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2019-11-17
11月17日「永遠の命に生きる」
先週は、まったく予想もできない突然の別れがありました。神の国の拡大のために大きなビジョンを与えられ、ただ主イエスに従ってきた一人の女性があっという間に召されたのです。
なぜですか、という思いしかありませんでした。もちろん、ご家族や近親の方々にとっては計り知れない悲しみだったことでしょう。ところが、召された翌日、天に帰った彼女から、お姉さんに語りかけがありました。そのことを急いでメモしたお姉さんは、他の方々にそのことを伝えました。つまり、彼女は地上での限られた時間では祈りきれない課題と、出会ったすべての方々の痛みや病や悲しみをすべて背負って十字架を通り、今は永遠の命の世界でとりなしているという話です。まさに主のように変えられた彼女の証でした。
告別式を終え、ご家族と話し合いながら、まるで亡くなってから数十年でも経過しているような、平安な雰囲気に驚きました。まだ1週間と経っていないのです。復活の主を信じる信仰とは、何と力強く、素晴らしいものなのかということを改めて感じました。
本来、突然愛するご家族を失った傷は、到底癒えるものではありません。しかし、主はその傷を癒やし、今も生きているという確信を与え、希望に満たしてくださる方。主をほめたたえます。
2019-11-10
11月10日「祝福の『そうすれば!』を」
箴言3:1~6 マタイ6:33
聖書は「そうすれば-神の祝福に生きることができる-」で満ちています。その背後に、「さもなければ」の否定の結果も明らかにされています。創世の初め、エデンの園の出来事に、弟子たちも、歴代の信仰者も、その「そうすれば」を生きてきました。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」主イエス様ご自身も「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべての加えて与えられる」と。パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族もすくわれます。」と断言しています。
これらは、一言で言えば、「御言葉に従いなさい。そうすれば、あなたは神の祝福を生きることが出来ます。」との約束への招きです。それは、「いつか、できる気持ちになったら」ではなく、「今、ここで、選択の自由に生きなさい!」という、主の促しです。
この信従への招きは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)のみ言葉にも明らかです。「神様の『そうすれば』」を、人生の課題として受け止めることが出来ることは何という幸いでしょう。信仰の「そうすれば」を問いつつ、共に歩むわたしたちです。
2019-11-03
11月3日「神とともに生きる」
神学校で共同牧会という言葉を聞きました。その言葉は、牧師だけに適用されるものと、私は理解していました。
初代教会の本質が入ってきてから、教会のチーム力が高まっています。一人ができなくても、誰かがそれを支える。どこかに出かける人がいれば、出かけない人たちが背後で祈る。伝道したいと願っている人がいれば、独りではなく、誰かと一緒に行く。そんな景色が教会のあちこちで見られるようになっています。今回、洗礼を受けられた女性のもとにも、牧師以外の方々が足繁く通われました。私が考えていた、牧会という言葉の理解は間違っていたことに気付かされています。
以前は、牧師がする仕事を他の方に手伝ってもらうのは申し訳ないと考えていました。しかし、牧師の仕事についての概念さえも、以前と変化してしまいました。牧師の働きは「聖徒を整えること」と聖書にあるように、教会の方々が輝いて生きる、という本質を実現するためだと分かったのです。
それでも、神の国の貢献者として忙しく動き回る方々を見て、自分よりも働いているな、と感じ、そのことを伝えると、「全然疲れないんです!」と。その言葉に励まされ、神とともに生きる素晴らしさを体現している方々の中に、キリストの姿を見ています。
2019-10-27
10月27日「One Love Disciplers」
先週の月曜、火曜と青森コーチングが当教会で持たれました。久しぶりにOne Love Disciplersからエディ宣教師が参加してくださいました。
エディ先生に初めて会ったのは、大雪の日でした。香港から来たという彼は、OLDの数名の方々とともに教会を訪問してくださり、雪かきの手伝いをしてくれました。また、一緒に弘前公園で雪灯篭まつりにも出かけました。もう5年前のことです。
エディ先生は、青森や秋田は特に信徒の出席が多く、その変化が著しいという話を聞かせてくださいました。他の地域では、牧師の出席がほとんどという現状だそうです。
なぜ、このような変化があるのか。その事を考えてみたときに、誰が一番変化したかと問われれば、牧師である私だったと言えるでしょう。
初めて会ったときには、エディ先生たちがやっていることが理解できませんでした。しかし、今は理解できます。それは、彼らがキリストのように私と教会を愛し続けてくれたから。その姿を見たからです。
人が変化するために必要なのは、その人を愛する姿勢を見せた誰かがいるからだと思います。OLDの方々は、主と同様に身をもって愛を示してくださいました。それに応えよう、その気持が変化の源なんじゃないかと再び考えさせられました。
2019-10-20
10月20日「教会の台所」
教会の台所が改装されました。業務用の大型コンロが3つと、普通サイズのコンロが2つの、計5口のコンロが付いたものが据え付けられ、流し台も業務用の底が深いものに変えられました。また、作業台も十分の確保され、見違えるようです。脇に置いてあった従来の家庭用の小さなコンロを見ると、「よくこれで大人数の料理を作ってきたものだ」と感心し、皆さんの創意工夫と主の守りを感じました。
今回、このような改装にあたって、教会の何名かの方々にご一緒していただき、業者との打ち合わせにも参加していただきました。これはあったほうがいいという機能をことごとく実現しようというつもりでしたが、その後に相談を重ね、祈りを重ねてきて、ようやく完成しましたが、それはそれは素晴らしいものです。
大人数での利用を考えて、次のバーベキューまでには使えるようにならないだろうかという無理な要望にも応えてくださった喜多山工務店をはじめとした業者の方々にも心から感謝します。工事が始まってから、急ピッチで仕上がっていく台所を見ながら、プロの仕事は素晴らしいと感心しつつ、しばらく見入ってしまったものです。
これまで、台所の仕事がどれほどの人々の救いに貢献してきたことでしょうか。新しい台所も、宣教の一端を担ってくれることを確信しています。
2019-10-13
10月13日「本気で、命がけで信じる」
刑務所教誨師の働きに遣わされて一年が経ちました。先日、仙台矯正管区教誨師研修青森大会が開催され、東北各地から教誨師が集いました。講師は罪人の友イエス・キリスト教会の進藤龍也先生です。
先生は講演の中で「鈴木啓之という元ヤクザの牧師が教誨師として自分を信じ切ってくれた。本気になって信じてくれた人がいたから、自分のような者が更生できた。今ここに、そんな人間が皆様を前に語っていることを感じてほしい。」と熱く語られました。
「主がそのようにしてくださったから」これが教誨師の原点だろうと思います。進藤先生は施設の方々に言いました。「皆さん、受刑者は決して変われないだろうと諦めないでください!」また、教誨師に対しては「先代から引き継いで仕方がないから教誨師になった、という人は今すぐ辞めていただきたい。本気で、命がけで、受刑者のことを信じる人になってほしい!」
自らの教誨師としての働きの責任と重さを感じた一言でした。
それ以降、教誨師としての今後の歩み方を主に祈っていると、刑務所の職員の方から電話がかかってきました。「先生、個人的に面接を希望している受刑者がいるんですが、個人教誨をお願いしてもよろしいでしょうか」
青森に聖霊の風が吹き、新たな時代を迎えています。
2019-09-29
9月29日「汝ら今知らず、のち知るべし」
まるで夢を見ているような状態で過ごした先週一週間でした。教区には水村先生がおいでくださり、大いに励まされました。教区教会婦人会連合の会長は、最後の挨拶の折、涙をこらえて言葉に詰まっておりました。当初の企画段階では様々な困難がありました。実現は難しいかもしれないという場面に何度も遭遇しましたが、こうして夢に見た本質的な教会の姿を教区の方々が目にしたのです。
また、金曜日からは鈴木秀子シスターが弘前へおいでくださり、土曜日の講演会も素晴らしいものとなりました。突然、シスターに壇上に上がって話をするようにと言われ、母の死が自分にとってどのようなものであり、そのことを通してどのように変化したかを語るように示されました。鈴木先生のお話を聞きに来た方々には申し訳なかったかもしれませんが、講演会の後、「あの話があったから、講演会自体が素晴らしいものになった。」と、恐縮していた私を励ましてくださいました。
日曜日は洗礼式。川崎で初めて出会い、同じく母の死によって悲しみの中にいた方。良き伴侶が与えられ、今、神の愛の中にいます。たくさんの喜びと何とも言えない聖霊のもたらす涙いっぱいの洗礼式でした。
汝ら今知らず、のち知るべし。まさにそのことを体験した一週間でした。
2019-09-22
9月22日「困難のときにこそ」
奥羽教区教会婦人会連合の集会が大成功のうちに幕を閉じました。参加された方々は、主に触れられ、困難の中でも、いや困難の中だからこそ、主が働いてくださるという確信を得られたことと思います。
当初、様々な意見や批判の中で、開催すら難しくなった時期もありました。二転三転する中で、当日の集会が始まるまで、何が起こるだろうと不安でいっぱいでした。しかし、それは取り越し苦労だったようです。
教会の方々の中には、講師の水村先生の津田キリスト教会に行きたいと願い出る人たちも起こされました。きっと素晴らしいことが待っているでしょう。
私自身、長野県におけるコーチング・ネットワークの拡大について、経済的な課題に頭を悩ませていました。これから継続的に関わることになる沖縄コーチング。すでに継続している秋田や青森のコーチングもあります。すべてに出向くためには、相当な時間と出費が必要です。その困難さのゆえに、霊の火も消え入りそうでした。
しかし、困難なときこそ主に頼る、ということを今回あらためて確認することができ、長野のことを主に明け渡しました。主がどのような解決を与えてくださるのか、今ではワクワクしています。本当に素晴らしい集会でした。皆様のお祈りに感謝します。
2019-09-15
9月15日「主に慰め励まされ」
12日、キリスト教週間の授業を担当するため、聖愛中高へ参りました。
東奥義塾高校での毎週の授業の積み重ねがあったためか、高校生のクラスではリラックスした雰囲気で、しっかりと御言葉を分かち合うことができたという自負がありました。しかし、午後の中学生たちとのクラスは全く別でした。数ヶ月前まで小学生だった1年生のクラスでは、用意していったテーマが難解過ぎたのか、完全に飽きられていたような気がします。その後のクラスでも、出だしは良かったのですが、徐々に失速し、最終的には飽きさせてしまったように思います。完敗でした。
現在、教会には中学生が一人もいません。この津軽に来てから、中学生に対する宣教、メッセージや授業を一度もしていないことに気付かされました。愕然としています。
翌日、これほど東奥義塾高校に行くのが待ち遠しいと思った日はありません。教室には知っている顔が並び、笑顔で話しかけてくれる生徒たちに励まされ、その喜びを伝えると、ある男子生徒が言いました。「意外とかわいい♥」
こんな私でさえ用いてくださり、想像力の欠如と準備不足の失敗をも、主は慰め、ユーモアで満たしてくださる方。また主が好きになりました。
2019-09-15
9月15日「自由を与える命」
ルカ10:25〜37
永遠の命をどうやったら得られるか。それが律法学者の質問でした。永遠の命とは何かと考えてみると、この地上でずっと生きていくことでないことは明白です。であれば、永遠の命とは何なのでしょうか。
サマリア人のたとえ話は、世界的に有名な聖書のたとえ話であり、そのことのゆえにできた法制度もあるほどです。そればかりか、このたとえ話は、聖書の他の箇所と同等かそれ以上に色々な読み方ができ、立場や角度を変えると様々なものが見えてきます。
この地上での日常生活の中で、同じような場面にはめったに出くわさないかもしれません。しかし、このたとえ話は、たとえ同じ状況にならなくとも、私たちの存在を定義してくれます。それは、人は必ず何かに縛られているということです。
祭司やレビ人は立場や生活に縛られている人を示しています。また、手を差し伸べたサマリア人も、同胞のユダヤ人に対するスタンスに縛られていたはずです。被害を被ったユダヤ人も同じです。でも、サマリヤ人だけが、唯一、本当の自由を勝ち取っていた存在として語られているのです。
あなたは何に縛られていますか?手放すのは簡単ではありません。そこに十字架が立つのです。
2019-08-25
8月25日「驚くべき主の御業」
金曜日、弘前シオン教会でGospel Celebration Network(GCN)の祈り会が持たれました。青森県の超教派のネットワークです。
それぞれの教会の先生方から、素晴らしい証を伺いました。平川市の平川福音キリスト教会では、教会でゴスペルを学んでいる人たちが自主的にコンサートを開きましたが、観客はクワイアのご家族だけ。しかし、そこで主イエスを受け入れ、ご家族で救われるという奇蹟が起こったこと。
青森バプテスト教会では、むつ市の礼拝で、救われる人の数が多すぎて、教会のリーダーが疲れ切ってしまったこと。
ジョイフルチャペルでは、3つの精神的な病を抱える青年が、「僕も神の子になる」と宣言した後、まったく別人のようになったこと。
私たちの教会で起こっている驚くべき主の御業についても証しさせていただきました。
そして、それぞれの教会の一人ひとりの課題をあげて、共に祈り合いました。異言で祈る人たちもいれば、静かに目を閉じている人もいる。ひたすら主に祈り求め、叫んでいる人もいる。方法は違えど、すべての人が、一致していました。
本質による一致。主が青森にしてくださることの大きさに期待せずにはいられません。
2019-08-18
8月18日「神と神の家族」
先週、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の東北サマーキャンプに娘と二人で参加してきました。春に続き、二回目です。まず、受付のところに座っていると、ドアを開けて中学生や高校生、大学生の若者たちが入ってきました。前回お会いした方々です。こちらからあいさつをしていると、小学5年生の伶ちゃんが入ってきました。娘はこの子に会いたかったのです。
伶ちゃんはすぐに娘を見つけると、「久しぶり!会いたかったよ」と寄ってきてくれました。それから、食事の時、入浴の時など、いつも部屋に来てくれて、娘と遊んでくれました。また、キッズの集会では、伶ちゃんが考えた工作をみんなに教えながら一緒に作るため、リーダーの役割を担っていました。
アイスを買おうとしている娘に、お金の使い方や献金についての考え方まで優しく教えているのを見て、大きな感動を与えられました。自分の子どもに教えるのは自分、と鼻息の荒かった、しかし、それでいて力不足の私は、目の醒めるような思いでした。宣教と同じように、子育てもチームですること。主から教えられたような気がしました。
親と子、二人で神と神の家族から、たくさんの良い学びを与えられた三日間でした。
2019-07-28
7月28日「家族と共にの宣教旅行」
24日の水曜日、男鹿半島の湯本でもたれている男鹿教会の家庭集会でメッセージをしました。現在、湯本には子どもが一人もいないそうです。ですから、私たちが家族でお邪魔すると、とてつもない歓迎を受けました。まるでお正月のように、子どもたちは参加者の方々からお小遣いを頂戴し、アイスクリームをもらって上機嫌でした。
礼拝が始まり、御言葉を取次いで、自分自身の救いと召命の証をしました。何名かの方々は涙を流し、無理をおして参加された求道者の方は、「今つらいことが起こっています。でも、メッセージを聞いて、今日来た意味がわかった」と話してくれました。その方のお姉さんはすでにクリスチャンで、「この子もすぐに洗礼を受けると信じています」と妹さんの方を見ながら、こちらに伝えてくれました。
次の日、秋田コーチングのフォローアップ集会では、二十数名の参加者全員で、御言葉の実践を励まし合いました。証であふれる素晴らしい集会になりました。
今回、はじめて家族で宣教旅行に行きました。教会を励まし、家族と遊び、愛し合い、人々とともに泣き笑い、楽しんだ素晴らしい一時でした。
「また行きたい!」子どもたちのその言葉が、そのことを実感として教えてくれています。
2019-07-21
7月21日「聖霊の働きー神の家族の一致」
7月7日の礼拝に、二人の方が不在でした。佐藤知恵さんと鈴木良子さんです。このお二人が不在だった理由は、キリスト聖協団弘前富士見教会の礼拝に参加していたからです。他の教会の方々と一緒に主を賛美する機会に、自ら手を挙げて決断したのです。
また、お二人は午後にもたれた富士見教会の信徒研修で、「伝道」をテーマに証をされました。私は途中から参加しましたが、聖霊に満たされ、確信を持って語るお二人の証を聞いて感動し、涙が溢れてきました。もちろん、その場にいた方々も本当に嬉しそうに聞き入っていました。
「いつもは残らないのですが、神様に『今日は残るように』と言われたような気がして、参加しました。その意味が分かりました。」と喜ぶ方の姿があり、その方は次の日に鈴木さんのお宅を訪れ、ともに祈るときを持ち、癒しの祈りの中で解放されたということを伺いました。
もともと、主が建てあげたかった教会は世界に一つだったはずです。教派、伝統といった人間の歴史の素晴らしさを超えて、聖霊の導きによる神の家族の一致が進んでいる。そのことが目に見える形で目の前に繰り広げられています。
引き続き、主が見せてくださる景色に期待せずにはいられません。
2019-07-14
7月14日 「どれだけの愛を込めましたか?」
読んでいたはずなのに、御言葉が素通りしている自分がいることに気付く日々です。関心のあることのみを引き寄せ、出来事を呼び込んでいる自分がいます。赤面の至りです。
コヘレトの言葉7章29節「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考えをしたがる、ということ。」前の方の文は知っているのに、今、初めて出会ったのです。「本当にその通り」、合点がいきました。
もっともらしいことは、もっともではないのです。主は、真実は単純です。
エリザベス・ノーベルの「少し」の詩です。「砂糖をほんの少し入れるだけで、料理の味を変えることができます。石鹸をほんの少し入れるだけで、体をきれいにすることが出来ます。~今日という一日に、感謝という調味料をほんの少し入れるだけでわたしたちの世界は変わります。~」
「どれだけ多くのことをしたかではありません。どれだけの愛をこめたかです。」のマザーの言葉が心に浮かびます。大きなことも小さなこともないと知ります。問われているのは、自分が人々と、事柄とどのように出会っているのかなのです。
「愛がなければ無に等しい」のみ言葉が響きます。「今、どこにいますか?」、の声が聞こえます!
2019-07-07
7月7日「再会、北海道の地にて」
先週、北海道に行くことができました。小樽では、昨年来てくださったイッピー!の子どもたち、青年たちと、教会の方々にお会いし、メッセージをする機会が与えられました。礼拝では、皆で主を力いっぱい賛美し、共に御言葉の真実に触れることができました。
また、礼拝には小樽に引っ越されたご夫妻と再会し、とても美味しい蕎麦をごちそうになり、ご自宅に招かれて、ご主人の美声をバックに素晴らしい時を過ごしました。また、昨年度で義塾を退職なさって、北海道でご結婚された方も一緒でした。
次の日、刑務所教誨師の研修で札幌に行くと、全国から集まった教誨師の先生方と一年ぶりに再会しました。夜は同志社時代の仲間と再会し、共に意見を交換しながら、夜中近くまで語り合いました。
今回の北海道行きは、良き学びとなったことは当然として、多くの再会が与えられた時となりました。そこから新しい道が開けていきそうな、そんな希望を持つことができました。
一つ残念だったことは、西教会にいらしてくださったスティーブン先生の素晴らしいメッセージを生で聞くことができなかったことです。しかし、主がきっと次を用意してくださると信じています。今回の再会の旅路があったように。
2019-06-30
6月30日「今、新しいことが、この地に起こる」
先週の月曜日、キリスト聖協団・弘前富士見教会の大久保先生ご夫妻と、副牧師である張先生ご夫妻とお会いする機会が与えられました。今後の両教会の結びつきについて、素晴らしい話し合いが持たれました。
教会の中に起こる様々な出来事を、教派教団を超えて共に祈り合い、実際に交流していくことは、これまではイベントを通しての一時的な関係性、もしくは牧師間のみに限定されていました。しかし、今回は「弘前西教会で持たれているコーチングの学びや、一人ひとりの証が素晴らしかったので、ぜひ次のコーチングに教会の方々と一緒に参加させてほしい」というご提案をいただきました。そのことを伺った時、聖霊の語りかけが聞こえてきました。「来てもらうのではなく、出かけていきなさい。」そこで、お伝えしました。「私たちの教会から、誰かが富士見教会の礼拝に参加し、証をする機会をいただくというのはいかがでしょうか?」
神の声がもたらしたこの提案に、私たちは興奮していました。口を開いたのは私でしたが、私自身も興奮していました。
主はすべての信仰者を一致させ、新しいことをこの地になそうとされている。そのことを強く感じる時となりました。
2019-06-23
6月23日「キリストの自由」
先週の夜の祈祷会で、信仰がもたらす「自由」について意見が交わされました。教会がイエス中心ではなく人間中心になり、信仰が「方法」に切り替わっていくことの危険性と、不自由さが分かち合われました。これは、初代教会も直面した問題でした。(使徒8:4〜25,19:11〜20)
重い病の中でさえ、感謝にあふれている方にお愛した時、その方が言いました。「この感謝は、神様に言わせてもらっているんです。」
信仰とは、努力して水を押して川にすることではなく、そこに聖霊のいのちの川があることを知り、その流れに乗っていくことです。その川が行き先を教えてくれるでしょう。その川の中にいれば、平安があります。川の流れは自由です。
考えてみれば、最初に信仰が与えられた時、私がした努力といえば、すべてを明け渡して人生を再設計していただこうと、キリストに白旗を上げたことくらいです。でも、それで良かったと思っていますし、それが良かったのでしょう。そこには何事にも縛られない自由がありました。これが救われるということだという確信がありました。
「本質における一致、行動における自由、あらゆることにおける信頼」という初代教会の姿を追い求めていきたいと、再び熱くされました。
2019-06-16
6月16日「主の愛と恵み:宣教」
水曜日、深浦のめぐみこども園に招かれて、子育て真っ最中の親御さんたちと学びの時を持ちました。私が講師でしたが、同じ悩みを共有する仲間として、共に励まし合う時を持つことができました。
何が一番大変ですか?子育てだけでなく、家族からも解放されたとしたら、どんなことをしたいですか?家族以外の方々で、あなたの助けになってくれる人はいますか?このような質問をしながら、一つひとつのご意見を拾い、様々な悩みとたくさんの笑いを共有しました。
子育てをする母、働く女性、家事に追われる毎日。そのような役割がその人を決めるのではありません。まず、一人の人として、その方が神に愛されている大切な自分と出会うことができるように、主イエスの十字架の恵みについて分かち合いました。
子どもは親を反映する鏡だと言われます。そうであるならば、まず親が自己肯定感を持たなければ、子どもが自己肯定感を高めることはできません。そして、私は子育ての専門家ではありません。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)
永遠に変わることのない主の愛を宣教できたことを感謝します。
2019-06-09
6月9日「聖霊のバプテスマ」
青森コーチングは素晴らしい祝福の時となりました。特に、二日目の朝、青森バプテスト教会の角本先生が語られた証は、その場にいたすべての人の心を打ち、霊に満たされる体験がありました。
今回もテーマは「イエス中心」でしたが、教会が組織中心、人間中心になった時、そこに主の居場所はなく、人々は傷つきました。北九州の教会が人間中心になった時、角本先生ご夫妻は精神を病み、聖書を読むことをやめ、教会に行くことをやめ、献身の思いを捨てて、みかん農家になりました。
しかし、主は聖霊を降し、人々を燃え上がらせたペンテコステの日と同じように、角本先生ご夫妻を再び立ち上がらせ、故郷の青森で現在3つ目の教会を開拓するほどまでに用いておられます。
いつの時代も教会は聖霊のバプテスマと共に歩んできました。燃え上がるようなリバイバルも、大覚醒運動も、すべてが主の約束である聖霊バプテスマによる体験的なものでした。
今、日本の各地で聖霊によって導かれ、新たな教会共同体が誕生しています。私たちは、この時代に主が計画されていることを見る特権を頂いているのです。
聖霊のバプテスマを受けたい!そう思わされる教会誕生の証でした。