156センチの視線

2024-07-14
7月14日「5匹の鯛」

 わたしたちの心には、たくさんの「~してもらいたい!」の叫びがあることに気づきます。以前、わたしたちの心の生け簀(いけす)には、「5匹の鯛」が飼ってあり、暴れまわっていると書いたことがあります。その鯛とは。①「関心をもってもらい鯛」②「理解して~」③「認めて~」④「信じて~」⑤「愛して~」という鯛です。いかがですか?
それを否定形で表すと、「~してくれない」となり「くれない族」になります。「助けてくれない」「感謝して~」「優しくして~」「褒めて~」「助けて~」「喜んで~」「許して~」「喜んで~」「必要として~」「守って~」…と、いつまでも続きます。「受けるよりは与えるほうが幸いである」「自分にしてほしいことを人々にもその通りにしなさい」とのイエス様の言葉が思い出されます。「こんな人がいてくれたらいいな」という『こんな人』になるようにと。イエス様はご自身が、「道であり、真理であり、生命であるその生命を生きて下さいました。
「こんな人がいてくれたら!」と思う私たちに、「こんな人」、イエス様が先立ち守り導いてくださいます!大丈夫です! 石川

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2024-07-14
7月7日「本質をもっと」

 男鹿教会では、来る秋田コーチングに向けて、まだ初期キリスト教会の7つの本質について、聞いたことがない方々がいらっしゃるということで、「関係」「参加」「能力付与」「イエス中心」「伝道と増殖」「ネットワーク」「適応可能な構造」の7つすべてを分かち合うことが求められました。
 昨年の沖縄コーチングの時も感じましたが、はじめて7つの本質を聞いた2016年から、この8年の間に、本当に多くの証を携えることができているのです。牧師の不在時にも豊かな礼拝を導いて下さる方々がいること、他の教会のために出かけていって、逆に励まされ、力を受けた方々のこと、豊かなセルの交わりで祝福されている方々のこと、癒やしの祈りを学び、置かれた場所で実践されている方々など、挙げればきりがないほどに。
 まだ本質を学び始めたばかりの頃、説教や礼拝後のちょっとした時間に7つの本質について分かち合いましたが、まだ具体的な証がなく、私自身も理解が浅かったため、おそらく訳が分からなかった、というのが大半のご意見ではなかったか、と思います。
 私のような者が、なぜ他の教会の大事な奉仕に遣わされているのか、他地域の教会が何を求めておられ、そこに初期キリスト教会の本質はどう適用できるのか。そのことをもっと教会内で周知する必要性を感じています。
 教会は聖霊に導かれ、古くて新しい時代に入っています。

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2024-07-14
6月30日「役員会から」

今月より、最終週には前回の役員会で議論されたことと次回の議題を掲載し、皆様からのご意見やご質問、ご提案を受け付けることにいたしました。

※役員会で取り上げてほしい議題、ご意見、ご質問などがありましたら、役員までお知らせください。
 なお、役員会の内容の詳細は個人情報保護の観点からウェブでは公開されませんので、ご了承ください。

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2024-07-14
6月23日「しかしの後に」

 「だから大丈夫」これが聖書の根幹だと、日々気付かされている今日このごろです。
 聖書には「しかし」という言葉がとても良く出てきますが、その「しかし」という接続詞に挟まれている前の文章は苦難や試練であり、後に続くのは主の驚くべきみわざや希望に満ちた約束の御言葉です。そして、その約束はことごとく成就していきます。
 聖書の中に記された教会の歩みもまた、生まれたばかりの頃から苦難の連続です。「しかし」その都度、主は不思議を行ってくださり、生きて働くお姿を見せてくださっています。また、聖書には記されていない、その後の教会史も同様に、失望や腐敗があり、これまた苦難の連続です。「しかし」今もなお、世界中に福音は轟いています。
 私たちの教会も、始まる前から懐疑的な意見や冷ややかな反応に囲まれていました。「しかし」主は、その栄光を教会に現してくださって、今があります。
 そして、私たち個々人にも、様々な苦難がありました。今もあるかもしれません。「しかし」なのです。
 さあ、これから主がどんなことを見せてくださるのでしょうか。「しかし」の後に続く景色は、今あなたが見ている景色も含まれているのです。

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2024-06-16
6月16日「パワー!」

 アデノウィルスに続く、偽痛風?の影響もあって、しばらく筋トレを休んでいました。もちろん、筋トレと言っても、なかやまきんに君が教えてくれた「世界一楽な筋トレ10分」という、いかにも私が喜びそうなネーミングのものですが。
 久しぶりに再開して、まず思ったのは身体が重いことです。しばらく運動をしていないと筋肉量は減少し、その筋肉をエネルギーとして日々の生活で使ってしまうからでしょう。筋肉は脂肪よりも重く、現在の体重を構成しているのは、ほとんど脂肪の重さだと思うと悲しくなります。
 しかし、私は知っています。最初はしんどい運動も、継続していくと徐々に楽になっていくことを。今のところ、動画の中で一緒に運動してくれる、きんに君にペースを合わせることは不可能ですが、以前、同じことをしていたときには、運動しながら、さらにダンベルを持って、きんに君のペースに合わせることができていたのです。ホコリを被っているダンベルにも、そのうち出番が回ってくることでしょう。
 御言葉の養いも運動と似たものがあると思います。しばらく離れていると、忘れることはもちろん、実践はできません。そうやって魂の筋力は衰え、非常時にパワーを発揮できません。さあ、みんなで神とその言葉である聖書に向き合って言いましょう。「パワーーー!」

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2024-06-16
6月9日「黄金律」

 「黄金律」と言われる言葉があります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)のイエス様の言葉がそれです。
 わたしたちは、「こうしてもらえたら!」「こうしてもらえなかった!」という思いが、心に楔のように打ち込まれて、身動きの取れなくなっている人に多く出会います。
 連れ合い、恋人、友人、両親にも、同僚にも…「こうしてほしい」という思いでいっぱいです。そんなわたしたちに、「あなたはどうですか?」とイエス様は問われます。
 良き人を求めるよりも、そのような人に自分がなっていれば、あなたのような人が必ず笑顔でやってきます。
 「こんな人に会いたい!」「こんな友が欲しい!」と思う人に自分がなっていく。それが豊かな人生を生きる人の誠実な姿のようです。自分を見てみると、「あれがほしい」「これが欲しい」「こうしてほしい」「こうしてもらえない」…の塊のようです。
 「素敵な人に出会いたい!」から、「素敵な愛の人に!」の祈りに歩みたいものです。

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2024-06-02
6月2日「孤独に打ち勝つ」

 先日、NHKで高齢者の孤独が取り上げられていました。孤食を防ぐために、企業が新しく立ち上げられ、サービスを利用する会員みんなでご飯を食べる機会を設けたり、高齢者とテレビ電話でつなぎ、一緒に御飯を食べることなどが放映されていました。
 平均貯蓄額が各世代の中でもっとも多い高齢者は、多くのお金を貯蓄しながら、寂しさの中にいるという実態が浮き彫りになっているということです。核家族化が進み、家族も遠く離れた状態で、伴侶にも先立たれた人たちが孤独に直面している中で、一生懸命稼いできたお金は、孤独に対して有効な解決手段とはなっていないようです。
 かつて、ある牧者が説教の中で孤独死のことについて話していたことを思い出します。その牧者はこうおっしゃいました。「教会に来れば、孤独死とは無縁になる。神の家族の中で、血の繋がりを超えた関係を構築し、礼拝に来なければ、連絡が取れなければ、おかしいと判断する。」
 「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブライ10:25)という言葉は、二千年以上前に記されたとは思えないほど現代にマッチしています。
 何より、主がいつも共にいてくださること。これこそ、孤独に打ち勝つ恵みではないでしょうか。

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2024-06-02
5月26日「確かなビジョン」

 先週は、小枝役員と一緒に奥羽教区総会に出席しました。コロナの影響を受けて、教区内の新任教師が赴任されても、ご挨拶もできずにいましたが、お一人おひとりにお会いすることができて感謝でした。
 この数年で、多くの教師が異動し、見たことのない人たちが増えたと感じましたが、お一人おひとりと会話をする中で、主のみ旨を確認することができました。
 それに加えて、いつも教区総会に伴ってくださる小枝役員との車内での会話が私の楽しみです。今回は、これからの教会の新たな歩みについて二人で語り合いました。教会のリーダーである小枝役員にも、新しいビジョンが与えられていること、それが私の与えられているものと共通するものであることを確認することができました。今年度は、そのビジョンが主のみ旨であるかどうかを見極める年であると信じています。今後、教会懇談会や、外に出かけていった際の出会いの中から、与えられたビジョンが主からのものであるという確信が与えられるようお祈りしているところです。皆様も教会全体の歩みに一致し、神の国の栄光を現すものとなるビジョンが与えられますよう、お祈りにお覚えください。
 素晴らしい主の愛と祝福が、この地域に浸透しますように。明確なビジョンを与えてください、と。

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2024-06-02
5月19日「ネットワーキング」

 先週、全国の教会の中から、初代教会の本質を握っておられる牧師や宣教師、さらに他の地域にその価値観を拡大している方々が小樽に集いました。
 今回は、「ネットワーク」について語り合う機会となりました。JCMNの集まりでは、タイムテーブルは大雑把なもので、散歩をしたり、風呂に入ったりしながら課題を語り合う、いわば友だちと過ごす休日のような雰囲気で日程が進みます。私は本質を学ぶ中で出会った友人たちとの再会と、新たな友人との出会いを楽しませていただきました。
 昨今、「ネットワーク」には「賛美のネットワーク」「祈りのネットワーク」など、多様な使われ方をしていますが、JCMNの「ネットワーク」は、本来「ネットワーキング」であったことが分かち合われました。つまり、何もせずとも網の中に組み込まれている、といったネットワークではなく、能動的に、主体的に作り出していくことが「ネットワーキング」であるということです。
 思えば、私たちの教会も、岩手の方々が「ネットワーキング」をしてくださったからこそ、今があります。また、秋田は私たちが「ネットワーキング」したからこそ、素晴らしい恵みを私たちのほうが受け取らせていただいたのです。
 「ネットワーキング」は喜びです。隣人に仕えるように、他の教会にも仕える喜びに歩みましょう!

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2024-06-02
5月12日「神のなかに」

暑くなったり肌寒くなったりと、落ち着かない日々ですが、木々は、初々しい若葉が嬉しそうにそよいでいます。庭のプルーンの花も散りました。今年もたくさんの実を実らせ、皆に喜んでもらえることでしょう。柿の木の若葉も、それは優しく初々しい姿で、風にそよいでいます。葡萄もアッという間に芽を出し、赤い芽が黄緑色に変わっていく姿に、生きている「時」の流れを感じさせてくれます。今年はハナミズキが、妻の手入れが実り、いつもよりたくさん花が咲きました。
 気になっていた小さな畑に、4本の畝を作りました。確実に植えるのは、さつま芋とキウリでしょうか。市の共同農園には、ほとんどの方がまだ作物を植えていません。ホット胸をなでおろし「セーフ…!」と。
 『蜂と神さま』 (金子みすゞ)
「蜂はお花の中に お花はお庭の中に お庭は土塀のなかに 土塀は町のなかに。町は日本のなかに 日本は世界のなかに。
 世界は神さまのなかに そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに 」
 夏が立ったとはいえ肌寒い、津軽の大地に立つと、この詩が心に浮かんできます。 石川

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2024-06-02
5月5日「神の家族」

 先週の礼拝にはオンラインで参加しました。というのも、息子と私がアディノウィルスに感染したからです。
 当初、聖愛中高の入学記念礼拝が予定されていましたが、それも延期となり、また突然の予定変更に、賛美礼拝の司会を担う姉妹は驚きを隠せないようでした。おそらく、1名の証者だけが決まっている状況だったので、場が持つかどうか、またどのように導けばよいのか、気にかけてくださったのでしょう。
 ところが、蓋を開けてみると、なんと多くの方々が証を携えてきてくださったことか!お一人おひとりの証を伺いながら、とても励まされました。それぞれの人生に、主がどのように働いてくださったのか。しかも、思い通りにならないときでさえ、主の御手の中にあるという確信を信仰によって与えられている様子をお聞きし、感動しました。
 聖霊の満たしを受けて、お一人おひとりを深く愛する主イエスの心が入ってきました。「素晴らしい人々が揃っている教会だ」主がそうおっしゃっているのを感じました。
 普段は別の教会に集って折られる方々も参加されていたようで、きっと驚いたことでしょう。何に驚いたかといえば、モニターがあることでも、牧師がいないことでもなく、主と共に生きる人々が輝いている姿に、です。

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2024-06-02
4月28日「仕える道へ」

 過去2000年の教会の歴史を見てみると、大きな大聖堂を建てた、誰が教皇になった、どんな会議をして教義が確立した、といったことよりも、むしろどんな人々に、どのように仕えていったのか、が重要なこととして遺されているように思います。
 先日、サムエル、ダビデ保育園の創立110周年がお祝いされたようです。津軽に大飢饉が起こり、未来を担う大切な子どもたちに食べさせるものがない。そんな人々の叫びに仕えていったのも、やはり教会でした。
 女性の地位が今以上に低く、教育を受ける機会すらなかった時代に、弘前学院を興したのも、教会の青年たちでした。
 まだ教会が生まれたての時代、ローマ帝国で捨てられた赤子を育て、女性に職を与えようと奮起していた時から、教会の姿勢は変わることがありませんでした。「仕えること」それは、主なる神の御旨だからです。
 では今の時代、私たちにできることは何でしょうか。どんな人々の叫びに応え、どのように仕えていく道があるのでしょうか。
 そのことをずっと祈って考えています。そして与えられる事実の数々と、おぼろげに見えてきたビジョンは、もしかしたら、と思えるものへと変わりつつあります。
 新たな歩みに向けて、ビジョンを確信に変え、実現するために、主にお祈りください。

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2024-06-02
4月21日「与えられるビジョン」

 今年度の教会総会をもって、新たな年度がスタートします。創立50周年記念礼拝では、100名を超える方々と共に、主なる神の御言葉による約束が真実であったことを確認し、励まされました。
 続いて、ケニア、フィンランドから主の遣わされた方々をお迎えし、教会の使命とその働きの重要性を再認識させられました。
 次の50年に向けて、大きな変化がこの教会だけではなく、世界中で起きてくることでしょう。いや、すでに起きていると言っても過言ではありません。しかし、それは全く新しいことというよりは、原点回帰のようなものだと思っています。
 初代教会が神と人々に仕える、というビジョンをもって組織化されていったように、教会にはビジョンが必要だと感じています。今年度は、ビジョンを確かなものとし、それに向かって一歩ずつ進んでいくための重要な一年になると確信しています。
  教会の本質を学ぶネットワークに加わったことも、これから実りを見ていくことでしょう。互いに変化を楽しみながら、聖霊の自由な風に吹かれて主の栄光を仰ぎ見る、幸いな時を過ごしてまいりましょう。
 主がおっしゃったように「すでに芽生えている」ビジョンとは何なのか、教会全体で話し合うことで、全員が霊によって一致できるものが必ず与えられるでしょう。

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2024-04-17
4月14日「生まれて初めて」

 先週の金曜日には、生まれて初めての経験をしました。何かというと、義塾の朝礼拝で、娘を前にして聖書のメッセージを語った、ということです。
 教会では経験済みですが、場所と状況が変われば、ドキドキするものです。もちろん、教会でもドキドキしますが、何か種類が違うものを感じていました。
 新しいクラスでの聖書の授業も始まり、新しい生徒の方々との出会いもあって、緊張していたのか、どっと疲れが出ました。
 お昼休みを含めた休憩時間に、宗教主事室で岩住先生と語り合うひとときだけが、変わらない平安と希望の時でした。
 良いのか悪いのか分かりませんが、私が緊張していても、あまり他の方には気づかれないようです。しかし、義塾の礼拝堂で数百名を前に御言葉を取り次ぐにあたって、また、教会でメッセージするときもまた、緊張しているのです。そんな時、川崎の教会で古波津先生がおっしゃっていた言葉が今でも蘇ります。
 「私はいつも緊張してしまうので、イザヤ書の御言葉を口に出して、主が一緒にいてくださることを確認しているんですよ。」
 今回も、そのようにしました。すると、勇気と平安が私を包み、恐れから解放されました。
 緊張は恐れから来るものなのですね。

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2024-04-17
4月7日「インマヌエル、アーメン」

このような時を迎えることが出来るとは、思いも及びませんでした。主の御手である「鷲の翼」(出エジ19:4)によって運ばれ、ここに至ったとしか言いようがありません。
「御手の中ですべては変わる賛美に、御手の中ですべては変わる感謝に…」(^^♪です。
「蒼蠅驥尾に附して千里を致す」『史記』(名馬の尾に止まれば、蒼蠅も千里も行くことが出来る)」の言葉を思い出しました。
 名馬は言うまでもなく「イエス様」ですが、さらには両親であり、今日では、神の賜物である、妻であり、子供たちであり、家族、信仰の師、信仰の友…に他なりません。
 78歳になった今、このように、これまでの人生を振り返ることが出きることは何という祝福でしょうか。そして、今更の如くに、表現することの出来ないほどの感謝の中にいます。信仰による感謝の豊かさに比例して、喜びが泉のように満ち溢れてきます。
 「走馬灯のように」恵みが心を駆け巡ります。「今あるは ただ神の恵み」の御言葉の真実が心に満ち溢れます。私たちの信仰は、賛美に導かれ、感謝によって豊かな実りが与えられます。インマヌエル・アーメン。 石川

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2024-04-03
3月31日「聖書の神秘」

 先週の受難週は、早天祈祷会をもちました。これまでは、十字架上で発せられた主イエスの7つの言葉を5つ選んで分かち合っていました。しかし、今回は十字架までの歩みを一つずつ選んで、エルサレム入城から金曜日の十字架に至るまでの主と弟子たちとのやり取りに焦点を当てて分かち合いました。
 朝のディボーションを一人でするのも大切なことですが、こうして数名で同じ箇所を読むのも素晴らしいものです。それぞれの視点によって与えられるメッセージは異なり、新しい発見がありました。
 朝早くからでしたが、娘も参加してくれて、素朴な疑問を投げかけてくれたり、感想を言ってくれたことで、聖書の深さを知ることができました。
 聖書は大事なことを繰り返して記す特徴がありますが、主が弟子の足を洗うため、腰に手ぬぐいをまく描写が2回繰り返されていることに娘が気づきました。腰に手ぬぐい。こんな読み飛ばして当たり前の箇所に注目し、何を言いたかったのだろうと考えることも楽しみの一つでしょう。
 みなさんはどう思われますか?もしかしたら、大いなる神秘が隠されているかもしれません。

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2024-04-03
3月24日「主の涙」

 先週の火曜日、娘の卒業式に参列しました。ほとんどの女子が袴を着ていて、男子はスーツ姿でした。私たちの時代は、男子も女子もダボダボの中学の制服が多かったように思います。時代が変わったことを目に見えて感じるときでした。
 式も終わりに差しかかり、卒業生の退場に併せて、音楽が流れ始めました。すると、近くに置いてあった卒業生がもらうんだろうと思われた花束を手にとった一人ひとりが、親たちのもとにそれを届けたのです。しかも、ほとんどの生徒の目に涙が浮かんでいました。
 その後、涙しながら退場していく姿を見ながら思いました。とてもいいクラスだったんだろうな、と。1学年に何クラスもあり、クラス替えが頻繁に行われるのと違って、良いときも悪いときも常に一緒に過ごしてきた、正真正銘の仲間たち。学校が変わり、クラスが分かれ、それぞれの歩む道が少しづつ離れていくかのような寂しさと、ここまで歩んできた達成感、挫けそうになったときも立ち上がってきた我慢の日を振り返るのか、その涙の意味は一言では言い表せないものでしょう。
 聖霊のもたらす涙もこのようなものだな、と感じていました。その奥にたくさんの意味を宿した涙。主の流された涙もこのようなものだったのでしょうか。

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2024-04-03
3月17日「子どもたちの姿」

 先週の教会に、とてつもない数の小学生が保護者の方々と訪れてくださいました。私はJCMNのミーティング中だったのですが、部屋の外はまるで小学校の校舎のように、にぎやかでした。
 とても不思議に思うのですが、小学校の校舎や保育園の園者に行くと、独特の匂いがします。中学校や高校ではなく、いつも明確にこの匂いを感じるのです。そして、今回は教会がこの匂いに包まれていました。これは子どもたちの匂いだということでしょう。
 果たして、この匂いはどうして小学生以下の子どもたちから感じるのでしょうか。東奥義塾に行くと、教室の中はとてもいい香りがします。シャンプーのような、香水のような匂いですから、もしかしたら生徒たちがそれぞれに気に入った香りを選んでつけているのかもしれません。となると、小学生以下の子どもたちの匂いは、飾り気のない子供の匂いで、洗濯洗剤の匂いがそのまま香っているだけなのかもしれません。
 そんなどうでもいいことを考えつつ、息を切らしながら、はしゃいでいる子どもたちの声と姿に、教会で楽しいことをした、という敷居の高さが取り払われたら、と思って眺めていました。

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2024-03-08
3月10日「この身を読む」

 「弘前西教会 創立50周年」を目前にして、床に入っても眠れない、眠ってもすぐに覚醒してしまいます。そんな中で、今日までの50年のみならず、主の今日までの守りと、皆の祈り、自らの御心にかなわぬ歩みを繰り返し覚え、浅き眠りの日々の中の昨今です。
 そんな中、繰り返し思い出すのは、数知れぬほどに出会った人たち、教会を訪れたり、礼拝に出席された人たちに対するわたしの眼差しと基本的な姿勢です。心通い合う出会いを持つことが出来ていただろうか?と。
「コミュニケーション」では、言葉の占める割合はわずか7パーセントで、38%が声の響きやムード、残る55%がボディーランゲージと言われています。「わたしはどのように、多くの方々と出会ってきたのだろうか?」「キリストの香りを放ってきただろうか⁉」と問いつつ、眠れぬ日々の中です。
どんなに苦労して立派な説教を作っても、愛が、喜びがなければ「無に等しい」ことを、新たに覚えています。聖書を読んだことのない人たちも、「クリスチャンである、牧師である」わたしを読んでいるのです。チャレンジをしっかり受け止めたいと願う日々です。

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2024-03-08
3月3日「新たな道へ」

 先週の金曜日、東奥義塾の卒業式に行ってきました。今年はグループワークを多くしたこともあって、卒業生のお一人おひとりが名前を呼ばれ、壇上に上がっていく姿がいつも以上に愛おしく思えました。
 宗教主事のお祈りは心がこもっており、時おり声をつまらせながら祈る声に、多くの方々も心打たれたことでしょう。
 塾長が聖書の御言葉から語る言葉には、いわゆる普通の学校でありふれた季節の話や個人的主観に基づく退屈な話ではなく、出エジプト以後の神とイスラエルの民の荒野でのやり取りを通して、奴隷と自由との違いが明確に示されました。
 世に迎合して妥協する罪人の奴隷道を行くのではなく、十字架の主イエスの如くに、与えられた個性をいかんなく発揮し、周囲に惑わされずにまことの自由を謳歌するキリスト道へと誘う、素晴らしいメッセージでした。きっと、卒業生たちにとって、今後やってくる試練の時、罪の誘惑がある時に蘇ってくるメッセージだと確信しました。
 私は明治時代に陸軍士官学校だった高校を出たので、卒業式に語られたメッセージなど、一言も覚えていません。義塾で学び、卒業した彼らを本当に羨ましく思います。

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