156センチの視線

2022-11-27
11月27日「キリストの香り」

 先週の火曜日、テホ先生と平川めぐみ教会の中村先生と3人で仙台に行ってきました。
 テホ先生は「日本のピザはピザではない。」と仰っていたので、「彼にコストコでアメリカのピザを食べさせてあげたい。」これが仙台行きの目的でした。
 しかし、問題がありました。コストコで買い物をするためにはメンバーズカードが必要です。すると、主が仙台の宣教師たちを遣わしてくれました。宣教師は3人で、スティーブン先生、そしてジョセフ先生とヴィクトリア先生の夫婦でした。彼らは忙しい中にもかかわらず、私たちとずっと一緒にいてくれました。それぞれが赤ちゃんを抱っこしながらです。赤ちゃんにとって買い物ほど退屈なことはないでしょう。しかし、彼らは赤ちゃんを上手にあやしながら、初めから終わりまで付き添ってくれたのです。
 「楽しかったよ」と笑顔で帰っていく姿を見ながら、私は彼らが主イエスのようだと感じていました。
 私たちと一緒にいる理由よりも、一緒にいなくてもいい理由のほうが多いはずです。しかし、彼らは私たちを見捨てず、楽しそうに一緒にいてくれたのです。そこには、確かな犠牲の愛がありました。  牛山

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2022-11-20
11月20日「Not religion but love」

 CCMN(セルチャーチ・ミッション・ネットワーク)のサミットがマレーシアで開かれ、300人近い人たちが参加しました。テーマはNot religion but love。その意味は、「宗教ではなく愛」です。
 日々、メディアが取り上げるカルト宗教の問題、家庭崩壊の問題、そこには宗教を愛し、家族や人々を愛さなくなってしまった人たちの姿が浮き彫りになっているように思います。
 主イエスの時代、人々はお決まりの宗教儀礼をこなし、それができない人々を罪人として郊外に追いやり、差別と貧困の中に置き去りにしていました。宗教が関心を寄せなかったそのような場所に主は自ら出向き、話を聞き、問題を解決するためにみわざを行われたのです。
 牧師、神学者、聖書学者にはごく一部の人しかなれませんが、主はおっしゃいました。「すべての人々を私の弟子にしなさい。」実のところ、神はすべての人を牧師や神学者にしたいのではなく、ご自身のように、他者に仕え、愛することができる人を求めておられるのです。
 CCMNのサミットの様子をうかがって、再びそのことを確認することができました。 牛山

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2022-11-20
11月13日「御手の中」

 もう11月も第二週!余りの月日の速さに目が回ってしまいそうです。昼、ウトウトするからでしょうか、相変わらず眠れない日が続きます。そんな中、孔子の次の言葉が浮かんできてますます眠れなくなりました。そんな中、孔子の「子日く、吾十有五学にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲するところに従えども、矩(のり)を…」ガクッです。
 77歳にしてますます思い煩うことの多くなっている自分に出会っています。若いころはもっとスッキリしていたような想いがあります。認めたくありませんが悲しい現実です。
 考えてみると、日本や世界を見ても、様々な権力に絡む汚職や倫理的問題が、年長者に顕著であることに改めて気づかされます。いま改めて、自らの心の底を探る必要を感じています。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4:23)の御言葉を噛み締めています。
 大切なのは、「加えることではなく捨てること」であると思い至ります。「一進一退ならぬ、一進二退」する眠れぬ夜を、祈るために備えられた時間と受け止めることにしました。「どんな時も御手の中」、「八〇を前に祈りの砦を」と!  石川

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2022-11-06
11月6日「御言葉とともに」

 先日、子どもたちのピアノの発表会がありました。
出番が近づくにつれて、子どもたちが「ドキドキする。」「緊張する。」と口々に伝えてくれました。息子は妻と一緒にお祈りをしていました。多くの人の前で発表をしたり、ミスができないような雰囲気の中で前に立つことはとても緊張するものです。私は「失敗しないように、と思えば思うほど緊張するよね。」と同情しつつ、自らの初めての礼拝での司会の役目を思い出していました。
 それは、母の葬儀の時でした。当時、神学校に通っていた私ですが、時々所属教会でメッセージするくらいで、知らない人のほうが多い中で前に立つことはありませんでしたから、とても緊張しましたし、何より自分の母の葬儀ですから、私の牧師の姿を見たことのない友人たちもたくさんいました。そんな中で、葬儀の前に古波津先生が「私もメッセージの前はいつも緊張しますが」と言ってイザヤ書の御言葉を分かち合ってくださり、共に祈ってくれました。
 「恐れることはない。」聖書全編を貫く神の力強い言葉が私を解放してくれたことを懐かしく思い出します。全くそうは見えないかもしれませんが、今でも人の前に出る時には緊張します。しかし、何があっても大丈夫。そんな主の平安がそれを上回っているだけなのです。 牛山

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2022-10-30
10月30日「アーメン!」

 先日、東奥義塾の朝の礼拝でメッセージを語り終わって「アーメン」と締めくくると、いつもは聞こえてこない「アーメン!」の大きな声が聞こえてきました。私は嬉しくて、「今日はとても『アーメン』が大きくて、すごく嬉しいです。」と語りかけ、礼拝を終わりました。
 東奥義塾に着任された、新しい宗教主事の岩住賢牧師は、授業や朝の礼拝において「アーメン」の声が小さい(もしくはほとんどない)ことに心を痛め、「アーメン運動」なるものを始められました。誰よりも大きな声で「アーメン」と応答する岩住先生の声と、生徒たちとの関係性が培われてきているのを感じます。
 先日、校内の廊下を岩住先生と二人で歩いていると、生徒たちが岩住先生に向かって、「先生!」ではなく、「アーメン!」と、名前を呼ぶように話しかけてくるのを目撃しました。彼はすでにアーメン先生という立場を手に入れているのです。
 もちろん、生徒たちはからかい半分だと思いますが、そんな生徒たちにも嬉しそうに接する先生の姿は主のようでした。しかも、それが着任早々であることを考えると、本当に素晴らしいことだと思います。
 主は岩住先生を通して、新しいことを始められました。アーメンのあとは何が起こるか、ワクワクします。 牛山

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2022-10-23
10月23日「待つこと」

 会堂に86インチの大型モニターが設置されました。これまで、暗所で使うプロジェクターを用いて礼拝のための賛美や聖書をスライドで映していましたが、光が弱く、明るい会堂の窓にスクリーンを下ろして暗くしていました。それでも、見えやすくなったかといえば疑問でした。
 役員会では、以前からプロジェクターを新調することを決めていましたが、メーカーに問い合わせたり、会堂内の距離を測ったり、壁の形状を考慮したり、と様々な検討を重ねてきました。しかし、担当者の方に言わせれば、「プロジェクターは、どんなに高価なものを導入しても、明るいところでは限界がある。」とのことでした。そこで、壁に液晶を設置するのはどうだろうか、と導かれたのです。
 かなり高価な投資でしたが、同価格のプロジェクターでは決して得られないクリアーな映像を提供できるようになりました。プロジェクターを新調する、から始まって、紆余曲折を経て、本当に良かったと思います。すぐに高価なプロジェクターに手を出していたら、きっと後悔していたことでしょう。
 聖書は待つことをとても大事にしています。今回は、1年以上前から祈り、方々に声をかけ、導きを得ることができました。落ち着いて少しみ声を待ってみる。これが功を奏したようです。  牛山

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2022-10-16
10月16日「神にとっての当たり前」

 先日、平川めぐみ教会の中村宣教師の家に、テホ先生ご家族と私たちの家族で訪問し、楽しい交わりと賛美の時を持ちました。
 大阪にいたとき、それぞれの教会に若者が少ない、という意見を多数聞いていたこともあって、「では、若者たちを主体とした集会をしよう」と声をかけました。多くの若者が賛同してくれて、いよいよ集会が始まろうとするとき、仕えていた教会の主任牧師から「君がやろうとしていることは素晴らしいことだが、他の教会から『信徒泥棒』と言われるかもしれない。」と諭されました。私は生まれて初めて聞いた『信徒泥棒』という言葉に衝撃を受けました。
 中村先生、テホ先生と福音を分かち合う中で、そのことを再確認しました。そして、一人ひとりが輝ける共同体を、その居場所として見つけられることを願いました。
 ここ最近、聖霊が各地で同じようなビジョンを与えてくれています。ローマ式会員制度型教会を脱し、神の家族としての教会のチーム力を取り戻すために。
 超教派とよく言われますが、私たち個々人もそれぞれの教義を持っているようなものです。超教派は特別ではなく、当たり前のこと。今、霊的な時代の変化の中にいることを実感します。  牛山

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2022-10-09
10月9日「神の家族のスタート」

 先週は、本当に久しぶりの、三年ぶりに聖餐式を執り行いました。また、新しい時に向けての教会の歩みを感謝しました。見える形での「主の贖いを」味わうことが出来ることは、言葉に尽くせない熱い思いが溢れてきます。
 イエス様がわたしのために、「肉を裂き、血を流してくださった」出来事を、この時代の只中にあって、確認することは教会の生命線です。主の御足の跡を辿るのが教会とわたしたち一人一人の使命であるからです。主がわたしたちのために命を捨ててくださったように、わたしたちも「兄弟たちのために、一粒の麦となって、生きるようにとの招きを受け止めるときとして、「主の記念」を生きるためです。注意を怠らずに、聖餐式を喜びつつ執り行なってまいりましょう。
 礼拝後の歓談の後に、出席者全員(13名)で、教会の墓地がある「花岡」に行ってきました。初めての方がほとんどで、浪岡の町が一望できる墓地で、喜びをもって賛美歌を歌い祈り、それは素敵な時を過ごすことが出来ました。
 浪岡教会「神の家族」の一体感を覚えて心が弾みました。教会のお墓にすでに花が飾られていました。西塚さんが、墓参の折手向けてくれたものでした。神の家族の新しいスタートの時です。  石川

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2022-10-02
10月2日「抑圧からの解放」

 先週、東奥義塾の授業に行くと、生徒たちはいつも以上にはしゃいでいました。何かいいことでもあったんだろうかと疑うほどです。グループに分かれて話し合っているとき、聞いてみました。「楽しそうだけど、何か良いことでもあったの?」生徒たちは言いました。「明日から修学旅行なんです!」
 この生徒たちは、コロナの影響をもろに受けた年代で、中学の時は修学旅行が中止となり、高校に入ってからもあらゆる行事がなくなり、部活や学校生活で苦しい思いをしてきた方々なのです。笑顔の理由が分かった気がしました。
 今週から毎週の聖餐式が再開されます。私たちにも、いつも以上の喜びが与えられています。そんな素晴らしい祝福の時、神の家族として新たなチームメイトが加わりました。
 もちろん、これまでも私たちの共同体にとってなくてはならない存在でしたが、日本の教会に、そして私たちの共同体に、正式に属することになるのは、ご本人にとっても、私たちにとっても祝福の一歩となることでしょう。
 涙の谷を通るときもある。そんな人生の中で、共に歩んでくれる主と、主を信じる信仰の友がいることは、何という喜びでしょうか。

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2022-09-25
9月25日「共にいる慰め主」

 関西に住んでいた頃、「なかやまきんに君」という芸人が大好きになりました。筋肉留学と称し、カリフォルニアで学び、帰国してから仕事が激減しました。その彼が、最近、吉本とのマネージメント契約を解除して話題になりました。今、彼はボディビルダーとして、健康管理や運動について、多くの方々に有益な情報をYoutubeなどで発信しています。最近、NHKのアナウンサーが彼のギャグに笑いを堪えきれず、あとに続くニュース原稿を読むことができなくなるという放送事故で話題になりました。
 私は毎朝、「世界一楽な筋トレ&有酸素運動」という彼の動画を見て、一緒に体を動かしています。「あきらめないで!」「もう少し!」「自分のペースでいいですよ!」「無理しないで!」など、運動をしながらかけられる彼の声に励まされながら、主イエスと共に歩む人生について考えさせられています。
 ボディビルという大好きなことを本気で取り組んでいた結果、仕事が全くなくなった彼の経験を踏まえた励ましの言葉は、十字架に向かって本気で歩んだ結果、人々に受け入れられなかった神の御子が発する言葉を連想させます。
 Youtubeやテレビを通さなければ、きんに君には会えません。でも、主はいつも共におられます。  牛山

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2022-09-18
9月18日「信仰の友」

先週、2019年12月からコロナの影響で延期されていた青森コーチングが約三年ぶりに西教会で開催されました。岩手から、青森市から、そしてアスリート・チャーチの方々も、とたくさんのご参加がありました。
 何よりも、久しぶりの対面での開催です。みんなこの日が来ることを心待ちにしていました。そして、実際の内容はと言うと…控えめに言って最高でした!
 疫病とその騒動によってもたらされた内向きな状況に対して、それぞれの教会や個々人が外向きに宣教のわざに励んでこられ、新たな魂が救いに預かっている証を耳にし、本当に励まされました。
 当初、来てくださる予定だった岩手のOLD教会の方々がコロナに感染してZoomでの参加となりましたが、思いもよらず駆けつけてくださった方々もあって、共に教会の本質を学び、離れていても支え合える信仰の友の存在に感謝する時を持つことができたのです。
 あまりにも楽しく、喜びと感動と励ましと…聖霊のもたらす一致があって、みなさんは次回の日程が気になるようでした。これまで、青森コーチングは3、4ヶ月に一度のペースで開催されていました。次回は本格的な雪の前、12月に開催を予定しています。
 皆様の祈りと期待に、きっと主が応えてくださることでしょう!  牛山

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2022-09-11
9月11日「ラッキーセブン」

 9月6日に、何と喜寿を迎えてしまいました。「77歳」(ラッキー7が二つ!)考えてもみなかった未知の「喜び」の世界に突入です。誰もが、年月を重ねると通過する年齢ですが!実感は全くありません。「いい年だ!」とは思いますが、気の利いた言葉一つも思い浮かばないわたしです。「守られて、支えられての77年!」というのが実感です。感謝が溢れます。80歳まであと三年!「何が出来るかな?」、他者の邪魔をしないで、「その人がその人となるお手伝い」が出来るといいな。足を引っ張らずに、いいところを沢山見つけ、共に生きることを喜べるように!と。
 今更ながら、「信仰」が与えられていることの幸いを感謝しています。「ネガティブ」を絵に描いたような自分。「神様と皆に支えられながらの月日!」奇跡としか言いようがありません。
 「両親に、姉妹に、今日まで出会ったすべての友、ことさら信仰の友に、労苦を分かち合った友に、妻に、子どもたちに……」感謝が尽きません。
 溢れるばかりの祝福の中にいたことに改めて出会わされます。残りの日々は、共なる喜びと感謝の中に過ごしたいと祈っています。「主よ、わたしの信仰を増してください!」と祈るわたしに「からし種一粒の信仰があれば!」と主が!  石川

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2022-09-04
9月4日「若いうちに主を知る」

 先週の木曜日、聖愛中高から高校3年生の方々が教会を訪問してくださいました。キリスト教教育デーということです。
 石川先生から話を聞くと、以前は掃除などをしてもらっていたそうです。今回も宗教主事からそのようなご提案がありましたが、短時間であること、コロナの影響で地域の教会に参加した経験がないことなどの理由もあって、「教会とは何か?」というテーマでお話をさせていただきました。
 川崎の教会で、若者たちの集まりに参加した時、私の犯してきた過ちを告白する機会が与えられ、彼らが祈ってくれたことを証ししました。この体験は、教会という共同体が、罪人を受け入れ、解放してくださる主に導く大事な働きであることを知る良い機会となったのです。
 その後、アイスブレークとして好きな食べ物や美味しいラーメン店をそれぞれの生徒の皆さんから教えていただき、礼拝堂をぐるりと案内いたしました。
 帰り際、数名の方々が、「また教会に来ます!」という言葉を残してくれました。しかも、冗談や機嫌取りではないことが分かる口調でした。
 この日のために祈ってこられたテホ先生と一緒に彼らに関われたことも、主の大きな恵みでした。  牛山

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2022-08-28
8月28日「放棄しない神」

 聖書の御言葉を取り次ぐ時、我が身を振り返ってみることがとても多いのです。ジーン・マリー・スタインという心理学者は、「人には、その人もまだ知らない能力が眠っています。そのすべてを合わせると、現在の500%以上成長できます。」と言っています。
 私は中学生の時、はじめて0点を取りました。数学のマイナスの足し算引き算がまったく分からなかったのです。しかし、その時は「数学ができない」とは思わず、父親に丁寧に教わって理解したのを覚えています。しかし高校二年生の時、代数幾何のテストで赤点をとり、以降、友人たちに「俺は文系だから、数学はいらない、役に立たない。」と言うようになりました。それから「私は数学ができない」という人生を歩むようになったのです。文系でも数学が得意な人もいます。しかし、私は数学の能力を手放し、それを学んだことで得られる貴重な体験を自ら放棄していったのです。
 神が用意された様々な体験。その一つひとつを思う時、私はどんなに神の計画から離れてきたのだろうかと、後ろ向きになることもあります。しかし、私のような者の中にさえ可能性と希望を見出してくださる神に心を向ける時、いつでもここからが始まりなんだと励まされています。 牛山

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2022-08-21
8月21日「戦がなくても」

 中学生の頃、スタジオジブリの「火垂るの墓」を学校で観ました。敗戦を覚える今、子どもたちと観ることにしました。
 30年近く前に観た映画ということもあり、印象もだいぶ異なりました。戦争の悲惨さや、人を狂わせる酷さは相変わらずでしたが、特に印象に残ったのは、両親を失った主人公と幼い妹が世話になった親族の家の描写です。
 叔母は彼らに辛く当たり、家から出ていくようにプレッシャーをかけ続け、ついに彼らが出ていこうとすると「あ、そう。」とそっけない様子。結果として、彼らは家の近くの壕で自活し、妹は栄養失調で死んでいくのです。
 この描写には戦争の表現よりも多くの時間が割かれていました。現在であれば「保護責任者遺棄致死」となるであろうネグレクトに対し、叔母の娘からは「お母さん、またひどいこと言ったんでしょ。」と、愛の欠如が日常的であったことを示唆するメッセージも。
 結局、人の罪は戦時下であろうとなかろうと変わらず存在し、その与える報酬は死であるという聖書の真理は変わらないことを再確認しました。
 日々のニュースで取り上げられる、子どもたちの死。戦争のない日本でも、同じことが起きているのです。  牛山

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2022-08-14
8月14日「裁きではなく、愛で」

 LGBTという言葉を聞いたことがあると思います。これは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、の人たちの頭文字を並べたものです。この4種類の人たちという意味ではなく、「異性を愛することや、体の性別を生きていくことが当たり前である」と考えられている社会の中で生きづらさを感じている様々な人たちの総称としても用いられています。(『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』) これ以外にも様々な性を名乗る人たちもいます。耳にしているこれらの人たちを、あなたはどのように考え理解していますか?
 教会はこのような人たちと否定的にかかわってきた歴史がありました。特に福音主義の教会やカトリック教会においてそうでした。
 日常的に礼拝に出席し、聖書を読み、祈りをささげる信仰生活の中で、LGBTとどのように出会っていますか?わたしたちを導くのは、「聖書」です。更には、「イエス様だったらどうするだろうか?」と問うことのようです。「姦淫の現場で捕えられた女に」「徴税人に」「シカルの井戸辺で」…の主の姿を。囚われることなく、キリストの眼差しを与えて戴きましょう。「主よ、哀れみ給え!」と祈る道の備えを感謝しつつ。 石川

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2022-08-06
8月7日「継承するもの」

 かなり前から子どもたちが青森市のラーメン店「きた倉」に行きたいと言っていました。夏休みに入ったこともあり、子どもたちを連れて青森にドライブに行き、昼は「きた倉」に入りました。
 娘は「煮干し中華」、息子は「濃厚煮干し塩」、私は「鰹」のラーメンを注文しました。娘のラーメンはあっさりとした津軽の煮干しラーメンで、息子のものは大量の煮干しをそのまま口に入れたかのような濃厚なスープでした。鰹は三つ葉も入って和風のテイストです。みんな違うメニューを頼んだので、それぞれ味見をしました。驚いたのは、まだ幼い息子が、大人でもビックリするほどの濃厚なラーメンを「これが一番美味しい!」と言って食べきったことです。
 その後、彼らを次の「生まれて初めて」にいざないました。それはカラオケです。ドリンクのもらい方、マイクの持ち方や機材を使った曲の選び方まで、逐一指導しました。彼らは人生初のカラオケに夢中でした。
 帰り道、私が歌を上手に歌えるようになった理由を説明しました。それは、賛美を大声で歌うことです。特に西教会にはオペラ歌手のような声を出す牧師がいたので鍛えられました。そのおかげで、私も妻も声がデカくなり、子どもたちの賛美の声量も伸びしろに期待できそうです。 牛山

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2022-07-30
7月31日「御言葉に従う」

 娘がねぷたの絵を描くワークショップに独りで行きました。小さい時から、何をするにも家族や誰かと一緒だったことがほとんどでした。今回も、何度も聞き直しました。「本当に独りで行くの?」と。
 お昼ごはんのお弁当を持って出かけようとする娘に、「お昼は独りで食べるの?」と聞くと、「そうだよ。」と気にしていない様子です。本当に大丈夫か、寂しくないのか、気にかかりました。
 帰ってくると、とても上手に描けた少し「可愛らしい」ねぷたの絵を見せてくれました。「お昼は独りで食べたの?」と聞くと、「うん。」と答えました。「お父さんだったら、誰か他に独りで来ている人はいないか探して、声をかけるのに。」と話すと、独りでいることにさしたる抵抗もないようでした。確かに、他の人に振り回されるような子ではなかったのですが、この我が道を行く感覚は素晴らしいと思いました。
 私は悪い意味での八方美人で、自分に自信がないので他の人に合わせてばかりいました。「この世に調子を合わせてはなりません。」の御言葉と正反対だったのです。しかし、娘は自分の与えられた道を自由に進み、とても聖書的な歩みをしているようで感激しました。
 子どもたちを見て、御言葉の真理に出会う日々です。 牛山
 

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2022-07-23
7月24日「神の家族」

 当たり前のことですが、ひとり暮らしをしている時、家に帰っても誰もいませんでした。一応、誰に伝えるでもなく、「ただいま」と声に出したりしていましたが、虚しく響くだけでした。
 神学校で学んでいる時は学校の近くに住んでいたこともあり、誰かしらが家を訪ねてくれたり、泊まってくれたりして、寂しくありませんでした。しかし、神を信じ、主イエスがいつも共にいると知ってからも、独りで家にいる時、フッと寂しさや虚しさが込みあげてくる時がありました。
 現在、愛する家族といつも一緒にいますが、家族が浪岡に行って、私だけが弘前に残る時、夜に独りで家にいると、いつもは騒がしい家がガランとして、静かなことに違和感を感じ、浪岡から届くLINEの楽しそうな写真や動画などを見ると、余計に寂しさがつのり、「さっさと寝よう」となるのです。
 最近、私たちの教会でも「神の家族」や「チーム」という言葉が多く聞かれるようになりました。血の繋がりはとても大切ですが、それが絶対ではなく、血縁を超えた家族のあり方を主は示されました。
 多くの人が祈ってくださり、多くの方のために祈れる。夜、布団の中でたくさんの顔を思い浮かべながら眠ることができるのは恵みだな、と感じる今日このごろです。 牛山

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2022-07-17
7月17日「寄り添うこと」

 先週の水曜日、東奥義塾の聖書科授業に行ってまいりました。1年生を担当するのは初めてでしたが、救いの証しと牧師になった召命について話をしました。
 若い頃の失敗談を笑って話せるようになることはとても大きな変化です。何か悪さをすると、すぐに明るみに出たり、みんなでいたずらをしたのに私だけがバレて怒られたものです。その一つひとつが、生徒たちの爆笑を誘っていました。
 そのような道から救われたことは奇蹟であり、大きな喜びでした。「牧師になりなさい。これまでのことをすべて用いてあげよう。」という声は、本当に主のみ声であったと今は分かりますが、神学部にいるときも悩みの中にいました。しかし、その都度、他の道を閉ざし、牧師にならない道を模索する誘惑に陥らないように導かれてきました。
 すでに生徒たちとは30年の年の差があります。彼らの自己紹介を提出してもらいましたが、音楽のアーティスト名や映画、アニメのタイトルは知らないものばかりです。一つひとつを調べ、その生徒がどんなものが好きなのかを理解しようと必死です。
 聖書学者でもなく、称賛されるような牧会者でもなく、誰しもが通る道を通ってきませんでした。私にできるのは、彼らに寄り添おうと努力することだけです。 牛山

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