156センチの視線
2025-03-16
3月16日「霊の交わり」
毎月、平川めぐみ教会の中村宣教師と交わりの時を持っています。アメリカで救われ、Appleで働いていた中村先生からは、純粋に日本しか知らない者として、毎回新しい視点が与えられています。
先週は「コミュニティカフェらみぃ」でお会いしました。安原にある喫茶店で、富士見教会の信徒の方々が経営しておられるお店です。「らみぃブレンド」と名付けられた美味しいコーヒーをいただきましたが、豆は弱さを抱えた方々が挽いてくれているとのことでした。その話を伺ったからか、深みと厚みを感じる香りと味わいでした。
中村先生は、コーチングネットワークに2回ほど来てくださった経験があり、やはり世界のトレンドとなりつつある初代教会への回帰を感じておられるようです。そこで、教会の7つ本質を学びたいとおっしゃってくださいました。
今後、アメリカやオーストラリアの教会や団体とのつながりを活かし、これから短期宣教で多くの人々を迎えていこうというビジョンを共有してくださいました。そして、おっしゃっていました。「私たちは教団教派に属さない単立の教会です。自ら出ていかないとネットワークができないのがデメリットなのです。」
津軽で発生している聖霊の流れによる様々な出来事をシェアしながら、主を賛美する気持ちで互いに熱くさせられる時でした。
2025-03-09
3月9日「生きた信仰」
2024年4月8日に星野富弘さんが帰天されてから1年が経とうとしています。どんなにかお世話になったかしれません。
毎月の『こころの友』に、星野さんの詩と絵が掲載されています。この3月号には、春蘭の絵に次のような詩が載せてあります。
「 どんな時にも 神さまに愛されている そう思っている 手を伸ばせば届くところ 呼べば聞こえるところ 眠れない夜は枕の中に あなたがいる 」
体が不自由になり、口に絵筆をくわえて、詩と絵を描くようになった最初の頃からの著書からの長いお付き合いになります。宣教で、御言葉の解き明かしの中で、どんなにかお世話になったことでしょう。
「立っていても倒れても そこはあなたの手のひら」の詩に、「わたしの時は あなたの御手にあります」(詩編31:15(口語訳))の御言を深く噛みしめました。 「感動できるのは 同じものを持っているから」との言葉に励まされつつ、崩れそうになる心を支えられてきました。
「素朴な生きた信仰」それこそが、深い信仰であることを、星野富弘さんを通して教えて戴きました。星野さんと同じ信仰が与えられていることを感謝する日々です。わたしたちは御手の中です。
2025-03-09
3月2日「初代教会のルーツ」
木造教会に最初に訪れたのは2010年の8月でした。同志社の教授に青森県を紹介された時、行ったことのない土地、知らない人たち、どんな主の導きが待っているのだろうとワクワクしたのを覚えています。
木造教会で約1ヶ月を過ごし、その間、一番お世話になったのは佐藤さんでした。また、青森に遣わされてからも、地区の婦人会などで時々お目にかかっていました。みんなに愛されている、とても元気で優しい方でした。最近、佐藤さんは病を患い、教会に行くこともできない状態になっていると聞いていました。久しぶりに木造教会に招かれたのは、無牧となった木造教会の礼拝でした。そこには、病で苦しんでいるはずの佐藤さんの姿がありました。「来るって聞いたんで、なんとか駆けつけねば」と足を運んでくださったのです。
先日、泰山庭セルで鶴田にある塩見さんのお宅に行った知恵さんから「佐藤さんのところに行って励ますように、と主から導かれました。」と伺いました。同じ苗字の人にミッションを与えるとは、主はやはりユーモアの方です。雪解けを待って、木造にある佐藤さんのお宅で交わることになったようです。ハレルヤ!
共同体を超えて、共同牧会ができるなんて素晴らしいことだと思います。主は古くて新しい、初代教会のルーツに、私たちを導いています。
2025-02-23
2月23日「信頼の先へ」
先週の火曜日、保護観察の少年に会いに行きました。めでたく受験に合格し、試験前には無かった大好きなゲームのモニターがテーブルに戻っていました。そこで「ようやくゲームができるようになったね!」と言うと、「最近、あまりやらなくなったんだよね。」と教えてくれました。
高校の場所が青森になるため、保護司としての役割が終わることを以前から告げていましたが「牛山さんに合わなかったら、俺、勉強とかしなかったわ。自分がすごい変われたのも、牛山さんのおかげなんだよ。お母さんも言ってるけど、4月からもお願いできないの?」と言ってくれました。
そのことについて保護観察官と相談したところ、やはり規則上、弘前の保護司が別の地域の対象者の担当にはなれないとのことだったので、「君にぴったりだと考えて私を紹介してくれたのも、大学生を選んで家庭教師を勧めてくれたのも、すべて今の保護観察官だから、信頼して任せておけば大丈夫だよ。今度は保護司としてではなく、君のことが大好きな一人として会うことにするよ。」と励ましました。
保護司としての最後の対象者と、よい信頼関係を築くことができました。キリストの御名を汚すことにならないように、信頼関係ができるまでは言わないようにしてきましたが、ようやく「実は教会の牧師なんだよ」と言える日が来たようです。
2025-02-20
2月16日「人生の説明書」
小学生の時、タミヤからミニ四駆が発売されました。段ボールで自宅にコースを作り、週末は友人たちと橋をわたった大田区まで、大きなサーキットのある模型店に足を運んで楽しんでいたのを思い出します。
小学6年生が電気の仕組みを理解するために工作する理科の教材を、息子が器用に組み立てているのを見て、ミニ四駆をやらせてみようか、と考えました。「模型店に行ってみよう」とミニ四駆のことを説明してみましたが、それが何かを知らない息子は乗り気ではありませんでしたが、暇だったのでついてきてくれました。
気に入った車種を購入し、自宅で組み立て始めると、夢中になっていました。ギアボックスを組み立て、シャフトを入れてモーターを配置。さらに、ドライバーでネジを締め付ける様子を見ていると、新しい可能性が拡がっているな、という印象を受けました。
そんな時、父なる神の視点が与えられました。子である私たちが新しいことに挑戦する姿を見ている時の気持ちでしょう。やったことのないことですから、当然失敗もします。しかし、聖書のごとく説明書と格闘しながら、私に質問しつつ、与えられた才能を伸ばして楽しんでいる姿は、言葉にならない感動を与えてくれました。
聖霊に導かれ、世界中の教会が新しいことを始めています。初代の教会では普通だったものでしょう。しかし、私たちには知らないことです。説明書である聖書と神の導きが必要であり、何よりこのチャレンジは神の喜びだと理解しました。
2025-02-20
2月9日「嘆きの発生源」
日々生きる中で、どうしても避けて通れないものに、「コミュニケーション」があります。コミュニケーションというと、どうしても、「会話」が浮かんできます。「自分は口下手で、人間関係が上手くいかない」と嘆く人が沢山います。
多くの人が悩む、コミュニケーションは、「言葉の占める割合は7パーセントで、声の響きやムードが38パーセント、そして残る55パーセントがボディーランゲッジといわれています。わたしたちは大きな思い違いをしているようです。
話は違いますが、カナダのアニーゼリンスキーは、「心配の40%は『決して起こらないこと』であり、心配の30%は、『すでに起こってしまったこと』であり、心配の22%は『とるに足りないこと』であり、心配の4%は『わたしたちの力ではどうにもならないこと』であり、心配の4%は『わたしたちが変えることのできること』である。」と言っています。
さあ、立ち止まって少し考えてみませんか?「あれが足りない、これが足りない、…せめて~であったら!」このわたしたちの、「人生 嘆き節」の発生源は何処にあるのでしょうか?少し一緒に考えてみませんか!新しく生きる恵みの源、聖書から答えを捜してみましょう!
2025-02-20
2月2日「超えていく喜び」
娘が英検を受験しました。おそらく、検定試験の類を受けるのは人生初ではないかと思います。
普段、あまり勉強をしている姿は見ていませんが、スマートフォンで英単語の学びをしていたり、特に、東奥義塾で英語のネイティブ教師や素晴らしい先生方から、生きた英語を学んでいることは想像できました。
問題用紙が返却されると、家に帰ってくるなり、「答え合わせして!」と言われました。試験後に迎えに行った時、車の中でそんな約束もしたんだっけ、と思いながら問題を見てみました。
すると、ほとんどの問題は正解でした。もちろん、初級の英語力が求められる基本的なものばかりでしたが、すごいことだと褒めました。
自分のことを振り返ってみると、小中学校ではほとんど勉強をしませんでした。しかし、中学三年になり、内申点の低さと、神奈川県の悪しき風習であったアチーブメントテスト(不評で廃止)の得点によって、川崎の公立ではレベルの低い学校にしか行くことができないと分かった時、はじめて勉強の必要性を感じ、難関校を受験する仲間たちに勉強を教わったのを思い出します。
しかし、国語を勉強したことはありませんでした。本を読み、聖書にも少々触れていたのが良かったのでしょう。となると、娘は明らかに私を超えていくでしょう。どんな人になっていくのか、とても楽しみです!
2025-01-26
1月26日「出会いの主」
先週、時事通信社の青森支社長が来訪され、冊子への執筆を依頼されました。とても光栄なことですが、最初は「厚生福祉」という名称の冊子に相応しいことが書けるだろうかと悩みました。「命に関わることをお願いします。特に、青森県は自死の数が全国でも高いので、そのようなことでいかがでしょうか。」と最初の電話口でおっしゃってくださったからです。
あおもりいのちの電話の理事をしていますが、自死に対して知見があるとは言い難く、他に適任の方がいらっしゃるのに、その方々を差し置いて、付け焼き刃的な記事を書くことは、その記事をとても無味なものにしてしまうのではないかと思ったのです。
実際にお会いして、「実は、今年の6月に改正される刑務所の処遇について、罰から愛へ、変わろうとしている刑務所のあり方として、毎月の教誨師の働きを書くことはいかがでしょうか。」とお伺いしました。すると、その方のお母様が華道を少年院に教えにいらしていたこと、そして、なんと支社長ご自身がカトリック教会で洗礼を受けたクリスチャンであることをお話くださったのです。そのような背景もあり、教誨師の働きを記事にすることにご賛同いただけました。自死については、相応しい方のお名前をお伝えし、最後に二人で祈ってお別れしました。
主は今年も変わらず、素晴らしい出会いを与えてくださっています。
2025-01-19
1月19日「罰ではなく」
先日、刑務所で行われたコミュニケーションスキル研修では、私が講義をするものだと思っていましたが、行ってみると、教育専門官の職員の方が模擬授業のような形で、東北管区の更生保護に関わる公務員の幹部に公表するというものでした。彼は私の教誨クラスで傾聴やカウンセリング、コーチングの話を聞いて「これだ!」と思った方で、それから色々とお話をしていたところ、ご自身の授業を見て、意見をもらいたいと思っていたようです。
今年の6月に法律が改正され、拘禁刑という新たな制度が始まります。そして、それぞれの被収容者に合ったプログラムを提供することで、再犯を防いだり、出所後の生活に資する技能を身に着けたりするように援助するそうです。しかも、それが法務省からのトップダウンではなく、各刑務所の独自の取り組みに委ねられているとのことでした。そこで、彼が気づいたのはコミュニケーションの重要性だったというのです。
主イエスが人を育てるときに用いた質問力と、相手の必要を汲み取る力、そして励まし寄り添う心。日本の刑務所が罰を与える目的から、やり直しを支える目的へと変わろうとしています。
ただ、SNSなどでは未だに犯罪を犯した人々への処罰感情は強く、罰を与えたいと願う声が絶えません。赦し、赦される社会への道は、なお険しいと言えるでしょう。
2025-01-19
1月12日「主に感謝」
それにしても、何という雪の量でしょう!こうなると「災害」としか言いようがありません。自動車学校の前の比較的広い道の青森空港に続く道から、教会に通じる道に入ると、そこはもう車一台がやっと通れる道幅になってしまっています。
これはもう、災害としか言いようのない状態です。あまりの雪の量に、幹線道路の除雪で精いっぱい道路維持課、道を歩くのにも足を取られ、注意をしないと転倒してしまいます。かつてない雪の量に、どこの家も、家族総出で除雪に追われています。わたしの年代の老人の仕事になった雪かきに、小さな子供たちも雪かきに参戦!それはそれで微笑ましい風景が展開し心が和みます!
わたしよりもさらに年配の方が、雪と格闘しながら、「ドンダバ!雪サ殺されで仕舞うジャ!」との本音に吹き出しそうになりながらも、不思議な、ホッコリとしたユーモアを…。
教会のすぐ近くに田んぼがあり、皆、雪をそこまで運ぶことができるのは、なんとも恵まれています。皆が運ぶ雪で巨大な山が出来上がりました。
まだまだ続きそうな雪模様に、心がくじけそうになりますがあと少しです!
「考えてみれば、今年は、もう80歳!考えたこともない年齢になり、主に感謝の日々です。
2025-01-19
1月5日「創造のユニークさ」
2024年最後の礼拝を祝福の中で終えたあと、一人の兄弟が進み出て、証をしてくださいました。カトリック教会で受洗されたこと、聖書が難解で理解に苦しんでいたこと、そして野鳥の会のさなか、見たことがあった弘前西教会に行ってみようか、という思いが与えられたことです。
キリストの体における私たちの教会は、特にキリストにある自由を尊び、そのことを喜ぶ人たちが多く集められている特徴があるように思います。兄弟が喜んでおられる姿からも、そのことを強く感じています。なぜ、そう思うのか。それは、ある方の将来について、なんと焼き鳥屋への転身という自由な発想をもって進言する姿を見たからです!
教会全体における各個教会と、教会共同体に対する各個人の特徴は、本当にユニークです。そのユニークさを互いに認め合うためには、愛が基盤となる必要があると使徒パウロも語っています。それも、十字架の愛が最後に残ると言うのです。
私たちの共同体に主が人を送ってくださるのは、その方がよりその人らしくされていくためだと思います。久しぶりの受洗者が与えられ、私たちの教会を喜ぶ人が主から送られてくるのは、偶然ではありません。
今年は、どんなユニークな方が、どんなユニークな道を通って、私たちの教会に与えられるのか、とてもワクワクしています!
2024-12-29
12月29日「聖霊の臨在」
先週のクリスマスは素晴らしいものとなりました。受洗された桜庭さんは、40年以上前から教会につながり、祈られてきた方。聖書によれば、生まれる前から主が目をとめていた方です。
洗礼式の中で、牧師が十字架と復活の主を「信じますか」とお尋ねすると、大きく力強い声で「信じます!」とおっしゃってくださいました。まるで、魂の底から、聖霊によって出てきた声のようでした。その信仰告白は、共に礼拝をささげていた多くの方々の心にも共鳴したことでしょう。
あるリーダーは「外は曇っているのに、急に晴れたかのような光りに包まれた。」と、聖霊の臨在について証ししてくれました。同じように、桜庭さんご自身も、「何か不思議な力に包まれているようだった。これが聖霊だと分かった。」と、祝会の席で教えてくれました。
思い出してみると、はじめて聖霊体験をした日、私もそれが聖霊だと分かりました。目の前に山と積まれた問題は解決していないにも関わらず、大丈夫だと思えたこと、羽が生えたように心が軽くなったこと、悔い改めの涙が喜びに変わり、止まらなかったこと、誰かから教わったわけでもないのに、それが聖霊だと分かりました。
私も同じように、「信じます!」と心の底から告白した日でした。信じる者に与えられる聖霊、そういうことなんでしょうね。
2024-12-22
12月22日「神の憐れみ深さ」
不信仰な牧師の独断的な導きにより、教会が危機に陥りました。しかし、辛抱強くとどまり、祈ってくださった方々の信仰に基づく忍耐により、徐々に聖霊の火が取り戻され、激減した礼拝出席が増加しています。
主が教会にくださったイザヤの預言の御言葉「新しいことをわたしは行う。」という約束は真実でした。新しいことをするのは牧師ではなく、「わたしは行う」とおっしゃる主だったのです。当たり前のことなのですが、そのことを忘れてしまった傲慢さに、教会全体を巻き込んでしまったことを猛省していました。
ところが、子どもたち、若者たち、そして、新たに教会を訪れてくださった方々。教会での交わりを喜んで下さる方々が加えられ、久しぶりに受洗者も与えられました。
また、教会全体での懇談会においても、様々なご意見が与えられ、祈りから祈りへと向かう流れが継続され、教会が何を大切にしてきたかがしっかりと見えてきたように思います。
不甲斐ない牧師に大いなる憐れみを注ぎ、教会は私のものだとおっしゃる主の権威が取り戻され、集う人々にその愛の目が注がれています。
教会が教会になっていく姿を見ることができ、このクリスマスの良き日、喜びが増し加えられています。
2024-12-15
12月15日「小さな変化から」
教会懇談会で、毎月1週目の礼拝をワーシップにする提案を皆さんと一緒に考えているところですが、実は水曜日の祈祷会IIは、現在、そのような礼拝となっています。
祈りの課題を分かち合い、聖書の御言葉を共に味わい、賛美を何曲かささげた後に、各自祈りの時をもって、最後は立ち上がって、主を礼拝し、賛美する時をもっています。
先日は、岩住先生も東奥聖社のリーダーとともに加わってくださいました。狭い祈祷室が聖霊で充満し、まるで大きな天の宴会にいるかのごとく、私たちは神と親しい交わりをもっています。手を上げて、賛美の中でも信仰を告白し、涙される方もいらっしゃいます。はじめてそのような礼拝に集い、聖霊体験をした方も与えられました。
今からだいぶ前ですが、1週目の礼拝について役員の方々と話し合い、ワーシップの承諾をいただいてから、相談した津田キリスト教会の水村先生が教えてくれました。「何事も、変化をするときは小さなグループから始まるものだよ。主のみ心ならば、チームが与えられ、変化は大きくなっていくから。」
祈祷礼拝IIのワーシップ化は、最初は4名で始まりました。その噂を聞きつけ、賛同者が与えられてきています。そろそろ実現するであろう公同のワーシップ礼拝について、具体的な景色が主によって明らかにされてきています。
2024-12-15
12月8日「ゆっくり、静かに、心を込めて」
閉まらなくなっていたサンルームの戸が、それは気持ちよくスムーズに開閉できるようになりました。閉まらなくなっていた鍵も、スッキリとよくかかるようになりました。「雪よ、いつでもやって来い!」の気持ちに一瞬なりましたが、やっぱり「降らないでいてほしい!」のが本音です。
職人さんに「ついでに」と、「開閉」のままならなくなり、大きく歪んだ倉庫の扉を直してくれるようにとお願いしました。除雪機を出し入れする時に失敗し、レールと床を、「これでもか!」というぐらい変形させてしまったままでした。何度か挑戦したものの、びくともしませんでした。
せっかくのチャンスとこの機会にお願いしました。その慎重な仕事ぶりを、震えながら小雪の中、立ってみていました。何と、神学書を読むよりも沢山の学びをすることが出来ました。「小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である」のイエス様の言葉を想い起しました。
「面倒くさい!」「じれったい!」「早く!」との内なる声を退ける時となればと祈りました。今一度、「ゆっくり、静かに、心を込めて!」を心に刻みました。「マインドフルネス」の言葉が、よぎりました。世界は学びに満ちています。今一度、すべてを一から始めてみようと思いました。 石川
2024-11-24
11月24日「導かれて」
保護観察の対象者の少年と合うようになってから、2ヶ月が経とうとしています。はじめて会いに行った時、うつ伏せに突っ伏していました。「聞こえてる?」と聞いたら頷いたので、「じゃあ、そのまま聞いてて。」と保護観察の内容を伝えました。すると、顔を上げてくれました。
何度か会ううちに、気持ちを素直に伝えてくれるようになりました。そして、お母さんとの電話の中で、「今まで出会ったことのないタイプの人で、かけられたことがない言葉をかけてくれて嬉しかったみたいです。」と言ってくださいました。
私が特別なことを言ったり、更生させるための専門的な知識があったり、才能に満ち溢れているからではありません。ただ、知っているのです。主イエスがどのように人々と出会われたかを。そして、信じている者には、聖霊を下さり、神の霊が私に必要なことをさせるために導いてくださるのだと。何よりも、その子に出会うよう、私を遣わしてくださったのだと。
私がクリスチャンであることは、まだ伝えていません。関係を深め、信頼を得られるようになったら伝えるつもりでいます。教会へ、信仰へ、そして解放へ。そのように祈る私の願いを主が聞いてくださって、必要を満たし、連れて行ってくださる。今、そのことを実感しています。
私の予定を見て、祈ってくださっている背後の祈りを感じながら、宣教のただ中にいます。
2024-11-17
11月17日「神の計画」
幼い頃、アパートの小さな一室で集まって主を礼拝する群れの中にいました。父に連れられて参加した礼拝で、そのアパートの前の公園で遊んでいたのをよく覚えています。その群れにいた信仰深いご夫妻は、幼い私が将来牧師になるビジョンを与えられて祈り始めました。
やがて、罪の奴隷として様々なことを経験しました。さらに、母の突然の余命宣告。どん底で、自力ではどうにもならない人生に白旗を上げ、自らの意思で救いを求め、教会の扉を開きました。
2006年11月18日、はじめて主イエスに「教会の人々が言うように、あなたが本当に救い主だとしたら、私の人生をどうにかしてください。」とみ前にひれ伏しました。その時、聖霊体験の中で「すべてを益にしてあげるから、牧師になりなさい。」と召しを受けました。それが神からの声なのか、自分の内側から出たものなのか分からず、聖書を学ぶようになってからも迷走を続けました。しかし、つまづくたびに、やはりこの道で間違いないんだ、という体験が与えられてきました。
ハワイに、そして青森に導かれ、高校に、刑務所に、と遣わされるたびに、私が出会うべく神に用意された方々とお会いしてきました。
こんなことを、あの物心つく前から想像できたでしょうか。どん底で展望できたでしょうか。神の計画はあまりにも壮大で、綿密で、複雑です。そして、主は今もおっしゃっています。「あなたがたは今は分からないが、後で知るようになる。」と。
2024-11-10
11月10日「言葉の力」
あなたは自分の「考え方の癖」「よく用いる言葉」を意識したことがありますか?
「初めに、神は天地を創造された。」は、聖書の冒頭の言葉です。最初の言葉は、「光あれ。」でした。「こうして光があった。」と記されています。「光なるお方」のみが、光を創造できるのです。サタンは光を創造できません。ヨハネは「初めにことばがあった。」と宣言します。以前にも紹介したように思いますが、マザーテレサのことばを、宣教の一部として紹介します。
「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから 行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから 習慣に気をつけなさい それがいつか性格になるから 性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから」
何という真理でしょうか!イエス様の「言葉」はそのまま出来事となり、新しい時を切り拓きました。
「このわたしの言葉そのものが、人格になり、運命になる」とは!「~まず 愛のことばを言い切ってみよう」と謳った、八木重吉の詩を思い出します。さあ、仕切り直しです。 石川
2024-11-03
11月3日「拍手を受けるべき方」
先週の水曜日、リンクステーションホールに劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観に行きました。誰かに会うだろう、という予想通り、弘前教会の渡邉牧師夫妻や青森バプテスト教会の佐々木牧師夫妻にお会いしました。きっと他にも地域のクリスチャンが観に行ったことでしょう。
内容については、ツッコミどころはあるものの、ミュージカルそのもののクオリティが高く、最後まで集中力が途切れずに釘付けになりました。釘付けといえば、劇もエルサレムバージョンということで、主イエスの十字架の場面で終わってしまいました。復活まで見たかったのが正直なところです。
印象に残ったのは劇だけではありません。むしろ、終わってからのカーテンコールです。観客の拍手に応えて、5,6回は出演者が出ては入りを繰り返したでしょうか。そのたびに、観客の中から、一人、また一人とスタンディングオベーションに加わる方々が増えて、私たちが退出する頃には、ほとんど全員が立ち上がって拍手をしていました。
その拍手喝采に応え、主イエスを演じられた役者の方が、何度も何度も頭を下げている姿が印象的でした。偽物の劇と十字架から降りてきた偽物の主にはこぞって拍手を送るのに、その拍手を受けるべき方、本当の主は、今もなお十字架の上です。
2024-10-27
10月27日「賛美の力」
先週の金曜日、東奥義塾の朝の礼拝は、ゴスペルをみんなで歌う賛美の力に満ちたものでした。
私はメッセージで、賛美に住まう主が人をつくり変え、周りの人に良い影響を与え、超自然的なみわざを地上に描き出し、人々が解放されていく様子を使徒の働きにおけるパウロとシラスの賛美から語らせていただきました。
これから、義塾の中にゴスペルクワイアのチームが出来上がっていくかもしれません。今回、そのメンバーとして名乗りを上げてくれた生徒たちは、日々の勉強に疲れていた特進クラスの生徒たちだったのです。
自分たちで言っていましたが「まるで囚人のように、勉強漬けの日々で疲れ果てている。」そんな生徒たちが、大きな声で主の御名をたたえることで励まされ、勇気づけられ、元気になっていったのだと教えてくれました。
岩住先生が「練習のために公欠を取ることができるかも。」とおっしゃっていたので、特進クラスの授業に行った時に生徒たちに言いました。「ゴスペルのチームに入ったら、この牢獄から出て自由になれる。聖書の約束は本当のことなんだよ!」みんな大笑いしていました。
朝の礼拝の賛美に生徒たちが参加できるように。それはパイプオルガンの横で歌う合唱部によって始まりましたが、今、実りの時を迎えているような気がします。岩住先生と祈ってきた、朝の礼拝の新しい形。主が確実に祈りを聞き、導かれているのを感じます。