宣教
12月18日「癒やし主が来る」
申命記18:15~22
モーセは人々に言いました。「自分のような預言者が与えられる」と。これは尊大に聞こえるでしょうか。モーセは自分ほど謙遜な者はいなかった、と言った人です。しかし、聖書における謙遜とは、そしてモーセのような預言者とは一体どのような人を指しているのでしょうか。
聖書における謙遜さは、神に頼る他無い、ということを理解している人のことを言います。かつての預言者たちがそうであったように、神の言葉をまっすぐに伝える役割のため、預言者たちは自らを神に委ねきった人々でした。そのため、人々は彼らを通して語られる神の言葉に耳をふさぎ、拒否し、殺すことさえしたのです。それは、主イエスの歩みにも見られる特徴でした。
まことの預言者であり、信仰の完成者である主は、常に父なる神を前に置き、「み心を行うために来た」とご自身について宣言します。そして、迫害され、殺されました。これは神と預言者の敗北にも見えますが、実はこの傷こそ、私たちの癒やしに必要な大いなるみわざだったのです。
主は来られます。預言者として、そして癒やし主として。あなたを罪から解放するために。