156センチの視線

2024-11-24
11月24日「導かれて」

 保護観察の対象者の少年と合うようになってから、2ヶ月が経とうとしています。はじめて会いに行った時、うつ伏せに突っ伏していました。「聞こえてる?」と聞いたら頷いたので、「じゃあ、そのまま聞いてて。」と保護観察の内容を伝えました。すると、顔を上げてくれました。
 何度か会ううちに、気持ちを素直に伝えてくれるようになりました。そして、お母さんとの電話の中で、「今まで出会ったことのないタイプの人で、かけられたことがない言葉をかけてくれて嬉しかったみたいです。」と言ってくださいました。
 私が特別なことを言ったり、更生させるための専門的な知識があったり、才能に満ち溢れているからではありません。ただ、知っているのです。主イエスがどのように人々と出会われたかを。そして、信じている者には、聖霊を下さり、神の霊が私に必要なことをさせるために導いてくださるのだと。何よりも、その子に出会うよう、私を遣わしてくださったのだと。
 私がクリスチャンであることは、まだ伝えていません。関係を深め、信頼を得られるようになったら伝えるつもりでいます。教会へ、信仰へ、そして解放へ。そのように祈る私の願いを主が聞いてくださって、必要を満たし、連れて行ってくださる。今、そのことを実感しています。
 私の予定を見て、祈ってくださっている背後の祈りを感じながら、宣教のただ中にいます。

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2024-11-17
11月17日「神の計画」

幼い頃、アパートの小さな一室で集まって主を礼拝する群れの中にいました。父に連れられて参加した礼拝で、そのアパートの前の公園で遊んでいたのをよく覚えています。その群れにいた信仰深いご夫妻は、幼い私が将来牧師になるビジョンを与えられて祈り始めました。
 やがて、罪の奴隷として様々なことを経験しました。さらに、母の突然の余命宣告。どん底で、自力ではどうにもならない人生に白旗を上げ、自らの意思で救いを求め、教会の扉を開きました。
 2006年11月18日、はじめて主イエスに「教会の人々が言うように、あなたが本当に救い主だとしたら、私の人生をどうにかしてください。」とみ前にひれ伏しました。その時、聖霊体験の中で「すべてを益にしてあげるから、牧師になりなさい。」と召しを受けました。それが神からの声なのか、自分の内側から出たものなのか分からず、聖書を学ぶようになってからも迷走を続けました。しかし、つまづくたびに、やはりこの道で間違いないんだ、という体験が与えられてきました。
 ハワイに、そして青森に導かれ、高校に、刑務所に、と遣わされるたびに、私が出会うべく神に用意された方々とお会いしてきました。
 こんなことを、あの物心つく前から想像できたでしょうか。どん底で展望できたでしょうか。神の計画はあまりにも壮大で、綿密で、複雑です。そして、主は今もおっしゃっています。「あなたがたは今は分からないが、後で知るようになる。」と。

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2024-11-10
11月10日「言葉の力」

あなたは自分の「考え方の癖」「よく用いる言葉」を意識したことがありますか?
 「初めに、神は天地を創造された。」は、聖書の冒頭の言葉です。最初の言葉は、「光あれ。」でした。「こうして光があった。」と記されています。「光なるお方」のみが、光を創造できるのです。サタンは光を創造できません。ヨハネは「初めにことばがあった。」と宣言します。以前にも紹介したように思いますが、マザーテレサのことばを、宣教の一部として紹介します。
 「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから  言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから  行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから  習慣に気をつけなさい それがいつか性格になるから  性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから」
何という真理でしょうか!イエス様の「言葉」はそのまま出来事となり、新しい時を切り拓きました。
「このわたしの言葉そのものが、人格になり、運命になる」とは!「~まず 愛のことばを言い切ってみよう」と謳った、八木重吉の詩を思い出します。さあ、仕切り直しです。   石川

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2024-11-03
11月3日「拍手を受けるべき方」

 先週の水曜日、リンクステーションホールに劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観に行きました。誰かに会うだろう、という予想通り、弘前教会の渡邉牧師夫妻や青森バプテスト教会の佐々木牧師夫妻にお会いしました。きっと他にも地域のクリスチャンが観に行ったことでしょう。
 内容については、ツッコミどころはあるものの、ミュージカルそのもののクオリティが高く、最後まで集中力が途切れずに釘付けになりました。釘付けといえば、劇もエルサレムバージョンということで、主イエスの十字架の場面で終わってしまいました。復活まで見たかったのが正直なところです。
 印象に残ったのは劇だけではありません。むしろ、終わってからのカーテンコールです。観客の拍手に応えて、5,6回は出演者が出ては入りを繰り返したでしょうか。そのたびに、観客の中から、一人、また一人とスタンディングオベーションに加わる方々が増えて、私たちが退出する頃には、ほとんど全員が立ち上がって拍手をしていました。
 その拍手喝采に応え、主イエスを演じられた役者の方が、何度も何度も頭を下げている姿が印象的でした。偽物の劇と十字架から降りてきた偽物の主にはこぞって拍手を送るのに、その拍手を受けるべき方、本当の主は、今もなお十字架の上です。

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2024-10-27
10月27日「賛美の力」

 先週の金曜日、東奥義塾の朝の礼拝は、ゴスペルをみんなで歌う賛美の力に満ちたものでした。
 私はメッセージで、賛美に住まう主が人をつくり変え、周りの人に良い影響を与え、超自然的なみわざを地上に描き出し、人々が解放されていく様子を使徒の働きにおけるパウロとシラスの賛美から語らせていただきました。
 これから、義塾の中にゴスペルクワイアのチームが出来上がっていくかもしれません。今回、そのメンバーとして名乗りを上げてくれた生徒たちは、日々の勉強に疲れていた特進クラスの生徒たちだったのです。
 自分たちで言っていましたが「まるで囚人のように、勉強漬けの日々で疲れ果てている。」そんな生徒たちが、大きな声で主の御名をたたえることで励まされ、勇気づけられ、元気になっていったのだと教えてくれました。
 岩住先生が「練習のために公欠を取ることができるかも。」とおっしゃっていたので、特進クラスの授業に行った時に生徒たちに言いました。「ゴスペルのチームに入ったら、この牢獄から出て自由になれる。聖書の約束は本当のことなんだよ!」みんな大笑いしていました。
 朝の礼拝の賛美に生徒たちが参加できるように。それはパイプオルガンの横で歌う合唱部によって始まりましたが、今、実りの時を迎えているような気がします。岩住先生と祈ってきた、朝の礼拝の新しい形。主が確実に祈りを聞き、導かれているのを感じます。

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2024-10-20
10月20日「信憑性」

 先週、床屋さんに行った時、昔の日本をはじめ、世界中の文化の話から、古代の人々の髪型の話になりました。現在から見ると、異質とも思える髪型や服装に、本当にそんな髪型をしていたんだろうか、考古学者たちの想像の具現化に過ぎないのではないかと、そんな話になりました。
 古代の日本人はちょんまげなど、特殊な髪型をしていましたが、特に絵画などで奈良時代までよく見られる、顔の横でリボンのような、ひょうたんのような形に髪の毛を結うスタイルは、「嘘でしょ」と二人で笑っていました。
 あまりにも気になったので、帰ってきてから調べてみると、3世紀の「魏志倭人伝」に髪型の記載があるそうです。だから嘘ではなかったのです!
 同じように、聖書の中にも「嘘でしょ」と思えるような、度肝を抜くようなエピソードが山盛りです。そして、それは本当だったのです。タイムマシーンでも無ければ、その場に行って確認することはできませんが、状況証拠は整っています。
 偽証するな、と命じられた人々が、神についての歴史的、体験的内容を偽装することはありえないでしょう。どんな罰が待っているか、考えるのも恐怖だったことでしょう。そして、十字架と復活を目にした弟子たちもまた、自らが迫害され、処刑されるような試練の中で、嘘を抱えて心中したとは思えません。
 魏志倭人伝を信じて、あの特異な髪型を誰もが疑わないのであれば、聖書はなおさらのことではないでしょうか。

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2024-10-12
10月13日「祝福する人から」

 創世記12章1節に、「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしの示す地に行きなさい。』」(創12・1)は、マタイ5:3~の、「山上の説教」と同じように、原文では「幸いである~」のように、「離れよ~」が冒頭に来ています。『離れよ!出でよ!』と神様が言われるのは、人間はなかなか出たがらない存在だからなのでしょう。自分の今日までの歩みを想い起してみると、よくわかります。足が前に出ないのです。ことに、主の促しには!
 主は何のためわたしたちを変革させようとするのでしょうか?それはわたしたちを通して、人々を祝福するためのように思われます。
「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」と神様はアブラムに宣言されます。わたしたちも、神様からの祝福を委ねられているということを忘れてはいないでしょうか。
 わたしたちが福音へと召されたのは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(マルコ16:15)るためです。
 世界は「祈願」する人々で溢れています。しかし、新しい時は、祈願する人からではなく、「祝福」する者へと変えられる人により実現します。「主よ、祝福の器として用いてください!」と。 石川

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2024-10-12
10月6日「教会の本質」

 先週の月曜日、北西地区の教師会、その後に地区委員会がもたれました。いつも通り、業務連絡や各教会の報告、祈りの課題などが出され、出席者が少なかったこともあって早々に教師会が終了しました。
 その後、地区委員会では、11月にもたれる信徒研修会について話し合われました。今回は、それぞれの参加者が「いかにして救われたのか」をグループごとにシェアし、その個性に満ちた主の救いのみわざから本質を探り、伝道について考えることをテーマとしました。
 その話の流れから、教会形成の話になりました。そこで、JCMNの額田先生がされている、岡山と小樽の二つの教会の牧会スタイルについて証をしました。使徒の働きにある牧会スタイルです。教会の個々人が霊的に自立し、聖霊に導かれながら主の弟子を育てていくこと。貢献者として主がお選びになったお一人おひとりを、消費者にしてしまった教会の歩みを省みて、まず牧師が変わる必要があるのだと話しました。
 静まり返った会議の場で、地区長が言いました。「その話を信徒研修会で聞かせてほしかった。」教会の本質を求めて7年。北西地区の教会にも、主が初代教会の本質を学ぶ道を拓いてくださったことを感じました。
 教会が大変だ、と危機が叫ばれる世にあって、そのような時だからこそ、人の力が及ばないからこそ、主がご栄光を現してくださるのです。

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2024-09-28
9月29日「コミュニケーションの基礎」

 ここ最近、東奥義塾の授業で生徒たちと傾聴を学んでいます。グループに分かれ、それぞれが傾聴のスキルである「あいづち」「ミラーリング」「沈黙」「自分の話はしない」などを駆使して、質問などを用いながら、人の話に耳を傾ける訓練をしています。
 クラスを回りながら、それぞれのグループのやり取りを聞くと、とても上手に聞き手の役割を担っている生徒が多くいます。しかし、仲の良い友人とのやり取りの中で、いつもの会話とは異なる違和感を感じている、と話してくれた生徒がほとんどでした。それもそのはずです。今までは、人の話を聞くことの大切さは分かっているものの、とっさに自分語りが始まったり、相手の言ったことにマウントを取ることが普通だったからです。でも、上手に質問され、聞いてもらった側の意見を聞くと「気持ちが良かった」という声が多数を占め、みんながなるほどと納得しているようでした。
 もちろん、誰もが良い聞き手になることは難しいでしょう。これも与えられている賜物があると思います。ですが、主が用いられたコミュニケーションの基礎は、これからの人生の役に立つはずです。
 仲間と高め合い、チームの成長や子育ての理想として、主がくださった御言葉。そして柱となる福音の力。生徒たちは楽しそうに学んでいます。

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2024-09-28
9月15日「逃れの地へ」

 最近、ニュースで話題の兵庫県知事ですが、世間ではパワハラという言葉が大きく取り上げられています。しかし、この問題の本質は別のところにあると思います。ほとんどのメディアでは、知事の人間性が大きくフォーカスされていますが、問題はそこではなく、特定の人物に権力が集中してしまう、という構造上の問題だと思います。そして、それは兵庫県だけではなく、日本の至る所に見られる現象だと思います。
 このようなことに気付けるようになったのも、教会の本質を聖書から学ぶことができたからだと思います。しかし、自分ができているかどうかは別の話です。
 王座にしがみつく兵庫県知事の姿を見ていると、他人事とは思えないのです。自分の人生は自分のもので、王座は決して離さず、好き放題に生きる。当然、口から出る言葉も自己中心から出るものばかりで、人を傷つけても何とも思わない。本来、その王座と主権は主なる神のものであり、明け渡さなければならないはずなのに。
 しかし、自分で自分の人生を完璧に統治しているとは言い難い、いやむしろ、崩壊しているというところまで連れてこられた時、白旗を上げて主を王座に迎え入れた時から、本当の人生の豊かさを知りました。
 これだけ大きく取り上げられた彼は、あらゆる方面で再就職は難しいでしょう。今、彼が主のもとに導かれ、悔い改めて救われることを願ってやみません。

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2024-09-28
9月8日「愛と優しさ」

 今月号の『信徒の友』特集は、「犬は笑うか」です。父は動物が嫌いなので、動物を飼ってもらえず、小さな小鳥で我慢していました。袋町の古い教会の祈祷会に迷い込んできた、生まれたばかりの子猫を、1年生の新子にねだられ飼うことになり、「マリア」と名付けました。それから5年後、南教会から福井に転任する上垣牧師から頼まれ「クロ」という5才になる犬を飼いました。クロも、マリアもとても長生きし、皆を慰めてくれました。その後、浪岡教会の竹迫牧師に乞われ、生後3ヶ月の仔犬「プル」を飼いました。従順で皆に愛嬌を振りまく可愛いい犬で、やはり長生きをしました。
浪岡に移住した時、もう犬や猫は飼わないと思っていたら、八幡宮の阿部さんから、サラを頼まれ、美祈子のこけしの師匠から、マルコを頼まれ、再びニャンチャンとワンチャンに慰められ励まされ、喜びを分かち合い8年の月日が。そればかりでなく、良き伝道の働きまで担ってくれ、感謝の言葉もありません。
今は、サラとマルコのいない生活は考えられません。サラもマルコも偉大な教師です。特にサラは、叱られたり、叩かれたりしての一年間だったようで、今なお、傘などの棒状のものに反応して、体を硬直させます。二匹と共に生活する中で、愛すること、優しくすることを学んでいます。 石川

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2024-09-01
9月1日「主を知り、自分を知る」

 教会のホームページが古くなってきました。10年以上前、私が来たときに素人ながら自作したものです。この10年で、ホームページを見て来た方々が本当に多くいらっしゃいましたが、そのためにも、この小さな働きを主が用いてくださったことに感謝しています。
 教会に来ている青年が、「教会のホームページは古いですよ」と教えてくれました。おそらく古く感じるのは、牧師紹介のカテゴリーに鎮座する私の写真でしょう!岩住先生は、その写真のことを「この教会に来る時、若干の不安を感じました」と笑ってくれました。
 今年に入ってから、痩せたら着ようと取っておいた洋服を実際に着用してみると、年齢相応ではなく、全力で老化に逆らっている人に見えたため、断捨離しました。
 かつて主を信じていなかった頃、私は他の人の意見に流されるだけの存在でした。高校時代の親友に「ウッシーは外見だけだね」と言われたのは、笑いながらであったとはいえ、決して冗談ではなく、中身のない私を案じての言葉だったと今は分かります。なぜなら、こんな私でさえ、主を信じた今では、自分がおっさんであることを素直に認められるからです!
 主を知ることは自分を知ること。主の祈りを通して自分自身が学んだように、自分を知ることが本当に大事だという視点は、御言葉に新たな角度を与えてくれます。

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2024-09-01
8月25日「聖霊による一致」

 先週の火曜日、日本聖書神学校を卒業され、各地に遣わされている牧者たち37名が当教会に来訪されました。
 顔を見たことのある方々もいらっしゃったり、また、私の祖父に教会学校で教えられた、という方もいて驚きました。また、幼少期から復活のキリスト教団でお世話になった方で、その後に献身されて教団の牧師になられた方とも久しぶりにお会いすることができました。
 石川牧師が弘前西教会の歩みと浪岡教会との関わりを伝えたあと、ジョイフルの方々が賛美をしてくださいました。瞬きの詩人、水野源三さんの詩に川口耕平さんが曲をつけた「わが心」からはじまり、「雲が雨で満ちると」「御手の中で」の3曲でしたが、途中から会場全体が賛美に満ちて、出席者の神をほめたたえる声が天に向けられました。聖霊による一致がある中で、とても素晴らしいときでした。
 みなさんがお帰りになる際に、口々に「賛美が素晴らしかった」「教会の歩みに励まされた」とおっしゃっていました。ジョイフルの方々が天を見上げ、輝いている姿は、多くの方々の魂に響いたようです。
 「主がなんとかしてくださる!」まさに、これだな、と思わせてくれる。そんな集会になりました。
 弘前市内の観光もなさっているようでしたが、きっと皆さんの心に残ったのは、互いに励ましあったことと、教会に主がしてくださったことを共に賛美できたことだろう、と勝手にそう思っていました。

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2024-09-01
8月18日「何に献身したのか」

 同志社を卒業し、牧師として10年間の牧会経験を積んだ方々が集まるセミナーに行く予定でしたが、台風の影響で飛行機が欠航し、残念ながら欠席となりました。
 しかし、現地の方々が苦慮してくださって、Zoomで参加することができました。同志社の神学館で学び合った仲間たちの10年ぶりの姿は、あまり変わりませんでした(笑一番変わったのは私かもしれません。
 みなさんの発表や交わりで感じたのは、とても優秀な方々が、それぞれの場所で小さなことに忠実に仕えておられることでした。ただ、みんな疲れているな、というのが正直な感想でした。その顔を見ると、「私は楽しんでいます!」と焼けた黒い肌で元気にアピールすることなどできませんでした。
 アメリカの組合教会が守ってきたスタイル、その方法論を小さなことまで忠実に守っている姿は、その方々の献身的な働きを連想させるとともに、欧米式から脱却できずにいる日本の社会的な構造にも共通しているような気がしました。
 かつて、カトリックが畏怖の念を覚えた日本の殉教者たちの姿。その献身性は今も受け継がれていると確信しますが、誰に献身し、どこに仕えているのか、悪魔が巧妙に相手をすり替えている印象を強く感じました。

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2024-08-11
8月11日「新たな視点」

 朝(五時過ぎ)のサラの散歩を終わり、新聞に目を通し、ラジオ体操、朝のお勤め(御言葉とお祈りの時)終わると8時。服薬し、食膳の祈りをしてから、『虎に翼』を見ながら朝食。最近は、オリンピックを引き続き見て…という日が続いています。
 人生をこの一事に賭けて歩んできた真実な姿は見るたびに心を打ちます。人生と人生、魂と魂がぶつかり合う姿に、自らの人生に対する姿勢が問われ、心苦しくもあります。オリンピックは、32競技、329種目で競われ、パラリンピックは22種目549種目で競われます。
 スポーツと言っても、これほどあるのですから、人生をひとくくりにできないことを、改めて思い知らされています。どこかで優劣をつけ、物差しで測る自らの卑しさを確かめる時となっています。どこかで序列をつけて線引きする自分の姿を、今一度覚える時となり、感謝しています。
 金子みすゞさんは、「みんなちがって みんないい~」詠いましたが、ファリサイ人の血が流れ、いつも優劣をつける自分と再会続けています。
 改めて、主イエス様の眼差しを思い浮かべ、福音書を新たな視点を与えられ読むことを迫られています。そうです!みんな素晴らしいのです。 石川

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2024-08-11
8月4日「沖縄にて」

 沖縄コーチングネットワークについて、お祈りくださり心から感謝します。日曜日の朝、西教会の礼拝の様子を見ながら、皆さんが喜びに満ちて礼拝をおささげしている姿に感動しました。また、急遽お願いした姉妹は、子どもたちが不在の中、神の子どもたちである大人たちと、とても楽しく、また素晴らしい礼拝を導いてくださって、私たちも画面の向こうで楽しませていただきました。
 沖縄コーチングに家族を連れていきたかったのは、神の働きを担える喜びと、どこに行っても信仰の友がいることを知ってほしかったからです。
 今回の沖縄コーチングはテーマが「伝道と増殖」でしたが、私が傾聴の話をしていると、沖縄の方々は腹を抱えて笑ってくださり、語る私の喜びと、沖縄の方々の喜びで、会場は大いに盛り上がりました。また、その様子を後ろの方で見ていた娘は、次の日になって「『傾聴ゲーム』をしよう」と持ちかけてきて、「飛行機の中がつまらない」という息子をクライアント役にして、見事にコーチングをしてみせました。結果として、「飛行機の中で本を読むことにする」というアクションプランに導いたのです。
 「今回の沖縄は、食べるものも、することも全部成功で、一つも失敗がないね」と子どもたちは言ってくれました。
 主イエスも、このように弟子たちと旅をされたのでしょう。

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2024-08-11
7月28日「正しい人はいない」

 多くの人が言います。「神がいるなら、どうしてこんなにひどいことが起こるのか」と。信仰がご利益と等しい我が国ではなおのこと、そのような声は大きいのではないかと思うのです。
 しかし、主イエスはおっしゃいました。「互いに愛し合いなさい」そして、誰がそれを完全に守っていると言えるのでしょうか。
 聖書が言うように、この世界に義人は一人もいません。裁きの日、神の前で「私は正しい人です」と言える人などどこにいるでしょう。もしいるとするならば、それは自分自身を分かっていない人だけでしょう。「神は私たちにこんなひどいことをする。」「悲惨さを無視している。」そのような主張を、あの十字架の主を前にして、自らの犯してきた過ちを振り返って、誰が言えるのでしょうか。
 教会には「我こそが罪人のかしらだ」と自省する人々が集っています。誰よりも、自分が罪深いと分かっているからこそ、十字架の主こそ救い主だと分かるのです。
 主が天地を創造され、はじめて人が罪を犯してから、世界は何も変わっていません。神の愛は変わらず、人の罪は深いのです。
 だからこそ、主は十字架にかからなければならず、その責任を自ら負ってくださり、私たちを憐れんでくださっているのです。誰が、その主に向かって、「ひどい方だ」と言えるのでしょう。そのことを改めて感じる今です。

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2024-08-11
7月21日「耳を傾ける」

 私が担当させていただいている、東奥義塾の授業では、「教会の7つの本質」を毎年分かち合っていますが、今年はコーチングのエッセンシャル講座を受講し、認定されたこともあり、カウンセリングとコーチングという、主がなされ、教会がその最初期から大事にしてきたこと、そして近年言語化されたものについて分かち合っています。特に、傾聴の中で助言(自分の話)をしてはならない、というのが多くの方々にとって良い学びになっているようです。
 刑務所でも同様の学びをしており、概ね好評です。ほとんど方は、説明だけ聞くと「そんなの簡単だ」と思うようですが、実際に体験していただくと確実に失敗します。しかし、それが楽しいのです。
 みんなが失敗する中、後方に控えた貫禄のある方に視線が集まります。「◯◯さん、やってみてくださいよ」「◯◯さんならできますって!」と励ます方々の声に押し出され、真打ちの登場です。悩みを打ち明ける役の私が聞きました。「最近、白髪が増えてきて…」すると、その方が開口一番「白髪は男の冠ですからね!気にすることはないですよ!」一発目に助言です!みんなで大笑いしました。
 義塾では授業が終わって廊下に出ると「こういうことが学びたいのですが、どこで学べば良いのでしょうか」と聞いてきた生徒もいました。
 主のように、人々に寄り添うことのできる方が、また一人、そして一人と生まれようとしています。

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2024-07-14
7月14日「5匹の鯛」

 わたしたちの心には、たくさんの「~してもらいたい!」の叫びがあることに気づきます。以前、わたしたちの心の生け簀(いけす)には、「5匹の鯛」が飼ってあり、暴れまわっていると書いたことがあります。その鯛とは。①「関心をもってもらい鯛」②「理解して~」③「認めて~」④「信じて~」⑤「愛して~」という鯛です。いかがですか?
それを否定形で表すと、「~してくれない」となり「くれない族」になります。「助けてくれない」「感謝して~」「優しくして~」「褒めて~」「助けて~」「喜んで~」「許して~」「喜んで~」「必要として~」「守って~」…と、いつまでも続きます。「受けるよりは与えるほうが幸いである」「自分にしてほしいことを人々にもその通りにしなさい」とのイエス様の言葉が思い出されます。「こんな人がいてくれたらいいな」という『こんな人』になるようにと。イエス様はご自身が、「道であり、真理であり、生命であるその生命を生きて下さいました。
「こんな人がいてくれたら!」と思う私たちに、「こんな人」、イエス様が先立ち守り導いてくださいます!大丈夫です! 石川

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2024-07-14
7月7日「本質をもっと」

 男鹿教会では、来る秋田コーチングに向けて、まだ初期キリスト教会の7つの本質について、聞いたことがない方々がいらっしゃるということで、「関係」「参加」「能力付与」「イエス中心」「伝道と増殖」「ネットワーク」「適応可能な構造」の7つすべてを分かち合うことが求められました。
 昨年の沖縄コーチングの時も感じましたが、はじめて7つの本質を聞いた2016年から、この8年の間に、本当に多くの証を携えることができているのです。牧師の不在時にも豊かな礼拝を導いて下さる方々がいること、他の教会のために出かけていって、逆に励まされ、力を受けた方々のこと、豊かなセルの交わりで祝福されている方々のこと、癒やしの祈りを学び、置かれた場所で実践されている方々など、挙げればきりがないほどに。
 まだ本質を学び始めたばかりの頃、説教や礼拝後のちょっとした時間に7つの本質について分かち合いましたが、まだ具体的な証がなく、私自身も理解が浅かったため、おそらく訳が分からなかった、というのが大半のご意見ではなかったか、と思います。
 私のような者が、なぜ他の教会の大事な奉仕に遣わされているのか、他地域の教会が何を求めておられ、そこに初期キリスト教会の本質はどう適用できるのか。そのことをもっと教会内で周知する必要性を感じています。
 教会は聖霊に導かれ、古くて新しい時代に入っています。

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