宣教
3月3日「心の奥に」
マタイ6:1~4
旧約聖書の時代から、ユダヤ人は施しをするのが当たり前になっていました。それは律法で定められていたからですが、律法とは主イエスご自身のこと。施しをするのはごく自然なことだったのです。
しかし、その素晴らしい行いが罪の世にあって歪んでくると、施しが人から評価を受ける手段となっていったのです。「すでに報いを受けている」と主がおっしゃるように、評価という報いを受けること、それ自体は悪いことではないかもしれませんが、評価が目的となってしまったり、動機になることは、神ではなく人を中心に置くことになりかねないと主は警告しているように思います。
さらに、他者からの評価が高ければ高いほど、人は傲慢になるものです。そして、傲慢さは私たちを主から切り離すものであり、まさしく主からの報いを受けられない状態だと言えるでしょう。
キリストは、神であることを捨てて、人々に仕えましたが、正当な評価を受けられない状態で十字架へと進んでいかれました。しかし、神はそのキリストの姿を最高の生き方とされました。
あなたがしたことは正当な評価を受けていないかもしれない。しかし、神だけは見ていてくれるのです。
※ビデオの音声が入っていませんでしたので削除しました。大変申し訳ありません。