宣教

9月3日「正しき神の御名」

出エジプト20:7
 主の名をみだりに唱えてはならない。この十戒の意味をどれほどの人が理解しているでしょう。かつて、ユダヤの民は「神の御名を口にしない」ことを選択しました。長らく、主の御名はその偉大さから敬遠され続けてきました。1年に一度、大祭司だけが至聖所の奥で口にすることが許されましたが、一般的な人々はその御名を死ぬまで耳にしたことはありませんでした。はじめてモーセに告げられた、神のその御名は「ある」という名でした。
 神は長い長い年月の間、至聖所の奥に「ある」状態でした。すなわち、人々の生活の中には「ない」のです。それで、人々は神なき世界に神を求め、偶像を探し求めました。そこに救いなどありもしないのに。
 神の御名を口にしないことが「みだり」ではないことの証だと信じ切っていた人々の只中に、インマヌエルという名を冠する方が与えられました。「共にいる」という名が示すように、この方、主イエスは至聖所の奥ではなく、自ら歩み寄り、人々と関わってくださいました。それは十字架と復活によって頂点を迎えます。
 神は「ある」御方。喜びの日にも「ある」悲しみの日にも「ある」死の影の谷を歩もうとも、そこに主は「ある」方なのです。