宣教

5月26日「しがみつく信仰」

創世記22:1〜19
 聖書に多く記されている言葉の一つとして「忍耐」というものがあります。この言葉を見ただけで暗い気持ちになります。なぜなら、誰もそんなことをしたくないからです。しかし、聖書にあって、神が私たちに求めておられるものの一つが「忍耐」であることは明確な事実です。
 アブラハムは信仰の父と呼ばれる偉大な存在ですが、彼を偉大たらしめているのは、彼の人となりではありません。嘘をつき、神の言葉を軽んじ、姦淫を犯し、神の計画をあざ笑ったアブラハムです。しかし、神は彼を義とされた、と聖書にあります。なぜでしょうか。それは、彼が「主を信じた」(創世記15:6)からです。
 彼に与えられた約束が今、破壊されようとしています。それも、彼がこの地上で最も大切にしているものが、失われようとしているのです。このことによって、アブラハムが神を捨てることさえもありうると思えるような大きな試練です。彼のような道を通っていったことが私たちにもあるでしょう。もしかしたら、今がその時なのかもしれません。そんな時、信仰の父は私たちにその姿を持って道を示しています。
 その姿は、父なる神の姿そのものです。何よりも、神ご自身が、私たちを忍耐してくださったこと。それが、あの十字架の出来事にほかなりません。