156センチの視線
4月9日「委ねることの積極性」
受難週の早天祈祷会では、今年も十字架の恵みを分かち合いました。
私たちが他者を赦せない時はどんな時だろう?という質問に、皆さんが答える中で、では、主イエスの受けられた身体的、精神的痛みはどうだったかと黙想すると、それぞれが出した耐え難く、赦し難い事柄のすべてが十字架の上にあったことが分かりました。
肉体的な攻撃があり、罵りがあり、信念を否定する声があり、無実で裁かれる無念があり、愛するひとからの裏切りがあり、神に見捨てられたような孤独があり…。それが同時に来た場合の苦痛はどれほどのものだったのでしょうか。
息を引き取る前、「わが霊を御手に委ねます」とおっしゃった主。それは、与えられた自由を用いて、積極的に自らの進むべき道を選び取る自立した人間の姿です。聖金曜日、十字架の日に皆さんにお聞きしました。「あなたは何を委ねたいですか?」
出された答えはそれぞれですが、どれも期待に胸が膨らむものばかりでした。主とともに歩む。この選択が与えられていることで、不可能は可能になります。絶望は希望になります。
あの十字架の最期の時、主は魂の行き先を墓でも死でもなく、永遠の命を与えたいと願っておられる方に委ねられ、そして事実、復活されたのです。