156センチの視線

2021-01-17
1月17日「主に用いられて」

 大寒波の影響で、初めてだった除雪機の操作もプロ級になりました。時間はかかりますが、とても楽チンで、唯一の問題は指先が凍傷になりそうなほど冷えることだけです。というのも、ほとんど身体を動かさないからです。
 私たちの教会が除雪機を使うようになったのを見て、近所の方が「それ貸してけ」と言ってきました。「教会の物なので、貸すのは難しいですが、相談してみます。」と言ってリーダーたちと話し合いました。近隣の方々で、特に身体が不自由だったり、お年を召していて困難を覚えていらっしゃる方々のために、除雪機を使おうということになりました。
 先週、時間を見つけて屋根の雪がたまっていた家の雪を片付けました。除雪機があっという間に雪を飛ばすのを見て、「早いなぁ!」と感激されていました。作業を終えて帰ろうとすると、献金と缶コーヒーを頂きました。主がお喜びになった証しとして、感謝してお預かりしました。津軽の人たちは甘い味の缶コーヒーが好きな傾向にあると思いますが、私はブラックが好き。そして、何といただいた缶コーヒーもブラックだったのです!
 近隣の方々のために仕えることができた喜びと、大寒波のあとの束の間の休息を楽しんだ1週でした。

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2021-01-15
1月10日「あおいくま」

 今年の浪岡の雪は「もの凄い!」の一言に尽きます。12月中だけで、昨年の総積雪を遥かに超えています。弘前に行くと、「ワー なんもね!」です。1週間共に過ごした牛山家の「めごこ」たちと別れた次の日は、今年最初の祈祷礼拝でした。
 その後、妻の買い物の運転手としてドラッグストアに付き合いました。会計を終わって籠に商品を入れている時、一人の女性が近づいてきて、ためらいながら「石川牧師……?」。「はい、そうですが。」と答えると、「やっぱりそうだった!時々見かけていたんですが、なかなか声をかけられなくって」とそれは嬉しそうな笑顔。聖愛で授業を受けていたとのことで、妻のことも知って「先生」と言っていました。「いろんな授業の中で、聖書の時間は、心が豊かになる楽しい時でした」と、しばらくお話しして、「今は毎週3回、弘前の病院に行っているんです」とのこと。分かれる時に、外でしたが、ご本人と病気、ご家族のことをお祈りさせていただきました。しっかり胸に手を組んで祈っている姿に心打たれました。
 「あおいくま」をおもいだしました。「あせるな おこるな いばるな くさるな まけるな」です。イエス様が一緒(インマヌエル)の今を生きるようにと促され原点に帰るお年玉をいただきました。

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2021-01-03
1月3日「主の確かさ」

 あけましておめでとうございます。
 例年であれば、父が川崎から来たり、私たちが里帰り上京したりというシーズンですが、今年はコロナウィルスの影響でそのようなことができませんでした。おそらく、皆様の中にも、同じような境遇の方々がいらっしゃるかもしれません。
 昨年、この新型ウィルスの影響が世界中に拡大したことを受けて、様々なことが変化せざるを得ませんでした。特に、集まって礼拝をすることができなくなった時期には、礼拝を中止する教会もあったほどです。しかし、幸いなことに、西教会の方々はスマートフォンに切り替えられたり、一生懸命オンライン礼拝に取り組んでくださったこともあって、礼拝を中止することなく、全ての聖日において、共に礼拝をささげることができました。
 未だ終息が見えない状況の中ですが、聖書に示された終末の時に備えて、主が再びおいでになるのを待つ姿勢を新たにすることができたのではないでしょうか。そんな中でも、明日をも知れぬ日々の中で、永遠のいのちの視点で世界を見ることができる信仰が与えられていることを心から感謝します。
 新しい年になっても変わらない、主の確かな約束を握りしめつつ。

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2020-12-27
12月27日「体験型クリスマスプレゼント」

  いよいよ駐車場が整備されました。このところの大雪で、いつになったらできるのかと焦りつつも、ワクワクしていましたが、ようやくの完成で、ついに除雪機も導入です。
 除雪機導入に先立って、連日の雪かきを手作業で行っておりましたが、町田さんが早朝からご自宅の雪かきを後回しにして、教会に手伝いに来てくださいました。自己犠牲の奉仕の姿に、主の姿が重なりました。
  クリスマス・イヴの夜、礼拝後に皆で外に出て賛美と祈りの時を持ちました。地域の方々の祝福のため、主の福音がさらに拡大していくように、駐車場が用いられることを皆で喜びました。
  この時期に完成することも、主がクリスマスプレゼントとしてとっておいたのでしょうか。証しになるには、ちょうどよい時期です。
  天の下、すべてのことには時がある、という聖書の御言葉の通り、主の憐れみとご計画が前進していくことを体験させていただきました。
  このために、多くの祈りがささげられてきました。また、たくさんのお支えもありました。
  いつも、支えられつつの歩み。忘れることなく、個人的なクリスマスプレゼントとして、謙虚さをください、と願いました。

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2020-12-20
12月20日「キリストの憐れみ」

 連日の雪で、早朝から雪かきに精を出し、日頃の運動不足がたたったのでしょうか。水曜日に体調不良になり、発熱しました。その日も雪が降り続き、凍えるような陽気であったこともあり、祈祷礼拝をお休みしようと考えました。
 いつも祈祷礼拝に出席されている方々に連絡を取ると、こぞって「お祈りしています。」「きっと主が癒やしてくださいます。」「ゆっくりしてください。」と励ましのメッセージを頂きました。
 次の日の朝、早朝に窓の外を見てみると、除雪車の置いていった雪が大量に積み上げられていました。まだ本調子ではありませんでしたが、早速外に出て雪かきをしました。その時、私の心は怒りでいっぱいでした。「こんなに連続で雪を降らせるなんて!」「主は私の体調のことなどお構いなしか!」といった具合です。
 ところが、嫌々ながら雪かきをしていると、徐々に体調が戻ってくるのを感じました。そして不思議なことに、家に帰ってくると、熱は完全に下がっていたのです。
 クリスマスを前に、再び、悔い改めのときが与えられました。主の深い憐れみ。そして、主が与えてくださった神の家族の素晴らしさ。そのことを伝えようと、気持ちが新たにされました。

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2020-12-18
12月13日「日本のクリスマス秘話」

 今日は日本のクリスマスについて…。キリスト教伝来は、1549年ですが、その3年後に最初のクリスマスが祝われています。1552年、ザビエルの後を受け、山口で布教活動をした、コメス・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招きクリスマスを祝いました。その後1560年には現在の大分県で聖劇を上演しています。
 何とも革新的なことは、1566年には「クリスマス休戦」(堺付近でにらみ合っていた三好・松永の軍勢が、ルイス・フロイスの誘いで、両陣営のキリシタン武士70名が12月24日の晩と翌日正午のミサに共にあずかった)の記録が残っています。
 ただしその後は、キリスト教は禁制となります。が、潜伏キリシタンたちは密かにクリスマスのミサを守っていたことでしょう。オランダ人たちが「阿蘭陀正月(おらんだしょうがつ)」と呼ばれるクリスマスを祝っていたことが記録されていますが、表面上、日本国内におけるクリスマスの歴史は二百数十年間中断します。
 開国と共にクリスマスも復活しますが、1860年(万延元年)外国人だけで祝われました。初めての日本人主催のクリスマスは1874年(明治7年)原胤昭が受洗の感謝の意を込めて、カルゾロスの指導の下にセッティングされました。

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2020-12-18
12月6日「闇の中の光」

 アドヴェント(待降節)に入りました。キリストのご生誕を祝うクリスマスまであとわずかです。教会の新たな一年が始まっています。
 今、世界中が願っているのは新型コロナウィルスの終息ではないでしょうか。終わりの見えない苦悩の中で、様々な声が聞こえています。病床が足りないという現場の声。政府の対応のまずさを批判する声。飲食店や旅行業などの直接的な打撃を受けている人々からの叫び。今までに全く無かったかのような状況に怯える声。
 主イエスの誕生の瞬間も、そのような中だったのではないかと思われます。ローマによる統治から解放を願う声。特権を利用して搾取する宗教指導者たち。生活がままならず、献げものができないため、または病があるために罪人とされ、追放される人々。その叫び声と、救い主を待望する声が響き渡る世界だったはずです。
 そのような暗い世界の中に、救い主がお生まれになりました。先の見えない暗い時代だからこそ、クリスマスがひときわ輝く時になると確信しております。
 「死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」
 もうすぐクリスマス。主は新しい年にどんな素晴らしいご計画をもっておられるのでしょうか。

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2020-11-30
11月29日「神の眼差し」

 息子や娘と一緒に寝るとき、一人で寝るよりも寝不足になりがちです。なぜなら、あっちこっちと動くからです。まるで時計の針のように、一回転してみたり、布団を蹴飛ばし、お腹を出しているために、布団をかけ直してあげなければなりません。その度毎に目が覚めるのですが、我関せず、と眠ったままの寝顔を見ると、その可愛さに卒倒しそうになり、眺めているうちにさらに寝不足になるのです。
 愛する我が子の寝顔を見ていると、父なる神の気持ちが分かってくるような気がします。「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)起きているときも寝ているときも、変わらずに見守っていてくださる神は、罪人である私が我が子に注ぐ愛とは比べ物にならないほどの愛を注いでくださる。息子が起きてはしゃいでいる時は、早く寝てくれ〜、と思いつつ、寝ている時は顔にいたずらをしてみたくなる。そんな条件付きの愛ではなく、無条件の愛なのです。
 その方の愛を受け入れてから、与えられたものが周りにたくさんあります。この寝顔もその一つです。神が予め準備し、与えようとしていた計画の壮大さに圧倒されます。まだ終わりではありません。神の計画は永遠に進行中なのですから。

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2020-11-30
11月22日「今ここに」

 先日妻に、「5年になるね!」と言われ、やっと気づきました。2015年11月15日は浪岡教会の現会堂献堂の日でした。あれから早くも『満5年』の月日が経ちました。時の速さ以上に、神様の守り、導き、祝福が心いっぱいに広がりました。
いつの間にか、当たり前のように思っていた日々が、圧倒的な祝福として迫り全身を覆いました。今から5年前の11月15日、よく晴れた日、二階の牧師館までいっぱいの150名の人々で献堂式とお祝いをしました。全ての時が御手の内にあったことを想い起し、祝福を噛みしめました。
そう言えば、弘前西教会が実家での礼拝から、江戸時代に建てられたと思える本町の民家に移ったのは1978年の11月、袋町に移ったのも1981年11月、現会堂献堂式が2004年11月21日でした。いずれも初冬の中、しかし、光満ちる青空の美しい日でした。
主の愛と恵みを今一度、深く心に留めることが出来る時となりました。長い冬に向かう前の、小春日和を通り越した晴天を想い起し、勇気を与えられました。「今、ここに備えられている御手の中、主の時」を味わい、心から感謝をささげました。
わたしたち、主により頼む者に備えられている約束を、共に生きる勇気を今一度与えていただきました。愛の今に生きるわたしたちです。感謝!

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2020-11-14
11月15日「導きに従う」

 先週、ある方から献金が届けられました。実は、最近その方と手紙のやり取りをしていたのです。きっかけは、その方が私たちの教会のホームページからメッセージの動画を見てくださったのがきっかけでした。
 以前から、私は筆無精でした。その原因は、どこからともなく聞こえてくる「手紙は手書きに限る。パソコンの文字は冷たい感じがする。」という声でした。その意見はどこで誰がいつ発したものか分かりませんが、何となく自分でもそういうもんだ、と思い込んでいたのです。実際、そのように思う方々も一定数いらっしゃるのではないかと思います。そのような考え方を、筆無精であることの理由付けにしていたように思います。
 ある日、届いた手紙の束を前にして祈っていると、「あなたが得意なことは何ですか?」という声が聞こえたような気がしました。私はすぐにパソコンに向かい、手紙を書き始めました。それ以降、お手紙を頂戴すると、お返事を出すように心がけています。
 以前は、妻に「お返事を出したほうが良いんじゃない?」と言われてから動いていましたが、少しは変われたようです。その変化に、神が「それでいいよ。」と励ましてくださっている。今回の出来事を通して、そのように感じているのです。

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2020-11-08
11月8日「再会の約束」

 先週の水曜日、祈祷会の準備をしていると電話がかかってきました。祈りの人、清水広子さんが天に召されたという知らせでした。
 清水さんは、復活のキリスト教団東京教会に通っておられました。私が将来牧師になるように祈ってくれていた人です。
 「敬ちゃんは、日本のビリー・グラハムになるのよ。」それが、彼女の口癖でした。私のことを「ビリ−」と呼び、笑いながらもそのことを真剣に祈っているんだろう、と感じさせる誠実さが印象的でした。
 やがて、私が牧師になり、東京教会でメッセージをさせて頂く機会が何度かありましたが、聖書の言葉に大きく頷き、涙を流しながら食い入るように聞いてくださる姿は、自分の息子よりも若い、駆け出しの牧者が語る言葉としてではなく、神の言葉そのものを受け取ろうとするものでした。
 足が悪くなって施設に入り、コロナの影響があり、外部との接触も限定される中で、自宅から持参した私たち家族の写真をベッドサイドに置き、いつも祈ってくれていました。
 「敬ちゃん。あ、敬先生と呼ばなければいけないわね。」と、毎回言い直す姿を見られなくなるのは本当に寂しいです。しかし、復活の主の約束を握った者同士、再会できることが唯一の慰めです。

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2020-11-02
11月1日「どんな人であっても」

 先週、プロ野球のドラフト会議がありました。ここ数年、ドラフト会議の日にきまって放送される「お母さん、ありがとう」という番組が定番化してきているようです。そのタイトル通り、主役は指名を待つアマチュア選手と彼を支えてきた母親です。しかし、その選手によっては、お母さんではなく、別の家族にスポットライトが当てられるときもあります。
 今までで印象に残っているのは、広島カープの大瀬良選手。今や広島のエース格となり、球界を代表する投手となった彼が指名されるかどうかの年、「お母さん、ありがとう」も通年通りに放映されました。そこで主役となったのは、彼のダウン症の弟でした。
 弟の名前は「元気」さん。小学生の大瀬良選手がいつも自分の試合に連れて出かけるので、ある時、母親が大瀬良選手に言いました。「元気を連れて行くの、嫌じゃないの?」しかし、大瀬良選手は言いました。「何で?俺の弟じゃん!」
 大瀬良選手の姿に、主の姿が重なりました。どんな人であっても「私の友よ」と呼んでくださり、世の評価や常識ではない視点で見守ってくださり、愛してくださる神。
 ご自身に似せて造られた、その人間の素晴らしさを見たような気がします。

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2020-10-26
10月25日「切なる祈り」

 弘前市で新型コロナウィルスの感染者が日々確認されています。当初、クラスターの発生源となった飲食店はでは体調不良を訴えた方々がいらして、保健所に問い合わせたそうですが、検査には至らなかったそうです。その時検査をしていれば、とは思うものの、地方の病院は感染症の患者のために用意された病床が少ないこともあるのでしょうか。
 非常事態の中で、各自が難しい判断をしなければならない日々が続いています。突如として予定外のことを強いられる場面も増え、多くの方々が疲れ切っているのではないかと思います。
 しばらく集まっての礼拝を継続できていましたが、ここにきてオンラインの礼拝が再開です。遠隔地の方々が一同に介せる、交通費がかからない、時短になる、などオンラインのメリットは計り知れません。しかし、礼拝や信仰者の交わりをオンラインのみで継続していくことは、本来のものを超える価値はないな、と感じています。
 無観客試合が続く海外のサッカーを観戦しながら、いつになったら以前の活気が戻るのだろうかと不安になります。これが日常化しないことを願うばかりです。何よりも、感染された方々の癒やしと、そのご家族や関係のあった方々の不安が取り除かれますように。切に、お祈りいたします。

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2020-10-18
10月18日「プロの技」

 先週から隣接する家屋の解体工事がスタートしました。想像していた解体工事は重機が来て家を壊し、すぐに終了するものでしたが、工期が10日前後かかると聞いて驚きました。
 始まってみると、作業員の方々が手作業で家の建具を取り外したり、壁を壊しているのです。かつては壊して埋立地に持っていくだけだったようですが、現在では廃棄物の仕分けが厳格になり、このように手作業で家のものを取り外すそうです。
 すべての建具が取り外され、屋根と木材で組んだ家の骨格だけが取り残された状態になって、ようやく重機が来ました。恐竜の手のように見える先端を血が通った手のように動かし、その大きな「手」で電線等の細かいものさえも取り分け、時には力強く家の梁を取り除く重機の運転技術に驚嘆しました。
 最近、Youtubeで見ているのは、海外の屋台だけを映した映像です。それぞれの国の伝統的な食べ物が、プロの技によってきれいに仕上がっていく様子はとても面白いものがあります。今回は、日本の繊細な運転技術を見ることが出来ました。
 プロの技はおもしろい。そろそろ牧師を志して10年になろうとしています。プロには程遠いですが、祈られ、支えられて歩む日々です。

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2020-10-12
10月11日「神の国に転居」

 実は、このコラムを書くのは、この下の絵を描くのと同じく、極めてストレスフルな作業です。今回も本当に困っているというのが実情です。ただ、わたしの唯一出来ることは、始めたことは途中で投げ出さずに続けることです。一種の強迫観念があります。それも賜物と信じてどんな拙文でも、できなくなるまで続けることにしています。テレフォンバイブルもカウントが間違っていなければ、1777回、(多くはなっても少なくなることはない)およそ34年続いたことになります。この際お聞きになっていない方は是非、0172-32-1225(ミニ クリスマス)にかけてみてください。3分間で素敵な1日になります。
 時々、自分の顔が気になります。マルチンルターは、「神のことを想えば神の顔を映し、悪魔のことを思えばその顔となる」と言いました。悪魔の顔を映している自分に気付きドッキ!とします。       
 悪魔の一番嫌いなことは何かを考えてみました。答えは「賛美と感謝」でした。どうも笑顔も朗らかさ、友情、優しい前向きな言葉…も!反対に悪魔の好物は何だと思いますか? 「不平、不満、不貞腐れ、文句、不愉快…いくらでも出てきます。こちらの側に住んでいる自分が見えてきます。主と共なる住まいに転居したいと祈っています。

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2020-10-05
10月4日「信仰をもって」

 隣接地の内部からすべてのものが運び出されました。土地と家屋を売り渡していただく際に、「中にあるものはすべて処分して構いません。」と伺っていました。もちろん、以前の所有者の方が貴重品などをすべてお持ちになった上で、です。
 さて、内部の清掃が始まりました。教会の方々のご協力もあり、たくさんの廃品回収品と処分品が分けられました。そして、一切の片付けが終了したあと、売却できるものを揃えて業者に引き取りに来ていただきました。また、それ以外のものは、私と妻で手分けして買取業者を回りました。
 結果として、内部の片付けは自前でゴミ処理場に持ち込んだ金額も合わせると11万ほどでした。そして、すべての品物の売却が終わってみると、なんと12万ほどになったのです。
 驚くべきことです。価値がないと思われていたものを合計すると、片付け費用は全てまかなえてしまったのです。主はすべてを備えてくださるということを、再び体験することのできる機会となりました。
 今後も必要なこと、それにかかる費用等、祈りの課題がありますが、ただ信じて前進することの大切さを教わっているような気がします。

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2020-09-27
9月27日「生きて働く神」

 先週の水曜日、購入した隣接地付近に立つ電柱の移設が可能かどうかを見ていただくために、NTTから業者の方がお見えになりました。
 駐車場に整備するため、この電柱が移設できるかできないかで、大きく計画が変わってしまいます。また、移設可能であっても経済的な問題もありました。ですから、教会の方々にお祈りをお願いし、私自身も祈りつつ、業者の方とお会いしたのです。
 すると、すぐに「移設可能である」というお返事をいただきましたが、公道に立っているため、費用はかかってしまうという説明がありました。「ちなみに、どこに移動したいんですか?」と聞かれましたので、牧師館を指差して、「あの家のところまでです。」と答えると、困った顔で「ああ、それはあの家の方に許可を取らないと駄目ですね。」と言われました。そこで、「あそこは我が家です。」と答えると「んだか!」と大笑いされていました。
 その後、移設先を敷地内にすると減免になると教えてくださり、経済的にも希望が見えてきました。教会の方々の祈りを背に受けて、様々なことを具体的に相談し、見積もりを依頼する手はずになりました。
 主は祈りを聞いてくださる。今回の隣接地購入にまつわる一つひとつの出来事が、主に導かれていることを体験できる素晴らしい機会となっています。

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2020-09-20
9月20日「希望がある」

 刑務所教誨では、クラスの最初に質問コーナーをもうけています。今回も様々な質問、疑問をあげていただきました。
 「先生、『信徒の友』を読んでいたんですが、教会はキリストの体と書いてありました。どういうことですか?」と。まず信徒の友を購読していることに驚きました。その後に、キリストの体の記述がある御言葉を開いて皆で確認しました。
 次の質問はこうです。「先生、キリストの復活は実際にはあったのでしょうか。」そのことに答えるため、十字架のもとから逃げ出した弟子たちの姿と聖霊によって力を受けて復活の証人として変えられていった弟子たちの姿を聖書から見ていきました。
 復活はにわかには信じがたいことですが、そこに人の知恵を超える神の豊かさがあることを知って、解放されていく。そんな経験を証ししました。
 最後に、ある方が言いました。「私はこれで最後になります。今までありがとうございました。出所したら教会に行きます。」
 皆で出所を喜び、祝福を祈りました。「あなたの未来には希望がある。息子たちは自分の国に帰ってくる。」と御言葉にあるように、聖書の言葉が実現した瞬間でした。

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2020-09-20
9月13日「未踏の地へ」

 先週の日曜日、9月6日はわたしの75回目の誕生日でした。晴れて「後期高齢者」の仲間入りをしました。想像さえしたことの無い時を迎え、これと言った感慨もなく早くも1週間が過ぎました。恥ずかしながら、40歳のころと何も変わらないと思う自分に、ふと大きな?がつきました。
「これは喜ぶべきことなのだろうか?」と自らに問いかけました。「年寄」と思ったこともなく、「年」をあまり感じることもなく、「今までと変わらず出来る」と思っている自分でいいのか?…
ふッと、ホイヴェルス神父の『最上のわざ』の詩を思い出し心に刻みました。「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり 働きたいけど休み、しゃべりたいけども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること--。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。 ~ 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。--。 ~ 」未踏の地に招く主の声に耳を傾けようと思いました。

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2020-09-11
9月6日「収穫の主」

 先週の土曜日、三沢からジェームス先生ご家族が教会を訪れてくれました。7月に4人目の男の子(祥奨「さすけ」くん)が与えられ、その赤ちゃんも一緒でした。
 他の人の家に行くと、知らないおもちゃがいっぱいあったりして、羨ましくなったものですが、今も昔も変わりませんね。うちの子どもたちが使わなくなっているおもちゃを引っ張り出してきて楽しそうに遊んでいました。驚いたのは、うちの子どもたちがおもちゃを積極的に渡していたことです。他の人に与えることが少しづつ出来ていることに感動しました。
 ジェームス先生は、コロナ禍の中でもしっかりと高校生伝道に励んでおられます。つい最近、集会が開かれる場所で待っていたら、高校生は一人も来なかったそうです。しかし、30代くらいの男性が入ってきて、聖書とは一体何ですか?と聞いてきたそうです。そこで、ジェームス先生は聖書の神について説明し、罪と十字架の赦し、復活の希望について主イエスの福音を解き明かしたといいます。
 高校生を待っていたのに、与えられたのは別の人。こういうことは良くあることかもしれませんが、確かなのは、主が救いたいと願っておる方は山ほどいらっしゃるということです!

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