156センチの視線

2023-07-23
7月9日「紫陽花を通して」

 祈祷会の後、用事があったので、克子さんを北常盤の駅まで送ってから、弘前に向かいました。用事が済んでから、フッと「大仏公園」(弘前市石川)の紫陽花(アジサイ)を思い出し、久しぶりに行ってみました。ここは、弘前西伝道所を開設して間もなくの頃から、野外礼拝で毎年訪れた場所です。石川城の跡地で、城からの脱出口(横穴)もあり、グランドがあり野球もしました。
 その広大な跡地に、アジサイが植えられてずいぶんになります。教会を訪れた人を以前、何度も案内したことがあります。が、いつの間にか忘れ、浪岡に来てからは思い出すこともありませんでした。突然思い出し行ってみました。
 2500株のアジサイが、それは見事に咲いていました。水曜日であるにもかかわらず、沢山の人が訪れ、見事なアジサイを愛でていました。
 以前、教会に来ていた年平均200名ほどの新来者の青年たち!彼らも大切な教会のメンバーであったことを思い出し、感謝が溢れました。
今ある教会は、これらの人々にも支えられていたのです。今ここにいなくても、これらの人たちも、主に呼び集められた大切な神の家族でした。
 見えるものしか見えていない現在の貧しい自分と出会い、悔い改めの時となりました。感謝!!

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2023-07-02
7月2日「神なき世界」

 先月の刑務所教誨で、ある方がおっしゃいました。「先生、俺はキリスト教や聖書を学んで何か足しになればと思ってここに来ました。でも、生き方を変えることはできません。」その方は今月、教誨に参加していませんでした。出所されたわけではないことは知っています。
 キリストに従う決断を促す時、このようなことは起こるべくして起こるのでしょう。十字架のキリストを主と告白し、王の王として従うのは決してすんなりと受け入れられるものではありません。まして、それまでの生き方を根底から覆してしまうほどのパワーを持つ福音は、人を魂を揺り動かします。人によっては、拒否することもあるでしょう。
 しかし、幸いなことに、残った方々はそれでも主に従うことを決めた人たちだということが分かります。他人に流されずに踏みとどまったからです。
 普段から熱心に聖書を読んでいる方が言いました。「先生、俺は天国に行きたいし、イエス様を信じればいけると信じています。でも、もし信じなければどうなるかも知っておきたいんです。」
 他の人たちも頷きました。神なき世界、地獄とはどのようなものか。知ることで救いの喜びが増すことを期待します。  牛山

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2023-06-25
6月25日「初代教会の本質」

 来たる7月17日から開催される秋田地区の修養会に講師として招かれました。テーマは教会の7つの本質です。
 せっかく秋田の全教会が集まることになっているので、導きを求めてそれぞれの教会の周年誌を開きました。そこには、これぞ本質的な教会のあり方だ、と思える創立期の様子が描かれていました。
 出稼ぎに行った東京で路傍伝道によって導かれ、帰ってきたら家族があまりの生活態度の変化に驚いて、救われていく様子。他県から引っ越してきた夫婦が聖書研究会を立ち上げて、そこから何人も救われていく様子。子どもたちへ児童文庫を開放し、やがて教会になっていく様子。ボロボロの家に青年たちが集まり、その集まりから伝道者が育っていく様子。
 やり方は違えど、どの教会にもあるもの。それが本質です。今回の秋田では、そのことを分かち合えれば幸いです。
 私たちの教会から、一緒に行ってくださる方々も与えられました。私だけでは力不足ですが、チームで協力すれば、大きな実りがあることでしょう。
 主が秋田でどんなことを見せてくださるのか、今から期待でいっぱいです。しっかりと準備して、みんなでその景色を見てこようと思います。

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2023-06-18
6月18日「子どもの信仰」

 先週の木曜日、ダビデ保育園に行って、園児たちと父の日礼拝をささげてきました。
 子どもたちに「お父さんは何をしてくれるかな?」と聞いてみると、「お料理をしてくれる」、「抱っこしてくれる」、「遊んでくれる」、「お仕事をしてくれる」などなど、普段のお父さんの姿から色々なことを教えてくれました。
 メッセージの中で、「じゃあ、天のお父様でもある神様も、みんなのお父さんのようにお仕事があるんだよ?なんだか分かる?」と聞いてみると、ある一人の子が「僕たちを守ってくれる!」と答えてくれました。
 また、「お父さんは、みんなと少しでも一緒にいたいと思う?」と聞くと、「お仕事行っているときも会いたいって思ってる!」と答えてくれた子がいました。
 「天のお父さんである神様も、少しでも多くみんなと一緒にいたいと思っているよ。じゃあ、何をしたら神様が喜んでくれるかな?」と聞くと、「お祈り!」「ありがとうって言う!」など、色々な答えが返ってきました。
 子どものように神の国を受け入れる。親に頼るしかない子どもたちの方が、よっぽど父なる神に対する理解が深く、神の国に近いのだと感じる時間でした。  牛山

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2023-06-11
6月11日「自由になる」

 わたしは事あるごとに、「自分はなんてケチなんだろう」と、ケチな自分を嫌になることがよくあります。以前より少しはましにはなっていますが、それでもやっぱりケチなのです。
 幼いころは羊羹やスイカの切られたのを見ると、「1ミリでも多いほうを」と、目を皿のようにしている自分に気づき、顔がほてりましたが、気づかれないように取り繕ってきました。欲張りでケチなわたしは、子ども心にも必死に悟られないようにごまかし続けてきましたし、今もしています。
 クリスチャンになり、牧師になると、そんな自分に後ろめたさを覚え、そうしないようにするのですが、気が緩むと本性が顔を出してしまいます。
 イエス様と出会い、イエス様の気前の良さに心を揺さぶられつつも…。完全に、自分病にかかって抜け出せないでいます。
 今、「神様(イエス様)は色覚障がい」という言葉を思い出しています。黒も白も黄もない。皆、神様の愛の作品、ということです。
 ミクロン単位の物差しをもって、ありとあらゆるものを測りまわる愚かしさから解放されなくては、と願い祈っています。「真理はあなた方を自由にする」と言われた自由という愛から何と遠いこと!福音の何と深いこと!主よ、憐れみ給え!

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2023-06-04
6月4日「出かけていって」

 奥羽教区総会が3年ぶりに対面で開かれました。懐かしい顔ぶれと、この3年間の間に着任された新しい牧師先生たちともお会いすることができました。顔と顔を合わせて再会することに飢えていたことが分かるほど、皆さんの笑顔が印象的でした。
 さて、日本基督教団の秋田地区の教会がすべて参加する修養会が7月にもたれます。その講師としてお声がかかりました。タイトルは「教会の7つの本質(一人ひとりが輝ける教会へ)」です。
 教会の本質を学び始めて7年目。それでも失敗の連続ですが、基準を知っていることは何と大事なことでしょうか。かつて、救われる前には確固たる基準がなく、何事も自分次第であり、失敗を失敗とも思っていませんでした。そこが大きな失敗でした。
 今では聖書という基準があるので、失敗しても十字架のもとに戻れることが何よりも幸せです。また、失敗の原因や対処についても御言葉が示してくれます。
 秋田では、これまでにしてきた失敗の数々を披露しながら、人が失敗しても神の宣教は継続すること、そして、そのように各教会が歩まれてきたことを励ましたいと思っています。
 そんなことを思いながら、秋田地区の各教会の周年誌を眺めています。  牛山

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2023-05-28
5月28日「楽しい時」

 私が受け持つ東奥義塾の授業の中で一番好きな時間があります。それは、グループ・ディスカッションを早めに終えた生徒たちと雑談をする時間です。
 ある時は、生徒が手にしている割れたタブレットの話。ある時は進路の話。またある時はラーメン屋の話。他愛もない話題のようですが、大切な生徒との交わりの時です。
 しかも、今年度から聖書科の定期試験がなくなり、授業中の評価が全てになったことで、グループワークが多くなり、交わりの時間も増大しています。これは本当に嬉しいことです。
 特に、今年は3年生を担当させていただくことになったので、2年生よりも成熟した、最上級生という印象を強く感じます。学校生活にも慣れて、聖書の話題にもある程度ついて来ることができるのです。
 何よりも、十字架と復活という聖書と信仰の根幹をなす知識については、前年度の先生方の労苦によって、ほとんど完璧に答えることができるようになっていて、嬉しい限りです。
 卒業前までに、主の素晴らしさにますます触れられるように、教会の背後の祈りをよろしくお願いいたします。  牛山

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2023-05-28
5月21日「コロナで失ったもの」

 昨日、娘と息子の運動会が行われました。運動会となれば、だいたい日曜日が多く、ほとんどの牧師先生は観戦できなかったとおっしゃっています。しかし、今回は土曜日の開催だったのです。
 弘前に来て10年。娘も息子もあっという間に幼稚園、小学校、そして今度は中学校へと向かっています。これから10年経つと、娘は成人です!
 これまで、主なる神と教会の方々に育てられ、養われて今があります。愛もなく、忍耐力もなく、謙遜さもなく、能力のない私にできるのは、ひたすらに主イエスを通して現された神の国の福音を宣べ伝えていくだけです。そのためには、聖霊の助けと一致した教会の背後の祈りが何よりも必要です。
 宣教のためだったら。それがキリストの体である西教会の特徴でした。コロナの影響が大きく現れたのはその重要な部分だったのだと、私自身を振り返っています。
 宣教のために出ていくことができなかった期間を経て、そのことを失ったときに受ける損失がいかに大きいのかを経験しました。すでに今年は秋田へ、沖縄へ、大阪へ、と声がかかっています。
 出かけていって、という主の命令に戻るときが来ました。  牛山

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2023-05-14
5月14日「すべてが用いられて」

 何がきっかけになったのか思い出せないのですが、幼い頃、アルヴェルト・シュバイツァーのようになりたいと思っていました。教会学校で、藤田恒男先生から聞いたのか、母が買ってくれた偉人伝で知ったのかは定かではありませんが、子ども心にもシュバイツアーの生き様に大きな感動を覚えたことを思い出しました。
 パイプオルガンの卓越した演奏者であった彼が、
アフリカ行きを決断した時、師であったシャルル・ウィドールが「本当に君は決心したのか、後悔しないのか」と無念がった時、シュバイツアーは、「神がわたしを呼んでいますから…」と答えたという。その彼が、「キリスト教の本質というものは、イエスの語られた如く、我々が愛することを通してのみ神との交わりに到達するということである。生き生きとした神認識の一切は、我々の心のうちに、それを愛への意思として経験するかどうかに懸かっているのである」と明言する。
 彼は「感謝の人」であったという。それは、牧師であった父によって習慣づけられたものであった。「愛と感謝」は信仰の双生児ということが出来るように思います。「すべてを捨てて」ではなく、「全てを用いて」全力で生きた貴い人生を考える時を与えられて感謝しました。 石川

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2023-05-06
5月7日「新生する教会」

 一昨年、見知らぬ方から1冊の本が送られてきました。「実践 教会役員 マネージメントとリーダーシップ」というものでした。そして、そのまま本棚に直行でした。
 ここ最近示されている、新しい教会の姿を祈る中で、この本のことを思い起こし、手にしました。開いてみると、とても重要なことが記されていることに気づき、私たちの教会に無かった大切なことが書かれていました。
 青森コーチング・ネットワークが2016年からスタートし、教会に7つの本質が徐々に溶け込んできた矢先にコロナになり、毎週の聖餐、愛餐がなくなり、平和の挨拶での握手などもしなくなりました。一時は礼拝を完全にオンラインにして、機材のないごく少数の方々のみが集まった時期もありました。他の教会の方々が「コロナで大変だ」とおっしゃるのを伺いながら、「私たちはあまり影響がなかった方かもしれない。」と思っていましたが、大変な勘違いだったことが分かってきました。
 コロナを経験して、私たちの教会が大事な価値観を取り戻し、無かったもので大切なものを吸収しながら、ますますキリストの体として他の教会にも仕えていけるような気がしています。 牛山

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2023-04-30
4月30日「簡単な回答」

 今回の刑務所教誨では、実にたくさんの質問が出されました。一方的な講義形式の教誨から舵を切って、被収容者の方々の疑問にお答えする形をとってから、本当に多くの質問をいただき、参加者の熱を感じます。
 このような形式になってから、皆さんが1ヶ月間聖書を読み、その他にも歴史や思想書なども手に取っていることが分かりました。あまりにも勉強されているので、とても難しい質問が出たりします。例えば、「教典」と「聖典」の違いは何ですか?といった問いです。皆さんはお答えすることができますか?私はできませんでしたが、おそらく違うだろうけど、と前置きをして苦し紛れに説明をしました。「聖書においては同じだろうけど、分けるとすれば聖典は聖書であり、教典は生活規範などが書かれているものでは?」と。
 組関係者が多い私のクラスですが、以前にヤクザは職業ではなく信仰に近い、とおっしゃっていた方がいたことを踏まえて、組や上の人のために命を捨てる信仰から、罪人である私たちのために命を捨てたまことの神に感謝する信仰へと導けたら、と祈っています。
 最後に、2年間お付き合いさせていただき、来月出所される方が言いました。「仏の入れ墨が入っていますが、教会に行っても大丈夫ですよね?」と。その質問への答えは最も簡単でした。「もちろんです。」  牛山

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2023-04-23
4月23日「津軽のために」

 5月8日、9日にもたれる青森コーチング・ネットワークには、岩手から小手川宣教師ご夫妻と助喜くんが来てくださいます。2016年から岩手の方々には毎回お世話になってきました。
 今回から、基本的に青森の人たちだけで行う、という前提で青森コーチング・ネットワークの継続を考えていく必要を感じました。幸いにも、テホ・ケン宣教師は教会の本質を学ぶことに熱心であり、他の教会の方々との架け橋としての働きをされてこられたので、今後は講師が牛山だけでなく、他の教会や信徒の方々にも講師を明け渡していきたいと思っています。
 コロナに対する緩和を受けて、新たなスタートを切る青森コーチング・ネットワークは、新しい方々も加えながら、共に祈り合い、励まし合いながら、協力しつつ、主が愛されている津軽の方々の祝福のために歩んでいくことになります。
 七つの本質を学び始めて、戻るべき基準ができたことで、誤りを犯しながらも、そのことを正すこともできるようになってきたように思います。引き続き、教会のコアバリューは何かを学びながら、疫病によって分断されてきた関係を取り戻していきたいと思います。

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2023-04-16
4月16日「変わらないこと」

 新しい年度が始まりました。コロナの警戒レベルが引き下げられることにより、すでに多方面からお声がかかっています。
 秋田では、地区の修養会にお招きくださり、「教会の本質」について皆様と語り合う機会が与えられようとしています。私たちの教会でも本質を学び始めて今年の6月で7年目。まだまだ学びのさなかであり、気を許すとすぐに本質からずれてしまうような危うさがあります。牧師としての傲慢さと失敗と、それにもかかわらず、教会が主の霊に満たされていることを分かち合いたいと願っています。そして、みんなでお互いの教会とその働きを喜び、感謝する時となるよう祈っています。
 また、教誨師会の研修会や青森コーチングの再開など、徐々にコロナ以前の状態に戻ろうとしています。しかし、コロナがあって学んだこともあります。なかなか会合が持てなかった遠方の教会や人々とオンラインで会うことができたこと、礼拝配信によって教会に集えない方々や、定住の牧師がいない教会での説教動画の活用など、新しくできたこともたくさんありました。
 それでも変わらないのは、主がいつも共にいてくださった、ということだけです。  牛山

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2023-04-09
4月9日「委ねることの積極性」

受難週の早天祈祷会では、今年も十字架の恵みを分かち合いました。
 私たちが他者を赦せない時はどんな時だろう?という質問に、皆さんが答える中で、では、主イエスの受けられた身体的、精神的痛みはどうだったかと黙想すると、それぞれが出した耐え難く、赦し難い事柄のすべてが十字架の上にあったことが分かりました。
 肉体的な攻撃があり、罵りがあり、信念を否定する声があり、無実で裁かれる無念があり、愛するひとからの裏切りがあり、神に見捨てられたような孤独があり…。それが同時に来た場合の苦痛はどれほどのものだったのでしょうか。
 息を引き取る前、「わが霊を御手に委ねます」とおっしゃった主。それは、与えられた自由を用いて、積極的に自らの進むべき道を選び取る自立した人間の姿です。聖金曜日、十字架の日に皆さんにお聞きしました。「あなたは何を委ねたいですか?」
 出された答えはそれぞれですが、どれも期待に胸が膨らむものばかりでした。主とともに歩む。この選択が与えられていることで、不可能は可能になります。絶望は希望になります。
 あの十字架の最期の時、主は魂の行き先を墓でも死でもなく、永遠の命を与えたいと願っておられる方に委ねられ、そして事実、復活されたのです。

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2023-04-02
4月2日「長き歩みの中で」

 弘前公園のすぐ近くにあった生家に、両親にお願いして伝道を開始したのが49年前でした。定年退職して、ゆったりと生活していた両親にとっては、迷惑この上ない申し出でした。両親に「おんぶにだっこ」で始められた伝道は、「良き力に守られて」今日まで、全てを守られた祝福の歩みでした。東京で同じ教会に出席していた姉妹が聖愛高校に教師として赴任し、共に歩むことができたことも。最初の礼拝は、1974年4月7日の「棕櫚の主日」で、受難週の礼拝からでした。
 そのような過ぎ越し方を顧みる中で、WBCの関連映像と、深掘りのコメントがいまだに毎日放映されています。コメントする人々の心からの喜びが伝わってきます。そこで語られる栗山監督の一つ一つの言動に触れる機会を与えられ、襟を正されています。うちの教会に監督として来てもらいたいほどの、またとない機会を大切に心に留めています。わたしができなかった福音の、御言葉の真実が野球を通し余すことなく明らかに展開されています。自分が何を見ず、何をしてこなかったのかが痛いほどに明らかにされました。主の姿、福音の生きた世界を見ることが出来感謝が溢れます。御言葉に立ち返り、祈りつつ再出発です。「信じ、まかせ、感謝」することを! 石川

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2023-03-29
3月26日「荒唐無稽な道」

 先週の刑務所教誨では、一人の方が何度も何度も熱心に質問をしてくださいました。なぜかというと、次の月には出所で参加できないから、ということでした。
 「私はイエス・キリストを信じてやり直したいんです。聖書のすごさも先生から色々と聞いたり、自分で様々な本を読んだりして、キリスト教について考えてきました。でも、どうしても本当かな?と思う箇所がいくつもあるんですよね。こんなに信じきれない自分でも、教会に行っていいんでしょうか?」それが彼からの最後の質問でした。
 そこで、全員でマタイ28章を開いて、ガリラヤの山で弟子たちが復活の主イエスに出会う場面を読みました。そこには、目の前に主がいるのに「疑う者もいた」とあるのです。それでもなお、疑う者を含む全員に主は宣教の担い手となるよう命じ、世の終わりまで共にいると約束しているのです。
 「だから大丈夫です。神が人となり、命を捨て、復活し、今も生きて一緒にいる。こんな荒唐無稽な話を納得するのはほとんど無理でしょう。疑って当たり前です。でも、もし、想像を絶するような体験を期待するならば、荒唐無稽な人生を歩みたいなら、この方を信じる道こそ、そこに至る道です。」
 そして、出所を控えた方の肩に手を置き、全員で共に祈りました。  牛山

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2023-03-19
3月19日「喜びの継承」

 先週の月曜日、敬愛する方の葬儀を執り行いました。喪主の感動的なご挨拶もあり、とても希望に満ちた告別の時となりました。皆様のお支えとお祈りがあってこそ、主が働いてくださったのだと信じています。
 これまで、多くの方の葬儀を執り行ってまいりましたが、どちらかというと石川牧師と関係の深かった方々や、親交の短い方々がほとんどでした。「きっとこういう方だったんだろう」ということを、ご家族の話や牧師からの情報を頼りに、祈りつつ葬儀の準備をしてきた印象でした。しかし、今回はこちらに遣わされる以前から知っている方であり、来てからの親交も長く、個人的な祈りや願いも知っていた方でした。それだけに、共同体が新しい時代に入ったのだと実感し、「今後はそのような方々との別れも多くなるかもしれない」と考えたら、とても寂しくなりました。
 今、教会は新しい時代に入ろうとしています。子どもたちが溢れ、ユース・ミニストリーがはじまり、新しい共同体が教会内ベンチャーのごとくスタートしようとしています。
 旧約のカレブのように、これまで共同体をリードしてくださった方々が御言葉にチャレンジし続けながらも、若い人たちに信仰が継承されていることに喜べる共同体になれるよう、これからも祈り続けてまいります。 牛山

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2023-03-13
3月12日「主の祈り」

年齢を重ねるに従い、『主の祈り』が、「わたし」と、「わたしたち」を、主に立ち返らせる「王道」であることが、少しずつ解かるようになってきました。そしてこの祈りを祈ることを許されていることを、日々喜べるようになりました。
 朝、歯磨き洗顔をして、礼拝堂に向かいます。讃美をし、感謝をしてから「主の祈り」をします。
この祈りこそ、神の御心と、わたしたちを一つに結ぶ祈りであることを日々に思い知らされ、御手の中なる今に感謝が溢れます。
 「神」は、「わたしの神」であるとともに、「わたしたちの神」-ソヴィエトの、中国の、北朝鮮のウクライナの…、全世界の神であることは何という幸いでしょう。
イエス・キリストが、ご自分と一緒に、「わたしたちの神よ」と、祈るようにわたしたちを招いておられる恵みに、心躍ります。
 ルターは、「イエス・キリストは祈る方です。そしてわたしたちはキリストのとりなしの祈りに仲間入りするのです」といっています。
 わたしたちは、神がイエス・キリストによってその祈りを聞き届けられるお方であり、キリストの祈りは、世界の初めから、永久から永久に聞き届けられているのです。その祈りの中の我らです。 石川

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2023-03-05
3月5日「伝道」

 先週の木曜日、教会でサムエル、ダビデ両保育園の卒園記念礼拝がささげられました。あんなに小さかった子どもたちが、あんなにも大きくなり、一人で素晴らしいお祈りをし、大きな声で主を賛美し、聖書の御言葉を真剣に聞いてくれる姿に感動しました。
 日々、先生方が地の塩であり、世の光である子どもたちをそのまま受け入れ、愛してくださった結果としての実りだと思います。
 コロナの最中は先生方が遠慮して「西教会内部ツアー」ができませんでしたが、今年は数年ぶりにツアーを敢行しました。
 子どもたちが至るところで「すごーい!」と声を上げているのを見ていると、私たちに与えられている会堂に今一度感謝をもって使う必要を感じました。
 エレベーターの前でじゃんけんをして、選ばれし者たちがエレベーターに乗って下の階にさがる傍ら、「乗りたかった~」と残念そうな、泣きそうな子どもたちに声をかけました。「日曜日、教会に来ればいくらでも乗れるぞ~!」と。すると歓声が上がりました。
 教会から出る時、ある男の子が目をキラキラしながら言いました。「パパが行っちゃダメって言っても、来ていいの?」
 「もちろん!」と言いたかったのですが…、さて。  牛山

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2023-02-26
2月26日「新たな旅路」

 先週、東奥義塾で今年度最後の授業を終えることができました。一年間、背後のお祈りを心から感謝します。今年はいろいろなことがありましたが、素晴らしい宗教主事をお迎えし、毎週ワクワクしながら学校に赴くことができました。授業の合間に宗教主事室で交わされるやり取りも、霊的になり、満たされるものでした。授業から帰ってくると、あったかいコーヒーが用意されていて、霊の交わりにひと味の愛を加えてくれました。
 次年度は青森バプテスト教会の角本先生も聖書科非常勤のひとりとして奉仕してくださることになり、能力的にも、霊的にも、私が一番低くなります。しかも、今までは二年生の担当でしたが、宗教主事から「三年生を」と打診されています。一番低くされた者が、初挑戦の場に置かれます。今まで以上に背後の祈りを必要としています。そして、主がこのようなご計画の中で何を見せてくださるのか、とても興味があります。
 そのためには、私の人間的な傲慢さが出ないよう、低くされたことを悲観するのではなく、喜んでいきたいと思っています。
 何をしたらいいのか、分かりません。春に向けて、すべきことを主に祈り、伺う日々にしたいと思う、そんな受難節を過ごしています。  牛山

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