宣教

2023-07-23
7月9日「喜びの教会」

イザヤ52:7  使徒:11:19~26 伝道を開始した最初のころ、教会主題を「アンテオケの教会を目指して」としたことを思い出しました。何よりも、聖書が明らかにしている、教会像を生きることを祈った結果でした。
 ステファノの迫害をきっかけに、エルサレムを逃れた人々は、なんと、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。このことがきっかけとなり、福音は全世界へと広がって行ったのです。
 エルサレム教会は、主の昇天後、およそ25年で衰退したが、アンテオケ教会は成長し続け、異邦人伝道の拠点となり、教会発展の基地となりました。「クリスチャン」と呼ばれるようになったのも、このアンテオケにおいてでした。
 この教会は、①伝道する教会、 ②すべての人を受け入れる教会、③働くことを奨励する教会、④惜しみなく献げる教会として歩みました。いつも外に向かって開かれている喜びの教会だったのです。
 「キリストと共に在る者」としての、喜びに満ち溢れ、全ての人と共に、特に虐げられている人々と共に生きる、愛にあふれた、生き生きとした命に満ちた群れでした。キリストの福音の生きた姿が、アンテオケ教会です。主の愛されるすべての人々と、その信仰を携え、受け継ぐわたしたちです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-07-02
7月2日「何を見ていますか?」

イザヤ40:25~31
 岩木山を見る時、とても素晴らしい山だと感動します。弘前だけがそうではないのです。他の地域でも見え方は違えど、人は自然界に感動を覚えます。そこで、霊山にしてみたり、高い杉にしめ縄を締めたりして拝みます。しかし、聖書は言います。もっと高いところに目を上げよ。
 しかし、高いところに目を上げても、空が広がるだけで、主なる神は見えません。私たちはそこで、神の存在を疑ってしまいます。なぜでしょうか。目で見えるところに神を探すからです。しかし、主は言われます。あなたがたは見えているのに見えない、と。
 すべてをご存知で、すべてをお造りになった方が言われた、あなた方は疲れる時がある。若者でも倒れるんだ、という言葉は真実です。誰しも、疲れ、倒れるときがあります。「しかし」と主は語られます。
 聖書は「しかし」で満ちています。それは逆転の人生であり、絶望からの希望であり、十字架からの復活です。
 あなたには帰ることのできる場所があります。魂の疲れを癒やすのは、魂の専門家でなければなりません。あなたを造られた主こそ、その道であり、真理であり、命なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-06-25
6月25日「幸せは主のもとに」

申命記10:12~13
 律法である十戒が与えられてから、イスラエルの民はそれによって幸せを得るはずでした。主がそのことをご計画されていたからです。
 しかし、実際には律法によって人が人を裁き、できない人たちを脇に追いやる制度として定着してしまいました。神の御言葉は人を幸せに導くものであって、人を陥れたり、裁きのための道具ではありません。しかし、律法の遵守があまりにも難しかったために、その周りに幾重にも壁を作り、人々が十戒に近づけないようにしてしまったのです。
 主イエスが来られた時、人々は新しい教えだと驚きました。ご自身が十戒そのものである方の言葉は、それほど本来のものからかけ離れてしまったということでしょう。
 心いっぱい神を愛し、人を自分のように愛する。この律法はまさに主の生き方そのものです。しかし、人々はまたしても律法の創始者であり、完成者である主を人々から切り離そうとするのです。それがあの十字架でした。
 律法を守ることではなく、律法のふところに生きること。十戒こそ主ご自身であり、すべての基準であると信じる人生こそ、幸せの存在する場所なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-06-18
6月18日「神の子として」

マタイ5:9
 ほとんどすべての教会に掲げてあるもの、それが十字架です。初期キリスト教会から受け継がれてきた十字架のイメージは、やがて荘厳な大聖堂にも刻まれるようになり、ロザリオのような祈りの象徴となり、現代ではアクセサリーにもなっています。しかし、これはおかしなことです。十字架とは処刑道具であり、凄惨な拷問道具であるにも関わらず、なぜそのようなものを身に着けたり、飾ったりするのでしょうか。
 さらに、電気椅子やギロチンで代用可能なものではなく、十字架が十字架でなければならない理由があります。それは、神の御子が命を捨てたことを意味するからです。そして、それはあなたのためでもあるのです。
 これまで、人類は様々な価値をこの世界に表現してきました。政治、教育、文化…。そのどれもが、諸手を挙げて歓迎され、今度こそは人間を平和に導くと期待されてきました。しかし、現実はどうでしょうか。
 人間を真に平和へと導けるのは、道であり、真理であり、命なる主、イエス・キリストをおいて他にありません。
 これからも世界を一変するような価値が生まれてくるでしょう。しかし、永遠に変わらない方にこそ、救いがあるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-06-11
6月11日「新しくつくられた者」

詩編100:1~3  ヨハネ3:3~6 5月28日は、約束の時、「ペンテコステ」でした。教会の誕生日であると共に、初代の使徒たちと共に新しい地平へと導かれました。「自分が何者であるか」を知る時となりました。「わたしたちは主の者、その民、主に養われる羊の群れ」であることを。
 アメリカの長老教会の子供のための教理問答の最初に、「あなたは誰ですか?」とあり、答えは「わたしは神様のこどもです。」とあり、「神様の子どもであるとはどういうことですか?」の問いに、「わたしは、わたしを愛している神様のものだということです。」と答えています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」(詩100:3)
 主の業は常に、わたしたちの本来あるべき姿、喜びと感謝の回復の歌となります。「わたしたちは主のもの、その民」なのです。ペンテコステは、喜びの歌、賛美が満ち溢れた時でした。教会とわたしたちは、この時を通して再び、主の民とされました。今もこれからも変わることなく。
 それは、バベル(混乱)から、「エデン(喜び、たのしみ)」に向かう今一度の招きでした。友よ!神様はキリストによって、ご自身の愛する者とし今一度、招いておられます。喜びと感謝に生きるために。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-06-04
6月4日「神が共にいるということ」

創世記39:1~6
 聖書の中にある数少ないサクセスストーリーとして挙げられるのがエジプトに売られたヨセフの物語です。
 ある日突然、身ぐるみ剥がされ、異国に売り飛ばされ、奴隷として生きる日々に追いやられました。彼に試練が来たのです。その時、彼はどう対応したでしょうか。
 「うまく事を運んだ」と記されていますが、それは彼が優れていたからだと聖書は言いません。聖書は大切なことを繰り返す特徴があります。ここで繰り返されているのは、「主が共におられた」ということです。
 主イエスは私たちに、夜の終わりまで共にいる、と約束してくださいました。そして、「うまく事を運んだ」と主のみわざを見るチャンスを与えてくださっています。
 聖書全編を見るときに、主のみわざは何かしらの試練の中で現されるのではないでしょうか。平安と幸せの中にいる時、それは主の臨在の中にいるときであって、罪と試練の中にあるときに見せていただくみわざと感じ方が違うのは、コントラストの問題だと思います。
 今、試練の中にあるのであれば、主のみわざがはっきりと現れる機会でもあるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-05-28
5月28日「イエス様の証人」

使徒1:8
 復活されたイエス様と40日間一緒に過ごした弟子たちは、もうすぐ主の日が来ることを確信したのです。
 その心で弟子たちはイエス様に「主の日が来る時は今ですか?」と聞いたのです。ですが、イエス様は弟子たちに「それはあなたが気にするものではありません」と答えるのです。そして、「聖霊が降ると、力を受け、地の果てに至るまでわたしの証人となる」と仰いながら天に登られたのです。
 その後、イエス様の最後の命令に基づいてペンテコステの日に教会が生まれたのです。イエス様の最後の言葉はただの命令だけではなく、約束であり、必ずそうなるという預言でした。イエス様を心から信じるならば救われると信じる人々には、もれなく聖霊と神の力が降り、イエス様の証人に、なりたくなくてもなってしまうのです。
 結局イエス様が私たちに期待しているのは、私たちの行動ではなく、信仰なのです。皆さんはイエス様が私たちのために準備してくださった救いを心から信じますか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-05-28
5月21日「正しい者」

ローマ1:16~17
 使徒パウロはローマの異邦人たちに、そして私たち現代に生きる人々に対して、「わたしは福音を恥としない」と言います。
 彼は福音を恥としていました。異邦人や主イエスを信じる人々を軽蔑し、迫害していました。ステファノの殺害に加担し、自らも女性や子どもという弱い立場の人々も捕らえようと躍起になっている姿は、福音を恥とする人の姿です。
 しかし、主に出会い、十字架を通され、自らも迫害を経験する中で、彼は異邦人やものの数にも入らない人々。かつて自分が恥としていたような人々に対する愛と情熱がみなぎっているのを感じたのです。彼は福音を恥とするどころか、誇りとする人へと変えられたのです。
 あなたが恥としている人は誰ですか。その方々はあなたにどんなひどいことをしたのでしょう。主が赦しなさいと命じても、決して赦せないのはなぜでしょうか。
 神はあなたを決して恥とはしませんでした。それどころか、あなたのために命まで捨てられたのです。その方が与えてくださるもの。その愛に、その福音に今一度、立ち帰りましょう。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-05-14
5月14日「違いの祝福を生きる」

マラキ2:10   Iコリント12:27
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」なんと真実に満ちた、教会の本質を現した言葉でしょうか!
 スペインの教会の祈りに、「愛そのものである神、どうぞ、わたしたちをその惨めな姿より解放してください。他者をいつも拒否してしまう狭量さから、他者をいつも非難する自己正当化から、他者の持っている良いものに目を閉じてしまう心の狭さから解放してください。どうぞ、わたしたちをそのような惨めな姿から解放し、愛することを、他者を識ことが出来ますように」があるそうです。
 人間の集まりゆえに、沢山の問題が教会にも生じます。しかし、教会の迫害者にしてテロリストであったパウロが書いた手紙を読む時、教会の真実の姿が浮き彫りになってきます。
 イエス様がおいでになったのは、裁くためではなく救いをもたらすためでした。「あなたがたはキリストの体」と宣言される時、わたしたちは、裁きではなく「愛」に、「一致」に導かれています。
 星野さんが、「造られたもので目的のないものはないという。価値のないものもないという。動かない指を見ながら、今日はそのことを思っていた」と。
それぞれがかけがえのない神の最高の作品なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-05-06
5月7日「どなたですか?」

マルコ4:35~41
 嵐を鎮めた主イエスに弟子たちは困惑して言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう」と。
 あなたは主はどのような方だと思いますか?そして、それを説明できますか?もし、あなたが主を説明できるならば、あなたは満たされるでしょう。なぜなら、主を説明するためには、聖書の御言葉を知っていること、信じていることが前提だからです。そして、その御言葉を口で説明することは、信仰告白に違いないからです。
 主は弟子たちに御言葉を聞く姿勢について種まきを例えて教えました。そして、嵐を鎮めて向こう岸へと渡った後も、数々の不思議な出来事をなさいました。極めつけは十字架です。
 私たちには多くの課題があります。解決が困難だと思えるものもたくさんあるでしょう。その一つひとつに、主は、そして聖書は何と語っているでしょうか。実際に御言葉を用いて説明してみましょう。すると、なんと励まされることでしょうか!
 決して見捨てない、何でも叶えてあげよう、御名を呼ぶ者は誰でも救われる。あなたが悩んでいることは何ですか?それに対する主の言動は何ですか?主とはいったい、どなたなのでしょうか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-04-30
4月30日「最高の作品として」

エフェソ2:10
 絵画として出された作品を、彫刻として見る人がいないように、私たちも神が意図した最高の作品になるはずでした。
 しかし、様々な環境や状況を通されて、自分を見失う時があるでしょう。自ら絵画であることをやめて、彫刻になろうとする日々が始まると、その不可能なビジョンを達成するために、不毛な努力をしていて、気力を失ったり、そもそも自分に価値を見いだせなくなるものです。
 聖書は私たちを神の最高の作品だと終始宣言してやみません。それは、何か素晴らしい功績を上げたとか、すごい立場に立ったからではありません。私たちが私たちだからです。弱さがあり、道を見失い、時には人を傷つける。そんな一人ひとりを受け入れてくださるのが神だと聖書は伝えているのです。
 日本社会は「失敗」を容認しづらい社会だと言われていますが、神の目には「失敗」などあり得ないのです。あなたが「失敗」だと思っていることも、やがて時が来ると実を結ぶ大切な種の一つに過ぎません。
 聖愛中高に入学されたお一人おひとりは、今まで神を知らなかったかもしれません。しかし今、本当の意味で、つくり手と作品が出会う時が来たのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-04-23
4月23日「オンリー・ユー」

ヨハネ7:37~39
 ユダヤ社会で秋に祝われる大きな祭りとして現在も続いている「仮庵の祭り」があります。人々は家のベランダや郊外にテントを張って、7日間そこに住みます。なぜ、そんなことをするのでしょうか。
 この祭りはイスラエルの民の過去と未来を象徴しています。過去とは、出エジプト後の荒野の道行、そして未来とは、御国が完成するときの様子です。
 祭りの詳細を知ると、主イエスが大声を出した理由と、それが祭りの8日目だったことが大きく関わっていることに気が付きます。人々はこの儀式を通して、神なしには生きていけないことを知るはずでした。そのために、神が律法で定め、毎年行うことが義務付けられたのです。もちろん、祭りは守られました。しかし、肝心なこと、命の源である救い主が目の前におられることには誰も気が付かなかったのです。
 荒野の旅路の中で、他に頼るものがなかった時、イスラエルの民は神に信頼することを学びました。しかし、彼らは約束の地を前にしてそのことを放棄し、乳と蜜の流れる領域に足を踏み入れることができませんでした。警告されていたにも関わらず、です。
 主は今、同じように私たちを招き、警告します。「わたしのところに来て」と。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-04-16
4月16日「新しく生まれる」

イザヤ43:18~20  ヨハネ4:7~26
 「新しいことをする」これは主イエスについての預言であり、御国の預言であり、古代イスラエルの復興の預言です。それらは全て新しかったのです。何に対して新しかったのかというと、見たことがないことが起こるという意味合いもありますが、何よりも人々の渇きに対して新しかったのです。
 サマリヤ人と付き合いのなかった、ユダヤ人。常日頃から差別的な扱いを受けていたサマリヤ人の、しかも女性であり、かつ倫理的にも問題のありそうな人を前に、主は新たに関係を持つことを求めました。
 この女性と同様に、ユダヤ教の教師に「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃったのは、彼が渇いていたからでした。必要なのは、水と霊による新しい出来事です。
 水は死を意味する場合と、人を生かす命を指す場合があります。渇ききって砂漠や荒野のような状態から、主が命を溢れさせるために水を与えようとされる。そのためには、水を通る、洗礼という出来事は、古い自分がキリストとともに十字架につけられる、ということです。
 教会が教会であるということ。それは、自らの罪を認め、いつでも十字架の前に進み出て、生けるいのちの水をいただくこと。これ以外にないのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-04-09
4月9日「信じがたいものを信じる」

ルカ24:1~12
 十字架の後、三日目に蘇る。これは主イエスが繰り返し弟子たちに教えていた出来事でした。しかし、十字架も復活も、目の前の素晴らしい方に起こるはずもない出来事として、弟子たちには信じがたいことでした。
 やがて、十字架が起こり、埋葬された墓に女性たちが近づくと、信じがたいことを告げられるのです。主が生きておられると!
 主は新しいことが大好きです。何もない混沌に秩序を創造し、数ある動物たちの中に、ご自身に似た存在を創造し、高齢者に出産させ、乙女に身ごもらせ、新しい掟を与え、神でありながら傷つき、新しい墓に葬られ、はじめて栄光の体に復活されました。その復活を最初に告げられたのは、当時の社会では数にも含まれない女性たちでした。
 主が為してこられたすべてのわざは信じ難さで満ちています。簡単に受け入れられる話では到底ありえません。知の都アテネでは、復活の話をした途端、人がいなくなりました。
 あなたが経験されたこと、この世の常識、そのすべてを凌駕すること。復活の主はあなたの人生にも同じことをしたいのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-04-02
4月2日「御手の中のユダ」

詩編139:7~10  マタイ26:26~30 
 1974年4月7日が弘前西教会の創立記念日です。4月第一週の日曜日を創立記念礼拝として守るようになって、早くも49年の月日が流れました。ただただ神様の恵みと慈しみ、哀れみと祝福のもと、この日々を歩むことが出来たことを想い感謝が溢れます。そして49年前の第一週も、受難週でした。
 受難週にはいつも、裏切り者とされている「ユダ」のことが思い出され、「ユダはどうなったのですか?」と聞き続けています。彼は疑うことのできない12使徒のひとりでした。「春満月 ユダも内なる12使徒」(中丸義一)を思い出します。主の最後の晩餐で、パンと葡萄酒を共にしたユダです。
 銀30枚でイエス様を売り、後悔して首を吊ったユダです。しかし、それだったら、ほかの弟子もイエス様を捨てて逃げ去りました。ペトロは3度まで呪いの言葉さえ口にしながら弟子であることを否定しました。十字架につけられた強盗も、罵る群衆も、主の赦しの中です。使徒信条は「陰府に降り…」と。主がユダのために…ユダを抱くために!「ユダ、お前が帰るのはここだよ」と。
 主は、この世の価値観によって失われた人々を、十字架によるご自分の救いの中に招き入れられないはずはありません。全き愛、主のみ手の中に。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-03-29
3月26日「聖霊を求める」

ヨハネ14:15~21
 耐え難い悲しみや苦しみが来る前に、準備ができたらどれほど素晴らしいことでしょうか。
 人生には大きな決断を迫られたり、食事も喉を通らなくなるような危機的状況に陥る時があるものです。主イエスの十字架の前の晩、弟子たちはそのことに無防備でした。しかし、主だけは、そのことに備えておられたのです。
 主は耐え難い悲しみと困難に備えて、あるものを約束されました。それは、人生のおけるどのような場面に出くわしても、内からいのちの水が湧き出し続けるような力を与えるものであり、それこそが神の平和と呼ぶにふさわしいもの。聖霊です。
 主が天に帰られた後、与えられた約束の御言葉を必死に繰り返しながら、弟子たちは一つになっていました。来るべき迫害時代を前に、そうならざるを得なかったのが正直なところでしょうか。それでも、エルサレムに留まるように命じられた弟子たちは動くこともできず、ただ祈るよりほかありませんでした。そこに、聖霊が与えられ、彼らは爆発的な力を発揮することになったのです。
 主はあなたにもこの平安と力を与えたいのです。さあ、受け取る準備はいいですか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-03-19
3月19日「いつも目の前に主がおられた」

使徒2:25~28
 わたしは使徒言行録でペトロが引用している詩編16編の言葉が好きです。昔からこの聖句が好きだったという訳ではなく、献身し神学生になるということで急いで聖書を開き、この聖句を見つけたときに、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」というこの言葉がいいなと思ったからでした。ただ「神様がわたしと一緒にいてくれれば動揺しなくなるのかな、そうなればいいな」としか思っていませんでした。「いつも主が目の前に見ていた」という言葉も単なるダビデの信仰的な表現であろうなと思っており何にもピンときていませんでした。
 しかしイエス様との本当の出合いの後にこの聖句が光を放ち、全く違うものとして自分に及んできたのです。「いつも主はわたしの目の前におられたのに私は見ていなかった。主はいつもわたしの目の前にいてわたしを見ていて知っていてくださったのに、わたしはこの方を無視して、自分のことや、他者のことばかりを気にして生きていた。だからわたしには平安がなく動揺ばかりしていたのだ。」「価値もないクズのわたしのために死んでくださったこの方がわたしの目の前に今も共にいてくださる。」この真実にわたしは溶かされて、この方のために命を用いて頂きたいと思うようになったのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-03-13
3月12日「呼ばれています、いつも」

イザヤ43:1~5   ヨハネ15:11~17
 わたしは年を重ねるに従い、確実に聴力が衰えてきていることに気づきます。ひょっとしたら神様の呼ぶ声も聞こえにくくなっているのでは?!ドキッとします。アハブ王に命を狙われたエリヤはホレブの山に身を隠していた時、「エリヤよ!」と呼ぶ小さな神の声を聴きます。♬「呼ばれていますいつも 聞こえていますかいつも はるかな遠い声だから よい耳を よい耳をもたなければ」(Ⅱ讃83)恋人に語りかけるように。あなたは、いつどこで?
 愛の呼びかけに大声は相応しくないようです。「わたしの目にあなたは値高く貴い」と言われる主の声を、聞き逃してはなりません。低い小さな声は魂に沁みわたります。有名なこの御言葉は、イスラエルが神に背きその結果、バビロニアに捕え移されたその場所で与えられたものです。
イエス様も、「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなた方を選んだ」と言われます
 友よ!わたしたちは何時も、名を呼ばれ、尋ね求められています。神の真実はいつも私たちの思いを凌駕しています。放蕩息子の父親のように、迷子の羊を捜す羊飼いのように、捜し求めておいでです。その声が聞こえるように、静かな祈りの時を生活のただ中に備えましょう。よい耳を与えて下さい!と。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-03-05
3月5日「神のわざとは」

ヨハネ9:1~3
 何かが起こると、それが悪いことであればなおさらのこと、私たちはその原因や因果関係を探ろうとします。それは大事なことであり、解決の糸口になったりするからです。しかし、弟子たちはそういった類の質問ではなく、興味本位の質問を主イエスに投げかけました。そこに、目が見えない隣人を憐れむ視点はありませんでした。
 主は驚きの返答をします。「神の業がこの人に現れるためである。」では、神の業とは何だったのでしょうか。
 生まれつき目の見えない人が見えるようになったこと。それはとても嬉しいことでしょうか。聖書を読む時、癒やされた人の記事を読むと「良かった」と思いませんか?彼も主に癒してもらった一人でした。
 癒やされた目で彼が見たものは何だったのでしょうか。色づく世界でしょうか。生き生きとした人々の往来でしょうか。そうではなかったようです。
 実のところ、状況の変化が与える幸福感は一時的です。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストの与える変化は永遠です。
 神の業、それは私たち一人ひとりを本当の意味で解放する出来事なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2023-02-26
2月26日「神の栄光に照らされて」

マタイ5:13~16
 主イエスの周りには、病気の人々、貧しい人々、神について誤った理解を持つ人々がいました。人間的に見れば、あまり役に立ちそうもありません。しかし、主はそんな人々を前におっしゃいました。「あなた方は地の塩、世の光である。」と。
 この地上にはあなたが必要不可欠であり、あなたの輝きが求められているというのです。しかし、それはあなたが単体で何でもできる、ということを意味しません。塩気を創造した方、光なる方があなたの主だからです。
 主がぶどうの木で、人がその枝である、とおっしゃる主が、「私を離れていては、あなたがたは何もできない」と教えられたように、私たちが地を清めるために、また輝ける人生を歩むためには、まず清められ、光を照射していただく必要があるということです。
 しかし、その方から離れている時、私たちは自分が清い存在であるということ、輝いていることを忘れてしまいます。主は、こうしたら清い、ああしたら輝く、とはおっしゃいませんでした。
 すべての人々を前に、おっしゃったのです。そのままで清く、そのままで輝いているのだ、と。
 あなたはその方の視線のうちにいるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed