156センチの視線

2021-07-18
7月18日「本当の自由とは」

 先週の祈祷会では、「真理はあなた方を自由にする。」(ヨハネ8章)の御言葉を分かち合いました。主イエスは「私は道であり、真理であり、命である。」とおっしゃいました。主こそ真理なのです。
 まだキリストを知らない頃、自由とは何ものにも束縛されない状態だと思っていました。しかし、ホッブズやロック、ミルやヒュームのように、自由をテーマにして思想を展開してきた人々の意見にも見られるように、国家や法が必要だったり、どこに行っても、何ものにも束縛されない自由は無さそうです。ですから人々は言うのです。「自由には責任が伴う。」
 しかし、自由とは、そもそも罪人である人間が自己発明的に生み出せるようなものではないと聖書は断言し、主は「もし、わたしの言葉にとどまるならば」と自由の出どころを明確にします。
 実際、自由とは国家にでもなく、法にでもなく、ましてや自分勝手でもなく、キリストのもとにしか存在しないのだと私は知ったのです。
 そして、究極的に言えば、神が与えたもう自由を「どう生きるのか」であり、神に背くという自由を行使してしまった失楽園のごとく、御言葉から離れないように生きることが本当の解放ではないかと思うのです。

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2021-07-11
7月11日「天国はここに」

 トマス・アクィナス(中世最大の神学者)以来の神学者と言われるカール・バルトに、「天国とはどのようなところですか?」と聞いた人がいました。それに対して、「あなたの嫌いな人もたくさんいるところです。」とバルトは答えたといいます。
 いかがですか?この答えをあなたはどうおもいますか?「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15)とのみ言葉があります。自分と価値観の違う人について、パウロが言及した言葉です。
 天国には「あの人にはいてほしくない!」という人がいっぱいいるのだというのです。そんな天国などない方がいい!とお思いになりますか?どうもわたしたちが思う天国と違うようです。
 十字架につけられたイエス様を罵る人たちのため主は祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
わたしたちは日々の祈りの中で、「主の祈り」を祈ります。「御名が、御国が、御心が…」と祈るわたしたちです。とすると…。
 今ここで、「天国であることを先取りして」生きることが、天国の信仰を生きることになるのでは⁉ と思いを新たにしています。天国を今ここで!心躍るチャレンジではありませんか。

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2021-07-05
7月4日「撒かれた種」

 25日の金曜日、いつもであれば東奥義塾の朝の講壇には私が立つのですが、その日は創立記念礼拝。なんと聖愛中高の教師であり、私たちの教会の神の家族、Sさんが御言葉を取り次いでくださいました。
 礼拝が始まる前、塾長や宗教主事とともに、私も祈りの輪に加えていただきました。そこで初めて知ったのですが、Sさんが卒業した年は、私の生まれた年だったのです。さらに親近感をいただいた私は、後方で祈りながらメッセージを拝聴しました。
 学校生活、そしてキリストとの出会い、導いてくれた友の死、ありのままを受け入れてくださる神の愛について、学生たちにも分かりやすく御言葉を紐解いてくださいました。きっと神の愛に触れられた学生がいたことでしょう。
 かつて、東奥義塾や聖愛中高には尊敬するクリスチャンの先生方が何名もいらしたようです。今でも、数は少なくなったかもしれませんが、そのような先生方がミッションスクールの根幹を祈りをもって支えておられる。そのことを改めて感じることができました。
 青年たちを教育することに特化した教会として、そのミッションに遣わされている一人ひとりの尊いお働きがますます祝福されることを祈ります。
 丁寧に植えられたその種が芽吹くことを信じます。

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2021-06-27
6月27日「恐れない!」

 今年は阪神タイガースの調子が良く、この強さは本物だ、と思わせるようなシーズンを送っています。阪神は昨年のドラフト会議で、4球団競合の末、近畿大学から佐藤輝明選手を一位指名で獲得しました。
 遠くに飛ばす力がある、スケールが大きい、といった下馬評がありましたが、そこはプロ。シーズンが始まったらどうなることやら、と思ってみておりましたが、彼の実力はとてつもないものでした。
 新人でありながら、本塁打王を争うほどの実力を発揮し、打った瞬間に本塁打を確信して天を仰ぐような動作、ベンチに帰ってきてからの「Z」ポーズは、大好きなももいろクローバーZへ向けられているようです。何よりも、球界一の三振数を記録しながらも、ブレることなくバットを振り続ける姿には、ルーキーとは思えない落ち着きと迫力があります。
 彼の姿を見た多くの関係者が口を揃えて言います。「彼の失敗を恐れない姿勢がチームに影響を与えている。恐れることはないのだ、と。」
 救い主と出会った多くの人が恐れから解放されていきました。嵐の中で眠るような大胆さは、周囲にも影響を与えていったのです。
 主を信じる一人の人間として、思い煩わないことの大切さを教えられています。

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2021-06-27
6月20日「父なる神の目線」

 妻が自動車教習所に通い始めて一ヶ月近く経ちました。妻が不在の時には、子どもたちと一緒の時を過ごすチャンスです。
 先日はパエリアを作りました。いつもは簡単に炊飯器で作るのですが、今回はフライパンで挑戦してみました。
 予想通り、フライパンでご飯を炊くのは難しく、上の方は少し芯が残ったような感じになり、下の方は柔らかくなりすぎたようです。最後に混ぜた後、少しだけ強火で水分を飛ばしましたが、納得の出来には程遠いものになってしまいました。
 スプーンを握って待つ子どもたちの前にフライパンを持ってくると、大好きなエビやイカが乗っている様子に興奮していました。私が「ちょっと失敗しちゃったよ。」と言うと、「そうなの?」と。しかし、いざ食べ始めると「美味しい!」「どこが失敗なのか分かんないよ!」と残らずたいらげ、何度もおかわりしてくれました。
 そんな子どもたちの姿を見ていると、父なる神の愛を感じることができました。「たとえ、あなたが失敗だと思っていても、私はそうは思わない。」まるで主の声が聞こえてくるようでした。素晴らしい時間をくださった主に感謝です。

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2021-06-13
6月13日「終息への祈り」

 6月10日(木)午前中の東奥義塾の理事会が終った後、妻と一緒に石澤医院にワクチン接種に出かけました、思ってみたこともない後期高齢者となり、四捨五入すると80歳!ただ驚くばかりです。まだまだ若いつもりでいても、あらゆる意味で全てを再検討する時がやってきました。
 1時半の受付ということで10分ほど早く着いたのですが、すでにたくさんの人が並んでいました。検温をして待つこと暫し、重装備をした石澤医師の問診の後、テレビで見なれた風景の注射!顔なじみの看護師さんたちの、きびきびした凛々しくも優しいいたたずまいに感動しました。注射は、あっという間に、ほとんど痛みもありませんでした。これもテレビの画像通りに。
 3時までの1時間半に、60名ほどの接種を終え、それからは通常の診療日程に戻るとのこと。今日の医療状況を少し肌で感じることが出来ました。
 スムーズに注射を受けるため、注射を受ける人は土足で病院内に。効率よく、しかも適切な医療を提供できるのかを考えての工夫が感じられ、柔軟な対応に感心ました。スタッフの一人一人の爽やかで優しくも頼もしい姿に感動し、良き学びの時となりました。今一度、一日も早いコロナの終息と、医療従事者のために祈りました。

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2021-06-06
6月6日「神の創造の中」

 コロナ禍の中、ほとんど外に出かけられない状況をお過ごしのことと思います。先週の月曜日、私たちは「せっかくの休みだし、どこかに行こう。」と、妻と二人で奥入瀬渓流へ行ってきました。
 たくさんの滝を眺め、あたり一面に生い茂る草木と、その上にへばりついている何種類もの虫たちを見ながら、「気持ちいいねぇ。」と歩き続けました。
 人間が森林浴を欲したり、実際に森の中で気持ちが良くなるのには、しっかりとした理由があるそうです。その鍵は、樹木が出す「フィトンチッド」と呼ばれる化学物質です。
 これは猛毒で、樹木がカビや細菌から自らを守るために放出しているもので、高濃度であれば人間も死んでしまうほどの毒素です。しかし、森は微量の「フィトンチッド」が漂うだけなので、人体に悪影響はなく、むしろ脳の活動が沈静化し、ストレスホルモンを抑制するだけでなく、がん細胞やウィルスを攻撃してくれるナチュラルキラー細胞を飛躍的に増加させるそうです。
 およそ3kmの道のりを歩きましたが、全く疲れず、かえって元気になったような気がしたのは、気のせいなどではなく、神が創造された世界に身を置いたからでしょう。癒やし主に感謝!

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2021-05-30
5月30日「行いにおらず」

 先日、父親から小学生の時の通知表が送られてきました。こんな時、ほのぼのと過去の自分を振り返るのでしょうが、通知表の通信欄に先生方が書いた私の評価が、それはもうひどいものでした。
 それぞれの先生は、何とか私の良いところを見つけ出して、「クラスの人気者」と書いてくれたかと思えば、「しかし、調子に乗りすぎる。」と締めくくられ、「学力はある。」と始まって「しかし、本気を出さない。」と続きます。他にも、締めの言葉はだいたいひどいものでした。そんな言葉の数々を読みながら、妻が言いました。「先生はよく見ているね。今も変わっていないね。」と。
 キリストを心に受け入れ、人生が大きく変わりました。しかし、人生を大きく変えるために私がしたことは何だったのでしょうか。ほとんどの場合、私の努力というよりも、その時に応じて神のご配慮があっただけだと言えるでしょう。
 「行いによるのではありません。誰も誇ることがないためです。」と聖書の御言葉は私を慰めてくれます。こんな私でさえも、神は暗い闇の淵より解放し、用いてくださり、幸せを与えてくださった。そのことを証しするために、このような者をも召してくださったのだと信じます。

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2021-05-22
5月23日「持っているもの」

 21日の金曜日、結婚10年目を迎えました。昔、テレビでいつも流れていたCMを思い出します。ダイヤモンドのCMで、結婚10年目に夫から妻へ贈るスィートテン・ダイアモンド、という触れ込みでした。このCMはダイアモンドの「デビアス」という企業が作成したもので、彼らは婚約指輪の風習を日本に浸透させることに成功し、次なる一手として記念日に宝石を送ることを定着させたのです。
 高価な贈り物を贈ることができたなら、それはそれで素晴らしいことかもしれませんが、使徒たちの姿が思い出されます。ある時、施しを受けようと近寄ってきた足の不自由な人を前にしてペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
 私も彼らと同様に、金や銀はありませんが、主の福音を携えています。感謝なことに、妻は施しを受けようと私に近寄ってくるわけではありませんが、福音を共有できることは何よりの贈り物ではないかと思っています。
 コロナ禍の中で、旅行や食事など、非日常的で、特別なことができないからこそ、自分が持っているものを考えさせられます。

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2021-05-17
5月16日「結婚記念日を前に」

 ある農家が、自分の小さな農場に不満を抱いていました。湖から迫る原生林の伐採と管理、放牧する家畜のための牧草の世話とフェンスの増築、他にも必要なことが山積みです。彼はやっかいな農場を手放して、新天地に進出しようと決心し、不動産業者に新聞広告を依頼しました。
 後日、不動産業者ができあがった広告を彼に読み聞かせました。見出しはこうです。「愛らしい農場。理想的な環境。」続けて、宣伝文句が綴られていました。「丘に囲まれた静かな平安。やわらかな牧草に包まれた、輝く湖のほとり、生き生きとした木々のそばで。」
 彼は言いました。「売るのはやめにします。なぜなら、あなたが言ってくれた農場こそ、私が探し求めていたものだからです。」
 私の置かれた境遇がいかに恵まれたものか。あの不動産業者が作成した広告のように言い表してみれば分かります。
 「知的で包容力のある妻と創造性に富む子どもたち。青空に輝く白い会堂で信仰と愛に満ちた神の家族と共に歩む喜び。日本一の桜と津軽富士から神の創造を仰ぐ日々。主の臨在を感じられる働きの数々があなたを待っています。」
 これが私の境遇です。誰にも譲りたくなくなってきました。

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2021-05-10
5月9日「天国への旅路」

 「いよいよ春本番です」と先週書きましたら、5日が暦の上では、「立夏」となりました。
4月29日(金)北西地区総会が青森松原教会で行われた日、高井泰子さんの危篤の報が入り、夜、帰天の知らせが入りました。30日朝、妻と一緒に弘前に向かい、石澤医院から巌さんと遺体安置のために葬儀社に向かいました。
 巌さんと打ち合わせをして、3日(月)に火葬、その後に斎場で告別式をすることになりました。慌ただしい中にも、主の守りと導きに溢れた祝福を覚えることが出来ました。
 巌さんが弘前に住むようになってから8年、その年の8月に、泰子さんは弘前西教会で洗礼を受けられました。ご主人は巌さんが小学校6年生の時、天に召されました。泰子さんは美容院を経営し、巌さんを東奥義塾,北星学院大へと進学させました。体の変調を覚え昨年12月に弘前での入院を決意しました。箕浦姉の好意でズームでの礼拝にも参加されていました。御自分の最期を知り、全てを受け入れ、神様に全てを委ねた最期でした。細い体で、精一杯、全力を注いで「走るべき行程を走り終え」て天国へ。
 わたしたちクリスチャンに与えられている祝福を示されての、約束の天国への旅立ちに教えられることの何と多いことでしょう。主に栄光!

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2021-05-02
5月2日「使徒の働きのように」

 JCMNのニュースレターに掲載するための原稿を依頼されました。初代教会では普通であった教会の七つの本質について、私たちが学ぶようになってから、もうすぐ5年になります。何が変わってきたのだろうか、と考えてみました。
 まず、何よりも自分自身が変えられてきました。「関係」「参加」「能力付与」…。本質という基準があることで、これまでは気づくことができなかった御言葉の深さを感じることができています。
 また、教会のお一人おひとりが神の家族として、それぞれに課題を共有し、祈り合い、励まし合っている姿を頻繁に見ることができます。また、中には痛みを負った方々のためにひざまずいて祈っている方の姿もありました。
 先日、他の教会の方々がおいでになっておっしゃいました。「聖霊の臨在を感じます。」
 罪の世に来てくださった主のように、罪人の私にも聖霊を与えてくださる神は、この教会のお一人おひとりに霊を注いでくださっていると強く感じます。
 この素晴らしい方を証ししたい。今、以前にも増して強い伝道への情熱があります。コロナ禍という、一見すると難しい状況の中で、主はどのように導いてくださるのでしょうか。期待でいっぱいです。

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2021-04-25
4月25日「はじめの愛に」

 今年度から、礼拝の説教前に子どもたちに向けてショートメッセージを語るようになりました。大人の御言葉と同じ箇所を選び、子どもたちのためにメッセージを考えるのは簡単ではありませんが、とても楽しいことです。
 短いメッセージを語ることになれていない牧者が多いのか、地区の会合では、新たに北西地区に来た牧師先生たちは、「3分で御言葉を語ってください。」という宗教主事からの申し出に困っているようなことを口にしていました。そんな方々を見ていると、私も初めて外部でショートメッセージをした日のことを思い出します。
 サムエルやダビデ保育園、東奥義塾や聖愛中高の朝礼拝でショートメッセージを担当するようになってから、短いメッセージの中に、いかに福音を織り交ぜるかに悪戦苦闘しつつ、いつのまにか訓練されてきたようです。今では、ショートメッセージで緊張することはなくなりましたが、逆に、初心を忘れてきたのも事実です。
 新しい年度も、私を新しくつくりかえてくださる霊なる主に信頼して一歩踏み出しました。

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2021-04-18
4月18日「迫害の中で」

 今週は教会総会がもたれます。新しい年度に主が何をしてくださるのか、期待でいっぱいです。
 その一方で、コロナウィルスの影響によって、教会内のクラスターが発生し、そのことに知事が発言したことが話題となっています。どうやら「讃美歌を大声で歌っている」ことに注目しているようです。教会では愛餐という飲食店のような要素、賛美によるカラオケ店のような要素、講壇からのメッセージを受け取る劇場のような要素があるでしょうか。緊急事態宣言の中、時短営業や臨時休館せざるを得なくなった施設や店舗と同じ扱いになるかもしれません。
 かつて、迫害の中にあった初期キリスト教の共同体は、賛美ができず、大人数で集まれず、信徒を装って内部に潜入し、何をやっているか探りに入るスパイがいました。コロナ禍において、このような事態が来ないとも言い切れません。教会は、この先を見据えて、どのように礼拝をささげていくべきかを議論する必要があるでしょう。
 今回の総会では、そのことを皆様と考えてみたいと願っております。一見、ネガティブな要素に見えますが、迫害のゆえに宣教の働きが前進した、かつての教会の姿を思い描きながら、主を礼拝し続ける共同体として、知恵をいただきたいと願っています。

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2021-04-11
4月11日「主の復活ハレルヤ!」

 先週のイースターは、いつものメンバーに久しぶりに佐藤、工藤両兄の若者、平野さんが加わり、16名で喜び溢れる礼拝を守りました。
 キリスト教は、イエス・キリストの復活から始まりました。イースターと言えば、必ず思い出すことがあります。弘前で伝道を開始して6年目(1980年)、不思議な導きでイスラエルに行き、キリストの墓をたずねた時のことです。
 墓はもちろん空っぽでした。心の中で、「主よ、どこにおられるのですか?」と、聞いている自分がいました。「あなたと共に!教会と共に!」の答えが胸に広がりました。イースターの度に、事ある毎に鮮やかに思いでされるこの出来事は、わたしの生きた宝です。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰もむだです」(Ⅰコリント15:14)キリスト教はイエス・キリストの復活から始まりました。十字架も復活がなければ救いの出来事として理解されることは出来ませんでした。
「主は復活され今わたしと共に!」この喜びのメッセージを携え歩む生きた信仰が、わたしたちを通して、失われた人々の、生きる力となり希望となるのです。主の日の礼拝は、主の復活の喜びを生きる時です。「主は甦られた!」ハレルヤ!

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2021-04-04
4月4日「最大の奇跡」

 受難週の早天祈祷会では、主イエスの十字架を仰ぎつつ、その御言葉に聞くことができました。そこで、参加してくださった方々に伺いました。「あなたがイエス様の十字架を自分のものとして受け入れたきっかけは何ですか?」この問いは、初心を忘れてしまいがちな私にとって、重要なものでした。
 日本から遠く離れたユダヤの地で、ある男が、自分は神であると言いながら村々を巡った。彼は人々を癒やし、奇跡的なことを行い、注目を集めた。しかし、権力者たちの妬みをかって十字架に貼り付けにされた。そして、三日目に復活した。
 日本で生まれた私にとって、この話が自分のものであると受け入れることは困難でした。奇跡を信じている人はおかしな人だと思っていました。しかし、自力ではどうにもならない状況に陥った時、「私を救ってください!」と叫び、求めた相手は、あの男。イエス・キリストでした。
 主を信じるようになってから、聖書にある奇跡が本当のことであると信じることができるようになりました。それは、自分の周りで同じように奇跡が起こり、神が生きて働かれていると知ったからです。
 何よりも、十字架を自分のこととして理解できる。これが最大の奇跡ではないでしょうか。

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2021-03-28
3月28日「永遠の命」

 先週、天に召された佑子さんの葬儀が執り行われました。つい一週間前には教会に来られ、次の週から新たな治療計画のもと、元気に回復なさると信じてやみませんでした。しかし、金曜日の朝、主に導かれ、天に帰っていったのです。あまりの突然の出来事に信じられない気持ちでしたが、ご家族との交わりを通して主がそのようにご計画されていたことを知りました。
 その日、タオルケットを手にして、顔を拭い、そのまま天に帰られた佑子さん。キリスト好みの顔にして欲しいと日々願っていたそうですから、きっと主ご自身がお迎えにいらしたんでしょう。とご家族はおっしゃいました。あらゆる点において、備えができていた方だったのだと改めて感じました。
 告別式の最後、喪主のご挨拶の中で、ご長男が「ハレルヤを唱和ください!」と参列された方々に促し、みんなで「ハレルヤ!」と叫びました。また、火葬の際にも、「ハレルヤ!」とすべての人が声を上げる中で、「ありがとう!」という言葉とともに、拍手が送られました。こんな葬儀は見たことがない。そうおっしゃる方もいたほどです。
 主に信頼し続けた人。佑子さんは今も主と共に生きておられます。

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2021-03-21
3月21日「継続の主」

 先週の月曜日、薬をいただきに病院に行きました。女性のお医者さんが担当でしたが、前回の採血により分かったことを教えてくれました。結果は最悪です。
 パスカルが言うように「人は目隠しをして断崖絶壁に走っている」とは、まさに私のことでした。運動不足と暴飲暴食のために、断崖絶壁まであとわずかだと分かったのです。主は、目隠しをして猛ダッシュしている私の耳元に、その情報を流してくださったのです。
 早速食事を見直し、火曜日から妻とともに弘前公園の散歩をはじめました。まず、妻に追いつけません。景色を楽しむ余裕もありません。「もうだめ〜」と弱音だけが出てくるのみでした。
 かつて、サッカーをしていた頃、持久力とスピードだけが取り柄だった私は、その両方を失っていたようです。単なるウォーキングでギブアップ寸前だったのは、ショックなことでした。
 2日経ち、3日経つと、最初のキツさが嘘のようです。主がお造りになった世界を、主がお造りになった身体だけを使って動く。主が与えてくださった空気をとてつもない機能を備えた内臓に取り入れ、とても気分が良いのです。
 継続力のない私は、今も継続して太陽を昇らせる主に、その力を与えてくださいと願うばかりです。

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2021-03-13
3月14日「わたしらしさ」

 まだ、たくさんの雪は残っているものの、牧師室の窓からは、自動車教習場で練習している車が見えるようになりました。春が窓を通して全身を覆います。高校を卒業した社会人1年生が講習を受けているのでしょうか?いつもよりたくさんの車がコースを走っています。
 24節気の「啓蟄」(冬眠していた虫たちが姿を現す)のこの季、温かな日差しを浴び、心が弾みます。後期高齢者の今も、「自分が、自分が」の「スケベ根性」丸出しの自分に気付かされ、後ろめたさを感じながらの日々です。人は年齢を重ねるだけでは成長できません。春の日差しを浴びながらも軋む心を持て余す中、「瞬きの詩人、水野源三」さんの『生きる』の詩を思い出しました。
「神さまの大きな御手の中で かたつむりは
かたつむりらしく歩み 蛍草は蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き 神さまの大きな御手の中で 私は私らしく生きる 」      
 わたしの「わたしらしさ」とは何なのだろうか?とあらためて問い直してみます。誇ることのできる何ものもない… そのわたしを生かし担ってくださっているお方がおられる!わたしが私であることを喜ぶ、今なお、永遠の課題の中です。

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2021-03-10
3月7日「背後の祈り」

 先週、東奥義塾の卒業式に出席しました。コロナウィルスの影響を受けて、式典の内容も少し変更されているようでした。
 在校生代表と、卒業生代表生徒、それぞれのメッセージを伺って、双方ともに猛威を振るう新型ウィルスによって、様々な学校行事、部活動などの制約を受け続ける年であったことを吐露していました。しかし、そういった困難を経験したからこその力強さを感じました。
 塾長のジョン先生は「あなたがたは世にあって苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝利している。」という聖書の御言葉から式辞を語られました。苦難は避けて通りたくても避けられないものとして突然やってくる。しかし、勇気を出すようにという主の言葉がこれまでの歴史の中でどれほど人類を鼓舞してきただろうか、と語ってくださいました。東奥義塾で毎朝のように聖書の御言葉から神の愛に触れてきた方々です。自分の力ではどうにもならないような試練の時、ご自身のもとに来てほしいと私たちを待っていてくださる天の父のことを思い出してもらいたいと切に願いました。
 今年も一年間、東奥義塾での奉仕が守られ、祝福のうちに終えられたこと。これは背後の祈りなしには不可能なことでした。心から感謝いたします。 

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