宣教

11月19日「神がそこにいたなら」

マタイ25:31~46
 聖書は主イエスの十字架と復活によって、すべての人々が愛されていること、そして主を信じるすべての人が永遠の命を得ることを約束しています。しかし、ところどころに、行動による裁きが描かれていることを、その厳しさのあまり、無意識に読み飛ばそうとしてはいないでしょうか。
 主はなぜこのような行動規範のようなものを命じているのでしょうか。そして、それが裁きの日にも判断材料になるとおっしゃるのはどうしてなのでしょうか。
 聖書のヤコブの手紙は「行い」を大切にしている手紙です。ヤコブがこの手紙を教会に送ったのは、主のたとえ話と同じことを伝えるためでした。この手紙は、当初聖書に含むべきか、議論の対象となりました。信じることによってのみ、という約束と矛盾しているように見えたからです。しかし、初代教会の迫害に対する危機的状況の中で、聖霊が与えられているかどうかは重要な判断材料でした。そして、心から信じているかどうかは行動に現れることが徐々に明らかになってきました。
 主は互いに愛し合いなさい、と命じられました。それは、各自の頑張りではなく、聖霊の働きによるのです。