでも、イエス様が私たちのために準備してくださった聖霊様、教会と共に今週もイエス様と一緒に毎日を送りましょう。

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2022-07-23
7月24日「荒れ野からのスタート」

イザヤ32:15~20
 「過去と他人は変えられない」というのが精神医学から出た結論で、一般的になっている考え方でしょう。どんな人が聞いても「なるほど」と納得できそうな内容です。しかし、聖書は言います。神の霊が降ると人は変化する、と。
 神は人をどのように変化させたいのでしょうか。それは、荒れ野が園に、園が森と見なされるような豊かさとして描かれています。荒れ野は死を、園から森は豊かさを象徴しています。キリストを信じる人々は「死から命に移っている」(ヨハネ5:24)と主イエスは告げています。神はあなたに死を与えたいのではなく、永遠の命を与えたい方です。
 さらに、神の国と神の義が満ちる場所には平安があり、森や町といったこの世の豊かさの象徴である価値観が揺らぐような時があったとしても、神の霊に満たされる人々は、普段と変わらず水辺に種を撒き、牛やろばを自由に放牧するというのです。「完全な愛は恐れを締め出す」(Iヨハネ4:18)からです。
 すべては荒れ野からはじまっています。あなたが問題と感じているところ、恐れを抱いていること、また、傲慢さが砕かれた時、そこが荒れ野です。神の霊はそこに降るのです。

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