156センチの視線

2019-06-02
6月2日「今この時、聖霊に導かれ、愛を選ぶ」

人は、「他人を自分の見たように仕立て上げる」ことを、御言葉を通し悔い改めをもって確認をしています。止むことの無いこのくり返しの作業に別れを告げる時がおとずれました。今回、少しは前進できそうです。新しい時が始まる、ささやかな予感の中にいます。「いつまで続くやら?」という従来の繰り返しからの脱却の良き機会です。
 不思議なことが起こっているのです。小さな無数の今日までの出来事が、時を作り上げていることに気付くようになりました。確かに、「わたしのときはあなたの御手の中にあります」(詩31:15口語)が現実の出来事として力強く迫ってきます。「今は恵みの時、今日こそ救いの日」です。
 来週にペンテコステを控える今です。
 聖霊は、神と人との平和を実現します。正直言って、「イエス様(神様)と不仲であった自分」を見つめています。これからは、他人の所為(せい)や、事柄の所為にしないで歩めそうです。使徒たちは、聖霊により他国の言葉で語りました。いつも新しい時は、聖霊により愛として結実します。  
全ての時は、「今」聖霊に導かれ、愛を選ぶ力を与えていただくことです。十字架の愛の命に包まれているわたしたちなのです。

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2019-05-12
5月12日「信じつつ、祈りつつ、種まきをしつつ、歩む恵みの中で」

桜の花が散ると、神様の絵具箱の色彩が津軽の大地を賑わし始めます。5月5日は立夏でした。「恵伝の園」は、チュウリップや水仙に続き、サクラソウ、シバザクラ、すみれ、スノーフレークが咲き、ウドが「食えるぞ」と頭を出し…。ハナミズキが花を。薔薇も50本の中の一本だけは早くも小さな蕾をつけ始めました。畑も耕され、畝作りに備えるまでになりました。
 浪岡で4回目の春を迎えましたが、こちらに来て
からは山菜を探しても出会えずに残念でした。サラの朝夕の散歩コースを、桜のお花見を兼ねて浪岡城址変え、「どこかに?!」と探し回っていると、「あった!」のです。見事な「こごみ」が。嬉しくて、ご近所の方にお裾分けをして喜んでいただき、笑顔をいただき感謝でした。
 そして水曜日の夕、とうとうワラビを発見し、木曜日の朝、収穫に!初物にしては大鍋一つの立派なワラビを収穫し「幸せ!」の限りです。
 このこと以上に、何よりも嬉しいのは、大学生と20代の青年が礼拝に出席していることです。「聞き入れられている祈り」を信じて歩むことは何と幸いなことでしょうか。信じつつ、祈りつつ、種まきをしつつ、感謝と喜びと賛美の日々を歩む恵みの中です。皆の祈りを想い、祝福を祈りつつ。

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2019-04-07
4月7日「最善はこれから…」

神の時は、神への信仰に生きる人々によってもたらされます。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ2:13)の御言葉に押し出されて歩みだした45年前(祈り始めたのはその3年前)でした。
 何も解っていませんでした。解っていたのは、「神様がいらっしゃるからどうにかなる」ということと、共に歩んでくれる妻がいてくれたことでした。皆の心配をよそに走り始めました。それが全てと言えばすべてでした。今思えば、それで正解でした。…そして今、何かを見失い始めている自分を感じています。神様の促しに対する「応答としての行動」に生きることです。
アブラハム75歳、モーセ80歳、マリア、ヨセフは若年で!「神の時」は、年齢、性別、知識…によりません。ただ、「はい」を生き、信じる者を通して現されます。まさしく、「最善はこれから…」(R・ブラウニング)なのです。
 「時」は、神様の守りと慈しみの力の中に開かれていきます。ひたすら聖霊に導きのもと、「主が共に、主と共に」の歩みへと一歩踏み出すよう促されています。肝心なのは、わたしの思いがどこに結び付き、何を信じ、従い続けていくかです。最善に導かれている今を感謝しつつ。

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2019-03-10
3月10日「存在、こころ」

自分の本当の姿に気付くことは難しい、というのは、無様(ぶざま)な自分を認めたくないという思いの自己防衛が本音のようです。
 わたしは良く物忘れをするばかりでなく、いろいろな出来事が記憶にないということが余りに多いことに気付き、最近、慌てふためいています。
 日常生活での出来事も恥ずかしいほどに忘れています。妻は、父や母のこと、子供たちのこと、教会と人々のことを、その時々のエピソードを含め、一つ一つの詳細にわたって記憶しています。そして、宝箱から宝石を引き出すように手繰り寄せます。わたしから見れば奇跡に近い出来事です。
D・ボンヘッファーが、「忘れるか忘れないかは、記憶力の問題ではなく、私という人間全体の問題、そしてとりもなおさず心の問題である。そしてそれに肉体と魂とが関係していることをわれわれは忘れてはならない」と。心に沁みます。
「存在、こころ」の問題なのです。わたしが創造と言葉における神の秩序に関わる時、忘却から自由になるになるのです。「忘却を阻止するものは愛」だからです。愛のない自分をあるがままに受け入れることが始まりです。御言葉を忘れてしまう自分も。「焦らず、ゆっくり」と言い聴かせつつ、
「最上のものはこれから先に」を信じ、愛に…。

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2019-02-10
2月10日「愛と信頼」

「一つ一つ」、「小さなことに大きな愛をこめて」、」と何度も心の中で繰り返すことなしには、「先走り」、「思い込み」、「否定的反応」の餌食になってしまう自分です。
 「いっきもっき」(津軽弁で性急に)である自分にあきれ果てる日々の中です。そんな中、「少し」(エリザベス・ノーベル)という「砂糖をほんの少し入れるだけで、料理の味を変えることができます」で始まる詩を思い起こしています。失敗はいつも急ぎ過ぎることです。今に至るも、母の「いっきもっきにかがらねんで、少しおじずぎへんが(落ち着きなさい!)」の声が聞こえてきます。
 「何故こんな自分に?」答えはわかっています。「欲張り」だからです。「思った通り」「少しでも早く」これが曲者(くせもの)なのです。大切なものは、すぐには手に入りません。「愛と信頼」は一朝一夕に造り出すことは出来ません。すぐに手に入るものは、それだけの価値しかないものです。
 残りが少なくなってく人生だからこそ、ゆっくり、「いっきもっきにカガラネンデ」大切に、感謝と笑顔で歩んでいきたいと思う日々です。「遅すぎることがない」人生の真理の豊かさに感謝しつつ。
 愛の御手の中にある「今」を信じることができる、小さな信仰に励まされています。

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2019-01-13
1月13日「信仰の深み」

 2019年も1月半ば、文字通り、矢のように月日が過ぎ去っていきます。「昨日またかくてありあくせくけり 今日もまたかくてありなん この命 なにをあくせく 明日を飲み思い煩う…」(島崎藤村)のごとき一年にならぬようにと…。
 昨年後半に、一人の方との出会いが与えられ、自らの心の浅さが、ボディーブロウーのように日を重ねるごと心に沁みてきます。人間に対する上っ面の貧しい理解が、その方を通しキリストに手を取られながら、遅きに失しつつも、少しずつ深みへと導かれていくのを実感しています。
 光となった「かなしみ」ということです。「かなしみ」を知らなかったと告白せざるをえません。「悲し」「愛し」「美し」「哀し」はみな、「かなしい」と読みます。4種類の「かなしみ」があるのではありません。「哀れ」は「あわれ」と読むように、慰めに満ちた詠嘆の心持が込められています。
 この「かなしみ」の中に命が宿る、というふしぎが聖書に満ちます。主は「悲しむ者は幸いである」と宣言します。今、み言葉の命に心を揺さぶられています。「主のうけぬこころみも 主の知らぬかなしみも うつし世にあらじかし いずこにもみあと見ゆ~」(讃美歌532)主は「かなしみの人」であることを心に刻みつつ日々を~と!

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2019-01-11
1月6日「新たな導き」

 30日の夜、父がホテルで倒れたと連絡が入りました。完全に意識を失って受け身も取らずに頭を打ちました。深夜、国立病院の救急外来に向かうと、担当医の先生がCTスキャンの結果を提示しながら説明してくれました。ここ最近で、二回目の救急です。
 自宅に連れ帰り、安静にしているように促して睡眠をとってもらいました。76歳という年齢にしては働きすぎの高齢者です。大学の理事長でありながら、新たに始まった看護学科でも講義をし、省庁の多くのプロジェクトで委員長として選ばれ、学会や企業での講演は無数に抱えています。そして、日曜は欠かさずに礼拝に出席し、御言葉を取り次ぐことも。働き方改革が必要なのは言うまでもありません。
 人生に新しいことを創造される主は、ある日突然その事を始められるように思われます。無から有を創造される方は、サプライズ好きなのかと。しかし、新しいことは突然起こるのではなく、「もう芽生えている」と主は宣言しています。新しいことはすでに始まっていて、その途上にあるのだということだと感じました。
 新しい一年の始まりは、私たち家族にとって非常に大きな変化が訪れるであろうことを予期させられました。何が起こるのでしょうか。今、主の計画が進行しています。もちろん、主が共にいてくださいます。

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2018-12-09
12月9日「平和を実現する者」

アドヴェントにふさわしい言葉は何でしょうか?「待ち望み」、「光」、「約束」、「愛」、「喜び」、「インマヌエル(神、我らと共にいます)」、「平和」、…。たくさんの言葉が浮かんできます。クリスマスの豊かさに今一度出会い感謝しています。
 11月30、12月1,2日と時を与えられて、「ジョー・オダネル 原爆写真展・講演会」を開催することができました。314名という思った以上の方々が訪れてくださいました。講演会も準備していたホールが満員となり、補助椅子を用い八十余名の参加をいただきました。アドヴェントの時だけに、クリスマスのメッセージとして、「平和」が心に刻まれました。
 「平和」は、待っていれば訪れるものではなく、「実現する」者であることを、山上の説教を思い出しつつ噛みしめています。また、「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ2:14)であることも。その平和は十字架によってのみもたらされることを。たくさんの知っている方々と出会う機会ともなりました。
 残念なことは、30代までの方は全体の3.6%だったことです。当面できることは、義塾の礼拝と授業を通して平和について共に考えていくことです。備えられたを恵みの場所を感謝します。

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2018-11-11
11月11日「一色でない人生の豊かさ」

7日(水)は、24節気の「立冬」!とうとう、この年もここまで来てしまいました。あなたこの言葉を聞いて、どんな感情を引き出されますか?「寂しさ」でしょうか?「来るべき寒さ?」「残り少なくなったこの年?」「「後悔?」「ウインタースポーツ?」「こたつ?」「クリスマス?」…何でしょうか?「たった一つの言葉」がわたしたちの心を弄(弄ぶ)ように幾重にも折り重なります。
 大変で、気が重く、それでいて懐かしく、温かで、遊び心をくすぐり、静かに優しい讃美歌が…。ひとつの出来事が、一つでくくれない豊かさをもっていることに気付きます。
 白鳥やカモが早くも津軽を訪れてくるのを見ると、毎年、同じように不思議な思いがこみ上げてきます。金子みすゞの「みんな違ってみんないい」の詩を思い出します。
 出会いを通して、自分の正義の薄っぺらさと、包容力の無さとに出会い続けています。一色で無い冬を通し、一色でない人生を想い見ています。
「それっておかしい!」と思うことのおかしさに、少しだけ気づき、アドヴェントを迎える準備をしています。「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」ことの豊かさと、しっかり出会えることを祈りつつ、冬に備えたいと祈っています。

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2018-10-27
10月28日「御言葉の実践」

 火曜日のコンサートは、本当に素晴らしいものでした。選びぬかれた音響機材とその技術、そしてプロ中のプロであるピアニストのサポート。息子さんとの息の合ったステージ。三上勝久さんは、そのすべてを惜しみなく披露してくださり、しかも「受けるよりも与えるほうが幸い」という主の教えに100%従って、謝礼や交通費などの実費を受け取りませんでした。それは、三上さんがそのように実践しようと決めてから、御言葉の確かさに触れ、さらに主との関係が深まったからだろうと思います。
 主の弟子たちは、御言葉に従う前、つまり十字架が自分のものとなる前は、自己中心的な人々でした。しかし、彼らの傷が十字架の血潮によって清められ、罪赦された喜びと復活の立会人として、世界に出ていきました。
 それぞれの人生に傷はつきもの。しかし、その傷が癒やされたとき、癒やし主に対する感謝と人々に対する愛が自然と芽生えてくるんでしょうね。三上さんご自身も大きな病を体験し、信仰を失うほどの涙の谷を通されたのです。しかし、そこで再び主に出会い、傷癒やされて、御言葉を実践する道を邁進するようになったのでしょう。それが、曲の一つ一つと、その歩みに確かに現れていました。

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2018-10-14
10月14日「無数の恵みと感謝」

朝の祈りの時間は、10年以上も一つのスタイルを保っています。前日の感謝を思い出せる分書きだします。次に、小さな「歳時記」に目を通し、一年の中のこの日の位置を確認し、神様の与えてくれた「この日」を心に留めます。その日の御言葉、「ローズンゲン」を日記に書き写し復唱します。続き、ここ数年は、バークレーの『信頼に生きる』を読み返し抜き書き、続いて、「今」はボンヘッファーの『主のよき力に守られて』他数冊を読み…黙想、という日々です。この朝の1時間がわたしの一日の始まりです。が、それに先立ち、―義塾に行く火曜日と、石澤医院とオリーブコートの礼拝の土曜日を除いては、サラの散歩をしながら、皆への感謝と祝福の「お祈り」の時間です―。この間に「テレビ体操」も毎日継続(これはお勧め!)。
 最近、これに、『1日1ページ読むだけで身につく世界の教養365』が加わりました。何しろ「歴史、文学、視覚芸術、科学、音楽、哲学、宗教」が網羅され、絶対的教養不足のわたしには小さくもよき学びとなります。「知らない多くのことに囲まれ、支えられている」無数の恵みを知る機会となります。無知なる自分との新たな出会いに心痛み、愕然としつつも、学びと謙遜の祝福も与えられ感謝しています。葡萄も終わりました。感謝!

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2018-09-23
9月23日「祈りは聞かれる」

 娘が車の中で言いました。「早く冬にならないかなぁ。」急に何を言い出すのかと思っていると、「雪遊びがしたいんだよ。」と続けました。「でも…たっちゃんがいないから寂しい。」
 幼馴染と毎年冬を楽しんできた娘が、今年はその子がいないことを残念に思っていたのです。何とかしてあげたい。でも、その子を連れ戻すことはできません。また、もし他の子どもたちが教会に増えたとしても、彼の代わりにはならないのです。娘の寂しさをどうやって励ませばいいのか、わかりませんでした。
 家に帰ると、最近洗礼を受けた明星幼稚園のママ友と一緒に食事に出かけていた妻が帰ってきて言いました。「毎週金曜日に、はなはちゃんが遊びに来ることになったんだよ!」それを聞いた娘は、キョトンとして、信じられないような様子でしたが、段々と笑顔になってきました。さっきまで寂しがっていた娘に与えられた主からのプレゼントです。主は本当に素晴らしい方です。遊びに来るその理由は、洗礼を希望しているはなはちゃんが、すでに洗礼を受けたうちの娘と一緒に主のことを学んでほしいというママ友の願いからでした。
 主は幼子の祈りを聞いてくださる。忘れかけていた、そんな当たり前のことに出会えた日でした。

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2018-09-09
9月9日「朋あり遠方より来る 亦楽しからずや」

8月29日に続き、先週の日曜日(2日)、礼拝に来た皆を送った後、特に予定もなく、久しぶりにゆったりとしてソファーに座り、あれこれ思いめぐらしていた時、突然サラ激しく吠えました。いつもの事なので2階の窓から下を見てみると2人の婦人がニコニコそれは嬉しそうに玄関に向かっています。誰なのか判別がつかないまま玄関に。それは素敵な笑顔で、「ごぶさたしています!」旧姓、葛西美穂子さんと岩部おりえさんでした。
ぐるりと教会を見た後、二階の牧師館に。2時から7時まで。高校時代から今日までの話に花が咲きました。弘前西伝道所を開設して間もなく、聖愛高校に伝道に出かけ、1年生の1クラス全員が教会に出席するという快挙が!その中心的な二人でした。今年で60歳になるとのこと、佐藤洋治さんと1学年違いです。時空が飛びました。
ちっとも変わらない二人と話しながら、「主よ、今一度伝道の力を!」と心の中で祈りました。44年の月日の中に、主の憐みを噛みしめつつ。あの高校1年生が定年を迎えると聞き、当たり前のことながら驚きました。「朋あり遠方より来る 亦楽しからずや」以上の神様の御計画を考える時が与えられ感謝しました。妻が用意してくれた夕食を共に感謝の祈りをもっていただき感謝に溢れ…。

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2018-08-12
8月12日「全ての時が恵みの時」

娘の新子(牛山)から素敵な本をプレゼントされました。西教会に行ったとき、牛山牧師の机に乗っていた、『霊的成熟を目指して』(関真士 ホノルルキリスト教会牧師)という本です。
 早速手に取り読み始めてすぐ、「わたしのために用意された本だ!」と感じました。「持つべきは愛する娘!」です。実にタイムリーな、神様からのプレゼント、ご褒美と感謝しました。
 今、向かい合っている、「自分と宣教の課題」を見事なまでに取り上げています。それも、平易にして深く、分かり易く、格調高く、最近では余りお目にかかったことの無いユニークなものです。
座右の書として、身につくまで、何度も読み返していきたいと思っています。苦しい作業ですが、御言葉を反芻しつつお付き合いするつもりです。「良薬は口に苦し」ですが、一方、爽やかさも兼ね備えているのが何とも魅力です。
 「恵伝乃園」に、今は薔薇が咲いてはいませんが、見事な向日葵が咲いています。間もなく芙蓉も。キウリは毎日たくさん。ミニトマト、インゲンも毎日食卓に。昼咲き月見草も、グランドカバーのカスミソウも…。毎朝、朝顔が小さな花をたくさんつけて「おはよう」と言ってくれます。全てに、「時」のあることを知る恵みの中です。

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2018-07-08
7月8日「神の家族ーキリストの一つなる体」

先週の7月1日の礼拝は、喜びが浪岡教会に満ち溢れました。待ちに待った武田晶子さんのバプテスマが執り行われました。お祝いのために、5年間祈り続けてきてくれた神の家族、弘前西教会は、「ジョイフル」メンバーを含め、10人を祝福の賛美をするために送り出してくれました。
 「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び。」(詩編133:1 賛162)が心の底から湧き上がってきました。教会は「神の家族」である確かな出来事が実現しました。「浪岡教会と共に生きよう」と決断した弘前西教会の祈りが今一つの実を結び、祝福が覆う賛美と感謝、恵みの時となりました。
 すべての教会、その群れは各個、個人で完結するものではありません。一つなるキリストの教会である祈りによって建て上げられるのです。
 浪岡教会と共に生きることを選択した弘前西教会は、神の恵みを証するために選ばれた群れとして、感謝する恵みの時となりました。
 キリストの教会は本来一つです。原点は「キリストの一つなる体」です。「コーチング」-七つの本質-の歩みは、この具体的展開でもあります。「教会はキリストの体」何と素晴らしい真理でしょう。一つなる教会の出航のドラが響いています。

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2018-06-15
6月10日「入社式?」

 金曜日、東奥義塾では宗教主事の阿部義也先生が手製のカレーを振る舞ってくれました。これはルーも独自のエスニックな一品です。オルガン奏者の水木先生もいらして、東奥聖社に新しく入社(入部とは言わないのです!)した方々を歓迎する意味もありました。
 今年はなんと6名の入社がありました。年によって数は違いますが、今年はとても多いと阿部先生も喜んでおられました。その中には、かつて東奥聖社にいた方々の妹、弟が3名もいるのです。東奥聖社の伝統が受け継がれていることを感じます。そして、その方々はやはり、兄、姉とは全く違う人種じゃないかと思うくらい違うのです!個性とは本当に素晴らしいものだと感じています。
 毎週、金曜日に集まる機会を設けてくださっている阿部先生にも感謝です。また、7月に小樽からイッピー(子どもたちのゴスペルグループ)が来ますが、その時に東奥聖社の方々もいらっしゃるそうです。今からワクワクします。同じ世代の方々が交流を深めることで、素晴らしいことが起こるのではないかと期待しています。今は離れていても連絡を取り合える時代です。チームとして成長していってくれたら、と祈り願う日々です。

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2018-06-03
6月4日「御手の中で、讃美と感謝が満ち溢れ」

「御手の中で~(^^♪~ の日々」でした。祈っていた一つ一つが、神様のプレゼントとして与えられ、賛美と感謝の中での歩みでした。
 いのちの電話連盟総会に出席して驚きました。25年前総会に参加した時、理事長として出席していた多くの方がいないことです。「時」を感じました。が、新たに熱心に関わっておられる方々が起こされていることに敬意と感動を覚えました。
 総会が終わり、毎年、この機会にお会いする方々と、豊かな交わりの時を二日にわたり与えられました。その中でも、親友であった馬場哲夫兄の奥さんのフミさん、弘前西教会設立を共に担ってくれた田代優子さんとの交わりは、今日までの主の備えと今一度出合う喜びが溢れる時となりました。
 27日(日)、会堂建築を祈っている境南教会での宣教奉仕は、感謝と喜びの時でした。若さ溢れる貴田直樹牧師、深澤教会で信仰を共にした大楽さんと教会の方々、賛美奉仕のヨーコ・トリヤベさん…。教会が喜びで満ちました。一つなる神の家族の恵みを分かち合うことができました。
 帰って来ると教会の庭に薔薇の花が咲き始め、花壇も畑もそれは嬉しそうに輝いていました。水曜日の祈祷礼拝は武田晶子さんも加わり7名で守ることができました。新しい時が始まりました。

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2018-05-06
5月6日「今この時を、愛に生きる」

5月に入りました。早いもので1年の三分の一が過ぎました。時の速さにめまいさえ覚えます。今年は5月5日が「立夏」です。今この時を大切に…、「焦るな 怒るな 威張るな 腐るな 負けるな」の「あおいくま」を生きること。すなわち「愛に生きる」ことと思いを定める途上にある日々です。わたし流の解釈では、「受けるより与えるほうが幸いである」(使徒20:35)となります。いま、この年まで生かされ、十分に挑戦しがいのある、日々を手にしました。。
 体の不調で手つかずにいた畑に、やっと消石灰を入れ耕しました。便秘が解消したような解放感を覚えました。畑の作業の入り口にやっとたどり着きました。あとは畝を造り植えるだけです。昨年と同じ場所に同じ作物を植えないように輪作を考えていると、連休でお泊りに来ている「かえな」が、「おじじ、去年はここになすが、トマトが…」と、ニコニコ教えてくれました。固くなった土の塊を砕いて畝づくりの手伝いも!最高の休日!
 翌日、目が覚めると、体中がどこもが軋み、痛くて疼き動くことができなくなっていました。
 「明日世界が砕け散ろうとも、わたしはリンゴの木を植え続ける」(ルター)を思い出し、霊肉ともなる日毎の養いの大切さを思い祈らされました。

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2018-04-08
4月8日「聖書の写経」

日曜日と水曜日の説教の準備は、祝福の時であると同時に、産みの苦しみの時です。自分の知識の貧しさに加え、霊性の低さを嫌というほど思い知らされます。為し得ないことを、神の言を取次ぐという不可能と無謀にも挑むのですから。
 御言葉の選定、に始まり、三回の説教原稿推敲の過程は喜びというより重苦しさと、自らの足りなさと毎回向かい合う時となります。
 そんな中で説教準備の時、御言葉をノートに、あるいは紙に書き写すことの豊かさを知りました。言うなれば「写経」の豊かさです。不思議に御言葉の方から語りかけてくる恵みを味わうことができます。先週の祈祷礼拝の準備の時もそうでした。
 「だれの罪でも、あなたが赦せば、その罪は許される。だれの罪でも、あなたが赦さなければ、赦されないままで残る」(ヨハネ20:23)を書き写している間に長い間のモヤモヤした思いが氷解しました。「そうだったんだ!」。
 すでに赦しておられる主です。赦していないのは「わたし」なのです。赦さないことによって、罪のもとに縛り付けられている「わたし」がそこにいることになる発見…。聖書の写経やってみませんか!思わぬ新しい発見があります。まずは、自分の大好きな御言葉を書いてみることから!

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2018-04-01
4月1日「新しいことがこの地に」

 東京ホープチャペルでもたれた「癒やしのワークショップ」へ私たちの教会から派遣された祈りの宣教師(そう呼ばせていただきたいです)の皆さんがお帰りになりました。まず、その方々の顔を見た時、主が素晴らしいものを見せてくださったのだとすぐに分かりました。なぜなら、顔は喜びで輝き、うちから命の水があふれるように、周囲を満たしていたからです。
 これまで、他所でもたれるセミナーや研修は牧師や一部の献身者が参加し、他の方々は帰ってきた一人、二人の意見、報告を聞くにとどまっていました。もちろん、これも素晴らしいことですが、参加した本人にしかわからない恵みがあるものです。今回、数名の方が参加したことは、多面的に恵みを捉え、ユニークな神の計画に参加するために欠かせない、主からのプレゼントだったと思っています。これは単なる研修旅行ではなく、宣教旅行と何ら変わらないと思います。
 私の海外宣教と同じように、主が与えてくださる素晴らしい出会いと、驚きと、霊の満たしがあるのです。牧師をはじめとした多くの方々が、みな外に出ていって恵みに満たされると、どんなに凄いことが起こるでしょうか?「私の愛する使徒たちの時代と同じことが起こる」そう主がおっしゃっているような気がします。

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