156センチの視線

2020-03-28
3月29日「本来の姿に」

 全世界でコロナウィルスの影響が拡がっています。自粛ムードが漂い、経済は大打撃を受け、人々は家の中にこもる生活を送るようになりました。店が閉店したり、企業が倒産するなど、ウィルスの病状だけにとどまらず、多くの方々が苦しんでおられます。
 神は世界を創造し、人に使命を与えました。「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。」これは、すべて「いのち」のことを言っているのです。罪ゆえに、いちばん大切なことが何かを忘れてしまう時、この世界は神が意図された本来の姿を失っていきました。しかし今、全世界の人々が考えているのは、まず「いのち」のことでしょう。
 最近、二酸化炭素の排出量が激減しているようです。中国では大気汚染がかなり軽減されているようですし、また、汚れていた河川が綺麗になるなど、環境の浄化ともいうべき現象が世界の至るところで見られています。コロナウィルスの出現は、人類に対する脅威であることは間違いありませんが、主はそのことをさえ、活かそうとされているのではないかと考えさせられます。
 本当に大切なことは何か。それは神が創造された「いのち」以外にないということを、もう一度考えさせられる今日このごろです。

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2020-03-25
3月22日「主に委ねられて」

 3月に予定されていたJCMNのサミットはコロナウィルスの影響で中止となりました。当初、22日の礼拝メッセージをどなたにお願いすればよいのかと祈り、いろいろな人に声をかけていましたが、町田勤さんが自ら名乗り出てくださいました。しかし、結果的に私は西教会の礼拝に出席し、町田さんを通して御言葉の養いを受けることが可能になりました。
 昨年も、佐藤洋治さんにメッセージをお願いしましたが、結局予定がキャンセルになり、西教会の礼拝で御言葉を受け取る機会が与えられました。語ることの多い牧師という立場上、御言葉の養いを他の方のメッセージから受ける機会が限られています。主は、そのような機会をこうして与えてくださって、私の霊的な成長を求めておられるのだと感じています。
 メッセージを語るためには、いろいろとしなければならないことがあります。決して難しいことではありませんが、その準備の中で必然的に主に祈り、御言葉を求め、背後の祈りを感じ、メッセージの最中は聖霊の臨在に触れられます。また、メッセージをしたことのある人は、人に語るのではなく、主に対する信仰告白であると感じるでしょう。この素晴らしい恵みを、「私は無理」と思っているあなたにも、ぜひ感じていただきたいのです。

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2020-03-15
3月15日「ピンチをチャンスに」

 先週、岡山県の赤磐教会の額田先生と久しぶりに電話でお話しする機会が与えられました。現在、赤磐教会と、北海道の小樽聖十字教会を牧会している先生です。信徒の自立を励まし続け、双方が離れていても牧会ができることを目に見える形で証ししておられます。
 昨今のコロナ対策はどうしていますか、と尋ねると北海道では感染者が増加しているため、礼拝はお休みにして、それぞれの自宅で自己発見型のバイブルスタディをするように励ましたそうです。すると、家族であっても新しい発見があったり、そこに新しい方が加わったり、と盛り上がりを見せているようです。
 七つの本質の教会形成の中で、教会が適応可能な構造を模索していくことはとても大事なことでしょう。特に、否応なしに変化を求められる非常時には、そのことが一層進む契機となります。一見すると、礼拝がなくなると危機的なことと感じるかもしれませんが、それは決められた教会堂に集まって集会をする手段がたった一つ無くなっただけのことです。私たちが礼拝を継続するために選ぶことのできる選択肢は、その他に無数に残されています。
 どんな形で礼拝を継続しつつ、非常時に対処するか。教会のあり方、礼拝の意味を主から問われている気がします。

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2020-03-07
3月8日「救いの啓蟄」

 少なかったとはいえ、見事に薔薇園と坪畑の雪が全く消えてしまいました。用心のために、除雪機は赤い覆いをかけて待機はしているものの、今年、初めてした「雪囲い」も外して、「恵伝乃園」の見晴らしが良くなりました。先週の水曜日、薔薇の木の枝折れを防ぐために縛っていた縄を、山内さんと一緒に取り外しました。そして、例年より一ヶ月近く早い春の光の中にいます。
 教会の道路側のコンクリートの塀の中に、例年より3週間ほど早く、蕗の薹が花を咲かせています。この5日(木曜日)は、24節気では「啓蟄」でした。ご存知のように、「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「冬ごもりの虫が這い出る」という意味となります。例年の津軽では早すぎる感の拭えないこの言葉が、初めて実感され、不思議な気持ちです。
 2月26日に「レント(受難節)」に入りました。今年のイースターは4月12日です。見えない中に春が始まっているように、神の救いの御計画が進められている今を想い、「わたしの時はあなたの御手にあります」(詩31:15口語訳)の御言葉を噛みしめています。レントは「救いの啓蟄」の言葉が浮かびました。主の備えの時を覚える祈りの時の中にいます。何という救い愛と救いの中に!

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2020-03-01
3月1日「混乱の中で」

 新型コロナ・ウィルスの影響で、各地のイベントなどが延期や中止を余儀なくされています。JCMNのサミットも、日本全国をはじめとして、香港や周辺国からの方々の参加も予定されていたため、延期となりました。また、公立学校の休校要請もあり、混迷を極めています。
 そんな中、日本キリスト教団総会議長と総幹事の署名付き「注意喚起」が届けられました。37℃以上の熱がある場合は礼拝出席を控えること、礼拝堂の入り口に消毒用アルコールなどを備えること、礼拝中のマスク着用、握手禁止、聖餐式の準備や配餐時の消毒の徹底、礼拝後の食事の中止もしくは30分以内にすること、その他の集会やイベントについての開催を見直すように、と記されていました。
 先日、電車の中で咳をした人がいたところ、緊急停止のボタンを押した人がいたようです。あの人も感染者かもしれない、というように他者と触れ合うことが躊躇されるような動きが広がっているようですが、これが差別や争いの加速とならないように願うばかりです。
 教会として、この現実をどのように考えていくべきか、主の導きを求めています。

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2020-02-22
2月23日「愛に生きる」

 先週の月曜日、伯母が急に倒れ、そのまま召されました。かつて、共働きであった両親に代わって私や姉をいつも世話してくれていた方でもありました。
 結婚式には、遠くハワイまでいらしてくださり、私の子どもたちにも惜しみなくプレゼントを届け、つい先日、髪の毛の長くなった私を見て「かわいい!」と声をかけてくれる優しい方です。娘たちを聖公会の高校に入学させたり、私が牧師になったことを喜んでくれたり、とキリスト教にも深い理解を示してくれていた人でもありました。さらに、最高の美人でした!
 キリストに出会う以前から、私はこの伯父夫婦に人を愛することを教わってきました。この方々がいたからこそ、親戚関係は極めて良好で、祖父が亡くなった相続のときにも、皆が相続権を放棄して他の兄弟に譲ろうとするなど、自己犠牲の愛が形となって見える関係性でした。
 結局、キリストを信じること、洗礼を受けることはありませんでしたが、信じただけで愛のない私と比べて、何と愛に生きた人だったでしょうか。
 主はご自身を信じた結果として「互いに愛し合う」ことを教えられましたが、信じたと公言しつつも決して愛に生きない人と、ご自分をあまり知らなくても、身を削って愛に生きた人と、どちらを喜ばれるでしょうか。私は後者だと信じています。

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2020-02-16
2月16日「祈りに支えられ」

 娘が8歳の誕生日を迎え、浪岡で誕生会をもちました。彼女の年齢がそのまま、私たち家族が弘前に来てからの年数となります。
 2018年の更生保護大会で、はじめて地域の方々を前にして、自分の救いの証しをしながら、保護司としての活動を通して与えられている恵みを分かち合いました。その後、中学校の生徒指導部会、社会福祉大会と、声をかけてくださる方々が与えられました。8年間の小さな働きが、ようやく地域のために用いられるようになったこと、心から感謝しています。
 私たちがこの地に根を下ろして主のために働けるのは、教会の方々の祈りと支えがあるからです。お一人おひとりの祈りである「一人でも多くの方に福音を届けたい」という熱意と信仰とが、主に用いられ、私のような欠けの多い者でさえも、神の国の拡大に貢献できるということが証になっています。
 また、子どもたちがこんなに良い子に育っているのも、教会の方々や、祈り支えて下さる方々あってのことだと思っています。昨年、主から受けた「家族を何よりも大事にするように」という御声を頼りに、できない自分と戦いながら、主に寄りすがって父親としての訓練を受けているところです。
 8年間ありがとうございました。8年前の若々しい皆様の写真を見ながら、感謝にふるえています。

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2020-02-10
2月9日「地境を拡げて」

 毎朝のサラの散歩とテレビ体操を挟む、1時間の「ディボーション」-聖書と祈りの時を持っています。幾冊かの信仰日課の読書に加えて、以前、少し触れましたが、『一日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』を続けて読んでいます。
 日曜日:宗教(世界の主な宗教とその教義を概説)。 月曜日:歴史(西洋文明の発展に貢献した人々や出来事)。 火曜日:文学(偉大な作家の生涯と代表作、詩や小説等のあらすじ)。 水曜日:視覚芸術…。 木曜日:科学…。 金曜日:音楽…。 土曜日:哲学…。という具合です。
 正直言って、大変に難解です。すべてが十分に理解できないのはもとより、木曜日の「科学」は、特に、内容が理解できません。ゆっくり読めばいいのですが余裕がありません。読むだけです。
 「分らないことがたくさんある! 否! 分からないことだらけ!」嫌になってしまいます。忙しい時などは、腹さえ立ちます。それでも読み続けています。分らない沢山の人々に、ことに支えられている自分を知るため、誠実に生きるために、大切な時間と考えて踏ん張っています。
 傲慢な、自分一色の世界を脱ぎ捨て、独りよがりに別れを告げ、虹色の世界と喜び出会う為、全てのことに感謝することを学び、祈るために。

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2020-02-03
2月2日「神の家族の一致」

 水曜日の午後、一本の電話があり、祈祷会に出席したいとのことでした。初めての方で、しかも祈祷会に出席したいというのは異例です。もしかしたら、クリスチャンの方かもしれない。そう思いました。
 祈祷会がはじまる直前、部屋に向かうと、一人の女性がすでにいらしていました。「はじめまして!」の元気な声とともに、素敵な笑顔。しかも、教会にはじめて来る方は、だいたいドアホンを鳴らしてくるのに、この方は場馴れしているな、と感じました。伺ってみると、やはりクリスチャンの方でした。
 みんなで聖書を読み、そこで感じたことや、思いついた他の御言葉を開く中で、新しく参加された女性も自然に参加できているようでした。ご自身が通っておられる祈祷会とは少し違ったようですが、私たちの祈祷会が、誰でも、いつでも、参加できる体制になっていることをあらためて感じました。
 自己発見型のバイブルスタディを始めてから、2年以上が過ぎようとしています。自分の理解が深まるだけではなく、他者の気づきによって、導かれる場合もあります。
 どんな人が来ても参加できる。祈祷会のみならず、主の当たり前が、この教会のスタンダードになっていることを思わされました。

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2020-01-26
1月26日「神の記憶」

 Amazonが提供するサービスの中で、一番認識されているのは書籍や映像の販売かもしれません。他にも様々なものを購入することができ、すぐに届き、本当に便利です。
 もちろん、このようなサービスを利用することもありますが、私が使っていてすごいと思うのは、Amazon Photoというサービスです。
 撮りまくった写真をすべて劣化なく保存し、無制限に保管してくれるサービスで、テレビなどでも閲覧可能です。
 そんな写真を見ながら、子どもたちの成長を見つめていると、大きくなったなぁと声が漏れます。大きくなったのは、私の身体だけではないのです。
 欠けのある私たちに、神の大切な子を委ねる。主イエスの存在が、子どもたちと重なります。ヨセフとマリアに与えられたかわいい御子の成長も、きっとこうだったに違いない。そんな愛する御子を十字架にかけなければならないほど、私たちの罪は深く、神の愛も深かったのでしょう。
 神の国のAmazon Photoは、はじめの人アダムから、今まで。その成長とあゆみの記録がすべて保存されていることでしょう。神は、そのすべてを愛おしいと感じておられるのではないでしょうか。

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2020-01-19
1月19日「こんな者でさえ」

 先週、突然の訪問がありました。聖愛中高をご卒業の方でした。昨年、帰天された聖書科の嶺先生にお世話になったので、追悼の記念会をしたいとの申し出でした。もし、嶺先生がこのことを知ったら、どれほどお喜びになることでしょうか。
 翻って、自分自身の聖書科講師としての歩みを考える時、そのようなことがあり得るだろうかと疑問符が付きます。もちろん、私は嶺先生と違って常勤ではありませんし、担任を持つこともありません。週に一回きりの授業でのみ、顔を合わせるだけの関係性です。しかしお世辞にも、生徒のみなさんと良い関係を持っていると胸を張ることはできません。
 せっかく主が私のような者を高校に派遣してくださっているのに、応えることができていない自分と出会っています。朝の礼拝にしても、授業にしても、まったく手応えがありません。何年間も、試行錯誤してきましたが、どうしたらよい関係を築けるのか、良い授業ができるのか、もっと主のことを伝えられるのか。全くお手上げの状態が続いています。
 それでも、授業を終え、悶々としながら義塾の廊下を歩いていると、3年生が近寄ってきて言ってくれました。「先生の授業もう一度受けたいわ〜。」
 お世辞でもなんでもいい。主が遣わした天使だと、そう感じました。

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2020-01-12
1月12日「ただ一つの慰め」

 2019年から2020年の年末、年始―クリスマスから新年―にかけて、3名の方を天に送りました。19年のクリスマスイヴの日に、癒しを祈った工藤眞由美さんを、1月1日に、木村牧子さんのお母様を、そして6日に祈り続けた清野光子さんを。
 沢山のことを考えさせられました。そして今一度、わたしたちの信仰について、その恵みと豊かさについて思いを巡らしました。
 『ハイデルベルク 仰問答』の問1に「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」に対しての答えは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。~」とあります。なんという慰めでしょうか。
 この真理は、クリスチャンにだけ当てはまるものではなく、全ての人に与えられている祝福です。
 「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマ11:36)わたしたちはすべての人のために確信を持って祈り、聖なる慰めを共にすることができるのです。わたしたちは、神様により遣わされて、キリストの芳しい愛の薫りなのです。福音の恵みに感謝が溢れます。

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2020-01-05
1月5日「主に導かれて」

  2020年のスタートです。今年はどんな年になるのでしょうか。主が見せてくださる景色に期待でいっぱいです。
 一年の最初の主日礼拝で、佐藤知恵さんが御言葉の奉仕をしてくださいました。昨年も、佐藤洋治さん、コルドウェル・ジョンさんから度々御言葉を語っていただきました。このような方々の存在があってはじめて、外に出かけていくことができます。
 また、ルーアッハのメンバーには毎週の賛美を決めていただくなど、本当に助けられました。神にささげる礼拝を、教会の方々と一緒になってつくりあげるという恵みを体験しています。
 さて、昨年から祈っている新しい礼拝形式についても、主が助け手を徐々に与えてくださっていることを感じています。早い段階で実現できるような気がしますが、独りよがりにならないために、ますます主に聞きながら歩んでいこうと願っているものです。
 何よりも、今年もまた主によって救われる人が起こされるように、熱く祈ってまいりたいと思います。教会の使命は弟子を生み、育てること。継続的にそのことが主によって為されていく教会として、今年も主により頼み、たくさんの証を与えていただきたいものです。

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2019-12-31
12月29日「主にあって変化する」

 今年一年、たくさんの受洗者、帰天者、結婚式、諸行事、そして外に出かけていくこと。一つひとつが宝物のようで、順位付けすることができません。その時々に、神の大いなるみわざを拝することになりました。
 それぞれの出来事に共通していることがあります。それは、「神は生きておられる」ということを体験的に知ることができたということです。
 車に乗りながら、雲間に見える青空を見ていると、主が語ってくださいました。「あなた自身の変化を考えてみなさい。」
 アブラハムが、モーセが、イスラエルの民が、そして主の弟子たちがそうだったように、私もよちよち歩きの信仰でスタートしました。聖書の言葉を力強く語ることができず、自信を失う日々。御言葉についての知識もなく、神についての体験もなく、あったのは聖霊を体験した救いの日の証しだけでした。ただひたすら、目の前に与えられる事柄をクリアすることだけに終止し、気づいたら今がありました。
 「主とともに歩もう」という決意は今、「主はそれでもともにいてくださる」という信仰へと変えられました。私の努力如何に関わらず、主はいつでも私と一緒にいてくださる。何という平安でしょうか。
 多くの出来事を通して、変えられたのは私でした。

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2019-12-22
12月22日「本当のクリスマス」

 この時期、全世界でクリスマスが祝われています。先日のキッズ・クリスマスで子どもたちに聞いてみると、クリスマスが教会のものと知って驚く子もいました。クリスマスを祝う人々の中に、その本当の意味を知っている人はどれくらいいるのでしょうか。
 1906年(明治39年)朝日新聞にはじめてクリスマスの記事が出ました。「カッポレ」や「大神楽」を演じて騒ぐ人々の姿が記されています。最初期の段階から、日本のクリスマスは本来の意味とかけ離れてしまっていたようです。商店はさることながら、お寺にもクリスマスツリーやイルミネーションが輝いています。
 そんな中、お祭り騒ぎに参加できない人々が、自虐ネタで参加します。来年のオリンピックを意識して、競技風に「クリスマス 男子シングル」と言ってみたり、「シングルベル」ともじったりしているようです。きらびやかな賑わいの陰に、クリスマスを祝えない人々がいるのです。まるで、あの日、町外れで野宿を強いられていた羊飼いたちのようです。
 この日、そんな人たちのところにも、主は出向いてくださるということを覚え、かつてクリスマスの意味を知らずに過ごしていた自分を思い出しています。

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2019-12-15
12月15日「チームで歩む」

 青森コーチングネットワークは大盛況のうちに次回へと繋がれました。今回のテーマは「ネットワーク」で、集会全体を通してそのことを確認することができる素晴らしいものとなりました。
 特に、今回は大船渡から小手川宣教師ご夫妻が我が家に宿泊してくださり、良き交わりの時を持つことができました。いつもお会いするときは、何らかのミーティングなり、集会だったので、ゆっくりとお話することがありませんでした。しかし、ご夫妻と夜遅くまで話し合い、お二人の出会いや歩みを通して、深い感動を与えられました。何より、二人とも元保育士ということで、子どもの扱いが極めて上手。娘も息子も夜中になるまで遊んでもらって、上機嫌でした。
 「ネットワークはしても、しなくてもいい、というものではなく、ネットワークの中にいることに気づくこと」岡山にある赤磐教会の額田先生が言っていた言葉です。キリストの体を建てあげているお互いがネットワークでともに歩む時、神は素晴らしい御業を見せてくださるということが分かってきたような気がします。
 今年も様々な地域の神の家族とお会いすることができました。「人が独りでいるのは良くない」と仰った神のチームづくりに期待します。

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2019-12-07
12月8日「初代教会の姿」

 最近、時間をつくって繰り返し読んでいる本があります。『キリスト教の“はじまり”』―古代教会史入門―吉田隆著 です。本当は秘密にしておきたいほどの、最近読んだ本では最も大きな気づきと勇気をいただいた本です。おまけに!ごく分かり易い文体で、どんな人にも容易に理解できる内容です。この本を読んで興奮しました。もったいなくて秘密にしたかったのですが…つい皆に!
 初代教会というと、聖霊によって爆発的に信者が増えていったように思い、「わたしたちにはできない!昔の話!」で済ませてしまいますが…!
 古代ローマ帝国、紀元100年頃の総人口は約6000万人、クリスチャン人口を7500人。このクリスチャンが10年で1.4倍の成長をする、つまり10人の伝道所が、10年で14人!この成長が続いていくと、100年後の200年には、約22万人。さらに100年経つと632万人、キリスト教公認の直前310年頃には880万人になる。こうして350年頃にはローマ帝国全体の実に6割を占める!
 どうですか?浪岡も弘前西も、見事な聖霊の働きのもとにあるのです。「恐れるな、小さな群れ、御国を下さることは父の御心(ルカ12:32)」なのです。友よ!わたしたちは御手の中、聖霊のもとにいるのです。一緒に読んでみませんか!?

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2019-12-01
12月1日「古くて新しい主の教会」

 生まれてはじめて秋田の県南に行くことができました。広がる景色は絵画のようで、まるで昔話に入り込んだかのようでした。
 秋南教会上野台会堂でもたれたコーチングネットワーク説明会には、秋南教会の方々だけでなく、横手教会、脇本教会、そして青森、岩手から多くの参加がありました。人口減少による過疎化、少子高齢化、牧師の減少など、問題は山積しています。しかし、初期キリスト教会も同じような状況であったことを分かち合い、ここから全てが始まるということを励まし合いました。
 現在、男鹿半島には、すでに本質に歩む教会があるので、その方々が一緒に来てくださって、「何も分からない」と不安になっている方々に、「私も何も分からない」と笑顔で声をかけ、一緒に歩んでいこうという姿を見せてくださったのです。同じ地域で教会のお一人おひとりが相互に交流する。7つの集会を持つ秋南教会にとっては当たり前のことであり、その原点である初期キリスト教会に戻っただけのことです。
 「誰も見たことのないことが今、秋田に起こる。」でも、実は二千年前には普通に見られていた光景なのかもしれません。

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2019-11-26
11月24日「聖霊の新しい風」

 先週は木造教会に招かれ、御言葉の奉仕をしました。約1年ぶりのことです。
 礼拝の中で、主に向かって特別に賛美をささげました。「誰も見たことのないことが」と「すべてが益になる」という歌です。今、日本の多くの教会が木造教会のように牧師が常駐せず、一人ひとりが自立を迫られている状況にあります。人々はそれを「危機的状況だ」と騒ぎ立てています。本当にそうでしょうか。
 主イエスが天に帰られてすぐ、信仰者は自立を迫られました。しかし、聖霊が助けをもたらし、教会は誕生しました。彼らは迫害の中で、住み慣れた場所から出て行かざるを得なくなり、いたるところで福音を宣べ伝えました。次々と誕生する新しい教会に、常駐の牧師はいませんでしたが、常駐の信仰深い地元民がいました。彼らもまた、迫害の中で出ていって宣べ伝えました。実は、現在の状況は危機ではなく、教会を正常な状態に戻すための聖霊の働きです。かつては迫害から出ていかざるを得ませんでしたが、今は一つの教会で牧師を支えきれないので、出て行かざるを得ないのです。これは本質的に言えば同じことです。
 はじめて木造教会に遣わされてから今年で9年。私が変えられたように、木造教会が変わろうとしている姿に聖霊の働きを感じました。

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2019-11-10
11月10日

箴言3:1~6  マタイ6:33
 聖書は「そうすれば-神の祝福に生きることができる-」で満ちています。その背後に、「さもなければ」の否定の結果も明らかにされています。創世の初め、エデンの園の出来事に、弟子たちも、歴代の信仰者も、その「そうすれば」を生きてきました。
 「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」主イエス様ご自身も「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべての加えて与えられる」と。パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族もすくわれます。」と断言しています。
 これらは、一言で言えば、「御言葉に従いなさい。そうすれば、あなたは神の祝福を生きることが出来ます。」との約束への招きです。それは、「いつか、できる気持ちになったら」ではなく、「今、ここで、選択の自由に生きなさい!」という、主の促しです。
 この信従への招きは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)のみ言葉にも明らかです。「神様の『そうすれば』」を、人生の課題として受け止めることが出来ることは何という幸いでしょう。信仰の「そうすれば」を問いつつ、共に歩むわたしたちです。

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