宣教

7月24日「神の国への招き」

イザヤ65:17 黙示録21:1~4
 聖書は創世記における神の創造に始まり、ヨハネの黙示録で歴史が終わる、神の国の救済史が描かれています。その中で、最も人を困惑させるのがイエス・キリストの復活ではないでしょうか。
 現実主義者の弟子、トマスは「見たものしか信じない」と、貫かれたキリストの手に自らの指を入れて確かめました。「見ないのに信じる人は幸いである」と復活の主に声をかけられる場面です。
 黙示録は、新しい天と地、つまり終末に起こる出来事が書かれています。復活と同様に、荒唐無稽なことでしょうか?確かに、それを実証することはできません。しかし、そのことを信じて行く時、私たちは己の思いから解放され、次元を超えた視野を与えられます。
 あの十字架の前から逃げ去った弟子たちは、復活の主に出会うことがなければ、自らの犯した過ちを悔いながら、絶望の日々を過ごしたでしょう。しかし、彼らは復活の主に出会い、見て信じました。神が人となる、という次元を超えた出来事。それは、見ることによってしか信じることのできない人間を憐れんだ、神の愛の配慮です。このことを信じる時、今まで見えなかったものが見えてくるでしょう。