156センチの視線

2023-09-24
9月24日「神に似せられた人間」

 先週のダビデ保育園の木曜礼拝では、お誕生会を祝うため、保護者の方々も数名いらっしゃっていました。
 メッセージの中で「神は私たちに良くないものをくださらない。その存在すべてが神の栄光を現すために与えられた良いものだ」と御言葉を取り次ぎました。
 その後、お誕生日の子がいる保護者の方々に、ご自身のお子さんの「ここが良いところ」を挙げてもらいました。突然のフリに皆さん困っていましたが、それぞれ、「笑顔」「運動神経」「腰の振り」と挙げてくださしました。
 「◯◯ちゃんは、腰の振りで人を助け、世界を救うことになるよ!」と話すと、みんな大笑いしていました。
 ご自分の愛する子どもの良いところ。突然の質問に戸惑い、しばらく思案していた保護者の方々を見ながら、たくさんの良いところを思い描いているのがよく分かりました。
 主がもしあなたの親だったら、という記事をどこかで見ました。冷蔵庫や財布の中、スマホのデータはあなたの写真でいっぱいで、常日頃から周りの方々に、あなたのことを誇らしげに語るだろう、と。
 保護者の方々の眼差しに、神に似せられた人間の良いところを垣間見た気がします。 牛山

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2023-09-24
9月17日「優勝!」

 先週金曜日、義塾高校の教室に入ると、「おめでとうございます!」と多くの生徒たちが声をかけてくれました。もちろん、私が何か特別な賞をもらったわけではなく、まぎれもなく阪神タイガースの優勝に端を発したことでした。
 生徒たちの中に、少数の阪神ファンがいました。彼らと話していると、まったく話が途切れることなく、あの選手も良い、この選手は素晴らしかった、二軍にもやばい選手がいる、と尽きることがありませんでした。
 クリスチャン同士が出会うと、同じように主イエスの素晴らしさを証しを交えて語り合います。その喜び、悔い改めは尽きることなく、十字架と復活の感謝へと導かれます。この生徒たちの中から、阪神の話だけではなく、信仰の素晴らしさをこうして熱く語り合える日が来ることを願い、信じています。
 優勝してからというもの、選手のインタビューや監督の談話、コーチの苦労話などを聞きながら、聖書の御言葉の証しを聞いているような錯覚を覚える、そんな毎日を過ごしています。
 元オリックスの田口壮さんが神を信じたように。あの選手たちの中からも、まことの神をあがめる方々が出てくる。そんな希望を持ちつつ。 牛山

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2023-09-24
9月10日「出会いのプレゼント」

 9月6日はわたしの78回目の誕生日でしたが、この日、素晴らしいプレゼントを頂きました。それは、聖愛高校のキリスト教教育週間に講師として迎えられた、門間幸枝さんが当教会を、二人の教師と共においで下さったことです。
 門間さんは「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」の副代表をしておられるお方です。聖書神学校の同窓生ということで、わざわざお訪ねくださいました。40年以上も前のことで、記憶にない方もおられると思います。味噌会社一家4人が殺害され放火された事件です。従業員の元プロボクサーの袴田さんが逮捕起訴され、死刑が確定した事件です。袴田さんのこの事件は、多くの冤罪事件と同じく、極めて不合理な判決と言わざるを得ません。彼は息子宛に「チャンは決して人を殺してはいない、それを一番よく知っているのは警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを」と手紙を書いている。彼は獄中で、カトリックの洗礼を受けています。
 三十数年以上にわたってご夫妻共々に支援を続けて来られた門間さんに、「獄にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:36)イエス様の現実と出会い、原点に返ることが出来ました。友よ、心を込めて、愛と祈りを生きようではありませんか。 石川

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2023-09-03
9月3日「感染して学ぶこと」

 石川牧師夫妻、そして私たちの家族と続き、教会内のクラスター発生となりました。5月からのコロナ引き下げによって、これまでの制限が緩和され、どのように対応すべきかが人それぞれになった気がします。
 ここで、教会におけるコロナの対応を決めておきたいと思います。具合が悪くなった場合はすぐにキットや病院等で検査をし、陽性だった場合には陽性が判明してから5日間は、教会に来ないこと。そして、家族に感染者が出た場合にも、同じように教会には来ないようにし、オンラインでの礼拝を守ることにしましょう。
 教会は様々な方々が集まる場所であり、特に持病や高齢の方々も多くいらっしゃいます。対応を人それぞれにすることはとても危険ですから、教会におけるコロナ対応を今一度共有しておくべきだと思わされました。
 私たちもコロナによって自宅礼拝を余儀なくされた時、オンラインで礼拝をささげましたが、以前に比べて格段に音質等が聞きやすくなり、共に礼拝をささげている喜びを感じられました。
 もちろん、じかに交わり、共に礼拝すること以上の喜びはありません。牧師である私も、信頼できる西教会の方々に委ねることを学んでいきたいと思わされました。  牛山

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2023-08-27
8月27日「愛を受けて」

 先週は、石川牧師夫妻に続いて、私たち家族も娘以外はコロナに感染しました。そのことにより、多くの方々に多大なご迷惑をおかけすることになり、申し訳ありませんでした。そして、癒やしを求めてお祈りくださったお一人おひとりの信仰に感謝いたします。
 前回の感染と違ったのは、熱がなく、喉の調子も悪くなかったことです。ただ、頭が割れるように痛くなりました。
 浪岡には石澤先生ご夫妻が薬を持って訪ねてくださり、私たちも石澤恵先生が特別に薬を用意してくださって、取りに行くだけですみました。体調が悪いときに、このようなご配慮をいただけるのは、本当にありがたいことです。同じ地域で共に歩めることを感謝しました。
 感染によって現れる症状は人それぞれのようです。高熱、喉の痛み、頭痛、吐き気など、どれもひどくなるようです。また、すべてが合わさったような方々もいらっしゃるとか。何が起こるのか、世界情勢さながらの変化が突然に起こる危機感を感じています。
 いつも、私たち家族がこのような状況に陥った時、祈り、支えて下さる方々の存在がどれほど励ましになるでしょうか。主がお一人おひとりに愛を注ぎ、その愛を私たちは受け取っています。  牛山

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2023-08-20
8月20日「証しする人生」

 先週の火曜日、Kさんが韓国に到着しました。全国的に台風の影響がある中、8月18日の滞在期間内に無事に帰国することができたのです。
 思えば、最初にKさんとお会いしたのは4年前、石澤先生の施設に入所されているときでした。当初から熱心な信仰者であったKさんですが、当時は様々な試練の中にあって、精神的にも肉体的にも限界のご様子でした。
 すべてを失ってしまったKさんは、それでも主なる神との関係だけは絶対に切らないと、しがみつくように信仰を保ち、委ねることの素晴らしさを学ぶとともに、私たちにもそのことの大切さを教えて下さいました。何があっても大丈夫。これこそ、神が聖書全編を通して語っておられることであり、強制されたとはいえ、Kさんの生き方そのものになっていきました。
 日本に引き続き滞在したいのに、どうしても帰国しなければならないと分かった時、Kさんはとても落ち着いていました。4年前であれば、どうなっていたことだろうと思うと、信仰のもたらす奇跡は絶大です。
 韓国からの電話を通して感じられるKさんの口調は期待に満ちており、主に対する信頼で満ちていました。
 これからもKさんを通して、主は私たちに信仰の素晴らしさを教えてくださることでしょう。

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2023-08-13
8月13日「すべてが益に」

「時々」というより「いつも」、週報のこの欄を書く度に、「何でこんなことを初めてしまったのだろう?」と頭を抱え込んでしまいます。余り変化のない日常の中で、週報の絵とこの欄は、浅学菲才のわたしの手に余ること度々です。そんな今、フッと、イギリスの批評家で芸術家のジョン・ラスキンのことを思い出しました。
 彼は、「神が砂を握るとオパールに、煤を握るとダイヤモンドになる」と言いました。これがわたしたちの人生なのだと。「すべてのことは共に働いて益となる」(ローマ8:28)の御言葉が浮かび、この猛暑の中、今一度人生を振り返る良き時を与えられました。試験という試験のことごとくに失敗してきた、今日までの残り少なくなった歩みを思い起こし、御名を讃えました。
 あの数えきれない失敗があっての「今日のわたし」です。「取り返しのつかないような失敗」を通してすら、主は見事な贖いと祝福の人生を演出してくださっているのです。
 イエス様と出会った、卑しい、貧しい、罪びと達に現わされた、救いと解放と喜びの宴を今一度心に刻みました。主は、今、ここで、私たちと一緒にいてくださいます。主が共におられる「わたし」との出会いが、喜びがここにあるのです。

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2023-08-06
8月6日「御国への招き」

 先週の火曜日、川崎に行ってまいりました。幼い時から大変お世話になってきた母の兄である伯父が急に倒れ、食事ができない状態になったと聞いたからです。
 早稲田大学の元応援団長であり、祖父が一代で建て上げた三五紙業という東芝や明治製菓のダンボールを作る会社の代表として、また高砂部屋の後援会長として、何よりも親戚中から慕われるリーダーとして、尊敬してきた憧れの方です。いつも自分のことよりも他者のことを気遣い、ユーモアに溢れ、まるで主イエスのようでした。
 あと2,3日と聞いていましたが、病室に入り、意識の無くなった手を握って癒やしと永遠の命の希望について感謝を宣言しながら祈りました。その後、病室を後にしましたが、その後、意識が戻り、話ができるようになり、経口摂取できず、それまで点滴による栄養補給だったにも関わらず、アイスを食べたいということで、口にしたと報告を受けました。
 ベッドサイドには伯父の次女である私のいとこがいましたが、彼女は香蘭女学校という聖公会の学校を卒業しています。横で福音を聞き、祈りを共にできたことは、加えて与えられた神の義でした。
 これからどうなるか分かりません。しかし、主が御国への扉を開いてくださった気がしました。  牛山

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2023-07-30
7月30日「難問」

 先週、刑務所のクラスで難しい質問が出ました。その方は聖書や他の歴史書などを熟読されていて、とても熱心な方なのです。
 「先生、イエスがどれほど素晴らしい方か、よく分かりました。しかし、旧約聖書を読んでいると、神がイスラエル人に女、子どもまで殺害するように命じている箇所がありますよね。私はそこがどうしても理解できないのです。」
 これはとてつもなく難しい質問です。唯一言えるのは、私は神ではないので、明確な答えを持ち合わせていない、ということです。
 次回、このことについて皆さんと意見を分かち合うことにしました。もちろん、新約聖書をベースに理解するわけですが、旧約聖書だけで終わってしまうと、どうしても「神を信じていない人々は殺害してもいい」という理論を崩すことが困難です。たとえ、十戒において人を殺すことが禁じられていたとしても、神を信じない人を殺害する律法も存在するからです。
 主がこの地に人として来なければ、十字架がなければ、復活がなければ、人権や命について、今のような考え方はなかったかもしれません。と同時に、それを知ってもなお、争いを繰り返すのが人間だという、罪がもたらす悲劇も依然として存在しています。  牛山

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2023-07-23
7月23日「主の憐れみ」

 先週、行く予定だった秋田の脇本教会の礼拝奉仕、それに続く秋田地区の修養会は大雨の災害により中止となりました。
 開催前、大雨が降り続く中で実行委員会の方々と電話で話しました。秋田楢山教会は前の道が冠水し、被災しているとのこと、また、それでも大丈夫な地域もあるから、開催しようというご提案でした。
 しかし、津軽から秋田への電車はすべて運休が決まっており、一緒に行くはずの西教会の方々は誰も参加できない状況でした。今まで多くの時間と労力を費やしてきた実行委員の方々を労いながら、私は講師として「一緒に行く方々がいないと、ほとんど伝わらないと思います。信徒が輝く、というテーマですからなおさらです。まして、被災された方々の真横で、みんなが気持ちよく、そして楽しくできるでしょうか。」とお聞きしました。
 結局、中止が決まった後、ホテルとの交渉になりました。キャンセル料です。通常であれば、前日でのキャンセルは80%だそうです。しかし、横手教会の戸井田先生が主に導かれて交渉を続け、なんと20%にまで下げていただけたのです。ホテル側の犠牲にも感謝しますが、主が憐れんでくださったのだと感じています。

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2023-07-23
7月16日「教会が教会として」

 先週は教誨師の総会で大阪に行ってまいりました。背後のお祈りを感謝いたします。
 滞在中、ずっと阿倍野教会に滞在させていただきました。同志社時代の親友であり、阿倍野教会の牧師である山下壮起先生のご家族とは、久しぶりの再会でした。私たちの息子と同じ年の娘さんがいて、大きくなっていて、可愛く、そしてちょっぴりおマセになっていました。
 ちょうど、アメリカのシカモア教会での働きを終えた後輩の石田求先生もいらしたので、毎晩、宣教について語り合う機会が与えられました。最近は子どもたちと9時前に寝る生活でしたが、久しぶりに夜中まで話し合い、まるで大学時代に戻ったかのようでした。
 石田先生が分かち合ってくれた大学時代の友人の話はとても興味深いものでした。牧者として北海道に遣わされ、行く先々で救われる人々を増やし続けた方でしたが、最近になって牧師を辞めたということでした。そして、新たに事業を立ち上げ、人々や社会に貢献していると伺ったのです。その方が言っていたそうです。「神と人に仕えていない教会が多い。それは教会ではない。私はそんなところの世話がしたいのではない。神と人に仕えたいだけなのだ」と。
 今、私たち自身の信仰が問われる時代なのだと感じました。

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2023-07-23
7月9日「紫陽花を通して」

 祈祷会の後、用事があったので、克子さんを北常盤の駅まで送ってから、弘前に向かいました。用事が済んでから、フッと「大仏公園」(弘前市石川)の紫陽花(アジサイ)を思い出し、久しぶりに行ってみました。ここは、弘前西伝道所を開設して間もなくの頃から、野外礼拝で毎年訪れた場所です。石川城の跡地で、城からの脱出口(横穴)もあり、グランドがあり野球もしました。
 その広大な跡地に、アジサイが植えられてずいぶんになります。教会を訪れた人を以前、何度も案内したことがあります。が、いつの間にか忘れ、浪岡に来てからは思い出すこともありませんでした。突然思い出し行ってみました。
 2500株のアジサイが、それは見事に咲いていました。水曜日であるにもかかわらず、沢山の人が訪れ、見事なアジサイを愛でていました。
 以前、教会に来ていた年平均200名ほどの新来者の青年たち!彼らも大切な教会のメンバーであったことを思い出し、感謝が溢れました。
今ある教会は、これらの人々にも支えられていたのです。今ここにいなくても、これらの人たちも、主に呼び集められた大切な神の家族でした。
 見えるものしか見えていない現在の貧しい自分と出会い、悔い改めの時となりました。感謝!!

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2023-07-02
7月2日「神なき世界」

 先月の刑務所教誨で、ある方がおっしゃいました。「先生、俺はキリスト教や聖書を学んで何か足しになればと思ってここに来ました。でも、生き方を変えることはできません。」その方は今月、教誨に参加していませんでした。出所されたわけではないことは知っています。
 キリストに従う決断を促す時、このようなことは起こるべくして起こるのでしょう。十字架のキリストを主と告白し、王の王として従うのは決してすんなりと受け入れられるものではありません。まして、それまでの生き方を根底から覆してしまうほどのパワーを持つ福音は、人を魂を揺り動かします。人によっては、拒否することもあるでしょう。
 しかし、幸いなことに、残った方々はそれでも主に従うことを決めた人たちだということが分かります。他人に流されずに踏みとどまったからです。
 普段から熱心に聖書を読んでいる方が言いました。「先生、俺は天国に行きたいし、イエス様を信じればいけると信じています。でも、もし信じなければどうなるかも知っておきたいんです。」
 他の人たちも頷きました。神なき世界、地獄とはどのようなものか。知ることで救いの喜びが増すことを期待します。  牛山

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2023-06-25
6月25日「初代教会の本質」

 来たる7月17日から開催される秋田地区の修養会に講師として招かれました。テーマは教会の7つの本質です。
 せっかく秋田の全教会が集まることになっているので、導きを求めてそれぞれの教会の周年誌を開きました。そこには、これぞ本質的な教会のあり方だ、と思える創立期の様子が描かれていました。
 出稼ぎに行った東京で路傍伝道によって導かれ、帰ってきたら家族があまりの生活態度の変化に驚いて、救われていく様子。他県から引っ越してきた夫婦が聖書研究会を立ち上げて、そこから何人も救われていく様子。子どもたちへ児童文庫を開放し、やがて教会になっていく様子。ボロボロの家に青年たちが集まり、その集まりから伝道者が育っていく様子。
 やり方は違えど、どの教会にもあるもの。それが本質です。今回の秋田では、そのことを分かち合えれば幸いです。
 私たちの教会から、一緒に行ってくださる方々も与えられました。私だけでは力不足ですが、チームで協力すれば、大きな実りがあることでしょう。
 主が秋田でどんなことを見せてくださるのか、今から期待でいっぱいです。しっかりと準備して、みんなでその景色を見てこようと思います。

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2023-06-18
6月18日「子どもの信仰」

 先週の木曜日、ダビデ保育園に行って、園児たちと父の日礼拝をささげてきました。
 子どもたちに「お父さんは何をしてくれるかな?」と聞いてみると、「お料理をしてくれる」、「抱っこしてくれる」、「遊んでくれる」、「お仕事をしてくれる」などなど、普段のお父さんの姿から色々なことを教えてくれました。
 メッセージの中で、「じゃあ、天のお父様でもある神様も、みんなのお父さんのようにお仕事があるんだよ?なんだか分かる?」と聞いてみると、ある一人の子が「僕たちを守ってくれる!」と答えてくれました。
 また、「お父さんは、みんなと少しでも一緒にいたいと思う?」と聞くと、「お仕事行っているときも会いたいって思ってる!」と答えてくれた子がいました。
 「天のお父さんである神様も、少しでも多くみんなと一緒にいたいと思っているよ。じゃあ、何をしたら神様が喜んでくれるかな?」と聞くと、「お祈り!」「ありがとうって言う!」など、色々な答えが返ってきました。
 子どものように神の国を受け入れる。親に頼るしかない子どもたちの方が、よっぽど父なる神に対する理解が深く、神の国に近いのだと感じる時間でした。  牛山

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2023-06-11
6月11日「自由になる」

 わたしは事あるごとに、「自分はなんてケチなんだろう」と、ケチな自分を嫌になることがよくあります。以前より少しはましにはなっていますが、それでもやっぱりケチなのです。
 幼いころは羊羹やスイカの切られたのを見ると、「1ミリでも多いほうを」と、目を皿のようにしている自分に気づき、顔がほてりましたが、気づかれないように取り繕ってきました。欲張りでケチなわたしは、子ども心にも必死に悟られないようにごまかし続けてきましたし、今もしています。
 クリスチャンになり、牧師になると、そんな自分に後ろめたさを覚え、そうしないようにするのですが、気が緩むと本性が顔を出してしまいます。
 イエス様と出会い、イエス様の気前の良さに心を揺さぶられつつも…。完全に、自分病にかかって抜け出せないでいます。
 今、「神様(イエス様)は色覚障がい」という言葉を思い出しています。黒も白も黄もない。皆、神様の愛の作品、ということです。
 ミクロン単位の物差しをもって、ありとあらゆるものを測りまわる愚かしさから解放されなくては、と願い祈っています。「真理はあなた方を自由にする」と言われた自由という愛から何と遠いこと!福音の何と深いこと!主よ、憐れみ給え!

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2023-06-04
6月4日「出かけていって」

 奥羽教区総会が3年ぶりに対面で開かれました。懐かしい顔ぶれと、この3年間の間に着任された新しい牧師先生たちともお会いすることができました。顔と顔を合わせて再会することに飢えていたことが分かるほど、皆さんの笑顔が印象的でした。
 さて、日本基督教団の秋田地区の教会がすべて参加する修養会が7月にもたれます。その講師としてお声がかかりました。タイトルは「教会の7つの本質(一人ひとりが輝ける教会へ)」です。
 教会の本質を学び始めて7年目。それでも失敗の連続ですが、基準を知っていることは何と大事なことでしょうか。かつて、救われる前には確固たる基準がなく、何事も自分次第であり、失敗を失敗とも思っていませんでした。そこが大きな失敗でした。
 今では聖書という基準があるので、失敗しても十字架のもとに戻れることが何よりも幸せです。また、失敗の原因や対処についても御言葉が示してくれます。
 秋田では、これまでにしてきた失敗の数々を披露しながら、人が失敗しても神の宣教は継続すること、そして、そのように各教会が歩まれてきたことを励ましたいと思っています。
 そんなことを思いながら、秋田地区の各教会の周年誌を眺めています。  牛山

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2023-05-28
5月28日「楽しい時」

 私が受け持つ東奥義塾の授業の中で一番好きな時間があります。それは、グループ・ディスカッションを早めに終えた生徒たちと雑談をする時間です。
 ある時は、生徒が手にしている割れたタブレットの話。ある時は進路の話。またある時はラーメン屋の話。他愛もない話題のようですが、大切な生徒との交わりの時です。
 しかも、今年度から聖書科の定期試験がなくなり、授業中の評価が全てになったことで、グループワークが多くなり、交わりの時間も増大しています。これは本当に嬉しいことです。
 特に、今年は3年生を担当させていただくことになったので、2年生よりも成熟した、最上級生という印象を強く感じます。学校生活にも慣れて、聖書の話題にもある程度ついて来ることができるのです。
 何よりも、十字架と復活という聖書と信仰の根幹をなす知識については、前年度の先生方の労苦によって、ほとんど完璧に答えることができるようになっていて、嬉しい限りです。
 卒業前までに、主の素晴らしさにますます触れられるように、教会の背後の祈りをよろしくお願いいたします。  牛山

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2023-05-28
5月21日「コロナで失ったもの」

 昨日、娘と息子の運動会が行われました。運動会となれば、だいたい日曜日が多く、ほとんどの牧師先生は観戦できなかったとおっしゃっています。しかし、今回は土曜日の開催だったのです。
 弘前に来て10年。娘も息子もあっという間に幼稚園、小学校、そして今度は中学校へと向かっています。これから10年経つと、娘は成人です!
 これまで、主なる神と教会の方々に育てられ、養われて今があります。愛もなく、忍耐力もなく、謙遜さもなく、能力のない私にできるのは、ひたすらに主イエスを通して現された神の国の福音を宣べ伝えていくだけです。そのためには、聖霊の助けと一致した教会の背後の祈りが何よりも必要です。
 宣教のためだったら。それがキリストの体である西教会の特徴でした。コロナの影響が大きく現れたのはその重要な部分だったのだと、私自身を振り返っています。
 宣教のために出ていくことができなかった期間を経て、そのことを失ったときに受ける損失がいかに大きいのかを経験しました。すでに今年は秋田へ、沖縄へ、大阪へ、と声がかかっています。
 出かけていって、という主の命令に戻るときが来ました。  牛山

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2023-05-14
5月14日「すべてが用いられて」

 何がきっかけになったのか思い出せないのですが、幼い頃、アルヴェルト・シュバイツァーのようになりたいと思っていました。教会学校で、藤田恒男先生から聞いたのか、母が買ってくれた偉人伝で知ったのかは定かではありませんが、子ども心にもシュバイツアーの生き様に大きな感動を覚えたことを思い出しました。
 パイプオルガンの卓越した演奏者であった彼が、
アフリカ行きを決断した時、師であったシャルル・ウィドールが「本当に君は決心したのか、後悔しないのか」と無念がった時、シュバイツアーは、「神がわたしを呼んでいますから…」と答えたという。その彼が、「キリスト教の本質というものは、イエスの語られた如く、我々が愛することを通してのみ神との交わりに到達するということである。生き生きとした神認識の一切は、我々の心のうちに、それを愛への意思として経験するかどうかに懸かっているのである」と明言する。
 彼は「感謝の人」であったという。それは、牧師であった父によって習慣づけられたものであった。「愛と感謝」は信仰の双生児ということが出来るように思います。「すべてを捨てて」ではなく、「全てを用いて」全力で生きた貴い人生を考える時を与えられて感謝しました。 石川

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