156センチの視線
2024-09-01
9月1日「主を知り、自分を知る」
教会のホームページが古くなってきました。10年以上前、私が来たときに素人ながら自作したものです。この10年で、ホームページを見て来た方々が本当に多くいらっしゃいましたが、そのためにも、この小さな働きを主が用いてくださったことに感謝しています。
教会に来ている青年が、「教会のホームページは古いですよ」と教えてくれました。おそらく古く感じるのは、牧師紹介のカテゴリーに鎮座する私の写真でしょう!岩住先生は、その写真のことを「この教会に来る時、若干の不安を感じました」と笑ってくれました。
今年に入ってから、痩せたら着ようと取っておいた洋服を実際に着用してみると、年齢相応ではなく、全力で老化に逆らっている人に見えたため、断捨離しました。
かつて主を信じていなかった頃、私は他の人の意見に流されるだけの存在でした。高校時代の親友に「ウッシーは外見だけだね」と言われたのは、笑いながらであったとはいえ、決して冗談ではなく、中身のない私を案じての言葉だったと今は分かります。なぜなら、こんな私でさえ、主を信じた今では、自分がおっさんであることを素直に認められるからです!
主を知ることは自分を知ること。主の祈りを通して自分自身が学んだように、自分を知ることが本当に大事だという視点は、御言葉に新たな角度を与えてくれます。
2024-09-01
8月25日「聖霊による一致」
先週の火曜日、日本聖書神学校を卒業され、各地に遣わされている牧者たち37名が当教会に来訪されました。
顔を見たことのある方々もいらっしゃったり、また、私の祖父に教会学校で教えられた、という方もいて驚きました。また、幼少期から復活のキリスト教団でお世話になった方で、その後に献身されて教団の牧師になられた方とも久しぶりにお会いすることができました。
石川牧師が弘前西教会の歩みと浪岡教会との関わりを伝えたあと、ジョイフルの方々が賛美をしてくださいました。瞬きの詩人、水野源三さんの詩に川口耕平さんが曲をつけた「わが心」からはじまり、「雲が雨で満ちると」「御手の中で」の3曲でしたが、途中から会場全体が賛美に満ちて、出席者の神をほめたたえる声が天に向けられました。聖霊による一致がある中で、とても素晴らしいときでした。
みなさんがお帰りになる際に、口々に「賛美が素晴らしかった」「教会の歩みに励まされた」とおっしゃっていました。ジョイフルの方々が天を見上げ、輝いている姿は、多くの方々の魂に響いたようです。
「主がなんとかしてくださる!」まさに、これだな、と思わせてくれる。そんな集会になりました。
弘前市内の観光もなさっているようでしたが、きっと皆さんの心に残ったのは、互いに励ましあったことと、教会に主がしてくださったことを共に賛美できたことだろう、と勝手にそう思っていました。
2024-09-01
8月18日「何に献身したのか」
同志社を卒業し、牧師として10年間の牧会経験を積んだ方々が集まるセミナーに行く予定でしたが、台風の影響で飛行機が欠航し、残念ながら欠席となりました。
しかし、現地の方々が苦慮してくださって、Zoomで参加することができました。同志社の神学館で学び合った仲間たちの10年ぶりの姿は、あまり変わりませんでした(笑一番変わったのは私かもしれません。
みなさんの発表や交わりで感じたのは、とても優秀な方々が、それぞれの場所で小さなことに忠実に仕えておられることでした。ただ、みんな疲れているな、というのが正直な感想でした。その顔を見ると、「私は楽しんでいます!」と焼けた黒い肌で元気にアピールすることなどできませんでした。
アメリカの組合教会が守ってきたスタイル、その方法論を小さなことまで忠実に守っている姿は、その方々の献身的な働きを連想させるとともに、欧米式から脱却できずにいる日本の社会的な構造にも共通しているような気がしました。
かつて、カトリックが畏怖の念を覚えた日本の殉教者たちの姿。その献身性は今も受け継がれていると確信しますが、誰に献身し、どこに仕えているのか、悪魔が巧妙に相手をすり替えている印象を強く感じました。
2024-08-11
8月11日「新たな視点」
朝(五時過ぎ)のサラの散歩を終わり、新聞に目を通し、ラジオ体操、朝のお勤め(御言葉とお祈りの時)終わると8時。服薬し、食膳の祈りをしてから、『虎に翼』を見ながら朝食。最近は、オリンピックを引き続き見て…という日が続いています。
人生をこの一事に賭けて歩んできた真実な姿は見るたびに心を打ちます。人生と人生、魂と魂がぶつかり合う姿に、自らの人生に対する姿勢が問われ、心苦しくもあります。オリンピックは、32競技、329種目で競われ、パラリンピックは22種目549種目で競われます。
スポーツと言っても、これほどあるのですから、人生をひとくくりにできないことを、改めて思い知らされています。どこかで優劣をつけ、物差しで測る自らの卑しさを確かめる時となっています。どこかで序列をつけて線引きする自分の姿を、今一度覚える時となり、感謝しています。
金子みすゞさんは、「みんなちがって みんないい~」詠いましたが、ファリサイ人の血が流れ、いつも優劣をつける自分と再会続けています。
改めて、主イエス様の眼差しを思い浮かべ、福音書を新たな視点を与えられ読むことを迫られています。そうです!みんな素晴らしいのです。 石川
2024-08-11
8月4日「沖縄にて」
沖縄コーチングネットワークについて、お祈りくださり心から感謝します。日曜日の朝、西教会の礼拝の様子を見ながら、皆さんが喜びに満ちて礼拝をおささげしている姿に感動しました。また、急遽お願いした姉妹は、子どもたちが不在の中、神の子どもたちである大人たちと、とても楽しく、また素晴らしい礼拝を導いてくださって、私たちも画面の向こうで楽しませていただきました。
沖縄コーチングに家族を連れていきたかったのは、神の働きを担える喜びと、どこに行っても信仰の友がいることを知ってほしかったからです。
今回の沖縄コーチングはテーマが「伝道と増殖」でしたが、私が傾聴の話をしていると、沖縄の方々は腹を抱えて笑ってくださり、語る私の喜びと、沖縄の方々の喜びで、会場は大いに盛り上がりました。また、その様子を後ろの方で見ていた娘は、次の日になって「『傾聴ゲーム』をしよう」と持ちかけてきて、「飛行機の中がつまらない」という息子をクライアント役にして、見事にコーチングをしてみせました。結果として、「飛行機の中で本を読むことにする」というアクションプランに導いたのです。
「今回の沖縄は、食べるものも、することも全部成功で、一つも失敗がないね」と子どもたちは言ってくれました。
主イエスも、このように弟子たちと旅をされたのでしょう。
2024-08-11
7月28日「正しい人はいない」
多くの人が言います。「神がいるなら、どうしてこんなにひどいことが起こるのか」と。信仰がご利益と等しい我が国ではなおのこと、そのような声は大きいのではないかと思うのです。
しかし、主イエスはおっしゃいました。「互いに愛し合いなさい」そして、誰がそれを完全に守っていると言えるのでしょうか。
聖書が言うように、この世界に義人は一人もいません。裁きの日、神の前で「私は正しい人です」と言える人などどこにいるでしょう。もしいるとするならば、それは自分自身を分かっていない人だけでしょう。「神は私たちにこんなひどいことをする。」「悲惨さを無視している。」そのような主張を、あの十字架の主を前にして、自らの犯してきた過ちを振り返って、誰が言えるのでしょうか。
教会には「我こそが罪人のかしらだ」と自省する人々が集っています。誰よりも、自分が罪深いと分かっているからこそ、十字架の主こそ救い主だと分かるのです。
主が天地を創造され、はじめて人が罪を犯してから、世界は何も変わっていません。神の愛は変わらず、人の罪は深いのです。
だからこそ、主は十字架にかからなければならず、その責任を自ら負ってくださり、私たちを憐れんでくださっているのです。誰が、その主に向かって、「ひどい方だ」と言えるのでしょう。そのことを改めて感じる今です。
2024-08-11
7月21日「耳を傾ける」
私が担当させていただいている、東奥義塾の授業では、「教会の7つの本質」を毎年分かち合っていますが、今年はコーチングのエッセンシャル講座を受講し、認定されたこともあり、カウンセリングとコーチングという、主がなされ、教会がその最初期から大事にしてきたこと、そして近年言語化されたものについて分かち合っています。特に、傾聴の中で助言(自分の話)をしてはならない、というのが多くの方々にとって良い学びになっているようです。
刑務所でも同様の学びをしており、概ね好評です。ほとんど方は、説明だけ聞くと「そんなの簡単だ」と思うようですが、実際に体験していただくと確実に失敗します。しかし、それが楽しいのです。
みんなが失敗する中、後方に控えた貫禄のある方に視線が集まります。「◯◯さん、やってみてくださいよ」「◯◯さんならできますって!」と励ます方々の声に押し出され、真打ちの登場です。悩みを打ち明ける役の私が聞きました。「最近、白髪が増えてきて…」すると、その方が開口一番「白髪は男の冠ですからね!気にすることはないですよ!」一発目に助言です!みんなで大笑いしました。
義塾では授業が終わって廊下に出ると「こういうことが学びたいのですが、どこで学べば良いのでしょうか」と聞いてきた生徒もいました。
主のように、人々に寄り添うことのできる方が、また一人、そして一人と生まれようとしています。
2024-07-14
7月14日「5匹の鯛」
わたしたちの心には、たくさんの「~してもらいたい!」の叫びがあることに気づきます。以前、わたしたちの心の生け簀(いけす)には、「5匹の鯛」が飼ってあり、暴れまわっていると書いたことがあります。その鯛とは。①「関心をもってもらい鯛」②「理解して~」③「認めて~」④「信じて~」⑤「愛して~」という鯛です。いかがですか?
それを否定形で表すと、「~してくれない」となり「くれない族」になります。「助けてくれない」「感謝して~」「優しくして~」「褒めて~」「助けて~」「喜んで~」「許して~」「喜んで~」「必要として~」「守って~」…と、いつまでも続きます。「受けるよりは与えるほうが幸いである」「自分にしてほしいことを人々にもその通りにしなさい」とのイエス様の言葉が思い出されます。「こんな人がいてくれたらいいな」という『こんな人』になるようにと。イエス様はご自身が、「道であり、真理であり、生命であるその生命を生きて下さいました。
「こんな人がいてくれたら!」と思う私たちに、「こんな人」、イエス様が先立ち守り導いてくださいます!大丈夫です! 石川
2024-07-14
7月7日「本質をもっと」
男鹿教会では、来る秋田コーチングに向けて、まだ初期キリスト教会の7つの本質について、聞いたことがない方々がいらっしゃるということで、「関係」「参加」「能力付与」「イエス中心」「伝道と増殖」「ネットワーク」「適応可能な構造」の7つすべてを分かち合うことが求められました。
昨年の沖縄コーチングの時も感じましたが、はじめて7つの本質を聞いた2016年から、この8年の間に、本当に多くの証を携えることができているのです。牧師の不在時にも豊かな礼拝を導いて下さる方々がいること、他の教会のために出かけていって、逆に励まされ、力を受けた方々のこと、豊かなセルの交わりで祝福されている方々のこと、癒やしの祈りを学び、置かれた場所で実践されている方々など、挙げればきりがないほどに。
まだ本質を学び始めたばかりの頃、説教や礼拝後のちょっとした時間に7つの本質について分かち合いましたが、まだ具体的な証がなく、私自身も理解が浅かったため、おそらく訳が分からなかった、というのが大半のご意見ではなかったか、と思います。
私のような者が、なぜ他の教会の大事な奉仕に遣わされているのか、他地域の教会が何を求めておられ、そこに初期キリスト教会の本質はどう適用できるのか。そのことをもっと教会内で周知する必要性を感じています。
教会は聖霊に導かれ、古くて新しい時代に入っています。
2024-07-14
6月30日「役員会から」
今月より、最終週には前回の役員会で議論されたことと次回の議題を掲載し、皆様からのご意見やご質問、ご提案を受け付けることにいたしました。
※役員会で取り上げてほしい議題、ご意見、ご質問などがありましたら、役員までお知らせください。
なお、役員会の内容の詳細は個人情報保護の観点からウェブでは公開されませんので、ご了承ください。
2024-07-14
6月23日「しかしの後に」
「だから大丈夫」これが聖書の根幹だと、日々気付かされている今日このごろです。
聖書には「しかし」という言葉がとても良く出てきますが、その「しかし」という接続詞に挟まれている前の文章は苦難や試練であり、後に続くのは主の驚くべきみわざや希望に満ちた約束の御言葉です。そして、その約束はことごとく成就していきます。
聖書の中に記された教会の歩みもまた、生まれたばかりの頃から苦難の連続です。「しかし」その都度、主は不思議を行ってくださり、生きて働くお姿を見せてくださっています。また、聖書には記されていない、その後の教会史も同様に、失望や腐敗があり、これまた苦難の連続です。「しかし」今もなお、世界中に福音は轟いています。
私たちの教会も、始まる前から懐疑的な意見や冷ややかな反応に囲まれていました。「しかし」主は、その栄光を教会に現してくださって、今があります。
そして、私たち個々人にも、様々な苦難がありました。今もあるかもしれません。「しかし」なのです。
さあ、これから主がどんなことを見せてくださるのでしょうか。「しかし」の後に続く景色は、今あなたが見ている景色も含まれているのです。
2024-06-16
6月16日「パワー!」
アデノウィルスに続く、偽痛風?の影響もあって、しばらく筋トレを休んでいました。もちろん、筋トレと言っても、なかやまきんに君が教えてくれた「世界一楽な筋トレ10分」という、いかにも私が喜びそうなネーミングのものですが。
久しぶりに再開して、まず思ったのは身体が重いことです。しばらく運動をしていないと筋肉量は減少し、その筋肉をエネルギーとして日々の生活で使ってしまうからでしょう。筋肉は脂肪よりも重く、現在の体重を構成しているのは、ほとんど脂肪の重さだと思うと悲しくなります。
しかし、私は知っています。最初はしんどい運動も、継続していくと徐々に楽になっていくことを。今のところ、動画の中で一緒に運動してくれる、きんに君にペースを合わせることは不可能ですが、以前、同じことをしていたときには、運動しながら、さらにダンベルを持って、きんに君のペースに合わせることができていたのです。ホコリを被っているダンベルにも、そのうち出番が回ってくることでしょう。
御言葉の養いも運動と似たものがあると思います。しばらく離れていると、忘れることはもちろん、実践はできません。そうやって魂の筋力は衰え、非常時にパワーを発揮できません。さあ、みんなで神とその言葉である聖書に向き合って言いましょう。「パワーーー!」
2024-06-16
6月9日「黄金律」
「黄金律」と言われる言葉があります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)のイエス様の言葉がそれです。
わたしたちは、「こうしてもらえたら!」「こうしてもらえなかった!」という思いが、心に楔のように打ち込まれて、身動きの取れなくなっている人に多く出会います。
連れ合い、恋人、友人、両親にも、同僚にも…「こうしてほしい」という思いでいっぱいです。そんなわたしたちに、「あなたはどうですか?」とイエス様は問われます。
良き人を求めるよりも、そのような人に自分がなっていれば、あなたのような人が必ず笑顔でやってきます。
「こんな人に会いたい!」「こんな友が欲しい!」と思う人に自分がなっていく。それが豊かな人生を生きる人の誠実な姿のようです。自分を見てみると、「あれがほしい」「これが欲しい」「こうしてほしい」「こうしてもらえない」…の塊のようです。
「素敵な人に出会いたい!」から、「素敵な愛の人に!」の祈りに歩みたいものです。
2024-06-02
6月2日「孤独に打ち勝つ」
先日、NHKで高齢者の孤独が取り上げられていました。孤食を防ぐために、企業が新しく立ち上げられ、サービスを利用する会員みんなでご飯を食べる機会を設けたり、高齢者とテレビ電話でつなぎ、一緒に御飯を食べることなどが放映されていました。
平均貯蓄額が各世代の中でもっとも多い高齢者は、多くのお金を貯蓄しながら、寂しさの中にいるという実態が浮き彫りになっているということです。核家族化が進み、家族も遠く離れた状態で、伴侶にも先立たれた人たちが孤独に直面している中で、一生懸命稼いできたお金は、孤独に対して有効な解決手段とはなっていないようです。
かつて、ある牧者が説教の中で孤独死のことについて話していたことを思い出します。その牧者はこうおっしゃいました。「教会に来れば、孤独死とは無縁になる。神の家族の中で、血の繋がりを超えた関係を構築し、礼拝に来なければ、連絡が取れなければ、おかしいと判断する。」
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブライ10:25)という言葉は、二千年以上前に記されたとは思えないほど現代にマッチしています。
何より、主がいつも共にいてくださること。これこそ、孤独に打ち勝つ恵みではないでしょうか。
2024-06-02
5月26日「確かなビジョン」
先週は、小枝役員と一緒に奥羽教区総会に出席しました。コロナの影響を受けて、教区内の新任教師が赴任されても、ご挨拶もできずにいましたが、お一人おひとりにお会いすることができて感謝でした。
この数年で、多くの教師が異動し、見たことのない人たちが増えたと感じましたが、お一人おひとりと会話をする中で、主のみ旨を確認することができました。
それに加えて、いつも教区総会に伴ってくださる小枝役員との車内での会話が私の楽しみです。今回は、これからの教会の新たな歩みについて二人で語り合いました。教会のリーダーである小枝役員にも、新しいビジョンが与えられていること、それが私の与えられているものと共通するものであることを確認することができました。今年度は、そのビジョンが主のみ旨であるかどうかを見極める年であると信じています。今後、教会懇談会や、外に出かけていった際の出会いの中から、与えられたビジョンが主からのものであるという確信が与えられるようお祈りしているところです。皆様も教会全体の歩みに一致し、神の国の栄光を現すものとなるビジョンが与えられますよう、お祈りにお覚えください。
素晴らしい主の愛と祝福が、この地域に浸透しますように。明確なビジョンを与えてください、と。
2024-06-02
5月19日「ネットワーキング」
先週、全国の教会の中から、初代教会の本質を握っておられる牧師や宣教師、さらに他の地域にその価値観を拡大している方々が小樽に集いました。
今回は、「ネットワーク」について語り合う機会となりました。JCMNの集まりでは、タイムテーブルは大雑把なもので、散歩をしたり、風呂に入ったりしながら課題を語り合う、いわば友だちと過ごす休日のような雰囲気で日程が進みます。私は本質を学ぶ中で出会った友人たちとの再会と、新たな友人との出会いを楽しませていただきました。
昨今、「ネットワーク」には「賛美のネットワーク」「祈りのネットワーク」など、多様な使われ方をしていますが、JCMNの「ネットワーク」は、本来「ネットワーキング」であったことが分かち合われました。つまり、何もせずとも網の中に組み込まれている、といったネットワークではなく、能動的に、主体的に作り出していくことが「ネットワーキング」であるということです。
思えば、私たちの教会も、岩手の方々が「ネットワーキング」をしてくださったからこそ、今があります。また、秋田は私たちが「ネットワーキング」したからこそ、素晴らしい恵みを私たちのほうが受け取らせていただいたのです。
「ネットワーキング」は喜びです。隣人に仕えるように、他の教会にも仕える喜びに歩みましょう!
2024-06-02
5月12日「神のなかに」
暑くなったり肌寒くなったりと、落ち着かない日々ですが、木々は、初々しい若葉が嬉しそうにそよいでいます。庭のプルーンの花も散りました。今年もたくさんの実を実らせ、皆に喜んでもらえることでしょう。柿の木の若葉も、それは優しく初々しい姿で、風にそよいでいます。葡萄もアッという間に芽を出し、赤い芽が黄緑色に変わっていく姿に、生きている「時」の流れを感じさせてくれます。今年はハナミズキが、妻の手入れが実り、いつもよりたくさん花が咲きました。
気になっていた小さな畑に、4本の畝を作りました。確実に植えるのは、さつま芋とキウリでしょうか。市の共同農園には、ほとんどの方がまだ作物を植えていません。ホット胸をなでおろし「セーフ…!」と。
『蜂と神さま』 (金子みすゞ)
「蜂はお花の中に お花はお庭の中に お庭は土塀のなかに 土塀は町のなかに。町は日本のなかに 日本は世界のなかに。
世界は神さまのなかに そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに 」
夏が立ったとはいえ肌寒い、津軽の大地に立つと、この詩が心に浮かんできます。 石川
2024-06-02
5月5日「神の家族」
先週の礼拝にはオンラインで参加しました。というのも、息子と私がアディノウィルスに感染したからです。
当初、聖愛中高の入学記念礼拝が予定されていましたが、それも延期となり、また突然の予定変更に、賛美礼拝の司会を担う姉妹は驚きを隠せないようでした。おそらく、1名の証者だけが決まっている状況だったので、場が持つかどうか、またどのように導けばよいのか、気にかけてくださったのでしょう。
ところが、蓋を開けてみると、なんと多くの方々が証を携えてきてくださったことか!お一人おひとりの証を伺いながら、とても励まされました。それぞれの人生に、主がどのように働いてくださったのか。しかも、思い通りにならないときでさえ、主の御手の中にあるという確信を信仰によって与えられている様子をお聞きし、感動しました。
聖霊の満たしを受けて、お一人おひとりを深く愛する主イエスの心が入ってきました。「素晴らしい人々が揃っている教会だ」主がそうおっしゃっているのを感じました。
普段は別の教会に集って折られる方々も参加されていたようで、きっと驚いたことでしょう。何に驚いたかといえば、モニターがあることでも、牧師がいないことでもなく、主と共に生きる人々が輝いている姿に、です。
2024-06-02
4月28日「仕える道へ」
過去2000年の教会の歴史を見てみると、大きな大聖堂を建てた、誰が教皇になった、どんな会議をして教義が確立した、といったことよりも、むしろどんな人々に、どのように仕えていったのか、が重要なこととして遺されているように思います。
先日、サムエル、ダビデ保育園の創立110周年がお祝いされたようです。津軽に大飢饉が起こり、未来を担う大切な子どもたちに食べさせるものがない。そんな人々の叫びに仕えていったのも、やはり教会でした。
女性の地位が今以上に低く、教育を受ける機会すらなかった時代に、弘前学院を興したのも、教会の青年たちでした。
まだ教会が生まれたての時代、ローマ帝国で捨てられた赤子を育て、女性に職を与えようと奮起していた時から、教会の姿勢は変わることがありませんでした。「仕えること」それは、主なる神の御旨だからです。
では今の時代、私たちにできることは何でしょうか。どんな人々の叫びに応え、どのように仕えていく道があるのでしょうか。
そのことをずっと祈って考えています。そして与えられる事実の数々と、おぼろげに見えてきたビジョンは、もしかしたら、と思えるものへと変わりつつあります。
新たな歩みに向けて、ビジョンを確信に変え、実現するために、主にお祈りください。
2024-06-02
4月21日「与えられるビジョン」
今年度の教会総会をもって、新たな年度がスタートします。創立50周年記念礼拝では、100名を超える方々と共に、主なる神の御言葉による約束が真実であったことを確認し、励まされました。
続いて、ケニア、フィンランドから主の遣わされた方々をお迎えし、教会の使命とその働きの重要性を再認識させられました。
次の50年に向けて、大きな変化がこの教会だけではなく、世界中で起きてくることでしょう。いや、すでに起きていると言っても過言ではありません。しかし、それは全く新しいことというよりは、原点回帰のようなものだと思っています。
初代教会が神と人々に仕える、というビジョンをもって組織化されていったように、教会にはビジョンが必要だと感じています。今年度は、ビジョンを確かなものとし、それに向かって一歩ずつ進んでいくための重要な一年になると確信しています。
教会の本質を学ぶネットワークに加わったことも、これから実りを見ていくことでしょう。互いに変化を楽しみながら、聖霊の自由な風に吹かれて主の栄光を仰ぎ見る、幸いな時を過ごしてまいりましょう。
主がおっしゃったように「すでに芽生えている」ビジョンとは何なのか、教会全体で話し合うことで、全員が霊によって一致できるものが必ず与えられるでしょう。