宣教

6月18日「神の子として」

マタイ5:9
 ほとんどすべての教会に掲げてあるもの、それが十字架です。初期キリスト教会から受け継がれてきた十字架のイメージは、やがて荘厳な大聖堂にも刻まれるようになり、ロザリオのような祈りの象徴となり、現代ではアクセサリーにもなっています。しかし、これはおかしなことです。十字架とは処刑道具であり、凄惨な拷問道具であるにも関わらず、なぜそのようなものを身に着けたり、飾ったりするのでしょうか。
 さらに、電気椅子やギロチンで代用可能なものではなく、十字架が十字架でなければならない理由があります。それは、神の御子が命を捨てたことを意味するからです。そして、それはあなたのためでもあるのです。
 これまで、人類は様々な価値をこの世界に表現してきました。政治、教育、文化…。そのどれもが、諸手を挙げて歓迎され、今度こそは人間を平和に導くと期待されてきました。しかし、現実はどうでしょうか。
 人間を真に平和へと導けるのは、道であり、真理であり、命なる主、イエス・キリストをおいて他にありません。
 これからも世界を一変するような価値が生まれてくるでしょう。しかし、永遠に変わらない方にこそ、救いがあるのです。