宣教

「わたしたちの希望」

 イザヤ40:28〜31  ローマ8:18〜25
 イザヤは「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。〜」と呼びかけ、まことの確かさは万物の創造者なる神にあることを断言します。
 信仰とは、キリストにおいてこの方に希望を置くことです。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ、見えるものは過ぎ去るが〜」(Ⅱコリント4:18)だからです。「死者を生き返らせ、存在していないものを呼び出して存在させる神)を信じたアブラハム」(ローマ4:7)の信仰でした。
 「自分はみえる!」と言い張る人により、世界は滅びの道をたどることにを証明し続けて来ました。今日の日本の姿そのものです。イエスさまは、「見えると言い張るところに罪は残る」と言われました。パウロは、「見える」と思う中でキリストを迫害しました。
 「希望の源である神」こそが、旧新約聖書に一貫して流れている信仰です。わたしたちの望みは「神」ーキリストの出来事(十字架と復活、再臨)にかかっています。キリストにより、自らから解き放たれ、自由な者とされることにより、「こころの清い者」とされ、「全ての事共に働きて益となる」こと、「味方なる神」と出会う者とされるのです。