宣教

5月1日「御国がくる」

マタイ6:5~10
 主の祈りは、当時のユダヤ社会においても、そして現代においても特殊なものであると言うことができるでしょう。なぜなら、多くの人が考える、または自然に出てくる祈りとは、自分を中心にした祈りだからです。しかし、主の祈りは、そのような私たちの心の状態に逆らうかのような言葉で始まります。御名があがめられ、御国が来ますように、と。
 かつて、ユダヤの人々は手を上げて、天を仰ぐように祈りました。今、私たちは手を組み、かがんで祈ります。実は、目を閉じて祈るようになったのも中世以降なのです。これは、どちらが良いということではなく、それぞれに祈りの姿勢による特徴があります。
 手を上げ、天を仰ぐ祈りは外向きで、祈りとはすなわち対話であり、独り言ではないことを物語っています。また、現代的な祈りは内省的で、静まって神の声を聞くことを示しています。そして、神の声とは、すべて神の国に関することです。
 御国が来ることを本気で望んでいるでしょうか。もし、今、ここに御国が来たらどうなるでしょう。それが主イエスの歩みに描かれた出来事です。預言がすべて成就し、人々は生き生きとし、世的な価値観は打ち砕かれます。さあ、準備はいいですか?