宣教

1月14日「ΑでありΩなるお方」

申命記11:11〜12 黙示録1:17,18
  主イエス・キリストは「初め」で在られる。この1年365日はすべてこの方の「御手」の中にあることを、年の最初にわたしたちは心に刻みたい。このこと故に、たじろぎ恐れる必要はない。世界とわたしたちの全ては、この方を離れては存在しない。世界とわたしたちの土台がわたしたちであるなら、他の何であっても、押し潰されてしまうことは明白である。歴史はそれを明らかにしている。高い理想を掲げ、独裁政権の転覆を企て成功した革命家も、時がたつと、多くは自らを絶対化して抑圧者の道を歩むことになる。
 人は、「自分が」始めであり、終わりになりたいと思う狂気―アルファ(α)であり、オメガ(ω)であろうとする―自己絶対化への逸脱が、容易に起こる。これこそが、自分が倒そうとした悪であることを忘れ、滅び向かってひた走る。わたしたちが始めである必要は全くない。「主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注いでおられる」(申11:12)約束の中故である故に。私の信じているものがわたしの一年になり、一生になる。「わたしの時はあなたの御手の中にあります」(詩31:15口語)。「キリストに初めと終わりを抱かれて インマヌエルを生きる喜び」。