156センチの視線

2025-01-26
1月26日「出会いの主」

 先週、時事通信社の青森支社長が来訪され、冊子への執筆を依頼されました。とても光栄なことですが、最初は「厚生福祉」という名称の冊子に相応しいことが書けるだろうかと悩みました。「命に関わることをお願いします。特に、青森県は自死の数が全国でも高いので、そのようなことでいかがでしょうか。」と最初の電話口でおっしゃってくださったからです。
 あおもりいのちの電話の理事をしていますが、自死に対して知見があるとは言い難く、他に適任の方がいらっしゃるのに、その方々を差し置いて、付け焼き刃的な記事を書くことは、その記事をとても無味なものにしてしまうのではないかと思ったのです。
 実際にお会いして、「実は、今年の6月に改正される刑務所の処遇について、罰から愛へ、変わろうとしている刑務所のあり方として、毎月の教誨師の働きを書くことはいかがでしょうか。」とお伺いしました。すると、その方のお母様が華道を少年院に教えにいらしていたこと、そして、なんと支社長ご自身がカトリック教会で洗礼を受けたクリスチャンであることをお話くださったのです。そのような背景もあり、教誨師の働きを記事にすることにご賛同いただけました。自死については、相応しい方のお名前をお伝えし、最後に二人で祈ってお別れしました。
 主は今年も変わらず、素晴らしい出会いを与えてくださっています。

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2025-01-19
1月19日「罰ではなく」

 先日、刑務所で行われたコミュニケーションスキル研修では、私が講義をするものだと思っていましたが、行ってみると、教育専門官の職員の方が模擬授業のような形で、東北管区の更生保護に関わる公務員の幹部に公表するというものでした。彼は私の教誨クラスで傾聴やカウンセリング、コーチングの話を聞いて「これだ!」と思った方で、それから色々とお話をしていたところ、ご自身の授業を見て、意見をもらいたいと思っていたようです。
 今年の6月に法律が改正され、拘禁刑という新たな制度が始まります。そして、それぞれの被収容者に合ったプログラムを提供することで、再犯を防いだり、出所後の生活に資する技能を身に着けたりするように援助するそうです。しかも、それが法務省からのトップダウンではなく、各刑務所の独自の取り組みに委ねられているとのことでした。そこで、彼が気づいたのはコミュニケーションの重要性だったというのです。
 主イエスが人を育てるときに用いた質問力と、相手の必要を汲み取る力、そして励まし寄り添う心。日本の刑務所が罰を与える目的から、やり直しを支える目的へと変わろうとしています。
 ただ、SNSなどでは未だに犯罪を犯した人々への処罰感情は強く、罰を与えたいと願う声が絶えません。赦し、赦される社会への道は、なお険しいと言えるでしょう。

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2025-01-19
1月12日「主に感謝」

それにしても、何という雪の量でしょう!こうなると「災害」としか言いようがありません。自動車学校の前の比較的広い道の青森空港に続く道から、教会に通じる道に入ると、そこはもう車一台がやっと通れる道幅になってしまっています。
 これはもう、災害としか言いようのない状態です。あまりの雪の量に、幹線道路の除雪で精いっぱい道路維持課、道を歩くのにも足を取られ、注意をしないと転倒してしまいます。かつてない雪の量に、どこの家も、家族総出で除雪に追われています。わたしの年代の老人の仕事になった雪かきに、小さな子供たちも雪かきに参戦!それはそれで微笑ましい風景が展開し心が和みます!
 わたしよりもさらに年配の方が、雪と格闘しながら、「ドンダバ!雪サ殺されで仕舞うジャ!」との本音に吹き出しそうになりながらも、不思議な、ホッコリとしたユーモアを…。
 教会のすぐ近くに田んぼがあり、皆、雪をそこまで運ぶことができるのは、なんとも恵まれています。皆が運ぶ雪で巨大な山が出来上がりました。
まだまだ続きそうな雪模様に、心がくじけそうになりますがあと少しです!
 「考えてみれば、今年は、もう80歳!考えたこともない年齢になり、主に感謝の日々です。

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2025-01-19
1月5日「創造のユニークさ」

 2024年最後の礼拝を祝福の中で終えたあと、一人の兄弟が進み出て、証をしてくださいました。カトリック教会で受洗されたこと、聖書が難解で理解に苦しんでいたこと、そして野鳥の会のさなか、見たことがあった弘前西教会に行ってみようか、という思いが与えられたことです。
 キリストの体における私たちの教会は、特にキリストにある自由を尊び、そのことを喜ぶ人たちが多く集められている特徴があるように思います。兄弟が喜んでおられる姿からも、そのことを強く感じています。なぜ、そう思うのか。それは、ある方の将来について、なんと焼き鳥屋への転身という自由な発想をもって進言する姿を見たからです!
 教会全体における各個教会と、教会共同体に対する各個人の特徴は、本当にユニークです。そのユニークさを互いに認め合うためには、愛が基盤となる必要があると使徒パウロも語っています。それも、十字架の愛が最後に残ると言うのです。
 私たちの共同体に主が人を送ってくださるのは、その方がよりその人らしくされていくためだと思います。久しぶりの受洗者が与えられ、私たちの教会を喜ぶ人が主から送られてくるのは、偶然ではありません。
 今年は、どんなユニークな方が、どんなユニークな道を通って、私たちの教会に与えられるのか、とてもワクワクしています!

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2024-12-29
12月29日「聖霊の臨在」

 先週のクリスマスは素晴らしいものとなりました。受洗された桜庭さんは、40年以上前から教会につながり、祈られてきた方。聖書によれば、生まれる前から主が目をとめていた方です。
 洗礼式の中で、牧師が十字架と復活の主を「信じますか」とお尋ねすると、大きく力強い声で「信じます!」とおっしゃってくださいました。まるで、魂の底から、聖霊によって出てきた声のようでした。その信仰告白は、共に礼拝をささげていた多くの方々の心にも共鳴したことでしょう。
 あるリーダーは「外は曇っているのに、急に晴れたかのような光りに包まれた。」と、聖霊の臨在について証ししてくれました。同じように、桜庭さんご自身も、「何か不思議な力に包まれているようだった。これが聖霊だと分かった。」と、祝会の席で教えてくれました。
 思い出してみると、はじめて聖霊体験をした日、私もそれが聖霊だと分かりました。目の前に山と積まれた問題は解決していないにも関わらず、大丈夫だと思えたこと、羽が生えたように心が軽くなったこと、悔い改めの涙が喜びに変わり、止まらなかったこと、誰かから教わったわけでもないのに、それが聖霊だと分かりました。
 私も同じように、「信じます!」と心の底から告白した日でした。信じる者に与えられる聖霊、そういうことなんでしょうね。

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2024-12-22
12月22日「神の憐れみ深さ」

 不信仰な牧師の独断的な導きにより、教会が危機に陥りました。しかし、辛抱強くとどまり、祈ってくださった方々の信仰に基づく忍耐により、徐々に聖霊の火が取り戻され、激減した礼拝出席が増加しています。
 主が教会にくださったイザヤの預言の御言葉「新しいことをわたしは行う。」という約束は真実でした。新しいことをするのは牧師ではなく、「わたしは行う」とおっしゃる主だったのです。当たり前のことなのですが、そのことを忘れてしまった傲慢さに、教会全体を巻き込んでしまったことを猛省していました。
 ところが、子どもたち、若者たち、そして、新たに教会を訪れてくださった方々。教会での交わりを喜んで下さる方々が加えられ、久しぶりに受洗者も与えられました。
 また、教会全体での懇談会においても、様々なご意見が与えられ、祈りから祈りへと向かう流れが継続され、教会が何を大切にしてきたかがしっかりと見えてきたように思います。
 不甲斐ない牧師に大いなる憐れみを注ぎ、教会は私のものだとおっしゃる主の権威が取り戻され、集う人々にその愛の目が注がれています。
 教会が教会になっていく姿を見ることができ、このクリスマスの良き日、喜びが増し加えられています。

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2024-12-15
12月15日「小さな変化から」

 教会懇談会で、毎月1週目の礼拝をワーシップにする提案を皆さんと一緒に考えているところですが、実は水曜日の祈祷会IIは、現在、そのような礼拝となっています。
 祈りの課題を分かち合い、聖書の御言葉を共に味わい、賛美を何曲かささげた後に、各自祈りの時をもって、最後は立ち上がって、主を礼拝し、賛美する時をもっています。
 先日は、岩住先生も東奥聖社のリーダーとともに加わってくださいました。狭い祈祷室が聖霊で充満し、まるで大きな天の宴会にいるかのごとく、私たちは神と親しい交わりをもっています。手を上げて、賛美の中でも信仰を告白し、涙される方もいらっしゃいます。はじめてそのような礼拝に集い、聖霊体験をした方も与えられました。
 今からだいぶ前ですが、1週目の礼拝について役員の方々と話し合い、ワーシップの承諾をいただいてから、相談した津田キリスト教会の水村先生が教えてくれました。「何事も、変化をするときは小さなグループから始まるものだよ。主のみ心ならば、チームが与えられ、変化は大きくなっていくから。」
 祈祷礼拝IIのワーシップ化は、最初は4名で始まりました。その噂を聞きつけ、賛同者が与えられてきています。そろそろ実現するであろう公同のワーシップ礼拝について、具体的な景色が主によって明らかにされてきています。

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2024-12-15
12月8日「ゆっくり、静かに、心を込めて」

 閉まらなくなっていたサンルームの戸が、それは気持ちよくスムーズに開閉できるようになりました。閉まらなくなっていた鍵も、スッキリとよくかかるようになりました。「雪よ、いつでもやって来い!」の気持ちに一瞬なりましたが、やっぱり「降らないでいてほしい!」のが本音です。
 職人さんに「ついでに」と、「開閉」のままならなくなり、大きく歪んだ倉庫の扉を直してくれるようにとお願いしました。除雪機を出し入れする時に失敗し、レールと床を、「これでもか!」というぐらい変形させてしまったままでした。何度か挑戦したものの、びくともしませんでした。
 せっかくのチャンスとこの機会にお願いしました。その慎重な仕事ぶりを、震えながら小雪の中、立ってみていました。何と、神学書を読むよりも沢山の学びをすることが出来ました。「小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である」のイエス様の言葉を想い起しました。
 「面倒くさい!」「じれったい!」「早く!」との内なる声を退ける時となればと祈りました。今一度、「ゆっくり、静かに、心を込めて!」を心に刻みました。「マインドフルネス」の言葉が、よぎりました。世界は学びに満ちています。今一度、すべてを一から始めてみようと思いました。 石川

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2024-11-24
11月24日「導かれて」

 保護観察の対象者の少年と合うようになってから、2ヶ月が経とうとしています。はじめて会いに行った時、うつ伏せに突っ伏していました。「聞こえてる?」と聞いたら頷いたので、「じゃあ、そのまま聞いてて。」と保護観察の内容を伝えました。すると、顔を上げてくれました。
 何度か会ううちに、気持ちを素直に伝えてくれるようになりました。そして、お母さんとの電話の中で、「今まで出会ったことのないタイプの人で、かけられたことがない言葉をかけてくれて嬉しかったみたいです。」と言ってくださいました。
 私が特別なことを言ったり、更生させるための専門的な知識があったり、才能に満ち溢れているからではありません。ただ、知っているのです。主イエスがどのように人々と出会われたかを。そして、信じている者には、聖霊を下さり、神の霊が私に必要なことをさせるために導いてくださるのだと。何よりも、その子に出会うよう、私を遣わしてくださったのだと。
 私がクリスチャンであることは、まだ伝えていません。関係を深め、信頼を得られるようになったら伝えるつもりでいます。教会へ、信仰へ、そして解放へ。そのように祈る私の願いを主が聞いてくださって、必要を満たし、連れて行ってくださる。今、そのことを実感しています。
 私の予定を見て、祈ってくださっている背後の祈りを感じながら、宣教のただ中にいます。

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2024-11-17
11月17日「神の計画」

幼い頃、アパートの小さな一室で集まって主を礼拝する群れの中にいました。父に連れられて参加した礼拝で、そのアパートの前の公園で遊んでいたのをよく覚えています。その群れにいた信仰深いご夫妻は、幼い私が将来牧師になるビジョンを与えられて祈り始めました。
 やがて、罪の奴隷として様々なことを経験しました。さらに、母の突然の余命宣告。どん底で、自力ではどうにもならない人生に白旗を上げ、自らの意思で救いを求め、教会の扉を開きました。
 2006年11月18日、はじめて主イエスに「教会の人々が言うように、あなたが本当に救い主だとしたら、私の人生をどうにかしてください。」とみ前にひれ伏しました。その時、聖霊体験の中で「すべてを益にしてあげるから、牧師になりなさい。」と召しを受けました。それが神からの声なのか、自分の内側から出たものなのか分からず、聖書を学ぶようになってからも迷走を続けました。しかし、つまづくたびに、やはりこの道で間違いないんだ、という体験が与えられてきました。
 ハワイに、そして青森に導かれ、高校に、刑務所に、と遣わされるたびに、私が出会うべく神に用意された方々とお会いしてきました。
 こんなことを、あの物心つく前から想像できたでしょうか。どん底で展望できたでしょうか。神の計画はあまりにも壮大で、綿密で、複雑です。そして、主は今もおっしゃっています。「あなたがたは今は分からないが、後で知るようになる。」と。

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2024-11-10
11月10日「言葉の力」

あなたは自分の「考え方の癖」「よく用いる言葉」を意識したことがありますか?
 「初めに、神は天地を創造された。」は、聖書の冒頭の言葉です。最初の言葉は、「光あれ。」でした。「こうして光があった。」と記されています。「光なるお方」のみが、光を創造できるのです。サタンは光を創造できません。ヨハネは「初めにことばがあった。」と宣言します。以前にも紹介したように思いますが、マザーテレサのことばを、宣教の一部として紹介します。
 「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから  言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから  行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから  習慣に気をつけなさい それがいつか性格になるから  性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから」
何という真理でしょうか!イエス様の「言葉」はそのまま出来事となり、新しい時を切り拓きました。
「このわたしの言葉そのものが、人格になり、運命になる」とは!「~まず 愛のことばを言い切ってみよう」と謳った、八木重吉の詩を思い出します。さあ、仕切り直しです。   石川

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2024-11-03
11月3日「拍手を受けるべき方」

 先週の水曜日、リンクステーションホールに劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観に行きました。誰かに会うだろう、という予想通り、弘前教会の渡邉牧師夫妻や青森バプテスト教会の佐々木牧師夫妻にお会いしました。きっと他にも地域のクリスチャンが観に行ったことでしょう。
 内容については、ツッコミどころはあるものの、ミュージカルそのもののクオリティが高く、最後まで集中力が途切れずに釘付けになりました。釘付けといえば、劇もエルサレムバージョンということで、主イエスの十字架の場面で終わってしまいました。復活まで見たかったのが正直なところです。
 印象に残ったのは劇だけではありません。むしろ、終わってからのカーテンコールです。観客の拍手に応えて、5,6回は出演者が出ては入りを繰り返したでしょうか。そのたびに、観客の中から、一人、また一人とスタンディングオベーションに加わる方々が増えて、私たちが退出する頃には、ほとんど全員が立ち上がって拍手をしていました。
 その拍手喝采に応え、主イエスを演じられた役者の方が、何度も何度も頭を下げている姿が印象的でした。偽物の劇と十字架から降りてきた偽物の主にはこぞって拍手を送るのに、その拍手を受けるべき方、本当の主は、今もなお十字架の上です。

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2024-10-27
10月27日「賛美の力」

 先週の金曜日、東奥義塾の朝の礼拝は、ゴスペルをみんなで歌う賛美の力に満ちたものでした。
 私はメッセージで、賛美に住まう主が人をつくり変え、周りの人に良い影響を与え、超自然的なみわざを地上に描き出し、人々が解放されていく様子を使徒の働きにおけるパウロとシラスの賛美から語らせていただきました。
 これから、義塾の中にゴスペルクワイアのチームが出来上がっていくかもしれません。今回、そのメンバーとして名乗りを上げてくれた生徒たちは、日々の勉強に疲れていた特進クラスの生徒たちだったのです。
 自分たちで言っていましたが「まるで囚人のように、勉強漬けの日々で疲れ果てている。」そんな生徒たちが、大きな声で主の御名をたたえることで励まされ、勇気づけられ、元気になっていったのだと教えてくれました。
 岩住先生が「練習のために公欠を取ることができるかも。」とおっしゃっていたので、特進クラスの授業に行った時に生徒たちに言いました。「ゴスペルのチームに入ったら、この牢獄から出て自由になれる。聖書の約束は本当のことなんだよ!」みんな大笑いしていました。
 朝の礼拝の賛美に生徒たちが参加できるように。それはパイプオルガンの横で歌う合唱部によって始まりましたが、今、実りの時を迎えているような気がします。岩住先生と祈ってきた、朝の礼拝の新しい形。主が確実に祈りを聞き、導かれているのを感じます。

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2024-10-20
10月20日「信憑性」

 先週、床屋さんに行った時、昔の日本をはじめ、世界中の文化の話から、古代の人々の髪型の話になりました。現在から見ると、異質とも思える髪型や服装に、本当にそんな髪型をしていたんだろうか、考古学者たちの想像の具現化に過ぎないのではないかと、そんな話になりました。
 古代の日本人はちょんまげなど、特殊な髪型をしていましたが、特に絵画などで奈良時代までよく見られる、顔の横でリボンのような、ひょうたんのような形に髪の毛を結うスタイルは、「嘘でしょ」と二人で笑っていました。
 あまりにも気になったので、帰ってきてから調べてみると、3世紀の「魏志倭人伝」に髪型の記載があるそうです。だから嘘ではなかったのです!
 同じように、聖書の中にも「嘘でしょ」と思えるような、度肝を抜くようなエピソードが山盛りです。そして、それは本当だったのです。タイムマシーンでも無ければ、その場に行って確認することはできませんが、状況証拠は整っています。
 偽証するな、と命じられた人々が、神についての歴史的、体験的内容を偽装することはありえないでしょう。どんな罰が待っているか、考えるのも恐怖だったことでしょう。そして、十字架と復活を目にした弟子たちもまた、自らが迫害され、処刑されるような試練の中で、嘘を抱えて心中したとは思えません。
 魏志倭人伝を信じて、あの特異な髪型を誰もが疑わないのであれば、聖書はなおさらのことではないでしょうか。

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2024-10-12
10月13日「祝福する人から」

 創世記12章1節に、「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしの示す地に行きなさい。』」(創12・1)は、マタイ5:3~の、「山上の説教」と同じように、原文では「幸いである~」のように、「離れよ~」が冒頭に来ています。『離れよ!出でよ!』と神様が言われるのは、人間はなかなか出たがらない存在だからなのでしょう。自分の今日までの歩みを想い起してみると、よくわかります。足が前に出ないのです。ことに、主の促しには!
 主は何のためわたしたちを変革させようとするのでしょうか?それはわたしたちを通して、人々を祝福するためのように思われます。
「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」と神様はアブラムに宣言されます。わたしたちも、神様からの祝福を委ねられているということを忘れてはいないでしょうか。
 わたしたちが福音へと召されたのは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(マルコ16:15)るためです。
 世界は「祈願」する人々で溢れています。しかし、新しい時は、祈願する人からではなく、「祝福」する者へと変えられる人により実現します。「主よ、祝福の器として用いてください!」と。 石川

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2024-10-12
10月6日「教会の本質」

 先週の月曜日、北西地区の教師会、その後に地区委員会がもたれました。いつも通り、業務連絡や各教会の報告、祈りの課題などが出され、出席者が少なかったこともあって早々に教師会が終了しました。
 その後、地区委員会では、11月にもたれる信徒研修会について話し合われました。今回は、それぞれの参加者が「いかにして救われたのか」をグループごとにシェアし、その個性に満ちた主の救いのみわざから本質を探り、伝道について考えることをテーマとしました。
 その話の流れから、教会形成の話になりました。そこで、JCMNの額田先生がされている、岡山と小樽の二つの教会の牧会スタイルについて証をしました。使徒の働きにある牧会スタイルです。教会の個々人が霊的に自立し、聖霊に導かれながら主の弟子を育てていくこと。貢献者として主がお選びになったお一人おひとりを、消費者にしてしまった教会の歩みを省みて、まず牧師が変わる必要があるのだと話しました。
 静まり返った会議の場で、地区長が言いました。「その話を信徒研修会で聞かせてほしかった。」教会の本質を求めて7年。北西地区の教会にも、主が初代教会の本質を学ぶ道を拓いてくださったことを感じました。
 教会が大変だ、と危機が叫ばれる世にあって、そのような時だからこそ、人の力が及ばないからこそ、主がご栄光を現してくださるのです。

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2024-09-28
9月29日「コミュニケーションの基礎」

 ここ最近、東奥義塾の授業で生徒たちと傾聴を学んでいます。グループに分かれ、それぞれが傾聴のスキルである「あいづち」「ミラーリング」「沈黙」「自分の話はしない」などを駆使して、質問などを用いながら、人の話に耳を傾ける訓練をしています。
 クラスを回りながら、それぞれのグループのやり取りを聞くと、とても上手に聞き手の役割を担っている生徒が多くいます。しかし、仲の良い友人とのやり取りの中で、いつもの会話とは異なる違和感を感じている、と話してくれた生徒がほとんどでした。それもそのはずです。今までは、人の話を聞くことの大切さは分かっているものの、とっさに自分語りが始まったり、相手の言ったことにマウントを取ることが普通だったからです。でも、上手に質問され、聞いてもらった側の意見を聞くと「気持ちが良かった」という声が多数を占め、みんながなるほどと納得しているようでした。
 もちろん、誰もが良い聞き手になることは難しいでしょう。これも与えられている賜物があると思います。ですが、主が用いられたコミュニケーションの基礎は、これからの人生の役に立つはずです。
 仲間と高め合い、チームの成長や子育ての理想として、主がくださった御言葉。そして柱となる福音の力。生徒たちは楽しそうに学んでいます。

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2024-09-28
9月15日「逃れの地へ」

 最近、ニュースで話題の兵庫県知事ですが、世間ではパワハラという言葉が大きく取り上げられています。しかし、この問題の本質は別のところにあると思います。ほとんどのメディアでは、知事の人間性が大きくフォーカスされていますが、問題はそこではなく、特定の人物に権力が集中してしまう、という構造上の問題だと思います。そして、それは兵庫県だけではなく、日本の至る所に見られる現象だと思います。
 このようなことに気付けるようになったのも、教会の本質を聖書から学ぶことができたからだと思います。しかし、自分ができているかどうかは別の話です。
 王座にしがみつく兵庫県知事の姿を見ていると、他人事とは思えないのです。自分の人生は自分のもので、王座は決して離さず、好き放題に生きる。当然、口から出る言葉も自己中心から出るものばかりで、人を傷つけても何とも思わない。本来、その王座と主権は主なる神のものであり、明け渡さなければならないはずなのに。
 しかし、自分で自分の人生を完璧に統治しているとは言い難い、いやむしろ、崩壊しているというところまで連れてこられた時、白旗を上げて主を王座に迎え入れた時から、本当の人生の豊かさを知りました。
 これだけ大きく取り上げられた彼は、あらゆる方面で再就職は難しいでしょう。今、彼が主のもとに導かれ、悔い改めて救われることを願ってやみません。

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2024-09-28
9月8日「愛と優しさ」

 今月号の『信徒の友』特集は、「犬は笑うか」です。父は動物が嫌いなので、動物を飼ってもらえず、小さな小鳥で我慢していました。袋町の古い教会の祈祷会に迷い込んできた、生まれたばかりの子猫を、1年生の新子にねだられ飼うことになり、「マリア」と名付けました。それから5年後、南教会から福井に転任する上垣牧師から頼まれ「クロ」という5才になる犬を飼いました。クロも、マリアもとても長生きし、皆を慰めてくれました。その後、浪岡教会の竹迫牧師に乞われ、生後3ヶ月の仔犬「プル」を飼いました。従順で皆に愛嬌を振りまく可愛いい犬で、やはり長生きをしました。
浪岡に移住した時、もう犬や猫は飼わないと思っていたら、八幡宮の阿部さんから、サラを頼まれ、美祈子のこけしの師匠から、マルコを頼まれ、再びニャンチャンとワンチャンに慰められ励まされ、喜びを分かち合い8年の月日が。そればかりでなく、良き伝道の働きまで担ってくれ、感謝の言葉もありません。
今は、サラとマルコのいない生活は考えられません。サラもマルコも偉大な教師です。特にサラは、叱られたり、叩かれたりしての一年間だったようで、今なお、傘などの棒状のものに反応して、体を硬直させます。二匹と共に生活する中で、愛すること、優しくすることを学んでいます。 石川

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2024-09-01
9月1日「主を知り、自分を知る」

 教会のホームページが古くなってきました。10年以上前、私が来たときに素人ながら自作したものです。この10年で、ホームページを見て来た方々が本当に多くいらっしゃいましたが、そのためにも、この小さな働きを主が用いてくださったことに感謝しています。
 教会に来ている青年が、「教会のホームページは古いですよ」と教えてくれました。おそらく古く感じるのは、牧師紹介のカテゴリーに鎮座する私の写真でしょう!岩住先生は、その写真のことを「この教会に来る時、若干の不安を感じました」と笑ってくれました。
 今年に入ってから、痩せたら着ようと取っておいた洋服を実際に着用してみると、年齢相応ではなく、全力で老化に逆らっている人に見えたため、断捨離しました。
 かつて主を信じていなかった頃、私は他の人の意見に流されるだけの存在でした。高校時代の親友に「ウッシーは外見だけだね」と言われたのは、笑いながらであったとはいえ、決して冗談ではなく、中身のない私を案じての言葉だったと今は分かります。なぜなら、こんな私でさえ、主を信じた今では、自分がおっさんであることを素直に認められるからです!
 主を知ることは自分を知ること。主の祈りを通して自分自身が学んだように、自分を知ることが本当に大事だという視点は、御言葉に新たな角度を与えてくれます。

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