宣教

9月10日「祝福を選ぶ」

申命記14:28~29  使徒20:34~35 残念なことに教会の歴史は、主の御心を体現するものでは、必ずしもありませんでした。というより、残念なことにその反対の方向を選んできました。原点を見つめ続け修正する以外に、御心である信仰を生きることはできません。この世の重力に負けていることに気づかず疑問すら持ちませんでした。人間の、私たちの思いは、「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を~高くこえている」(イザヤ55:8)ことを知ることです。
 パウロがエフェソに別れを告げるとき、遺言として伝えたことは、「主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すように。」ということでした。自らの愚かしと、世界との対極に生きられた主の御心を思わされます。
 人は得ることを求める結果、失うことのなんと多いことでしょう。人間の歴史は、得ることに嗜癖するため、崩壊していった痕跡で満ちています。 
死海には、生き物が住むことが出来ません。ガリラヤ湖と対照的です。「人の価値は、その人が集めてものではなく与えたものによってはかられる」(アインシュタイン)と。キリストのもとにすべてがあるのは、キリストが全てを与えられたからなのです。乞食のようにではなく、主の招きに応え!です。