156センチの視線

2024-02-11
2月11日「始まりのとき」

 日々の生活の中で、「わたしは何をしているのだろう?」「わたしのしていることは意味があるのだろうか?」そして、「生きがいが見つからない!」という、魂の叫びが心の中をのたうち回ることはないでしょうか。
 「わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』といった。」(エゼキエル16:6)
 気が付いてみると、幼少の頃から、「生きがい」「生きる意味」について、悩んで来ていることに気づき、ドッキとしています。
 「生きがいがなければ生きちゃいけないのだろうか?」。「これが生きがい」という人たちを見て、「?!」と思う最近です。世界の指導者達を見て、「殺戮と粛清の生きがい」の中に歩んでいる姿に血が凍ります。
 聖書は言います。「生きよ!」と。イエス様が、「イエスは町や村を残らず回って~」御言葉を伝えたのは、「生きよ!」との、招きのためではなかったのではないでしょうか。
「生きがいのない人生は生きるに値しない!」とのサタンの誘いに乗らないことです。神様が命じる。「生きよ!」ここが始まりです! 石川

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2024-02-04
2月4日「主を喜ぶ」

 先週、ジョイフルの集まりに呼んでいただきました。月に一度、聖書の御言葉に触れたいというお願いをしてくださったからです。そこで、今回は7つの本質から「関係」を分かち合いました。
 1月21日の礼拝で、Sさんが聖書の御言葉を取り次ぐための新しい試みに挑戦してくださり、そこで主からジョイフルの方々をグループごとに分けるように、と主のみ声を聞いたことが証しされました。本質的な「関係」とは、単なる「仲良しグループになりましょう」ではないことが、主によって、ジョイフルの方々を通して実現したことに感動しました。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩篇133:1)これこそが、キリストを頭とする教会共同体の柱だということを確認し、集まった皆さんと主をほめたたえました。
 教会懇談会で出された西教会の良いところ。それが神の家族であるということ。すべての人を受け入れてきたという経験と、そのことによって主が何をしてくださったか、という体験が、この共同体に、そして、お一人おひとりに強く息づいているのを感じました。
 50周年を前にして、礼拝が多様に変化する兆しを感じつつ、ますます喜びのある共同体になっていく確信が与えられた時でした。 牛山

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2024-02-04
1月28日「主に拍手を」

 先週の刑務所教誨では、御言葉によって人生を建て上げることを一緒に分かち合いました。多種多様な方々がいますが、共通しているのは「今度こそ、やり直そう」という気持ちです。
 今までと同じやり方をしても、いや、ちょっと変えたくらいではうまくいかなかった。それが、私も含めた、道を踏み外してしまった人の特徴だと思います。
 そこで、私はやり直し方を知らなかった人の代表として、皆さんを前に、神を信じる前、信じてからの変化をお伝えしました。私の話を聞いて、みんな爆笑していましたが、たくさん頷いているのを見ることができました。
 ペトロたちが何かくれるだろうと付いてきた人に、彼が言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)
 私の中には、彼らを立ち直らせる方法はありません。彼らが私に求める金や銀といった価値はないのです。ですから、主によって救ってもらいましょう、と。そのことを分かち合いました。
 この人たちの中から、私と同じように、「主だけが救ってくださる!」という体験をする方が起こされることを信じています。  牛山

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2024-02-04
1月21日「関係の深化」

 今年度から、東奥義塾の聖書科は、定期試験がなくなりました。これまで、生徒一人ひとりの個性が分かるまでに多くの時間を必要とし、非常勤の身では、3学期になってようやく顔と名前が一致するような状態でした。
 今回、試験がないことで、毎回のようにグループワークや話し合いの場を持つことができ、それぞれの個性を細かく見ることができるようになりました。教会の本質においても「関係」とあるように、お一人おひとりとの関係が深まると、相手に対する愛も自然と深まりました。
 先週は、3年生最後の聖書科授業となりました。それぞれの進路や将来のビジョンを聞いて回りながら、そのことを覚えて、一人ひとりの机の横でひざまずいて祈りました。様々な進路やビジョンがある中で、皆一様に前向き、輝きを放っているのが印象的でした。
 中には、保護観察官になりたい、社会福祉士になりたい、など、これからも関わりがありそうな働きを挙げる生徒たちもいて、驚きと喜びがありました。
 最後に、一年間の感謝を伝えると、中には拍手をしている生徒もいましたが、やがてその拍手が私にではなく、主にささげられることになると信じています。 牛山

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2024-02-04
1月14日「愛がなければ」

 「腐った百合のにおいは雑草よりひどい」という言葉があると聞きます。全くその通りであることを様々な事象を通して考えさせられています。幼い頃、両親、姉たちと妹と家族6人でお盆にお墓参りをしました。その時、以前、お墓参りをした時の花がそのまま残っていて、言葉にできないほどの悪臭を放っていたのを思い出しました。「最善のものが最悪のものに変わってしまう」ことがよくあることに気づかされました。
 今日のわたしも、世界も、同じことの繰り返しをしている事実は何という悲劇でしょう。人間の善意や好意に代表される出来事の多くも、時間と共に変質して、最悪のものになってしまうことが何と多いことでしょう。このようなことが、歴史のあちこちに散見されることに気づき罪の姿に愕然とします。
 革命という人民解放の大義名分が、さらなる抑圧体制の構築と重なる世界の変容の現実に胸が痛みます。「正義」が、「新たなる抑圧」を生み出している現実に出会う日々、自らの魂の姿が問われています。「勇気、忠誠、大儀、愛国心、秩序…」そして導かれます。「愛がなければ無に等しい」の御言葉を。
 石川

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2024-02-04
1月7日「みんなで共に」

 12月28日、青森市のジョイフルチャペルにおいて、青森ゴスペル・セレブレーション・ネットワークの久々の会合がクリスマス祝会という形で行われました。 それぞれの一年間を、教会として、個人として振り返る時間の中で、主がいかに青森の人々を愛しておられるか、そして、一人ひとりの宣教のわざがいかにして主に用いられているのかを知りました。そして、参加者全員で主の御名をほめたたえました。
 出席された先生方、宣教師の方々を見渡すと、澁谷先生が一番の年長者と言ってもいいくらいで、とても若い方々が揃っている印象でした。どこの教会も高齢化が進んでいると言われていますが、それは社会全体も同じです。そして、少子化の波。これは避けて通れません。
 しかし、宣教がたやすく、簡単だった時代など、かつてあったでしょうか。主ご自身でさえ、ご苦労が絶えませんでした。闇の中で光は輝く。暗ければ暗いほど、そこに射す光はまばゆくなるものでしょう。
 主が働き盛りの方々を集めてくださったのを見て、この地に射す主の栄光の光のまばゆさを感じ取ることができた。そんな一日になりました。 牛山

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2023-12-31
12月31日「教会は楽しい」

 先週の25日、子どもたちとそのお母さんたちが集まって、小さな集会をしました。明星幼稚園で仲良くなった方々と、久しぶりに再会することができたのです。
 子どもたちは元気に教会中を1階、2階と走り回り、慣れた様子で遊んでいました。これも、前に来たことがあるからでしょう。コロナでしばらく来れなかったとはいえ、子どもたちの記憶力は素晴らしいものです。
 子どもたちへのメッセージは、「ほんとうのクリスマス」と題して、のぞみ教会で信仰生活を送っている私たちの友人が担ってくださいました。プレゼンテーションは子ども向けに楽しく、可愛く作られており、メッセージは大胆でストレートでした。
 子どもたちは所々で聞かれるクイズに楽しそうに答えており、またクリスマスの物語も覚えていました。明星幼稚園で生誕劇をやったことが心に残っているのでしょう。
 子どもたちと久々に「めたくそ選手権(パソコンの文字をめちゃくちゃに打って、面白い言葉が出た人が優勝)」も開催し、やったことのない子どもたちも加えつつ、お腹を抱えて笑っていました。
 教会は楽しいところ。そう思ってもらえたと信じます。  牛山

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2023-12-24
12月24日「目の前の大切な一人」

 先週の日曜日、コロナウィルスの影響によって3年間は教会に来ている子どもたちとだけ祝ってきたキッズクリスマスを、他の方々にも呼びかけて行うことができました。
 今回、嬉しかったのは、近所の子どもたちがたくさん来てくれたことでした。
 JCMNのコアチームになって、様々な地域の教会に関わるようになると、どこの教会からも「子どもがいない」という声が届いてきます。しかし、集められた子どもたちを見ていると、本当にそうだろうか、と思ってしまうのです。
 信仰の継承はとても大きな課題です。そして、過去の事例を踏まえてみても、そのことがうまくいったという体験を日本の教会は持っていません。現在の状況を見ると、キリスト教国の仕組みを持ってきただけに過ぎない日本の教会の弟子育成は失敗に終わったと言ってもいいでしょう。
 子どもはいるのです。たとえ少なかったとしても、そこにいるのです。主はお一人で世界を変えてしまわれました。その主がおっしゃるのです。「あなたがたはもっと大きなわざを行うようになる。」と。
 目の前にいる一人。それは大人も子どもも変わらない、主の目線なのだと感じます。  牛山

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2023-12-17
12月17日「一つひとつ」

 アドヴェント第一週の礼拝後、教会でとれた柿―家内が干し柿にしたのを―礼拝出席者一同で、それはおいしくいただきました。ほかの方に御馳走できないのが残念でした。食べられなかった方は、来年…是非‼ 
教会の椅子が、幼いころの「マルコ(猫)」によってボロボロにされ、見るも無残な状態になっていたのを、真藤さんが、それは見事にカバーをかけてくれました。簡単に考えていた私の安易な考えとは全く違う、それは「プロ!」という出来栄えでした。長い時間をかけて、「ひとつひとつ」心を込めて修理してくれました。半分が見事に新しくなりました。
「ワー凄い!」と感動していると、何か変なのです。実は、ボロボロにされた椅子の背もたれの修理だったのです。が、修理してみると、今まで気が付かなかった、その他の無数の傷に気が付くことになりました。大きな破れを修理したら、小さな沢山の傷に気づくことになり、驚きました。
何かしら、自分の内なる姿が見えたような気がしました。「ひとつづつ、一つづつ」と心に刻む時となりました。素敵なアドヴェント、クリスマスのために祈りました。 石川

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2023-12-16
12月10日「生誕の平安」

 クリスマスが近づいてきました。生徒たちと大好きな映画を見ようと「マリア」を鑑賞しました。主のご降誕をマリア視点で追った作品で、冒頭に流れる「久しく待ちにし」を聞いて、一人の生徒が言いました。「これ、朝の礼拝で歌ったやつじゃん」
 いつも通り、ガヤガヤと騒いでいる生徒たちでしたが、映画が始まり、虐げられる人々、エリザベト、ザカリア、そして主の言葉が天使によって告げられる頃には静まりかえっていました。
 口だけではどうしても伝わらない主の降誕の背後にあるユダヤ社会の現実、そして人々がどれほど救いを待望していたかが描かれている中で、マリアの苦悩、ヨセフの悲しみ、罪を重ねるヘロデ王といった役者たちが渾身の演技で聖書のストーリーを忠実に再現していました。
 初めてこの映画を観たとき、主が生まれる瞬間に「これで大丈夫だ」と、何とも言えない安心感に包まれたのを思い出します。
 クリスマスの時、生徒たちにもあの安心感を感じてほしいと思っています。

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2023-12-16
12月3日「沖縄コーチング」

 沖縄におけるコーチング・ネットワークは今回で3回目でした。テーマは能力付与です。多くの教会や牧師が誤解してしまうのは、牧師の事務や教会の奉仕を人々にやってもらえば良いと思ってしまうことです。そうではなく、能力付与の元々の英語であるエンパワーリングは、人が力を与えられて、信仰者として自立していくことなのです。
 一番最初、沖縄でコーチング・ネットワークが始まったときには、石垣島で開拓伝道をされてきた牧師であり、会場教会の主任牧師である具志堅正都先生のお父上は、「これは違う」と否定的なご意見をお持ちのようでしたが、今回行ってみると「これ(教会の本質)を全世界に拡げてください。」と主に熱く祈ってくれる人に変えられていました。
 きっと、ご自身が生涯をささげてこられたことが否定されているように感じてしまった当初から、ご自身が為された働きのうち、本質的なことは確実に主に用いられてきた、と感じられるようになってきたのだと思います。
 参加された全員が、主からチャレンジを受け、次回の3月までに御言葉に根ざした具体的な行動を起こすことを励まし合える、素晴らしい2日間でした・

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2023-12-16
11月26日「名を挙げて祈る」

 先週の礼拝後、二回目の教会懇談会を開催しました。回を重ねるごとに、私たちの共同体の無くてはならない部分、これからも大事にしていきたいところが明らかになれば、と思っています。
 また、福音を届けたい方々のお名前と状況を共有できたことも一歩踏み出したことだと思います。これまで、家族の中で信仰者として歩み、思うように伝えられなかったり、理解が得られないことで苦労してこられた方々や、周囲の方々へどのように福音を届けようかと苦心されてこられた方々の思いを互いに担えたことはとても幸いなことでした。
 自分にとっても、今まではご主人、妹さん、といった呼称で祈っていたものが、お名前が分かるとより身近に感じられました。今後は、その方々のために祈ることをはじめ、様々な形で神の家族のチーム力を感じられるようになると信じています。
 いつも、こう祈っていました。「一人でも多くの方が救われますように」しかし、これからは神の家族が関わっている目の前の一人が救われるよう、名を挙げて祈っていきたいと思います。  牛山

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2023-11-19
11月19日「主が用いる」

 コロナの騒動の中、刑務所教誨のクラスの定員が12名から6名に減ってしまいました。それは、緩和されてからも続いています。なんとか数が増えて欲しい、せめて元に戻って欲しいという祈りをいつもささげてきました。
 先日の教誨の後、職員の方が迎えに来てくださって、廊下で話しをしました。そして、こんなことを仰っていました。「もしかしたら、受講している方々が口コミで拡げているのかもしれませんが、願箋(がんせん)が16名分出ていますよ。」
 現在の受講者が6名で、その他に希望者が16名です。おそらく、このままの定員数でいくと、その16名の方々のうち、福音に触れずに出所される方々もいらっしゃるはずです。そこで、教会に帰ったあと、いつものように、定員数が増えるようにと祈っていると「私は彼らをも用いたい。」という主の声が聞こえてきました。
 弟子が弟子を育てる。初代教会の本質を学んでいながら、この発想が自分の中から出てこなかったことに恥ずかしさを覚えつつ、受講されている方々の口コミで拡がっているなら、なおのこと、彼らが福音を伝えていけることに気付かされました。
 次回から、彼らを所内に派遣するクラスへと主が導いてくださるでしょう。 牛山

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2023-11-12
11月12日「柿を見て学ぶ」

 恥ずかしい話ですが、最近「宣教(説教)」をつくったり、話したりするのがとっても苦手になりました。礼拝が終わると、自己嫌悪を通り越し、頭を抱え込む日々です。
 特に、コロナに罹患してから、そうなっている自分」に気づきました。そのうちに…、と思ってはいても、元には戻りません。
 しかしそんな中にも、神様の業は不思議に進んで行きます。「聞かれている祈り」の奇跡を遠くから眺めているようです。
 庭の柿の木は、2016年に八代兄が植えてくれました。18年に4個、19年に11個、20年85個、21年30個、22年105個…
そして今年は?妻は32個、わたしは39個と予測しましたが、「あなたは何個?」来週、発表します‼ 多く採れた翌年は必ず少なくなります。一喜一憂することなく、与えられた今を感謝しつつ歩むことの大切さを教えられています。葡萄も、然りで、今年不作だったので、来年はきっとたくさん獲れることでしょう。
いつも、「今」を感謝することの大切さを学ばされています。小さな花壇と畑は、神様の恵みと、時…季 を教えてくれます。「せっかちになるな!感謝を生きよ!」と。 石川

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2023-11-05
11月5日「主に従うこと」

 先々週の祈祷会で分かち合ったのは次の御言葉でした。~主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)
 テーマは孤独でした。そして、最後の質問は「あなたは今週、孤独を感じている方々に、何ができますか?」というものでした。そして思い浮かんだのは、入院されている方々と、施設で生活されている方々の顔でした。主がその方々のところに行くように、と命じられたことを感じ取ったのです。
 東奥義塾の帰り道、病院に立ち寄り二人の方々に面会しました。すると、一人の方は「クリスマス礼拝にはぜひとも行きたいと言ってくださいました。」そして、手を取り、そのことを一緒に祈りました。
 次に、先週の火曜日、施設に入所されている方々を訪ねました。すると、一人の方のところには教会の有志の方々で訪問できそうなことが分かりました。もう一人の方は、なんと次の週から毎週礼拝に、そしてお昼のカレーまでもが施設長から許可されたのです。
 これまで、いつ開くのか分からなかった扉が、主の導きに従うことで開く不思議を経験しました。
 従うことは、主がそこにいるのを感じること。主は私たちに驚きを、そしてご自身の栄光を見せてくださいます。 牛山

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2023-10-29
10月29日「聖霊を受けた人」

 先週の刑務所教誨では、一番熱心に聖書を読み、主イエスを信じて洗礼を受けたいと願っておられた方との最後の交わりの時でした。
 洗礼についての学びを通して、聖霊による洗礼を神ご自身から直接受けられるよう、キリストを信じて聖霊を求めように励ましました。
 そして、出所されてからの具体的な教会探しについて、皆さんと意見を交換し、質問に答えていくことになりました。そこで、お一人の方がこうおっしゃられました。「先生、その教会が自分に合うかどうか、どうやった見極められるのでしょうか。」
 思えば、はじめて西教会に来た時、川崎の教会や復活のキリスト教団東京教会で感じたものと同じものを感じました。これが聖霊によるものだと分かるまで、他にも多くの教会を訪問させていただく必要がありました。そして、今では分かるのです。聖霊に満ちていれば、人間にはそこが同じ霊の宮、まことの神の祈りの家であるかどうかが分かるということを。
 ですから、ことさらに強調しました。「聖霊を受けてください。そうすれば分かります。」と。
 最後に、出所される方と手を握って共に祈りました。部屋を出る時、彼の顔が霊の輝きに満ちていたのが印象的でした。 牛山

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2023-10-22
10月22日「主の憐れみによって」

 先週の金曜日、東奥義塾の150周年記念式典で礼拝がささげられました。
 岩住先生の聖書朗読は、いつも神の情熱が込められたかのような感動を呼ぶものですが、今回も同様でした。続いて、お祈りがささげられましたが、これまでの東奥義塾の歴史を通して、しかも閉校という絶望や数々の困難の中を通されてもなお、主なる神が救いの恵みによって導いてくださったこと。それは学校だけではなく、多くの人々、そして在校生たちにも向けられており、死の影の谷を通る時、そこに立ち帰るように向けられた励ましの祈りとしても、出席された方々の心に響いたことを確信させられるものでした。
 また、続いて申命記の御言葉から語られた塾長のメッセージからも、主が困難の中で福音の炎を絶やすまいと、クリスチャン、ノンクリスチャンに関わらず、志を同じくするチームメイトを与え、ご自身の恵みによって乗り越える力を与え続けてきたことが、それらの方々に対する感謝とともに語られていました。
 現在も、東奥義塾は祈りを必要としています。福音の火を消そうとするサタンの策略は、なお続いているからです。しかし、あの困難の時、イスラエルに出エジプトがあったように、十字架の後に復活があったように、こうしてまた、主の栄光が現されるのだと励まされました。

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2023-10-15
10月15日「偉大なみわざ」

 先週、家族で仙台に行ってまいりました。背後の祈りを心から感謝いたします。
 まず、うみの杜水族館に行きましたが、神奈川県の八景島シーパラダイスなどの大きな水族館では、イルカのショーが終われば、さっさと裏に行ってしまうイルカたちが、仙台ではそのまま泳いでおり、しかもそれぞれのイルカたちが浮き輪などを使って遊んでいる様子も見ることができて、とても満足できるものでした。さらに、バックヤードを見学することもでき、アシカに手振りで命令してみたり、握手もできるなど、特別な体験もできました。
 また、八木山動物園は柵が低く、動物舎も見ることができるので、昼寝中で見れないといったこともなく、動物たちものびのびしている様子でした。また、ヤギや羊、うさぎのような動物たちと触れ合うこともでき、子どもたちは大満足でした。
 とにかく、水中の生き物や動物たちを見て、いつも驚くのは、その多様性と不思議な生態です。神は素晴らしい個性を与え、その一つひとつを輝かせるため、一つとして同じ個体をお造りにならないこと。そして、まだまだ謎が多く、不思議な創造のわざは、人間の知をもってしても、最新の科学を用いても分からない、ということ。神のみわざは偉大であり、人にはおよびもつかないということを再認識させられました。 牛山

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2023-10-15
10月8日「どんな顔?」

 最近、歩きながら、人と話しながら、説教をつくりながら…、「今、自分はどんな顔をしているのだろう?」と考えることがよくあります。
 そして、「しまった!やられた!」と思う日々です。しかし「後悔先に立たず」、「後の祭り」となってしまうこと度々です。同じ過ち、愚かしさを何度でも繰り返す自分がいます。
 マルチン・ルターが、「神のことを思えば、神の顔を映し、悪魔のことを思えばその顔となる。」といった言葉を思いだし、「ドキッ!」とします。
 顔はその人の「今」を映し出します。「せめて、天使の面影を宿すようになれたら!」との祈りと願いもむなしく」相変わらずの嘆きの中です。
 この欄は、一週間にただ1回の、コラムなのに、悩みの種でもあり、大きなプレッシャーでもあります。新聞の4コマ漫画は毎日掲載されていますが、「すごい!」と、改めて感動しています。ずーと「朝日新聞」を読んでいますが、『サザエさん』『福ちゃん』『さんぺい』『ののちゃん』…。
 それと共に、沢山の方々の労苦に支えられている「人々の労苦にあずかっている」自分を今一度知り感謝の時を与えられています。
 せめて、わずかでも、「キリストの面影を、薫りを」と悪魔の嘲笑を聞きながら祈る日々です。 石川

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2023-10-01
10月1日「輝く姿」

 先週、刑務所教誨に行くと、職員の方が「先生、お願いがあるんですが…」と近づいてきました。「先生のクラスに、どうしても洗礼を受けたいと申している者がいまして」
 とても嬉しい話でしたが、「外に出てから洗礼を受けるように、と助言していただけないでしょうか」というのが職員さんの、というよりも所内の要請といったところだったのでしょう。
 以前、教誨師会の冊子「ひとやの友」に掲載していただいた私の記事にあったように、以前の私であれば「すぐにでも受洗だ!」となっていたかもしれません。そのことで刑務所との関係は良くない方向に行っていたかもしれませんし、私が青森刑務所内ではじめて洗礼式を司式した牧師になるという名誉欲に支配されていたことでしょう。しかし、神の家族とともに歩むことの継続性と関係性の大切さを主に教えていただいた今、職員さんの願いを受け入れるのは容易いことでした。そのことを受けて、死刑囚でもない方々は、外で教会の共同体の一員になることの喜びを伝えつつ、洗礼を受ける素晴らしさを説明させていただきました。
 クラスが終わり、外に出ようとすると、教室の後ろで見守っていた職員さんがおっしゃいました。「先生のクラスのみなさんは、顔が違いますね。」もちろん、ヤクザで顔つきが悪いということではありませんよ!  牛山

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