宣教
9月5日「どこにいるのか」
ルカ15:11〜32
福音書の中で、イエス・キリストと敵対した人々は、自分は誰よりも頑張っていると思っている人々でした。彼らは自分の英雄的な努力に目が向いていて、他者を愛する視点が欠けていたのです。彼らに必要だったのは、神にピントを合わせることでした。
放蕩息子の姿は、神から離れた罪人がどのように神と再び結びつき、回復と成長の段階を歩んでいったのかが示されています。継続的な無知の中に生き続けた彼は、空腹の極みの中で我に返りました。自分の限界を知ったのです。そして、「息子と呼ばれる資格もありません」と、しもべとして父に会いに行きます。これは、悔い改めです。ところが、父は彼を無条件に赦し、しもべではなく、息子として迎え入れました。兄はこれを見て嫉妬します。この兄は、有能でプライドがある人の姿を示しています。これを打ち砕いて成長するためにも、私たちは聖霊という最も謙遜な方の力を借りて、克服する必要があります。
何よりも、主が私たちに求めておられるのは、この父の姿です。この父は主ご自身です。父は、赦すにも、迎え入れるにも、与えるにも、報いを求めていません。霊的成長の最終段階は実に、そこなのです。