156センチの視線

3月10日「存在、こころ」

自分の本当の姿に気付くことは難しい、というのは、無様(ぶざま)な自分を認めたくないという思いの自己防衛が本音のようです。
 わたしは良く物忘れをするばかりでなく、いろいろな出来事が記憶にないということが余りに多いことに気付き、最近、慌てふためいています。
 日常生活での出来事も恥ずかしいほどに忘れています。妻は、父や母のこと、子供たちのこと、教会と人々のことを、その時々のエピソードを含め、一つ一つの詳細にわたって記憶しています。そして、宝箱から宝石を引き出すように手繰り寄せます。わたしから見れば奇跡に近い出来事です。
D・ボンヘッファーが、「忘れるか忘れないかは、記憶力の問題ではなく、私という人間全体の問題、そしてとりもなおさず心の問題である。そしてそれに肉体と魂とが関係していることをわれわれは忘れてはならない」と。心に沁みます。
「存在、こころ」の問題なのです。わたしが創造と言葉における神の秩序に関わる時、忘却から自由になるになるのです。「忘却を阻止するものは愛」だからです。愛のない自分をあるがままに受け入れることが始まりです。御言葉を忘れてしまう自分も。「焦らず、ゆっくり」と言い聴かせつつ、
「最上のものはこれから先に」を信じ、愛に…。