宣教

2023-02-19
2月19日「神への信頼」

マルコ10:13~16
 聖書における女性と子供は、力のない象徴として描かれています。ものの数にも入らないほどの扱いを受けていた時代、主イエスはまったく異なる視点を持っておられました。
 人々が子供を連れてきた時、そこには乳飲み子までいたと聖書は描写しています。目的は主に触れていただくため、手を置いて祈ってもらうためでした。なぜ、彼らには祈りが必要だったのでしょうか。
 「心の貧しい人々は幸いである。神の国はその人たちのものである。」とおっしゃった主は、ここでも「神の国はこのような者たちのものである。」と弟子たちに教えました。両者に共通するのは、弱い、ということです。それは社会的なことかもしれませんし、経済的なことかもしれませんし、精神的なことかもしれません。いずれにしても、子どもたちは弱かったために、主に触れていただくことが必要だったのです。
 多くの人たちが救いを求めています。そして、多くの選択肢を試しています。その全員が、主に触れていただく必要のある方々であり、私たちも同様です。
 人々を主にお連れする時、躊躇しているとしたら、それは、本当の意味で主のもとにお連れしようとしていないからなのです。

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2023-02-12
2月12日「柔らかな心で」

民数記12:3  Ⅰコリ9:19~23
 「教会はキリストの体」であり、聖霊の実を実らせる聖霊の宮です。そして一人一人はその部分です。「聖霊の結ぶ実」とは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22)です。何というしなやかな喜びの場所でしょうか。
 以前、教会が、「堅い、暗い、つまらない」と揶揄されたことがありましたが、今もってなおということはないでしょうか?「キリストの体」である教会は、「生きた、神の愛が息づく、キリストの体」です。
 イスラエルで、今も最も尊敬されている人は、モーセであると言います。「モーセという人はこの地上の誰にも勝って謙遜であった」(民数12:3)とあることに驚きます。
 イエス様と出会った、迫害者パウロは、全く新しい者とされ、「わたしは誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました」と言っています。「融通無碍」ともいえる愛の柔軟さを生きました。
 キリストはわたしたちを救うために「人間」になられました。キリスト信仰とは、「しなやかにして温かい」生を与えられ、軽やかに生きることです。それは、「愛を生きる」ことに他なりません。(^^♪と「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」

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2023-02-05
2月5日「幸せの所在」

マタイ5:3~12
 世の誰しもが幸せになりたいし、そのことのために日々努力し、どこかにあるであろう幸せを追い求めています。あなたはいかがですか?
 主イエスは山の上から貧しい人々、日々の苦労が絶えない人々、思い通りにいかない憤りを抱えた人々を見ながら「幸せ」とは何かを語られました。
 多くの人が「幸せ」の所在についての解答を持ち合わせていないか、バラバラの意見を持つことでしょう。しかし、主は「幸せ」について、現在と未来の2つのグループに大別して説明しました。そして、すべての人がそのグループのいずれかに、もしくは複数に属していることを悟らせたのです。あなたはどこに属していますか。
 実は、「幸せ」の所在をあやふやにしているのは悪魔の仕業なのです。お金、権威、名声、人によって幸せになる条件がまちまちなのはこのためであって、その混乱が本当の「幸せ」からかえって自身を遠ざけていることになるのです。
 「幸せ」は今ここにある。そして、もし「幸せ」を実感できなかったとしても、主を信じる未来には確実な「幸せ」がある。それが、すべての御言葉を成就された主の約束であり、「幸せ」の所在です。

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2023-01-29
1月29日「カレブの信仰」

ヨシュア14:10~14
 カレブは高齢になってもなお健やかで、チャレンジを続ける信仰の人でした。彼の信仰、そして姿勢から学べることは一体何でしょうか。

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2023-01-22
1月22日「癒やされても」

ヨハネ5:1~18
 長い間、祈りが聞かれず、悶々としてきた経験はありますか?特に、体の健康に関することや障害に関することは特段、諦めてしまいがちでしょう。ここに、38年間も病で苦しんでいる人が出てきます。彼も、諦めてしまった一人でしょう。そんな彼のところに、転機が訪れます。それが主イエスとの出会いでした。
 結果的に、彼は癒やされました。しかし、癒やされたのが安息日であったので、この人の行動が労働とみなされ、律法学者たちから問題視されました。しかし、彼は誰に癒やされたのかさえ、分かりませんでした。
 再び主に会った時、癒やし主が誰なのかを知った彼は問い詰められたのか、身の危険を感じたのか、主に癒やされたことを律法学者たちに告げてしまいます。これが十字架への道を決定的なものとしました。
 あの日、ゴルゴタの丘にささくれた十字架が立てられ、そこにかけられるのが癒やしてくださった方、主であることを知った彼はどんな気持ちであの十字架を見上げていたのでしょうか。
 十字架はわがため。これはすべてのクリスチャンが体験すべき重要なものです。あなたの過ち、弱さ、罪をすべて背負ってくださった方は、今もなお、十字架の上からあなたに目を注いでおられます。

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2023-01-15
1月15日「命のリレー・シャローム」

出エジプト1:22-2:10 エフェソ2:14-16
 2023年がスターして早くも半月、時の流れの速さに目がくらみます。いつの間にか、昨年と同じ流れに合流している自分に気づきます。
 そんな中にあっても、流れに抗して、「神の似姿」として、愛の神に向かって創造され、愛に生きる者とされていることを心に刻みたいものです。
自己実現の仮面に惑わされ、神の愛からの、逃走を繰り返してきた、人間の歴史的愚かしさから立ち返る時を与えられていることに感謝します。
 神様は、キリストによって「十字架を通し…敵意を滅ぼす」こととされました。「キリストはわたしたちの平和であります」とある通りです。「神はわたしたちの平和であります。…ご自分の肉において隔ての壁を取り壊し…」と。
 聖書を貫く、インマヌエルの流れに、今年も目を注いでまいりましょう。「平和」ヘブライ語の「シャローム」は、補填する、バランスを保つ、という意味があります。シャロームは最初から存在するものではなく、その前提にマイナスや欠如がある中から回復され、調和へ導かれるのです。ナイル川に捨てられたモーセが沢山の女性により守られていく、命のバトンのように。平和の種をまく私たちとして。この年、シャロームの命の隊列に感謝と賛美に!

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2023-01-08
1月8日「私の血による新しい契約」

ルカ22:14~20
 世界のどこに散らばっていても春分の日が過ぎた頃、ユダヤ人であれば必ず守るのは過越の食事です。最初に一番若い子供が質問することになっています。「今夜は、ほかのどの夜とも違うのは何故ですか。」それを聞いて家の主人は出エジプト記に書いてある解放の物語を伝えます。「神はエジプト人の奴隷になっていた私たちのうめき声を聞き、奴隷の身分から救い出してくださったのは、この夜だからです。私たちは奴隷だったことを忘れません。苦しみの生活から救い出してくださった神様をも忘れません。」
 十字架にかかる前に、イエス様が弟子たちと一緒にどうしても守りたかったのはこの過越の食事でした。食事の進行に決まった式文があり、ぶどう酒が入った杯から飲む場面が四つあります。一回目の杯の感謝をささげるところまで、イエス様が式文通りに司会を進めているかに見えますが、それから弟子たちの意表を突くことを言います。「今夜は子羊の肉はありません。それに代わってこのパンを分け合って食べなさい。このパンは私の体、このぶどう酒は私の血です。子羊に代わって殺され、血を流すのはこの私です。」ユダヤ教徒が神様と結んだ契約に代わる、新しい契約の始まりでした。

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2023-01-01
1月1日「隠された計画」

エレミヤ33:1~3
 神はご自身の計画を持っておられ、それは極めてユニークであり、オーダーメイドであり、人間の理解を超えています。そして、預言者エレミヤに与えられた神の言葉もまた、因果応報の価値観を凌駕したものとなっていました。
 不信仰のゆえに、廃墟となった都には誰も住まず、命を生み出さない地には動物たちもいませんでした。そこは不毛の地で、再建は絶望的であり、人々は別の地で後悔と苦悩の中にいました。
 ところが、主なる神が語ったのは、荒れ果てた大地を祝福し、人が住み、神を賛美しながら輝いて生きる、栄光のイスラエル全盛期を超える繁栄でした。
 一度破壊しつくされたものが命を吹き返すさまは、時代を超え、十字架と復活という形でこの地上に顕現しました。その言葉と約束に安住する人々は、永遠の命という希望と神の愛という平安に置かれた人々であり、地上のすべての国家の繁栄を超えた繁栄をもたらされた人々です。
 あなたが見ている廃墟は何でしょう。それが回復するとしたら、どんな回復でしょう。神は理解を超えたご計画をお持ちです。今年もその神が、あなたの人生に大いなる計画を実現します。

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2022-12-25
12月25日「光の誕生」

創世記1:3~5
 世界で最初のクリスマスはベツレヘムにもたらされた救い主イエス・キリストの誕生です。しかし、聖書を見ると、主イエスは世界の誕生の前から存在していたと記されています。では、本当のクリスマスはいつだったのでしょうか。
 天地創造の神は、世界を創造するにあたって、まず「光あれ」と世界で初めての言葉を発しました。それまで、世界には言葉もなければ、何もなく、ただ混沌が広がっていただけだと聖書は語ります。そこに「光」が生じ、その光のゆえに「闇」も生じました。
 その後、読み進めると明らかに天体をお作りになった箇所が目にとまります。つまり、最初の「光」は、太陽のような、目に見えるものではなかったことが分かります。では、最初に創造された「光」とは何だったのでしょうか。
 それは、ギリシャ哲学で言うところの「すべての事象を理解する上で欠かせない絶対的なもの」という意味を持つ言葉で記されています。私たちがこの世界にあって、罪から生じた偽りに惑わされず、この世界の成り立ちや自分自身の存在理由、目に見えない世界も世界の一部であることを理解するために絶対的に必要なもの。それが主であり、最初のクリスマスです。

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2022-12-18
12月18日「癒やし主が来る」

申命記18:15~22
 モーセは人々に言いました。「自分のような預言者が与えられる」と。これは尊大に聞こえるでしょうか。モーセは自分ほど謙遜な者はいなかった、と言った人です。しかし、聖書における謙遜とは、そしてモーセのような預言者とは一体どのような人を指しているのでしょうか。
 聖書における謙遜さは、神に頼る他無い、ということを理解している人のことを言います。かつての預言者たちがそうであったように、神の言葉をまっすぐに伝える役割のため、預言者たちは自らを神に委ねきった人々でした。そのため、人々は彼らを通して語られる神の言葉に耳をふさぎ、拒否し、殺すことさえしたのです。それは、主イエスの歩みにも見られる特徴でした。
 まことの預言者であり、信仰の完成者である主は、常に父なる神を前に置き、「み心を行うために来た」とご自身について宣言します。そして、迫害され、殺されました。これは神と預言者の敗北にも見えますが、実はこの傷こそ、私たちの癒やしに必要な大いなるみわざだったのです。
 主は来られます。預言者として、そして癒やし主として。あなたを罪から解放するために。

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2022-12-11
12月11日「多くの人もその誕生を喜ぶ」

ルカ1:8~14
バプテスマのヨハネの両親は年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトでした。このお二人は模範的なユダヤ教徒で、ルカはお二人について「非の打ちどころがなかった」と書いています。当時のユダヤ教の教えからすると、このような夫婦は神様からの祝福の証として健康とお金と子宝に恵まれるはずでした。その内の一つでも欠けていれば、神様に喜ばれない何かが、その原因だろうと思われました。
この福音書はその考えを完全に否定しています。ルカが描くイエス様は、病気や貧困に苦しむ人たちが、神様の呪いを受けているどころか、神様から特別に愛されているから、必ず幸せになると主張しました。だからこそ、子宝に恵まれなかった、ザカリアとエリサベトという、年老いた夫婦へのメッセージからこの物語が始まります。
「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子はあなたがたにとって喜びとなり、楽しみとなる。しかし、それにとどまることなく、旧約聖書の最後の預言の言葉を実現させる、特別な人になる。」クリスマス物語は「民全体に与えられる大きな喜び」のメッセージで、私たち一人一人に喜びを届ける知らせです。

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2022-12-04
12月4日「希望の源」

ローマ15:1~6
 希望は聖書に記された神の言葉が与えてくれる重要な要素です。私たちは信仰と希望、そして愛によって生かされています。
 しかし、なんと聖書で一番最初に希望という言葉が出てくる時、それは「希望はありません」と言う言葉です。なぜ、希望はないと聖書は語るのでしょうか。
 希望はありません、という言葉と同時に記されているのは、人生は影のようだ、という言葉です。つまり、この地上で影のように伸びたり縮んだり、出たり消えたりする地上の出来事に希望を見出すことは困難だという現実です。
 聖書における希望とは、「将来につながる確かな糸」という意味があります。私たちの将来はどうでしょう。あれも、これもと直近の未来を思い描くと同時に、この地上における将来に、誰しも迎えるのは死という得体の知れないものです。
 しかし、主イエスはこの得体の知れないものを、知ることのできるように、ただ一度、地上に描き出しました。それが復活の命に生きるということです。
 神が聖書を通して将来を約束してくれます。それは、移ろいゆく現象にではなく、確かなものに希望を置くことができるように、です。

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2022-11-27
11月27日「神を仰ぐ時」

歴代誌下20:1~19
 人生における絶体絶命は一度きりではありません。それこそ、山あり谷あり。それが私たちの人生です。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは世にあっては艱難がある。しかし勇敢でいなさい。私はすでに世に勝った。」と。
 今、ヨシャファト王も危機的状況に陥りました。目の前に広がっていたのは、もはや自力でどうにかなるような簡単な問題ではありませんでした。彼は恐れました。人として当然の反応です。しかし、次に彼が決心したのは、人として多くの人が選び取らない選択肢を選び取ることでした。それは「主を求める」ということです。
 「主を求める」これは世の常識ではあり得ない選択です。危機的状況で誰もしないであろうこの選択は、しかし、自力では無理だと常識的に判断できる状況を一変させる唯一の選択なのです。「非」常識を選ぶと「非」常識が与えられるのです。
 神は「非」常識な方です。神でありながら人となり、神でありながら十字架にかかり、罰を受けるべき人間の身代わりに自らが罰を受ける。これは常識ではあり得ないことです。
 あなたが見たいのは常識ですか、「非」常識ですか。

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2022-11-20
11月20日「天への手土産」

マルコ13:32~37
 主イエスは世界の終わりについて弟子たちに説明されました。当然のように、弟子たちはその日その時はいつなのか、気になりました。しかし、主はお答えになりました。「知らない」と。
 主は大事なことを教えてくださらない、無責任だと言う人もいるかもしれません。すべてをご存知で、過去と未来を縦断できる命の主が、そのことだけは知らないと言う。本当にそうなのでしょうか。
 実は、この「知らない」という言葉は「興味がない」という意味も持っています。主は世の終わりの日をご存知ないのではなく、そのことを特定することに興味がないのです。なぜでしょうか。
 仮に、この世界があと300年後に終わると知っていたら、あなたの生活はどう変化するでしょうか。もしかしたら、自分はそこまで生きていない、という理由で無関心になるかもしれません。しかし、今日、世界が終わると知ったらどうするでしょうか。
 誰しも、自分の最期を知っている人はいません。そして、すべての人は人生の最後に後悔したくないと思うでしょう。
 世を去る日、すべてを明け渡し、主の御手に委ねる日です。最高の人生だったと言うことができるはどのような人なのでしょうか。

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2022-11-20
11月13日「新しい時を生きる」

箴言29:18   ローマ12:9-21
 幼い時、「幻のない民は滅びる」と記憶した聖書が今日では、「幻がなければ民はちりぢりになる」と訳されています。どの訳も大切な真理を示唆します。
 使徒言行録をたどると、キリストによるヴィジョンを生きた使徒たちの働きが、手に取るように心に響き伝わってきます。愚かな自己理解から解放され、神の家族の道が示されるようになりました。
 主イエス様と共に歩んだ弟子たち、復活の主に出会った人々は、自らの回心を通して、新しい価値観、命、と出会い、新しい人生の航海に乗り出しました。
 それは、新しい自分との出会い―主イエス様との出会いによるーにより与えられました。「神に愛されている自分」を通し、生きる意味を見出しました。
 この自分のため、十字架で命を捨ててまで愛してくださったお方によって。新しい愛の力に満たされた彼らでした。それは「愛がなければ無に等しい」真理との出会いでした。愛されるだけでなく、愛する者へと変えられ、神の約束の航海へと船出しました。「幻」が与えられたのです。それは、人を屈服させる力ではない、「愛による勝利」を生きる力でした。友よ!彼らと共に、キリストと共に、愛の行進へと導かれているわたしたちです。偏狭な自己理解を超えて、主の示す「愛」の時に向かうわたしたちです。

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2022-11-06
11月6日「まことの糧」

ヨハネ6:34~40
 主イエスは男だけでおよそ5000人もの人々を、5つのパンと2匹の魚だけでお腹いっぱいにしてみせました。これは素晴らしい奇跡です。人々は、「この人についていけば、食べ物に困ることはないだろう」と予測し、主に従いました。
 日々の糧であるパンを求めて従った人々に、主がおっしゃったように「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。体を満たすパンを求めることは誰でもしていることですが、魂を満たす霊的なパンを求めている人はどれくらいいるでしょうか。
 主は体を満たそうとパンを求める人々に、あなた方に必要なのは神の与えるパンだと教え、そのパンとはご自身であることを告げました。
 体が満たされていても、霊的に満たされていないことを聖書では不健康だと教えます。そして、霊的に満たされるためには、主のもとに来ることだというのです。そこには飢えがなく、渇きもないという素晴らしい祝福が待っているからです。
 やがて私たちは着ている体を脱ぐ時が来ます。その時、私たちにできるのはたった1つのことだけです。それが、復活の主にすべてを委ねる、ということなのです。

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2022-10-30
10月30日「ゆるすこと、ゆるされること」

マタイ18:21~35
 イエス様が語られた1万タラントンの借金を帳消しにもらったのに、100デナリオンの借金のある仲間をゆるさない家来のたとえ話は、罪の赦しと借金の免除が比喩的に結ばれているところす。ここでは、デナリオンとタラントンという2種類の通貨の単位が出てきます。
 聖書度量衡・通貨表によると、1デナリオンは1ドラクメと等価で、労働者の1日分の賃金です。1タラントンは6,000デナリオンですから、一人が1年間に300日働いたとして、20年間働き続けてようやくもらえる賃金が1タラントンです。家来が主人から免除してもらった借金が1万タラントンですから、免除してもらった借金の額は、計算上20万年分の賃金になります。この借金額は、ある聖書注解書によると現在の価値で1万タラントンは、400億ドルに相当するとのことです。一人が負うには天文学的数字の額の借金をゆるしてもらったのに、仲間の100デナリオン=約3月分の賃金分の借金をゆるせない家来は、私自身ではないかと考えるようになりました。今、イエス様が、私では到底払いきれない罪の借金を十字架の上で完済して下さったことをあらためて知らされています。

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2022-10-23
10月23日「恵みによる成長」

IIペトロ3:8~18
 霊的成長。この言葉は多くの教会で唱えられ、多くの牧師や信徒が挑戦し、数多くの書籍でテーマとされてきました。
 子育てのプロが講演会を開いて、目からウロコの子育て論を展開し、多くのパパやママが感動するのはどうしてでしょうか。それは、全く知らなかった新しい知識を提供してくれるからです。でも、それは古代には無かったもの、ということではなく、単純に私たちが知らなかったというだけの話なのです。なぜなら、人を成長させるための知恵と知識は、すべて聖書と主イエスの言動に表されたものであり、現代になって新たに発見された手法ではないからです。
 聖書に啓示された神の言葉は、人間側に寄せて読むものではありません。もし、そのようなことをすれば、私たちは神の大いなる知恵と知識を、個々人の知的限界の中に詰め込むことになり、時代を貫く真理に出会うことができなくなる恐れがあります。
 時代が変われば溶け去ってしまう常識や知識ではなく、永遠の視点で語られる真理こそ、私たちの霊的成長に必要なものです。そして、それは私たちの努力にかかわらず、すでに神から一方的に与えられている恵みでもあるのです。

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2022-10-16
10月16日「神により頼む」

雅歌 8:5~7
 荒野とは、道もなく、植物も育まれない死の世界です。そこでは、明日のために素晴らしい計画を立てたとしても、明日が訪れる保証はありません。しかし、私たちに明日は見えなくとも、明日が見えているお方に寄りかかるとき、心に平安が満ち溢れてきます。主イエスは明日の心配は無用だとおっしゃいました。(マタイ6:34)荒野の人生は荒廃への道ですが、主イエスに寄り頼む人生は、天国が約束された人生です。魂を入れる土の器が壊れて、肉体を脱ぐ時が来ても、魂は永遠に残るものです。魂の行く先は肉体の行く末よりも大切なのです。
 しかし、年老いて、あるいは力を失って、寄りかかる力すらなくなる日が来るかもしれません。しかし大丈夫です。神は言います。「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」
 私たちは弱い存在です。荒野から上ってくるのは誰ですか?それは私たちです。主イエスが寄りかかる私たちを背負いながら、苦難を乗り越えてくださるのです。あの十字架を背負われたように。

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2022-10-09
10月9日「祝福を生きる道」

創世記19:26  フィリピ3:12-14
 幼いころに教会学校で、「ソドムとゴモラの町」が硫黄の火をもって滅ぼされる時、「決して後ろを振り返るな」と神様に言われました。が、ソドムの町が滅ぼされた時、ロトの妻は振り返り「塩の柱」になったことを教わり、不思議な切ない思いを抱いたのを思い出します。
 そして今日、多くの人と出会う中で、「後ろを振り返り塩の柱になる人」と沢山出会ってきたように思います。そして、自分も塩の柱になるような局面に立たされたことをも思い起こしします。「後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」生きることの大切さを新たに噛み締めています。
 ノアは、神様に命じられ「箱舟をつくった時」、神様の命じられたとおりにすべての事を進めていきました。全てのものが箱舟に入った時、神様は「ノアの後ろで戸を閉ざされた」とあります。神様ご自身が後ろの戸を閉ざすことを通し、ノアたちの新しい時を約束されたのです。
 「握ったものを離さない」わたしたちの性癖に別れを告げ、握ったものを手放すことです。自らの思いを手放し、後ろの戸を閉めることを委ね、神様の与えてくださった目標に向かい体を伸ばすことです。わたしたちのときは、「御手の中」に在ります。

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