156センチの視線

2022-01-08
1月9日「原点に」

 『弘前西教会20年誌』と『弘前西教会40年誌』を手に取り丁寧に読み返しました。それは母校である聖書神学校の3月7日の卒業記念礼拝での説教を依頼されたからです。
 「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道 3:11)の御言葉を信じつつも、時が近づくにつれて少々負担になってきました。コロナ禍での卒業式のため、20分でとのこと、アベ・ピエールのように短くできればと思いつつ。
 「いざ!」という時、自分の本音が出てきます。「伝道開始」の1年生を送り出すために、少しは気の利いたことを…」などとつい本音のスケベ根性顔をだします。相も変らぬ自分と出会います。
 今までの単なる歴史ではない、生きて働かれる主と共に歩んできた小さな証を、と思い定め『20年誌』『40年誌』を手に取りました。
そこには溢れるばかりの、忘れてはならない主の恵み、家族、共に歩んでくれた多くの、主が備えてくださった兄弟姉妹がいました。言葉にならない感動に心が震え胸がいっぱいになりました。
主は、今一度、原点に帰る時をあたえてくださいました。「すべてのこと共に働いて益となる」ことを!今、ここそが、主の愛と感謝に生きる福音の現場であることを、噛みしめています。

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2022-01-02
1月2日「何があっても大丈夫」

 昨年も様々なことがありました。楽しい事ばかりではなく、苦しいことや悲しいこともたくさんありました。しかし、唯一言えるのは、どんな時にも神の助けがあり、生きて働くそのみ姿を拝することができたということです。
 今年はどんなことがあるのでしょうか。もちろん、「何があっても大丈夫」が主イエスの弟子としての特権でもあるのですが、皆様は何を期待しているでしょうか。
 コロナの影響が少しずつ常態化し、数も減ってきたことでできるようになったこともありました。クリスマスに久しぶりにもたれた聖餐式などもその一つでしょうか。
 最近、教会の方々が口にされるのは、「カレーが食べたい。」という愛餐の復活です。台所をリフォームした矢先にコロナの蔓延がありましたから、なかなか利用してくれない業務用コンロが悲しみの叫びを上げているような気がします。食事を共にすることは聖書的でもあり、良い交わりの機会でもあったので、早く再開したいものです。
 主は今年、一体どのような景色を見せてくださるのでしょうか。変わらぬ愛をもって、私たちにご自身の栄光を現されること、これだけは間違いありません。

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2021-12-29
12月26日「宣教地への道」

 先週の礼拝後、子どもたちとクリスマスをお祝いしました。今までは、外からもたくさんの子どもたちを呼んで盛大に祝っていましたが、コロナの影響で縮小せざるを得ませんでした。
 最近、宣教師の先生方とお話しましたが、コロナの影響で若者たちの短期宣教への道が閉ざされていると嘆いておられました。短期宣教には学生が派遣されることが多いのですが、海外への渡航が制限されているうちに、彼らが卒業し、就職してしまうので、時間的な余裕がなくなってしまうのです。
 海外宣教の現場を見ることは、日本が未開の宣教地であり、自分も伝道を担っている一員であることを再認識する良い機会になります。新しい人と出会い、その方と関係を築き、心の悩みなどの深い相談ができるようになり、祈ること、福音を語ることの機会が与えられていく様子は、初代教会を感じられるリアリティがあります。また、もし貧困の地域に派遣されるならば、自分が豊かであることに気付きます。私もミャンマーに派遣されたことが一生の宝になっています。
 年の最後に祈り求めるのは、コロナ騒動の終焉です。ウィルス自体はなくならないかもしれない。それでも、この騒動だけは収まってほしいと願いながら、給付金の支給を告げる紙を見つめています。

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2021-12-19
12月19日「信仰の芽生え」

 先週の刑務所教誨では、早めのクリスマス礼拝をおささげしました。
 礼拝が終わったあと、メッセージを受け取った感想をお聞きしました。すると、ある方が言いました。「私の中には、あれして欲しい、これして欲しい、ということばかりです。人に何かをしてあげようと思うときでさえも、それをするとどんな利益があるかを考えてしまいます。私の心の中は真っ黒なんです。」
 そのような誠実な告白を受けて、教室は静まり返っていました。そこで、私自身の真っ黒な心に、主イエスが生まれてくださった証をしました。
 クラスが終わる頃、別の方が言いました。「聖書を読めば神を信じることができるようになるでしょうか。」その方は3回目の参加です。「読まなくても信じることはできます。しかし、読むと、神が信じるに値する方であることが分かります。」と告げました。「でも、信じたいんですね。」と伺うと、「はい。」と力強く答えられました。
 最後に、今回で出所になる方の肩に手を置き、祈りました。信仰を与えられて出ていく人と、信仰が芽生えつつある方々。主の福音が届かない場所はありません。私のような者の汚れた心にも来てくださったのですから。

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2021-12-12
12月12日「祈りは聞かれる」

 嬉しいうれしいメールが届きました。2019年10月ごろからメールで連絡をとるようになったMさんが、このクリスマスに川崎の教会で洗礼を受けることになったのです。
 Mさんは、茂森町の実家で伝道を開始し、森町に移った頃、(40年前)たくさん来ていた聖愛高校生の一人でした。高校を卒業し看護学校…上京して帰省した時は必ず教会に顔を出してくれました。結婚式も住んでいた川崎の教会ではなく、真夏の熱い日、袋町の旧会堂で挙げました。それからも時折帰郷する度にご夫妻で教会を訪れ、今日まで細々としたお付き合いは40年を超える年月を数えました。
 退職とご主人の体調不良の中、近くの教会に定期的に通うようになり2年余になります。ご自分のこと、ご主人のことや教会での説教や学びをメールで毎週知らせてくれるようになりました。
 その頃から、Mさんの洗礼を祈るようになりました。主ご自身の招きと、本人の信仰と祈りの決断が、この喜びの時をもたらしたのです。
 新たなる、「主、祈りを聞きたもう」の確信を与えられました。「浪岡に来ることは出来ないので、せめて洗礼名を!」との願いを受け、「エリサベト」の名前を。神様から何よりのクリスマスプレゼントをいただきました。主、来り給う!

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2021-12-05
12月5日「信仰の継承」

 先日の刑務所教誨で、いつものようにお一人ずつ感謝だったことをお話していただきました。その中で、数ヶ月前に「急に誰からも連絡が来なくなった。」と不安を口にしておられた方がおっしゃいました。「私はイエス様に祈りを聞いていただきました。」
 その方は出所が近づき、先行きに不安を感じていろいろな方々に手紙をお送りしたそうです。しかし、誰からも返事が来ない。不安と孤独の中で、主に祈ることを始められたとのことでした。しかも必死に。
 それから数日後、まったく忘れていた方から連絡があったそうです。しかも、「出所の時、青森は冬だろうから、迎えに行くよ。」とのこと。喜びが溢れたそうです。しかも、冬服をすでに買ってあると聞いて、非常に驚いたようです。
 私はその方に伺いました。「どんな祈りをしていたんですか?もしよろしければ、今、他の方のためにもなるので、祈り方を教えていただけませんか?」すると、その方は他の方々の前で祈ってくれました。「イエス様、私は怖いんです。これからどうなるか分かりません。誰からも連絡も来ません。助けてください。」静まった部屋中に彼の心からの叫びが響きました。
 およそ二年間、共に聖書と信仰について分かち合ってきた方が、新しく加えられた方々にとって信仰の先輩となった瞬間でした。

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2021-11-28
11月28日「神の言葉の力」

 先週、急に召されたMさんの葬儀を執り行いました。召される前の週も、夜の祈祷会に出席され、息子さんのご結婚が決まったことの喜びと、次の週からのご予定を楽しそうに話しておられたので、娘さんから訃報を伺った時、まったく信じられませんでした。
 愛するMさんの突然の別れを前にして、ご家族はそれぞれにご自身を責められたり、悔しさを口にされておられました。もちろん、教会の方々も一様に驚きを感じられておりました。
 葬儀が終わり、娘さんが教会を訪れてくださいました。そして、2019年に召されたお母様の葬儀を西教会でもったこと、そして今回のことを踏まえて、本当に教会で葬儀をして良かった、と感じられたそうです。「こう言ってはなんですが、とても励ましを受けました。これから家族で新しい一歩を踏み出していこうという気になれました。」と語ってくれました。
 教会の葬儀にはじめて参列された方々もおいでだったそうです。そして「とても希望に満ちたメッセージを受け取れました。葬儀の前は、『何かしてあげられなかったか』と思うところがありましたが、天国に行くことができたんだと思うことができました。」
 Mさんとの出会いを心から感謝し、御国での再会を胸に、ご遺族の慰めをお祈りします。

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2021-11-21
11月21日「感謝のプロ」

 先日の祈祷会で、ある方が「感謝ノート」をつけていることを分かち合ってくださいました。毎日続けて、1ヶ月経ち、1年経ち、そして10年になるとその道のプロになるように、感謝のプロになれるかも!とのことでした。素晴らしく聖書的な取り組みに感動しました。「私もしてみたいな」と思い、それならば、と毎晩、家族で食卓を囲んで一人ずつ感謝だったことを3つ以上発表することをはじめました。
 新しいことを始めると、すぐに飽きたり、途中でやめてしまう私なので、この新しい取り組みが継続するかどうか不安でしたが、何よりも大喜びで話をするのは子どもたちだったのです。
 子どもたちはそれぞれたくさんの感謝を口にして、次々に考えを発表してくれます。そして、私たちが今日一日のことを考えていると、「まだ?それだけ?」と言いながら、感謝の言葉を待ちます。どうやら、私たち夫婦よりも、子どもたちのほうが先にプロになってしまいそうです。
 どんな年齢になっても、どんな人でも、脳は成長する、とした「脳の可塑性」という新たな科学的発見は、私たちがいつでも感謝のプロになれる道を残してくれています。
 「どんなことにも感謝しなさい。」感謝の創造主が与えてくださった道を歩んでいます。

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2021-11-14
11月14日「神の民の祈り」

 2022年4月から東奥義塾中学校が再開されることが正式に青森県により承認されたとの報告をコルドウエル・ジョン塾長から10日(水)にメールで受け取り、感謝の祈りを捧げました。
 確信はあったものの、本当の意味でのスタートラインに立ったことが実感され感謝が溢れました。少子化の進む中、義塾存続と新しい時を築くため、東奥義塾の原点に立ち帰るための大きな決断が必要でした。ここに至るまでの道のりは、全てのがそうであるように大変厳しいものがありました。
 何度もの理事会、評議員会、教職員との話し合いを続け、新しい時に向かって一歩一歩、誠実な歩みを続けて今日に至りました。感謝が溢れます。
 この時が与えられたのは、塾長と同じ志を持つ森内美夫理事長との深い信頼関係でした。理事長、塾長が共にクリスチャンであり、祈りを共にし、神様の前に首を垂れ、御心をたずね求めることは何よりの神様からの賜物でした。
 中学校設立を通し、義塾がこの津軽で新しい時を切り拓いて行くことが出来るようにと祈りを新たにしています。義塾に対して温めていた祈りが聞き入れられてきたことに感謝が溢れます。
 東奥義塾のために、また、弘前学院のために、お祈りください。共なるキリストの体として。

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2021-11-07
11月7日「命に感謝」

 先週の水曜日は祝日で、祈祷会はお休み。私たちは家族でシャローム切明に行き、そのそばにある「フォレストパークひらかわ」で魚釣りをしてきました。
 いつも岩木山の釣り堀や、座頭石に釣り堀があったときはそちらに、また相馬の釣り堀にも出かけていましたが、今回は初めての場所です。
 広々とした園内には、ルアーの釣り堀が2つ。餌釣りの釣り堀が2つあり、何よりも魚のサイズが大きいのです!しかも、入れ食い状態です。子どもたちは得意になって次々と魚を釣り上げました。私たち大人はもっぱら釣り針を外す係です。
 帰りに魚を唐揚げにしてもらいました。久しぶりに食べた魚のから揚げはとても美味しく、子どもたちもスナック感覚でたくさん食べました。
 娘が言いました。「とても楽しかったし、美味しかったけど、お魚さんたちを見ているとなんだかかわいそう…。」そんな優しい娘に声をかけました。「いただきます。というのは命をいただくということ。この世界は、誰かの犠牲の上に成り立っているから、その方に感謝しないとね。今日はお魚さんに感謝しよう。そして、お魚を与え、命を与え、天国へ導いてくださるイエス様にも感謝しようね。」
 紅葉も終わりを迎える津軽の秋でした。

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2021-10-24
10月24日「福音の本質」

 先週の日曜日、礼拝のあとに高校生のY君を前に呼んで、彼の決心をみなさんと分かち合いました。特別に、彼を心にかけていた一人、コルドウェル・ジョンさんにお祈りをしていただきました。Yくんがイエス・キリストを信じ、洗礼を受けることを決めたからです!
 後日、Yくんと聖書の学びをする中で、洗礼式のことを分かち合いました。帰り際、彼が言いました。「まだまだ分からないことばかりですが、洗礼が楽しみです!」
 コロナ禍の中で、神の御国が確かに前進しているのを感じます。引き続き、若者たちの救いが起こされ、リヴァイバルの火が津軽の地に拡がっていくのを見るようです。もちろん、リヴァイバルは目的ではなく、単なる手段であり、神の栄光が表される一つのしるしであろうと思います。
 問題課題があり、病があり、壊れた人間関係がある。その回復ももちろん手段です。それは神が生きて働く証となるためのものです。大事なのは、「見ないで信じる」こと。
 何も分からなくても、主が救い主であることを信じることができること。それが福音です。

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2021-10-17
10月17日「祈りに支えられ」

 先日、刑務所で聖書の学びをしているとき、ある受刑者の方が言いました。「自分はもうすぐ出所ですが、出てから先生の教会の礼拝に参加してみたいのです。オンラインで礼拝を中継したりしていますか?」答えはイエスです。「教会でも皆さんのことをお祈りしているので、実際にオンラインでもお会いできれば、教会のみんなも喜ぶと思いますよ。」
 その後、他の方々からも教会のことを色々と聞かれました。すると、後ろにいた職員の方が「先生の個人情報を聞くのは待ってください。」と参加者の方々に注意しました。クラスが終わってから、別の職員の方に「実際、どの程度まで開示してもいいのか、責任者の方に聞いていただいてもよろしいですか?」とお願いしました。
 後日、再び刑務所に行くと、「前に伺っていた件ですが、特にルールはないそうです。」とのことでした。安心しました。もし、何らかのルールがあって抵触していた場合、対話形式のクラスから講義形式のクラスに変更することになったでしょう。その不安を打ち明けると、「教誨のクラスについては1回毎に報告書が上がってきます。先生の講義は評判いいですよ。」さらに安心しました!
 これに奢らず、職員、受刑者の双方に福音が届くことを期待します。

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2021-10-09
10月10日「天使の働き」

 「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされている」(ヘブライ1:14)と聖書にあります。皆さんは天使についてどのようなで、理解を持っていますか?
 天使は、新約においては、キリスト降誕の時のみならずたくさんでてきます。ご存知でしたか。是非興味をもって聖書を読んでみてください。きっと驚きに満ちた発見をすることでしょう。
 ドストエフスキーは、危機を通り抜ける度に「誰かが自分のために祈ってくれたのだ」と感謝の祈りをささげたといいます。その信仰が作品の豊かな薫りと深さを与えたのでしょうか。
 わたしは幼稚園の時から教会に通っていましたが、「天使」は、クリスマスの時だけの出てくる特別出演者のようでした。今、この年齢になって、さまざまな時に、「天使」と出会うことへと導かれていることに感謝しています。
 そして、今この年を迎え、自らが小さな天使となる希望を与えられて歩めることの希望をいただきました。祈りには天使の翼が付いていることが確信できるようになったからです。あなたも天使の仲間に加わりませんか。小さな「祈り」、「笑顔」、「言葉」の天国出張所浪岡教会の天使として。

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2021-10-03
10月3日「主の子どもたち」

 先週の木曜日、いつもであればダビデ保育園で木曜礼拝をささげているところですが、9月中は休止でした。そんな話をしていると、息子が言いました。「お父さんに来てほしい!」幼稚園でのお誕生日会のことです。
 コロナの影響でどちらか一人の親が参加できるというプレミアムなお誕生会です。いつもは妻が付き添っていますし、息子もお母さん大好きっ子なので、今回もいつもどおりか、と思っていたところに息子の一声です。「お母さんは来られる日が多いけど、お父さんはなかなか来られないから。」という理由だそうです。息子はとても優しい子で、親である私にまで配慮してくれているのです。
 さて、当日は昇天教会に集合し、子どもたち全員と誕生月の子どもの親たちが礼拝をおささげしました。司式をするのは長谷川司祭。なんと、聖公会には珍しく、同志社大神学部出身の大先輩です。
 とても楽しいお誕生会でした。幼稚園には教会に来ている子どもたち、来たことのある子どもたちがいました。彼らもまた、私のことを覚えていて、楽しそうでした。

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2021-09-26
9月26日「みんな特別」

 先週の木曜日、JCMNのサミットがオンラインで開催されました。このような集会は、通例であれば特定の講演者の話を聞いたりするものですが、私たちは「みんなが特別な人」ということで、「教会の本質に出会ってどうなったか、これからどうしたいか」というテーマで、それぞれの証を分かち合う小グループを持ちました。集まった瞬間からこのようにグループに別れ、それぞれが同じ持ち時間を使って証をするというのは、珍しいのではないかと思います。
 かつて、北西地区でもそのような集会を持ちました。テーマは「私が救われた経緯」でした。しかし、「そんなことでは時間が余るのではないか。」「しゃべれる人は限られる。」といった懸念が出されましたが、蓋を開けてみれば、全く時間が足りず、「もっと話を聞きたかった」「あの人がそんな歩みをしてきたなんて」という驚きと感動の声で満ちていました。
 もちろん、特別な方が特別な話をする集会も素晴らしいものですが、それしかないのはもったいない事です。初代教会では当たり前だった万人祭司の価値観を取り戻すため、教派を超え、牧師や信徒といった立場も超えて、全国の方々と祈りを共にできたことは、大きな喜びであり、恵みでした。

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2021-09-19
9月19日「獄中からの賛美」

 先週、刑務所に行くと新しい方がクラスに参加されていました。新しい方が来ると必ず聞くことがあります。それは、どうして聖書を、あるいはキリスト教を学ぼうと思ったのですか、という質問です。今回の方はこうおっしゃいました。「賛美歌が歌いたいからです!」その後、皆さんに言いました。「では、新しい賛美に挑戦しましょう!」と。
 これまで、刑務所に備え付けの旧賛美歌から「いつくしみ深き」や「おどろくばかりの」を歌っていましたが、「これから何曲か歌いますので、その中から多数決で決めましょう。」と言って、4曲歌いました。1曲終わるごとに拍手をしてくださるので、照れながら、「では、今まで歌った曲でどれがいいですか?」と伺うと、ほとんどの人が「主の癒やし受け取ろう」を選んだのです。ある方が言いました。「その曲からは、まるで神様の愛が溢れ出ているようです。」
 新しい方も加わって、賛美の意味や、大きな声で歌うと心に入ってくることを告げて、みんなで歌いました。「いつくしみ深き」です。
 新しく参加してくださった方は、本当に賛美歌が歌いたかったんだな、と分かるほどの大声量で、友なる主の素晴らしさを賛美しました。いつもは静かな刑務所に、救いを求めて神のもとに来た人々の、叫びにも似た歌声が響きました。

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2021-09-12
9月12日「祝福を生きる」

 毎日聖書を読み、聖書を語るために学び、聖書を生きようと祈り、聖書に従うべく自らを整える。そのような日々の中にいると、自分が御言葉と共に歩んでいるかのように錯覚してしまいます。
 テレフォンバイブルの準備をしていた時、「敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」(マタイ5:44)の御言葉を与えられ自分の今日を省みました。実体の伴わない自分を示され悔い改めの機会を与えられ感謝しました。小さなことに「怒り、腹を立てる」のでは、相手と同じかそれ以下の存在でしかないことを示されたのです。
 御言葉を、生きる人間になるために、その当事者のために「祝福を祈る」ことへと方向転換しました。そのことを義塾の礼拝で話しました。授業に行くと生徒が、「先生、今日の話,いがった!」と。夏休み以後度々言われます。
 御言葉は、それを「生きるわたしの為に」あることを再確認し励まされています。「キリストを生きる」ことには程遠くとも、キリストと共に-インマヌヱル-を生きる希望は約束されています。不可能に挑戦するための信仰の人生です。「腹が立ったら、侮辱されたら」不本意であってもその人のために祈ることへと幾度目かの舵を切ることにしました。人生が少し軽やかになりました。 石川

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2021-09-05
9月5日「祈りの記念」

 子どもたちを連れて弘前公園に向かう途中、家の近くにある水門の急流を覗くと、まだ小さな鴨が2羽、流れの速さに負けて飛べない様子でした。遊んでいるのかとも思えたので、そのままにして公園で遊ぶことにしました。
 小一時間が経過して、帰り道にもう一度覗いてみると、まだそこにいたのです。子どもたちが「かわいそう!」「助けられないの?」「どうにかして!」と騒いでいるので、「助けたくても、自分の力では無理だと思うなら、どうすればいいと思う?」と聞くと、「神様にお祈りする!」と言って祈り始めました。「誰かを連れてくる!」ではなく、「祈る!」と言ったことに驚きました。
 ちょうどその時、近所の方が長い棒のようなものを持って外に出てきました。妻が状況を説明し、物干し竿に洗濯かごを取り付けてやってきました。私はそのアイテムを受け取ると、溺れながらも捕まらないようにと逃げる子鴨を救い出しました。子どもたちは歓声を上げて、主を賛美していました。
 子どもたちの祈りが聞かれたおかげで、私も子鴨と一緒に泳ぐはめにならずにすんだのです。その時に使ったアイテムは、その方の家の裏に今も置かれています。私たちにとって、「祈りが聞かれた」記念品となりました。

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2021-08-29
8月29日「証と疑問」

 月に一度の刑務所教誨では、現在5名の方々が聖書を学んでいます。毎回の質問コーナーでは、様々な質問があげられます。独身の方は、「一度好きになった女性と別れ、次に好きになった女性がいればダメなんでしょうか。」「酒や煙草は大丈夫なんでしょうか。」「教会にはどんな種類があるんでしょうか。」「お墓参りはしていいんでしょうか。」
 それぞれの質問に、聖書の箇所を適用して、わたしなりの考え方をお伝えします。すると、「〜しなければならない。」の呪縛から解放されていく皆さんの反応と明るい表情が印象的です。何よりも、自分の罪を赦してくださり、十字架で命を捨ててまで助けてくださる神の姿に驚きと感動を覚えておいでなのがよく分かります。
 ある方は、自らNPO法人の「マザーハウス」に連絡し、文通を始めたと言います。クリスチャンが始めた刑務所文通のNPOですが、そこで大きな励ましを受けているそうです。そのような証とキリストにまつわる多くの疑問が出され、今ではこちらで準備していったものを全くやらず、ひたすらにQ&Aを繰り返しています。
 笑いあり、涙あり、神の姿に感動あり、と。多くの方々の背後の祈りを感じるひとときです。

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2021-08-22
8月22日「小グループのルール」

 先日、JCMNに連なる全国の教会の諸先生方と、小グループで大切なことは何かを考えました。セルグループを持つ、多くの教会ではいくつかのルールがあるようです。それは、「裁かない」「教えない」「秘密を守る」「相手を尊重する(愛する)」といったものでした。
 私たちの教会にも、いくつかの小グループがあります。おそらく、それぞれの小グループでこれらのルールは暗黙のうちに守られてきたことでしょう。なぜなら、そのようなルールは小グループのみならず、信仰生活においても重要な要素だからです。
 個々人に与えられた使命も違えば、聖書の理解も異なります。また、信仰生活の長さは、そのまま信仰の深さや神との出会いの体験数と比例するものでもありません。自己発見型のバイブルスタディを経て、それぞれがご自身の思いを率直に言い表せるようになってきた今、教会内に様々な考え方が出てくるようになりました。しかし、それは同時に個性の違いを明白にするものでもあり、注意しなければ、批判や裁きにつながってしまいかねません。
 私たちはどんな人でも神の助けを必要とする罪人であり、主イエスとその御言葉が唯一の教師であり、互いに愛し合うチームとして導かれていることを、今一度、確認する必要があると感じました。

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