156センチの視線

2019-12-07
12月8日「初代教会の姿」

 最近、時間をつくって繰り返し読んでいる本があります。『キリスト教の“はじまり”』―古代教会史入門―吉田隆著 です。本当は秘密にしておきたいほどの、最近読んだ本では最も大きな気づきと勇気をいただいた本です。おまけに!ごく分かり易い文体で、どんな人にも容易に理解できる内容です。この本を読んで興奮しました。もったいなくて秘密にしたかったのですが…つい皆に!
 初代教会というと、聖霊によって爆発的に信者が増えていったように思い、「わたしたちにはできない!昔の話!」で済ませてしまいますが…!
 古代ローマ帝国、紀元100年頃の総人口は約6000万人、クリスチャン人口を7500人。このクリスチャンが10年で1.4倍の成長をする、つまり10人の伝道所が、10年で14人!この成長が続いていくと、100年後の200年には、約22万人。さらに100年経つと632万人、キリスト教公認の直前310年頃には880万人になる。こうして350年頃にはローマ帝国全体の実に6割を占める!
 どうですか?浪岡も弘前西も、見事な聖霊の働きのもとにあるのです。「恐れるな、小さな群れ、御国を下さることは父の御心(ルカ12:32)」なのです。友よ!わたしたちは御手の中、聖霊のもとにいるのです。一緒に読んでみませんか!?

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2019-12-01
12月1日「古くて新しい主の教会」

 生まれてはじめて秋田の県南に行くことができました。広がる景色は絵画のようで、まるで昔話に入り込んだかのようでした。
 秋南教会上野台会堂でもたれたコーチングネットワーク説明会には、秋南教会の方々だけでなく、横手教会、脇本教会、そして青森、岩手から多くの参加がありました。人口減少による過疎化、少子高齢化、牧師の減少など、問題は山積しています。しかし、初期キリスト教会も同じような状況であったことを分かち合い、ここから全てが始まるということを励まし合いました。
 現在、男鹿半島には、すでに本質に歩む教会があるので、その方々が一緒に来てくださって、「何も分からない」と不安になっている方々に、「私も何も分からない」と笑顔で声をかけ、一緒に歩んでいこうという姿を見せてくださったのです。同じ地域で教会のお一人おひとりが相互に交流する。7つの集会を持つ秋南教会にとっては当たり前のことであり、その原点である初期キリスト教会に戻っただけのことです。
 「誰も見たことのないことが今、秋田に起こる。」でも、実は二千年前には普通に見られていた光景なのかもしれません。

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2019-11-26
11月24日「聖霊の新しい風」

 先週は木造教会に招かれ、御言葉の奉仕をしました。約1年ぶりのことです。
 礼拝の中で、主に向かって特別に賛美をささげました。「誰も見たことのないことが」と「すべてが益になる」という歌です。今、日本の多くの教会が木造教会のように牧師が常駐せず、一人ひとりが自立を迫られている状況にあります。人々はそれを「危機的状況だ」と騒ぎ立てています。本当にそうでしょうか。
 主イエスが天に帰られてすぐ、信仰者は自立を迫られました。しかし、聖霊が助けをもたらし、教会は誕生しました。彼らは迫害の中で、住み慣れた場所から出て行かざるを得なくなり、いたるところで福音を宣べ伝えました。次々と誕生する新しい教会に、常駐の牧師はいませんでしたが、常駐の信仰深い地元民がいました。彼らもまた、迫害の中で出ていって宣べ伝えました。実は、現在の状況は危機ではなく、教会を正常な状態に戻すための聖霊の働きです。かつては迫害から出ていかざるを得ませんでしたが、今は一つの教会で牧師を支えきれないので、出て行かざるを得ないのです。これは本質的に言えば同じことです。
 はじめて木造教会に遣わされてから今年で9年。私が変えられたように、木造教会が変わろうとしている姿に聖霊の働きを感じました。

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2019-11-10
11月10日

箴言3:1~6  マタイ6:33
 聖書は「そうすれば-神の祝福に生きることができる-」で満ちています。その背後に、「さもなければ」の否定の結果も明らかにされています。創世の初め、エデンの園の出来事に、弟子たちも、歴代の信仰者も、その「そうすれば」を生きてきました。
 「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」主イエス様ご自身も「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべての加えて与えられる」と。パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族もすくわれます。」と断言しています。
 これらは、一言で言えば、「御言葉に従いなさい。そうすれば、あなたは神の祝福を生きることが出来ます。」との約束への招きです。それは、「いつか、できる気持ちになったら」ではなく、「今、ここで、選択の自由に生きなさい!」という、主の促しです。
 この信従への招きは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)のみ言葉にも明らかです。「神様の『そうすれば』」を、人生の課題として受け止めることが出来ることは何という幸いでしょう。信仰の「そうすれば」を問いつつ、共に歩むわたしたちです。

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2019-10-05
10月6日「友に囲まれて」

 早くも10月!なんという月日の速さでしょう。9月のわが家の「記念日ラッシュ」が過ぎると、秋に向かって季節が駆け足で過ぎていきます。秋風を運びながら過ぎていきます。9月の最後、30日はわたしたちの結婚46年の記念日でした。
 神様に守られ、支えられての長い月日を覚え、この鈍い者の胸にも、「よくぞこの時まで!」の感謝が溢れてきます。主の導きはもとより、私共二人の両親の支えと、よき出会いを今一度噛みしめる良き時を与えられています。主は最も良き助け手を、ご計画の初めから備えてくださいました。
 人が見れば、大変そうに思い見える、開拓伝道も、それは楽しい、経済的にも何一つ困ったことの無い、祝福の真っただ中の歩みでした。困ったことがあったとすれば、それは、正直なところ、神様への信頼に欠けて傲慢になっていた時でした。約束の通り、「全ての時は御手の中」でした。
 主は、豊かな信仰の友を与えてくださり、賛美、喜び、感謝を生きることが出来るように、すべてを整えてくださいました。妻は、最も頼もしい、信仰の戦友、子供たちは溢れる喜びと力でした。
 思いもかけなかった浪岡での伝道も、豊かな自然、美しい花々、素敵な友に恵まれています。「最善の時はまだ来ていない(ブラウニング)」のです。

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2019-09-08
9月8日「気前の良いイエス様」

ふと、自分は本当に「節約家(ケチ)」なんだなーと気付きました。何でも無駄をすることが嫌いなのです。無駄遣いをした記憶が殆どありません。それが自分の首を絞めていたことに気付きました。
 母に、「無駄遣いをしないように」と言われたことも、家が貧乏ということでもありません。父が何度も、入院しましたので、母は苦労をしたようですが。二番目の姉が聖愛を卒業し放送局の入社式にセーラー服で出席したという記憶はありますが…。経済的に当時の平均以上の家庭?でした。
 妻の家庭も決して裕福ではありませんでしたが、なぜか、肝心なところで、わたしより明らかに、おおらかで気前がいいのです。不思議でした。
 祈り、イエス様のことを考えた時、あまりの気前の良さに気付き、驚きを新たにしました。「ナルドの香油」を注がれ、人々が女をとがめる中で、それを愛によって受け止められたその真実が、自分を惜しげもなく人々のために差し出す十字架となったのだと。「主は贅沢だった!」のです。気付いたとき、爽やかな風が心を吹き抜けました。「ケチではなかったイエス様」との出会いは、これからの人生に新しい時をもたらす予感を与えてくれました。このキリストの命で贖われた「命」に心が震えました。気前の良いイエス様に感謝!

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2019-09-01
9月1日「主のもとに帰る」

 ここ最近、病が癒やされる素晴らしい証をたくさん伺っています。不可能を可能にする神のみわざの素晴らしさを目にすることができることは大きな励ましであり、喜びです。
 しかし、病が癒やされていく人々の影に、相変わらず癒やされない方々がいるのも事実です。
 聖書を開いてみると、実に多くの方々が癒やされています。しかし、ある記事には、癒やしていただいても、その癒やしを与えてくださった主イエスのもとに戻ってこない人々の姿が描かれています。彼らは今、地上にはいません。
 また、ラザロは死んで3日も経っていたのに、主のみわざによって復活することができました。しかし、現在、ラザロもこの地上にはいません。死んだのです。
 前者と後者の間には、癒やされたという共通点がありますが、決定的な違いがあります。それは、主のしてくださったことを忘れたか、覚えていたか、ということです。
 主にしていただいたことを思い出すこと。そして、これから何が起こるのかを、信仰をもって期待すること。これは、して欲しいことが実現していない現在に実践できる逃れの道です。
 何よりも、主のもとに留まることの大事さを教えられます。

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2019-08-11
8月11日「生きた水が川となって・・・」

それにしても、何という暑さでしょう。いかがお過ごしですか。朝起きて、サラの散歩は、5時半頃ですが、わずか20分弱で汗ばんでしまいます。そんな中、どこの畑も水不足で困っています。我が「恵伝乃園」も例外ではなく、今年の畑は全滅に近い状態です。初めて植えたサトイモは、影も形も無くなり、今では、トマトもキウリもササゲも、ニンジンまでがほとんどが全滅に近い状態です。ブルーベリーも収穫はわずかでした。
 一方、しっかり収穫している畑もあります。やはり中心的な課題は水にあるようです。お百姓さんが、雨が降らないからと、そのままにしておくことはあり得ません。どんな条件下でも万難を排して、絶えず水を補給しているのです。
 わたしたちも、水不足による魂の地割れ、収穫不能の状態に陥ってはいないでしょうか?「わたしを信じる者は、生きた川が水となって流れ出る」とイエス様。わたしたちの水分補給は、惜しみなく与えてくださる主のもとに、足しげく自らの足を運ぶことにあります。
わたしたちの耐えざる水分補給は、讃美と感謝と祈りにあります。「少しぐらいほっておいても!」と、高をくくることなく、「小事に忠実」な者となるよう、賛美と感謝と祈りを、今、ここから!

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2019-08-05
8月4日「祈りの力」

ハワイのカリヒ・ユニオン教会に主任牧師としてジョナサン・スティーパー先生がおいでになってから、大きく変わったことがありました。ジョナサン先生は、教会の内外で、人々に出会うと必ず一緒に祈っている方でした。やがて、人々は祈りによる実りを経験し、自分自身から積極的に祈るように変えられていったのです。ジョナサン先生がいらしてから、最初の大きなイベントが教会でもたれました。そこに、かつてないほどの人々が押し寄せ、その数は600人を超えました。
 今、西教会でも同様のことが起こっているような気がします。いたる所で祈りが捧げられ、癒やしが、解放が、聖霊がもたらす涙と喜びが溢れています。それは、会堂の中だけにとどまりません。なかなか教会に来ることのできない人たちや、他の教会へ自ら出向き、共に祈り合うことを通して神の国の素晴らしさを証ししておられる姿を見ることができます。
 正直、私自身はそれほど祈る方ではありませんでした。ジョナサン先生とは真逆です。そんな私でも、教会の方々が祈りによって素晴らしい実りを体験しているのを感じ、もっと祈りたいと思うようになってきました。今では、「祈り方を教えてください」と主に願う日々を送っています。

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2019-06-02
6月2日「今この時、聖霊に導かれ、愛を選ぶ」

人は、「他人を自分の見たように仕立て上げる」ことを、御言葉を通し悔い改めをもって確認をしています。止むことの無いこのくり返しの作業に別れを告げる時がおとずれました。今回、少しは前進できそうです。新しい時が始まる、ささやかな予感の中にいます。「いつまで続くやら?」という従来の繰り返しからの脱却の良き機会です。
 不思議なことが起こっているのです。小さな無数の今日までの出来事が、時を作り上げていることに気付くようになりました。確かに、「わたしのときはあなたの御手の中にあります」(詩31:15口語)が現実の出来事として力強く迫ってきます。「今は恵みの時、今日こそ救いの日」です。
 来週にペンテコステを控える今です。
 聖霊は、神と人との平和を実現します。正直言って、「イエス様(神様)と不仲であった自分」を見つめています。これからは、他人の所為(せい)や、事柄の所為にしないで歩めそうです。使徒たちは、聖霊により他国の言葉で語りました。いつも新しい時は、聖霊により愛として結実します。  
全ての時は、「今」聖霊に導かれ、愛を選ぶ力を与えていただくことです。十字架の愛の命に包まれているわたしたちなのです。

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2019-05-12
5月12日「信じつつ、祈りつつ、種まきをしつつ、歩む恵みの中で」

桜の花が散ると、神様の絵具箱の色彩が津軽の大地を賑わし始めます。5月5日は立夏でした。「恵伝の園」は、チュウリップや水仙に続き、サクラソウ、シバザクラ、すみれ、スノーフレークが咲き、ウドが「食えるぞ」と頭を出し…。ハナミズキが花を。薔薇も50本の中の一本だけは早くも小さな蕾をつけ始めました。畑も耕され、畝作りに備えるまでになりました。
 浪岡で4回目の春を迎えましたが、こちらに来て
からは山菜を探しても出会えずに残念でした。サラの朝夕の散歩コースを、桜のお花見を兼ねて浪岡城址変え、「どこかに?!」と探し回っていると、「あった!」のです。見事な「こごみ」が。嬉しくて、ご近所の方にお裾分けをして喜んでいただき、笑顔をいただき感謝でした。
 そして水曜日の夕、とうとうワラビを発見し、木曜日の朝、収穫に!初物にしては大鍋一つの立派なワラビを収穫し「幸せ!」の限りです。
 このこと以上に、何よりも嬉しいのは、大学生と20代の青年が礼拝に出席していることです。「聞き入れられている祈り」を信じて歩むことは何と幸いなことでしょうか。信じつつ、祈りつつ、種まきをしつつ、感謝と喜びと賛美の日々を歩む恵みの中です。皆の祈りを想い、祝福を祈りつつ。

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2019-04-07
4月7日「最善はこれから…」

神の時は、神への信仰に生きる人々によってもたらされます。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ2:13)の御言葉に押し出されて歩みだした45年前(祈り始めたのはその3年前)でした。
 何も解っていませんでした。解っていたのは、「神様がいらっしゃるからどうにかなる」ということと、共に歩んでくれる妻がいてくれたことでした。皆の心配をよそに走り始めました。それが全てと言えばすべてでした。今思えば、それで正解でした。…そして今、何かを見失い始めている自分を感じています。神様の促しに対する「応答としての行動」に生きることです。
アブラハム75歳、モーセ80歳、マリア、ヨセフは若年で!「神の時」は、年齢、性別、知識…によりません。ただ、「はい」を生き、信じる者を通して現されます。まさしく、「最善はこれから…」(R・ブラウニング)なのです。
 「時」は、神様の守りと慈しみの力の中に開かれていきます。ひたすら聖霊に導きのもと、「主が共に、主と共に」の歩みへと一歩踏み出すよう促されています。肝心なのは、わたしの思いがどこに結び付き、何を信じ、従い続けていくかです。最善に導かれている今を感謝しつつ。

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2019-03-10
3月10日「存在、こころ」

自分の本当の姿に気付くことは難しい、というのは、無様(ぶざま)な自分を認めたくないという思いの自己防衛が本音のようです。
 わたしは良く物忘れをするばかりでなく、いろいろな出来事が記憶にないということが余りに多いことに気付き、最近、慌てふためいています。
 日常生活での出来事も恥ずかしいほどに忘れています。妻は、父や母のこと、子供たちのこと、教会と人々のことを、その時々のエピソードを含め、一つ一つの詳細にわたって記憶しています。そして、宝箱から宝石を引き出すように手繰り寄せます。わたしから見れば奇跡に近い出来事です。
D・ボンヘッファーが、「忘れるか忘れないかは、記憶力の問題ではなく、私という人間全体の問題、そしてとりもなおさず心の問題である。そしてそれに肉体と魂とが関係していることをわれわれは忘れてはならない」と。心に沁みます。
「存在、こころ」の問題なのです。わたしが創造と言葉における神の秩序に関わる時、忘却から自由になるになるのです。「忘却を阻止するものは愛」だからです。愛のない自分をあるがままに受け入れることが始まりです。御言葉を忘れてしまう自分も。「焦らず、ゆっくり」と言い聴かせつつ、
「最上のものはこれから先に」を信じ、愛に…。

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2019-02-10
2月10日「愛と信頼」

「一つ一つ」、「小さなことに大きな愛をこめて」、」と何度も心の中で繰り返すことなしには、「先走り」、「思い込み」、「否定的反応」の餌食になってしまう自分です。
 「いっきもっき」(津軽弁で性急に)である自分にあきれ果てる日々の中です。そんな中、「少し」(エリザベス・ノーベル)という「砂糖をほんの少し入れるだけで、料理の味を変えることができます」で始まる詩を思い起こしています。失敗はいつも急ぎ過ぎることです。今に至るも、母の「いっきもっきにかがらねんで、少しおじずぎへんが(落ち着きなさい!)」の声が聞こえてきます。
 「何故こんな自分に?」答えはわかっています。「欲張り」だからです。「思った通り」「少しでも早く」これが曲者(くせもの)なのです。大切なものは、すぐには手に入りません。「愛と信頼」は一朝一夕に造り出すことは出来ません。すぐに手に入るものは、それだけの価値しかないものです。
 残りが少なくなってく人生だからこそ、ゆっくり、「いっきもっきにカガラネンデ」大切に、感謝と笑顔で歩んでいきたいと思う日々です。「遅すぎることがない」人生の真理の豊かさに感謝しつつ。
 愛の御手の中にある「今」を信じることができる、小さな信仰に励まされています。

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2019-01-13
1月13日「信仰の深み」

 2019年も1月半ば、文字通り、矢のように月日が過ぎ去っていきます。「昨日またかくてありあくせくけり 今日もまたかくてありなん この命 なにをあくせく 明日を飲み思い煩う…」(島崎藤村)のごとき一年にならぬようにと…。
 昨年後半に、一人の方との出会いが与えられ、自らの心の浅さが、ボディーブロウーのように日を重ねるごと心に沁みてきます。人間に対する上っ面の貧しい理解が、その方を通しキリストに手を取られながら、遅きに失しつつも、少しずつ深みへと導かれていくのを実感しています。
 光となった「かなしみ」ということです。「かなしみ」を知らなかったと告白せざるをえません。「悲し」「愛し」「美し」「哀し」はみな、「かなしい」と読みます。4種類の「かなしみ」があるのではありません。「哀れ」は「あわれ」と読むように、慰めに満ちた詠嘆の心持が込められています。
 この「かなしみ」の中に命が宿る、というふしぎが聖書に満ちます。主は「悲しむ者は幸いである」と宣言します。今、み言葉の命に心を揺さぶられています。「主のうけぬこころみも 主の知らぬかなしみも うつし世にあらじかし いずこにもみあと見ゆ~」(讃美歌532)主は「かなしみの人」であることを心に刻みつつ日々を~と!

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2019-01-11
1月6日「新たな導き」

 30日の夜、父がホテルで倒れたと連絡が入りました。完全に意識を失って受け身も取らずに頭を打ちました。深夜、国立病院の救急外来に向かうと、担当医の先生がCTスキャンの結果を提示しながら説明してくれました。ここ最近で、二回目の救急です。
 自宅に連れ帰り、安静にしているように促して睡眠をとってもらいました。76歳という年齢にしては働きすぎの高齢者です。大学の理事長でありながら、新たに始まった看護学科でも講義をし、省庁の多くのプロジェクトで委員長として選ばれ、学会や企業での講演は無数に抱えています。そして、日曜は欠かさずに礼拝に出席し、御言葉を取り次ぐことも。働き方改革が必要なのは言うまでもありません。
 人生に新しいことを創造される主は、ある日突然その事を始められるように思われます。無から有を創造される方は、サプライズ好きなのかと。しかし、新しいことは突然起こるのではなく、「もう芽生えている」と主は宣言しています。新しいことはすでに始まっていて、その途上にあるのだということだと感じました。
 新しい一年の始まりは、私たち家族にとって非常に大きな変化が訪れるであろうことを予期させられました。何が起こるのでしょうか。今、主の計画が進行しています。もちろん、主が共にいてくださいます。

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2018-12-09
12月9日「平和を実現する者」

アドヴェントにふさわしい言葉は何でしょうか?「待ち望み」、「光」、「約束」、「愛」、「喜び」、「インマヌエル(神、我らと共にいます)」、「平和」、…。たくさんの言葉が浮かんできます。クリスマスの豊かさに今一度出会い感謝しています。
 11月30、12月1,2日と時を与えられて、「ジョー・オダネル 原爆写真展・講演会」を開催することができました。314名という思った以上の方々が訪れてくださいました。講演会も準備していたホールが満員となり、補助椅子を用い八十余名の参加をいただきました。アドヴェントの時だけに、クリスマスのメッセージとして、「平和」が心に刻まれました。
 「平和」は、待っていれば訪れるものではなく、「実現する」者であることを、山上の説教を思い出しつつ噛みしめています。また、「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ2:14)であることも。その平和は十字架によってのみもたらされることを。たくさんの知っている方々と出会う機会ともなりました。
 残念なことは、30代までの方は全体の3.6%だったことです。当面できることは、義塾の礼拝と授業を通して平和について共に考えていくことです。備えられたを恵みの場所を感謝します。

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2018-11-11
11月11日「一色でない人生の豊かさ」

7日(水)は、24節気の「立冬」!とうとう、この年もここまで来てしまいました。あなたこの言葉を聞いて、どんな感情を引き出されますか?「寂しさ」でしょうか?「来るべき寒さ?」「残り少なくなったこの年?」「「後悔?」「ウインタースポーツ?」「こたつ?」「クリスマス?」…何でしょうか?「たった一つの言葉」がわたしたちの心を弄(弄ぶ)ように幾重にも折り重なります。
 大変で、気が重く、それでいて懐かしく、温かで、遊び心をくすぐり、静かに優しい讃美歌が…。ひとつの出来事が、一つでくくれない豊かさをもっていることに気付きます。
 白鳥やカモが早くも津軽を訪れてくるのを見ると、毎年、同じように不思議な思いがこみ上げてきます。金子みすゞの「みんな違ってみんないい」の詩を思い出します。
 出会いを通して、自分の正義の薄っぺらさと、包容力の無さとに出会い続けています。一色で無い冬を通し、一色でない人生を想い見ています。
「それっておかしい!」と思うことのおかしさに、少しだけ気づき、アドヴェントを迎える準備をしています。「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」ことの豊かさと、しっかり出会えることを祈りつつ、冬に備えたいと祈っています。

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2018-10-27
10月28日「御言葉の実践」

 火曜日のコンサートは、本当に素晴らしいものでした。選びぬかれた音響機材とその技術、そしてプロ中のプロであるピアニストのサポート。息子さんとの息の合ったステージ。三上勝久さんは、そのすべてを惜しみなく披露してくださり、しかも「受けるよりも与えるほうが幸い」という主の教えに100%従って、謝礼や交通費などの実費を受け取りませんでした。それは、三上さんがそのように実践しようと決めてから、御言葉の確かさに触れ、さらに主との関係が深まったからだろうと思います。
 主の弟子たちは、御言葉に従う前、つまり十字架が自分のものとなる前は、自己中心的な人々でした。しかし、彼らの傷が十字架の血潮によって清められ、罪赦された喜びと復活の立会人として、世界に出ていきました。
 それぞれの人生に傷はつきもの。しかし、その傷が癒やされたとき、癒やし主に対する感謝と人々に対する愛が自然と芽生えてくるんでしょうね。三上さんご自身も大きな病を体験し、信仰を失うほどの涙の谷を通されたのです。しかし、そこで再び主に出会い、傷癒やされて、御言葉を実践する道を邁進するようになったのでしょう。それが、曲の一つ一つと、その歩みに確かに現れていました。

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2018-10-14
10月14日「無数の恵みと感謝」

朝の祈りの時間は、10年以上も一つのスタイルを保っています。前日の感謝を思い出せる分書きだします。次に、小さな「歳時記」に目を通し、一年の中のこの日の位置を確認し、神様の与えてくれた「この日」を心に留めます。その日の御言葉、「ローズンゲン」を日記に書き写し復唱します。続き、ここ数年は、バークレーの『信頼に生きる』を読み返し抜き書き、続いて、「今」はボンヘッファーの『主のよき力に守られて』他数冊を読み…黙想、という日々です。この朝の1時間がわたしの一日の始まりです。が、それに先立ち、―義塾に行く火曜日と、石澤医院とオリーブコートの礼拝の土曜日を除いては、サラの散歩をしながら、皆への感謝と祝福の「お祈り」の時間です―。この間に「テレビ体操」も毎日継続(これはお勧め!)。
 最近、これに、『1日1ページ読むだけで身につく世界の教養365』が加わりました。何しろ「歴史、文学、視覚芸術、科学、音楽、哲学、宗教」が網羅され、絶対的教養不足のわたしには小さくもよき学びとなります。「知らない多くのことに囲まれ、支えられている」無数の恵みを知る機会となります。無知なる自分との新たな出会いに心痛み、愕然としつつも、学びと謙遜の祝福も与えられ感謝しています。葡萄も終わりました。感謝!

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